スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (23)

 

ついには鐘の音もとだえ、それにつれて日も陰ってきた。楽しいひとときは終わり、オアーズ川の渓谷を影と沈黙がおおった。ぼくらは立派な舞台を見終えて仕事に戻る観客のように、意気軒昂にパドルをこいだ。このあたりでは、川は前にもまして危険になっていた。流れはさらに急になり、いきなり渦が出現し、しかもさらに激しくなっていた。ぼくらは苦労しながら下っていった。引っかかりそうな簗が設置してあったり、浅いところや杭がたくさん打ってあるところもあって、舟を陸に揚げて迂回しなければならなかったりした。だが、一番やっかいだったのは、最近の強風がもたらしたものだった。二、三百ヤード進むごとに、倒木が川をふさぎ、その巻き添えになった他の木がからみあっていたりした。

多くは木の先端の方に通れるすき間があって、葉の茂った小さな岬をまわっていくと、川の水が小枝を吸いこんで泡立っていたりした。倒木が対岸まで達しているところも多かったが、体を低くすればカヌーに乗ったままその下を通り抜けられたりもしたしし、カヌーを木の幹の上に引き上げて超えざるをえないところもあった。それもできないほど流れが急なところでは、上陸してカヌーを「かついで」運んだ。ずっとこういった調子で気が抜けなかった。

そうやってカヌーをまた川に浮かべたが、ぼくの方が相棒よりずっと先になったところがあり、太陽や急流や教会の鐘の音のおかげで気分もよく、意気揚々と進んでいった。すると川は急カーブを描いて湾曲し、獣が咆哮するような音がとどろいていた。石を投げれば届く距離に、また倒木があるのに気づいたぼくは、すぐさま背板を倒し、木の幹が水面から離れていて、枝もあまり茂らず、その下をくぐれそうなところを目指した。世界と一体になった高揚感に満たされているときには、なかなか冷静な判断というものは下せないもので、この時のぼくの決断は、自分が幸運の星の下に生まれてこなかったということを示す、非常に重要な判断になったかもしれなかった。胸のところが木に引っかかってしまったのだ。なんとか自由の身になろうともがいたが、流れが速くて、ぼくの手にはおえず、舟を川に奪いとられてしまった。アレトゥサ号はぐるりと向きを変えて横向きになって傾き、舟に乗ったぼくの体を吐き出してしまったのだ。木の下で枝にぶつかって元に戻ったカヌーは、そのまま勢いよく下流へと流されていった。

しがみついていた木に必死でよじ登ったものの、それまでにどれくらいの時間がかかったのか、よくわからない。かなり時間がかかったと思う。ぼくはがっくり意気消沈していたが、パドルは離さなかった。なんとか体を肩のところまで倒木の上に引き上げようとするのだが、流れはぼくの足をつかんで引きずりこもうとするし、ズボンのポケットにオアーズ川の水ぜんぶが入っているんじゃないかと思うくらい体が重かった。川の流れがどれほど強いかは、実際にやってみないとわからない。死がすぐそこに迫っていた。ついに最後の待ち伏せで死神自身が乗り出して獲物を引きずりこもうとしているのだ。それでも、ぼくはパドルだけは離さなかった。ようやくの思いで上半身を倒木の上に引き上げると、息も絶え絶えで、びしょぬれのまま動けなかった。おかしくもあったし、なんでこんなはめになったんだという怒りの感情が入りまじっていた。丘の上で畑仕事をしている農夫には、ちっぽけで哀れな男に見えたことだろう。とはいえ、ぼくの手にはパドルが握られている。ぼくが自分の墓を作るときには「彼はパドルを離さなかった」と刻みたいくらいだ。

シガレット号は少し前に通過していった。というのも、ぼくが世界との一体感に満たされて舞い上がっていなければ、倒木のずっと先に通れるところがあるのに気づいていたはずだった。相棒はぼくを引き出してやろうかといってくれたが、ぼくはもう肘のところまで上半身を引き上げていたので、こっちはいいから、それよりアレトゥサ号を追ってくれよと先に進んでもらった。流れはとても急だったので、追いついて回収しても、カヌーに乗ったまま、もう一隻を曳航して川をさかのぼるなんて無理な話だった。それで、ぼくは倒木の幹をはうようにして岸までたどりつくと、川辺の牧草地を歩いていった。とても寒くて、心臓まで痛かった。葦がなぜあんなに激しく揺れていたのか、ようやく自分なりにわかった。ぼく自身が葦よりも激しく震えていたのだ。ぼくが近づいていくと、シガレット号の相棒は「運動」でもしてるのかと思ったと冗談ぽくいったが、ぼくが本当に寒くて震えているのだと、やっとわかってくれた。ぼくはタオルで体をこすりまくり、ゴム製の防水袋から乾いた服を出して着こんだ。だが、それからの航海は、それまでとはまったく違う気分になった。乾いた服を着るのもこれが最後だというような落ち着かない気分になっていた。今回の悪戦苦闘でぼくは疲れきっていて、自覚していたのかわからないが、気持ちの上でも落ちこんでしまっていた。世界の破滅的な要素が、この緑の渓谷の川の流れで加速され、いどみかかってきたのだった。鐘の音はずっと美しい響いていたが、そこに牧羊神のかなでるうつろな響きも聞きとれる気がした。この川は底意地悪くぼくの足をつかんで引きずりこもうとしたのか? それなのに、これほどまでに美しいのか? 結局のところ、自然の穏やかさを表面だけ見て信じてしまうと、とんでもないことになるわけだ。

その後も川は曲がりくねりながら、ずっと続いていた。すっかり暗くなって、ぼくらがオリニー・サント・ブノワットに着いたときには、夜の鐘が鳴っていた。

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