ジョン・マクレガー著
現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第71回)
川は数マイルにわたり、いつもと違う様相を呈していた。両岸の土手は低く、そこから草の絨毯(じゅうたん)でおおわれた緩やかな斜面が続いている。どちらの側の眺めも、広々としてしている。両岸を緑で縁どられた、透き通った川面をカヌーは滑るように進んでいく。前方には、広大な平原が果てしなく続いている。そこを過ぎると、川は再びはしゃぐように飛び跳ねたり、大きく落下したりしていた。たいていの場合、それは人工物が設置されているためで、そのたびにカヌーを降りて障害物を乗りこえたり、船体を手で押さえつけて下をくぐらせたりと、なにかと手間がかかった。苔(こけ)や地衣(ちい)類がびっしり生えた岩は滑りやすく、そういう場所で力のいる作業をするのはけっこう重労働だ。
パドルについていえば、毎日ずっと、来る日も来る日もパドルを漕いでいたので、もう体の一部のようになっている。ほとんど無意識に動かしていた。カヌーを始めたばかりの頃は、大切な物を落としたり失くしてしまっては大変なので、ヒモやロープをつけたりしていた。波に負けてパドルが手から離れたり、不注意で川に落としたりしたときに備えて、どうすればよいか考えて練習していた。とはいえ、実際の川下りとなると、そういう事前に考えたことは、なかなかその通りにはいかないものだ。カヌーから飛び降りる際にヒモがからんだり、逆にヒモがついているのを失念して岸に放り投げようとしたこともあった。というわけで、パドルのヒモは長めにするか、あるいは、まったくなくてもよかった。一度に二十もの作業を、しかもすべて最優先でやらなければならないというような、もう頭がこんがらがって訳が分からないというようなときでも、実際にパドルを落としたことはない。カヌーが転覆しそうになったときも、なんとかカヌーから抜け出して事なきを得た6。
原注6: これまで十回ほどの航海を行ったが、結果はまったく同じだ。予備のパドルを用意するよう助言を受けることも多かったが、ぶっちゃけ、そんなのまったく不要と言っていいかもしれない。竹製のマストについては、元をただせばボートフックとか棒としても使えると思っていた。先端に継ぎ手を取り付け、魚をかけるギャフも用意していた。ボートフックとしては、イギリスのグレーブゼンドで一度使ったことがあるだけだ。すぐに無意味だとわかった。カヌーを岸のそばまで寄せたいときには、水深があればパドルで漕げばいいだけで、ボートフックなど使わない。逆に岸の近くが浅ければ、カヌーの底がつかえてしまうので、ボートフックがあっても使えない。しかも、ボートフックに握り替える際にパドルを落とすことだってありうる。
パドルで漕ぐのは、歩くときに足を動かすのと同じように、ほぼ無意識にできるようになった。川でも普通の難所であれば、入念に下調べしなくても直感的にわかるようになった。ためらうとか、何をどうしようとか、あれこれ考えなくても、自然に対処できるようになった──ような気がする。こういう一種の上の空という状態は、急流を流れ下る際に、ずっと高いところの地面やもっと上空の雲をじっと見つめていても、安定した適切なカヌー操作の支障にはならないという神がかり的な境地に至るまでになった。
夢見心地でそういうことをあれこれ考えていたものだから、ふと気がつくと、川の周囲の景色が最高なのに、それに背を向けて見過ごしていたとわかって後悔した。それで、その場で二、三回ぐるっとまわりながら、沈む夕日に照らされて輝いている峰々をうっとりと眺めた。そうした光景に心を奪われながら、そうやってぼんやりとした気持ちのまま、また川をゆっくりと下っていく。カヌーというものは、カヌー自体が常に最善のコースを選んでくれるので、乗っている人間の方は特別な操船などしなくても問題ないという、なんとも非論理的でおバカな妄想にふけったまま、数多くの岩が点在している早瀬までやってきた。水流はそのまま岩を乗りこえて流れているし、ぼくはまだ魔法にかかっていて、どのコースを通るのが安全かといったコース選択など何もせず、カヌーが流れていくままにまかせておいた。と、この能天気な男に対して川が反撃した。はっと気がつくと、カヌーは水面下にある巨大な岩めがけてまっすぐ進んでいた。水流は巨大な岩盤上を流れているが、水深は数センチしかない。次の瞬間、カヌーの底が岩に当たった。カヌーは急停止し、その場で旋回する。流れに対して横向きになる。ゆっくり転覆しかける。カヌーの傾きがきつくなったところでやっと、ぼくの緊張感を欠いた筋肉も目ざめた。というのは、この愚かでものぐさな態度の結果として沈は避けられないと感じられたからだ。
さらにまずかったのは、ぼくはそのときちゃんと座っていなかった。カヌーに寝そべるようにして、片足はバッグのベルトにからんだままだった。次の瞬間(こういうとき、ほんの一瞬が数分にも思える)、この小さく哀れなカヌーは横倒しになった。脳裏にはいろいろな思いが激流のように浮かんでは消えた。ぼくはなんとか脱出しようともがく。と、カヌーが岩から離れた。カヌーの船長たるぼくは、自分の頭と腕だけを水につっこんだ状態で──なんとも情けない状態だ。まあ、これはこれで笑い話にはなるだろうが──、なんとか立て直してちゃんとカヌーに座ったときには、頭からずぶぬれになっていて、服の袖から水がしたたり落ちた。それでどうにか酔いからさめたみたいに、目がさめた。その瀬を過ぎると、また感傷的になり夢想にふけっても大丈夫になった。つまり、川はまた元のように普通の流れに戻った。
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