米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第108回)
二、地上の獅子(シシ)の由来(ゆらい)
「おい、君、大変だぜ。カメレオンはギリシャ語で地上の獅子という意味だと、ここにあるぜ」
「いかにも、あるある。しかし、生意気だね。僭越(せんえつ)だね。たかがカメレオンの分際(ぶんざい)で”獣の王”の名前を詐称(さしょう)するなんて」
「しかし、まあ、かりに一歩を譲って、ライオンの号を承認してやっても、地上の獅子とはぴんとこないね。せめて樹上の獅子とかいう方がまだまだ理屈にあってるがね」
「それがそれ、へんちくりんな分からず屋のギリシャ人の仕業(しわざ)だね。だから、常識一点張りの例の英国人は、訳のわからない者をとらえてはギリシャ人のようだと言うじゃないか」
「アハハハハハハ。そうかも知らん。ウフッ、笑わせやがる。アハハハハハハ」
他の悪口を堂々と当人の面前で試みて、さも愉快げに心から笑っている。無遠慮にもほどがある。不人情にもほどがある。何がそんなにおかしいか。
ならば、こっちからも言ってやろうか。
まず、啓蒙(けいもう)の第一に、地上の獅子に対する彼らの誤解を指摘してやろう。
彼らはこの「地上の獅子」なる語は、かつてアフリカではルーズベルト君の銃先(つつさき)に追いまわされ、日本では歯磨き粉の看板になっているライオンに当然冠すべきもので、カメレオンごときがそれを差し置いてと冷笑しているが、これはたまたま彼らの浅学かつ無教養なることを自ら証明するものである。
コロンブスやドレーク*に劣らない航海者である自信を持っている彼らは、必ずや赤経十時三分、赤緯十二度二十三分のあたりにわたって「ライオン」(レオ)なる一星座**のあることを知っているだろう。
* ドレーク: サー・フランシス・ドレーク(1543年~1596年)はイギリスの航海者。
西インド諸島周辺でのスペイン船に対する海賊行為で頭角をあらわした、いわば国家公認の海賊=私掠船の船長というわけだが、マゼランに続いて史上二人目の世界一周航海を果たし、海軍提督まで上り詰めた英国の英雄。
南米ホーン岬と南極との間のドレーク海峡に名を残している。
とはいえ、対立するスペインからすれば「悪魔の化身」たる海賊船の船長であり、歴史上の人物の評価は国によって正反対になることも少なくない。
** ライオンなる一星座: 星座占いでもおなじみの「しし座」。
赤経、赤緯は地球上の経度、緯度と考え方は同じで、天の北極、南極、赤道を決めておいて、あらゆる天体の天球における位置を示す指標として使用される。
具体的には、春分の日に太陽の赤緯が0になったときの天球上における太陽の位置を赤経0とする。
彼らに言わせると、「それこそ天上の獅子さ」とうそぶくであろうが、これが目指すライオンの本体であって、サハラの砂漠に吠えている輩(てあい)はその前身に当たるにすぎんので、単に現世だけの通称である。
ゆえに、人間でもこの獅子のように勇猛に働いたものは死後に昇天してはみなライオン星座の一員となるので、かのローマの勇猛果敢なマーカス・アキリウス*という男も今は「レギュラス星」**となって青く光っているのでもわかる。
* マーカス・アキリウス: 現在の一般的な表記はマルクス・アティリウス・レグルス。生没年不詳だが、紀元前の共和制ローマの政治家で軍人。
** レギュラス(レグルス)星: しし座の一等星。
とすると、いわゆる「地上の獅子」なる尊称をいただくしか他にない、まさに押しも押されもせぬぼくであることが判明(わか)るであろうが。
次に……カメレオン風情(ふぜい)でもったいなくも獅子と称するなど僭越(せんえつ)だとの攻撃であるが、これもまた彼ら人間どもの浅はかな智慧(ちえ)から生み出された推論にすぎんのである。昔から人間にせよ動物にせよ、身体(からだ)のある部分が異常に抜群に発達したものに偉人や傑物が多いということでは歴史家の意見は一致している。
頼朝(よりとも)の巨大な頭、劉備(りゅうび)の大きな耳、ナポレオンのフクロウのような眼などはその最も傑出したものである。
他に類例なき長大で飛ぶように動く舌と、左右が独立して自由に回転しうるその目と、自在に敵の目をあざむくことが可能なおそろしき変色術と、竿のごとく一挙に全身を持ち上げる非凡の尾と、一つ一つ数えていけば、ぼくに備わった傑物として認められる資格は十指にあまるほどである。
あるいは、かの空前絶後の奇跡を示したキリストや、ヨーロッパと東洋を融合させたアレキサンダー大王も、人知れずこっそりと、長大な舌や、神秘な変身術を隠し持っていたかも知れないのに、ダーウィンといいゴルドンといい、こんな貴重な研究資料を等閑に付したとは、よくよくのうかつ者であると言わねばならぬ。
ついでにもう一つ――、ライオンが欧米人によって精悍(せいかん)、勇気、秀美(しゅうび)、公明(こうめい)等の男性美の象徴とされたのに対して、尊貴(そんき)、絶倫(ぜつりん)、英邁(えいまい)等、卓越した資質や性質を表現したものとして東洋で人々が想像した動物に龍なるものがある。
龍眼(りゅうがん)とか龍種(りゅうしゅ)とかいうありがたい言葉も語源はこれで、それに基づいて用いられているそうである。
そこで、ぼくはつらつら考えたが、この広い地球上に龍なる想像の動物を具体的に象徴的に示しうるものがわずかに二つある。
一つはタツノオトシゴで、他はすなわち、ぼくである。
形態から言っても見識や抱負などから論じても、爬虫類(はちゅうるい)の仲間ではもちろん、見渡すところ他の生物界でも、ぼくほどにいわゆる龍に似ているものはあるまい。
といって、ぼくの説について直ちにかの虎の威を借りたキツネの亜流だなどと早まる者は、腹に力のない慌(あわ)て者である。
ぼくがかくのごとく論じるのは、ただ船乗りなどという時勢(じせい)遅れの連中から不当な軽蔑(けいべつ)を受けることがすこぶる心外であることをここに明らかに表白しようと思ったからである。