現代語訳『海のロマンス』65:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第65回)

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二、バードウッド・バンク

五月八日。ケープホーンを通過した翌日のこととて、後片付けで忙しく、総帆(そうはん)展揚(てんよう)でまた忙(せわ)しい。

専任教官の訓示(くんじ)によると、本船は午後五時ごろにバードウッド・バンクの西部を横切るだろうとのことである。

バードウッド・バンクとは、フォークランド島の南方百二十海里くらいの地点で、五十五度の経度線と、スタテン島の西岸との間に、東西二百海里、南北六十海里で広がっている、平均水深四十尋(ひろ)*1と、海底が浅くなったところ(バンク)である。

 

*1:尋(ひろ)は大人が両手を広げた長さ(約一・八メートル)。二十尋(ひろ)は三十六メートル。

底質(ていしつ)がサンゴ殻(がら)か火山岩片、海の色は暗褐色で、水深は二十五尋(ひろ)から六十尋(ひろ)まであり、中央が最深部であるという。

一八二一年に、ドクトル・バードウッドによって発見されたのだという。

本船も二、三度、深海測温法(しんかいそくおんほう)を行ったが、初回は八十尋(ひろ)で、次は七十尋(ひろ)、海の色には変化がなかった。

意識に十分なる満足を与えずして、ただ海図(チャート)とコンパスとの相談づくで無事ケープホーンを通過したものと、自分勝手に決めた翌日(あくるひ)、さらに、胸底からわきおこってくる懐疑を抑えつつ、ログラインと深海寒暖計とで、見えもせぬ砂堆(バンク)を五百尺(約150m)の底に断定したとは乱暴にもほどがある。

科学とは情実(じょうしつ)を無視し、思いこみを蹂躙(じゅうりん)し、人間一切の義理と、世の中一切の約束とをまったく気にしない、理知の曲者(くせもの)である。冷酷であること鉄のごとき没情感である、と言っても、どこからも文句は出ないだろう。それとも出るなら出してみろ。

三、ヘンリエッタ号

「こちらはドイツ、ハンブルグ籍のヘンリエッタ号」

「了解。名乗るのが遅くなりましたが、こちらは日本国の練習船・大成丸です。どちらへお急ぎですか」

「イギリスのマージー川の河口にあるリバプール港へ……」

「どちらから?」

「チリのアントファガスタの泊地から……」

「出港してどれくらいになりますか」

「三十二日です。安航を祈ります」

「ありがとう。それではさようなら」

こんな意味の会話を万国信号で交信しながら、ヘンリエッタ号は本船の船首一海里の海を右舷「一杯開き」で快走していった。

正月十二日である。本船は折からの右舷後方からの順風に乗じて、トップスル六枚と前帆(ぜんほん)とで七海里のスピードで走っている。ところが「ハンブルグ籍の船」は総帆(そうはん)三十枚であるから、四時半頃に本船の右舷後方に見えたものが、六時半には並行の姿勢をとって通信をはじめ、七時にはすでに本船を追い越して夕闇の中に隠れてしまった。

さすがに商売船は速い速い。

四、海水が赤い

正月十八日(土曜) 南緯四十三度、西経三十五度。

日本のちょうど裏側である。思えば遠くへはるばると流れながれてきた旅路(たびじ)である。

昨日、今日と、青黒くにごった海の中に粘土色に線を引くように、山崩れの川のようなものが遠くまで連なって流れてくる。何か微細な虫類かまたは藻の類だろうと、バケツでくみ上げて顕微鏡で観たら、無数のエビの子のようなものが浮遊していた。

学名コペポーダ(ラテン語で「櫂(かい)の足」)という甲殻類の一種だという。

ダーウィンの『ビーグル号世界周航記』に、次のような一節がある。ちょっと面白い。

「……海水の変色については、二、三の語るべきことがある。南米はチリの近海を航行中、青みをおびた紅色の海水を見たが、これは顕微鏡で見ないとわからない小生物の集合……。南米のティエラ・デル・フェゴ島の近海では、海面に鮮紅色の線を見たが、これは甲殻類の一種であるエビの発生に原因する……アザラシ猟をする者たちは、これをクジラのエサだと言っている。」

五、トリスタン島

正月三十日正午、南緯三十七度、西経十三度三十分。トリスタン・ダ・クーニャ諸島の一つであるイナクシブル島まで約四十五海里。

トリスタン島は八千余フィート(標高2010m)もある峻峰(しゅんぽう)が高く抜きんでていて、雲の上にそびえているのが見える。どことなく富士に似ている。たまらなくなつかしい。紫(むらさき)匂(にお)うばかりの山裾(やますそ)がなだらかに両方に流れて、左の方の腰には、立派な標本のような雲がきれいに咲いている。

左舷船首(ポート・バウ)にはイナクシブルが、その左の端をやはり麓(ふもと)の雲に包まれてすっくと立っている。午後の七時ごろ、北西の風を左舷に受けて、イナクシブルの風下(かざした)正横(まよこ)を五海里の距離で通過する。

実におそろしい島である。見る人の視覚をブルブルと脅かす効果を与えるに十分なる島である。見る者に、厳粛にして冷酷なる威容と感じさせる島である。イナクシブル(近づきにくい)とはよく言った。ことに、その右の端に狂犬の歯のように屹立(きつりつ)している岬は、今にもバタリと水煙をあげて倒れそうに見えるくらいに、細く鋭く長い。

千尋(せんじん)の海底から徐々に円錐形をなしつつ持ち上がったという推理と意識とを連鎖させるのはむずかしいほとに、細く鋭く長い。慕(した)い寄る周囲の海を、ええ、うるさいと、けんもほろろに、しずくも滴(したた)らせずにきれいに振り払って、無情にもムッと突っ立ったような島のたたずまいである。

恐ろしい岩くれだった絶壁の皺層(しゅうそう)にはふわりふわりと白い雲が悲し気にたなびいている。

無人島である。冷たい、さびしい、荒れ果てた無人島である。

英領トリスタン・ダ・クーニャ諸島は、トリスタン、イナクシブル、ナイチンゲールの三島からなり、南緯三十七度、西経十二度にある。

この諸島は最初はポルトガル人によって発見され、以後、オランダ、フランス、アメリカ等の手をへて一八一七年にはじめて英領と宣言され、定まった主権者を迎えるにいたった。住民は最大の島トリスタンに七十五人(男三十六人、女三十九人)いるのみで、他の二島は無人島である。この七十五人はこの辺の海で難破した船乗りの子孫だという*2。


*2: リスタン・ダ・クーニャ島の現在の人口は260人。南大西洋南部の孤島で、ギネスブックでは「世界一孤立した有人島」に認定されている。

 

産物はポテト、果樹、海獣*3、海獣油等である。また島内には清水が多く湧き出すため、帆船がときに寄港することがある。


*3: 海獣 - 海に生息する哺乳類(クジラ、イルカ、ジュゴン、アザラシ、ラッコなど)の総称。

英国の軍艦は一年に一回やってくる。

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