ぼくらがたどっていく水路がずっと森の中にあったらよかったのにと思う。木々は人間の社会そのものだ。オークの老木は宗教改革の前からずっとそこに立っていて、多くの教会の尖塔よりも高いし、そこらの山々より堂々としている。しかも生きていて、ぼくらと同じように病気にもなれば死ぬこともある。これほど歴史を感じさせてくれるものは他にないのではないだろうか? そういうおびただしい数の巨木が何エーカーにもわたって根を張り、木々の頂の緑は風にそよぎ、その足下では力強い若木も伸びてきていて、森全体が健康的で美しく、光に色彩をもたらし、大気に芳香を漂わせている。これほど立派な自然というものが他にあるだろうか? ハイネは魔術師のマーリンのように、ブロセリアンデに生えているオークの木の下に埋葬してほしいと願った。ぼくはといえば、木が一本ではちょっとという感じだが、林のように生い茂り成長していく熱帯のバニヤン樹であれば、親木の根元に埋めてほしい。そうすれば、ぼくの体にあったものが木から木へと伝えられ、ぼくの意識は森全体に広がり、多くの緑の尖塔が共通した心を持つことになる。すると、森は自分のすばらしさと威厳に喜びを見いだすかもしれない。そうした広大な霊廟で、千匹ものリスが枝から枝へと飛び移り、起伏した緑の森を小鳥が飛び交い、風が吹き抜けていくのを、今から感じることができる気がする。
だが、悲しいかな! モルマルの森は小さくて、ぼくらがその周囲をめぐったのは短い間だった。そして、残りの時間は土砂降りの雨で、突風まじりの雨もたたきつけてきたので、こんな気まぐれでひどい天気にはうんざりだ。舟を抱えあげて水門を超えなければならず、ズボンの裾をまくり上げたようなときに限って雨が強くなるというのも不思議だった。ずっとそんな調子だった。こんなことが続くと、自然が嫌だという気持ちも生まれてくるというものだ。どうして五分前とか五分後に降ってくれないのか、わざといやがらせをしているとしか思えない。シガレット号の相棒はカッパを持っていたので、そういうことにも対応できたが、ぼくの方は濡れるにまかせるしかなかった。ぼくは自然は女だということを思いだした。相棒はぼくの愚痴にも鷹揚に耳を傾け、皮肉な調子で相槌をうった。相棒は、これを潮の満ち引きにたとえて、「月が不毛な虚栄心にかられて干満を起こしているのでなければ、カヌーに乗った者にいやがらせしているんだろう」と言った。
ランドルシーまでもう少しという最後の水門で、ぼくらは先へは行かず、土手にあがり、雨に打たれたまま座り、パイプで一息つこうとしていた。すると、威勢のいい老人がやってきて、ぼくらの旅についてたずねた。この人は悪魔だったんじゃないかと思う。同好の士だと感激したので、ぼくはぼくらの旅について、あらいざらい話した。すると、その老人は、こんな馬鹿な話は聞いたことがないと言った。どこまで行っても水門、水門、水門と水門ばかりだぞ、知らなかったのか? この季節には、オアーズ川は水量が少なくて干上がってもいるらしい。「汽車に乗りなよ、兄ちゃんたち」と彼は言った。「そうしてお父ちゃんお母ちゃんが待っている家に戻んなさい」 この男の言葉は悪意に満ちていたので、ぼくは呆然として黙ったまま見つめているしかなかった。樹木だったら、こんな風な話しかたをすることはないだろう。やっとのことで、ぼくは反論をしぼりだした。ぼくらはずっと遠くのアントワープから来ているし、あんたが何を言おうと、旅を続けるつもりだ、と。そうとも、他に理由がなかったとしても、あの爺さんができないと言ったからには、ぼくらは最後までやり遂げるしかない。すると、この元気な老紳士はぼくをあざ笑い、カヌーのことをあれこれ言い、頭を振りながら去っていった。
ぼくがまだむかっ腹を立てているときに、二人連れの若い男がやってきた。雨具を着ずにずぶぬれのセーター姿のぼくと、シガレット号でカッパを着た相棒を見比べ、ぼくをシガレット号の相棒の使用人だと思ったようで、ぼくの立場と主人はどういう人だということについて、たくさんの質問をしてきた。ぼくは言葉には出さなかったが、それにも腹を立てた。いい人だけど、こんな馬鹿げた航海をするなんてね、とぼくが言うと、「いや、そんなことないよ」と、一人が言った。「そんなこと言っちゃだめだよ。ばかげてなんかないし、とても勇敢だよ」 この二人はぼくを元気にするために送られてきた二人の天使だったんじゃないかと思う。主人に不満を抱いている使用人のふりをして、例の老人の嫌みをそのまま話し、この立派な若者たちに、それがハエかなにかを追っ払うように否定されるのを聞いていると、沈んだぼくの心もまた軽くなった。
ぼくがそのことをシガレット号の相棒に話すと、彼は「やつらはイギリスの使用人の振るまいを何か勘違いしたんだろうな」と、そっけなく言った。「だって、水門じゃ、お前は俺を動物みたいに扱ったじゃないか」
それは事実だ。それほど老人に言われたことが悔しかったのだ。