ハンセン病の接触による伝染性は想像されているほどではない。ぼくは妻同伴でこの居住地に一週間滞在したが、感染するという不安はまったくなかった。ぼくらは長手袋もはめなかったし、患者から離れていようともしなかった。逆に、何も考えず自由に一緒にいたし、ここを去るときには、顔と名前で病歴もわかるようになっていた。単に清潔にしていれば、予防措置としては十分のようだ。医師や監督官など患者以外の者が患者と別れて自分の家に戻るときに、消毒用の石鹸で顔と手を洗い、上着を着替えるだけだ。
とはいえ、ハンセン病患者は不潔だという声も根強い。この病気についてほとんど知られていないため、ハンセン病患者の隔離措置が厳守されている。過去にはハンセン病患者は恐ろしいものとされ、ぞっとするような治療が行われたが、そういったものは不要であるし残酷でもある。ハンセン病をめぐって人口に膾炙した誤解のいくつかを一掃するため、ぼくはハンセン病患者と患者以外の者との関係について、自分がモロカイ島で観察したことを述べておきたい。到着した朝、チャーミアンとぼくはカラウパパ・ライフル・クラブの大会に参加した。そしてそこで、この疾病にまつわる苦痛と、それが緩和されていく民主主義的兆候を目撃することになった。このクラブは、マクベイ氏が寄付したカップをめぐる賞品つきの大会を開始したばかりだった。マクベイ氏や研修医のグッドヒュー医師、ホールマン医師もクラブの会員だった(両医師とも奥さんと一緒に居住地に住んでいる)。射撃用ブースでぼくらのまわりにいる者は、全員が患者だ。患者も患者以外の者も同じ銃を使用し、限られた空間で肩を並べていた。患者の多くはハワイの原住民だった。ベンチでぼくの隣に座っているのはノルウェー人だった。真正面の砂の上に立っているのは南北戦争で南部連合国軍側で戦ったアメリカ人で、いまはもう退役していた。彼は六十五歳だが、腕はまだ鈍っていなかった。大柄なハワイの警察官、患者、カーキ色の軍服姿の連中が射撃をした。ポルトガル人もいれば中国人もいた。居住地で働いている患者以外の現地人もまじっていた。午後、チャーミアンとぼくはパリの二千フィートある崖に登って居住地を眺めたのだが、監督官や医師も、病人も病人じゃないのも入り混じって野球の試合に興じていた。
中世のヨーロッパでは、ハンセン病はおそろしい病気とされ、患者はひどく誤解された扱いを受けた。当時、ハンセン病患者は法的にも政治的にも死んだものとみなされた。患者は葬式行列で教会へと連れていかれ、そこで礼拝をつかさどる聖職者が患者のために模擬葬儀を挙行するのだ。読経のあとで土をすくって患者の胸に落とす。生きたまま死者となるのだ。この厳しい処置の大半は不要なものであったが、それによって一つのことがわかる。ハンセン病は十字軍の兵士たちが帰還してくるまで、ヨーロッパでは知られていなかった。そしてそこから少しずつ広がって、ある時点で一気に拡大したのだ。これは明らかに接触で罹患する病だった。接触伝染病だ。と同時に、隔離すれば根絶できるということも明らかだった。当時のハンセン病患者の扱いはひどく、醜悪なものであったが、隔離効果が知られるようになり、それを手段として用いることでハンセン病は撲滅されるようになった。
ハワイ諸島では現在、こうした隔離政策によりハンセン病は減少している。が、モロカイ島に患者を隔離することは、イエロージャーナリズムが扇情的に書きまくっているような、恐ろしい悪夢なのではない。そもそも、ハンセン病患者は家族から無慈悲に引き裂かれてはいないのだ。病気が疑われた者は、衛生局からホノルルのカリヒにある施設に来るよう呼ばれる。料金や経費はすべて支払われる。まず衛生局の細菌学の専門家による顕微鏡検査を受ける。ハンセン菌が見つかると、患者は五名の検査医からなる審査会による審査を受ける。ここでハンセン病と判明すれば、病名が告げられ、衛生局が正式に確認し、患者はモロカイ島に送られる。状況に応じて徹底した検査が行われるが、患者には、自分を担当する医師を選ぶ権利がある。ハンセン病と宣告された後でも、すぐにモロカイ島に送り込まれるわけではない。何週間か何カ月かの猶予が与えられ、カリヒに滞在している間に、自分の商売などすべてを清算したり話をつけたりすることになる。モロカイ島では、親戚や商売の代理人などの面会も認められるが、患者の家で食べたり寝たりすることは認められない。そのため、訪問者用の「清潔」な住宅が確保されている。
衛生局のピンカム局長とカリヒを訪れたとき、ぼくは罹患した疑いのある人に対する徹底した検査について説明を受けた。このときの疑いのある人は七十歳になるハワイの原住民で、三十四年間、ホノルルで印刷会社の印刷工として働いていた。専門家がハンセン病だと診断したが、審査会は判断に迷っていて、その日に全員がカリヒに集合して別の検査をしたというわけだった。