米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第28回)
有人情と非人情
ふっくらとして、風の音をさまざまに響かせ、なんとも心をなごませる、美しい湾曲率(カーバチュア)を持つ薄鼠(うすねずみ)色の三十二枚の大きい小さい四角三角、もろものの帆がいきなり練習船の空から消え去ったときの心持ちは、なかなか簡単には言い表せない。
今日まで狭く限られて見えた青い空が、今や何の遠慮もなくドーム形に重く頭上におおいかぶさり、大きな青い眼にヤッと睨(にら)まれたように感じた。今までにぎやかに帆や索具(ギア)に飾られていた黄色いマストは、青い蒼空(そら)に向かって心細く細り、一時にありとあらゆる葉を振るい落とした冬枯れの銀杏(いちょう)のように、寒いという感じをしみじみと味わわせる。
愛宕山(あたごやま)の石階(きざはし)のような険(けわ)しい鉄バシゴを降りて、蒸籠(せいろ)の底を渡るように、鉄棒を編んだ床を踏み、地獄の底のような機関室(エンジンルーム)を訪問する。汗と脂(あぶら)で菜っ葉服(なっぱふく)をぐっしょり濡らした機関士がセッセと気圧計(プレッシュアゲイジ)を測り、シャフトの回転度数を計算している。ピストンロッドの直線運動(ライナーモーション)、がっつりシャフトを包み込んだ連接棒(コネクティングロッド)の単弦運動(シンプルハーモニックモーション)、バルブギアの偏心作用(エキセントリックモーション)、すべての方向と、すべての性質と、すべての目的と、すべての効果とを有する地球上のすべての運動が、このせまい脂くさい暑苦しい一室に集められたかと思うほど、目まぐるしく、しかし音もなく滑り動く様子は、天下の奇観である。
自分──この古くさい前世紀の遺物と思われる帆前船(ほまえせん)に乗っている自分──は、文明の刺激とか圧迫というものが恐ろしく、嫌いである。しかし、こうやってフラフラと上甲板から五十尺下のエンジンルームにやってきた自分を自ら見出したときには、気まぐれなそのムードを詮索する暇もなく、なぜかある自覚が胸に湧いた。馬の尿(いばり)が俳趣ありとみられ、牛の尿がのどかなる古都の春を叙する詩材となるというのであれば、せわしく、せちがらく動く現代文明の権化の中から、ゆったりした平安(のどか)な、人事を超越した思情(しじょう)や情緒などが浮かんできたとしても、さほど突飛ではないと思う。なんとなく見ている目に、耳に、胸に、調和した平滑で新鮮な感じを与えられたようで、喜び勇んでボイラールームに向かう。
ガチャンと地獄の窯(かま)の蓋(ふた)を開くように、扉(ドア)をはね上げたとたんに、サーッと蒸し暑いほこりが横ざまになびいて、眼といわず鼻といわず、口や耳の区別なく、あらゆる顔面上の出入り口を封鎖して、顔が熱風に包まれたような気がする。見よ、今や煌々(こうこうと)と燃えるような火の光に射られ、赤鬼のように彩られた顔をもたげ、まさにショベルをふるわんとする一火夫(かふ)のその姿勢! その筋肉美!
ここにも男性美、奮闘し精力の限りをつくしている姿を目撃し、狐にだまされたようにポカンとしてデッキに出ると、ロッキーおろしの涼風が面(おもて)をなでて、大成丸はすまして脇目もふらず波を切って進んでいる。
館山(たてやま)を出発し、波を友とし、雲を仲間としてから、ここまでちょうど四十五日、またもや、ちょっと変わった娑婆(しゃば)くさい風に吹かれる運命(さだめ)となった。
その四十五日間の波の上の生活(ライフ)! すべての人は異なっている。すべての顔と、異なっているすべての性格と、異なっているすべての経歴とを有するごとく、異なれるすべての生活の意義と状態とを有しなければならない。しかしそれは、毎日、真水で入浴でき、料理屋に行って食事ができ、新聞という文明の利器によって座(い)ながらにして天下の大事を知りうる陸上(おか)の人の間にのみ用いられる約束である。解決である。
地獄の沙汰(さた)も金次第とは、今までどこに行っても通用した権威(オーソリティ)を持っていると思ったが、それは大間違いであった。ここに一つ銀(しろがね)のネコをもてあました西行(さいぎょう)のような一民族が水の上に暮らしている。この百二十五名の人々は、それぞれ異なる運命と、使命と、心性とをもって、十把(じっぱ)ひとからげに積みこまれた。一個の口をきく貨物(カーゴ―)としていったん積みこまれた以上は、いくら泣いても追いつかない。
海上の大成丸という、絆(きずな)、人情、義理、社交など一切(いっさい)娑婆(しゃば)との交際(いきさつ)を断絶した一つの大きな円に内接して──しかし、自分は運命論者ではない、隠棲(いんせい)論者でもなく、議論はきらいで、しごく内気なおとなしい質(たち)である──百二十五もの多くの人間の小さな円が互いに切りあって抱き合って、しかも合理的(ラショナル)に、共同的に、非個人的に、グルングルンと同一速度で、同一方向に回転している。
金のないものもあるものも、ヘラクレスのような屈強な男も小男も、天才も凡庸(ぼんよう)も、みな同じ供給と待遇とを受ける。すこぶる公平である。同じ扱いを受け平等である。客観的である。非人情である。抜け駆けの功名はしたくても海を相手ではたかが知れている。のれんに腕押しである。勢い、共同的、普遍的、客観的、十把(じっぱ)ひとからげ的になる。勢い、のんきに、無競争に、無刺激に、無敵がいに、非人情になる。ありがたい。
しかし、ようやく人くさい匂いや、娑婆(しゃば)くさい匂いがしだすと、もう駄目だ。たちまちムラムラと謀反(むほん)気が起こる。野心が起こる。競争が起こる。大伴黒主(おおとものくろぬし)的になる。佐々木高綱(ささきたかつな)式になる。なまいきに言えば主観的になる。有人情になる。百二十五の小さい因果円は自らその連鎖をほどいて、てんで勝手に気ままな方向に運動しはじめる。やがては大成丸という大きな外接円を突き破ろう、はね切ろうと飛び上がる。いよいよ船が港に着いたときは、きわめて主観的になる。きわめて人間くさい「有人情」になる。大接円のタガがハチ裂けるのはこのときである。
百二十五もの多くの小さな円は、これ幸いとばかり、どっと主観的に、有人情に、みなそれぞれに、いろいろの方向に飛び去る。どこへ行くかわからない。自分もまたこの飛び上がったアメーバーの一小円である。サンディエゴ停泊中は、いきおい主観的にならざるをえない。
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