ヨーロッパをカヌーで旅する 10: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第10回)


翌日、乗客の荷物だとはっきりわかるようにカヌーを台車に載せて鉄道の駅まで運び、理をつくしてカヌーが手荷物であることを証明しようとしたが、ポーターたちは頑強にそれを認めようとはしなかった。が、一瞬にして、彼らの態度が一変した。理由はわからないが、あわててぼくらのところにやってくると、放置されていた二隻の「ボート」をひっとらえて貨物車まで大急ぎで運び、中に押し込んで扉をバタンと閉めた。汽笛が鳴り、汽車が動き出した――「連中が突然なぜ折れたのかわかるかい?」と、一人のオランダ人がきいた。彼は英語が話せた。「いや、まったくわかりません」と、ぼくらは答えた。「君らが英国首相の息子とラッセル卿の息子だぞと言ってやったのさ、私がね」

だが、鉄道での相手の対応は、エクス・ラ・シャペル(ドイツ語ではアーヘン)でまた元に戻ってしまった。ぼくらはなんとか説得しようとしたが、今度はこっちが折れるしかなくて、カヌーは「交易品」扱いにされてしまった。夜中にゆっくり運ばれて、「たぶん明日」には到着するだろうというわけだ。責任者だという男は、ぼくらのカヌーを自分の戦利品として分捕ろうとしているのではないかとすら思えたが、そいつが偉そうに声を張り上げているとき、乗客の荷物担当の「上司」が出てきて話を聞いてくれた。そうして、穏やかな口調で、ぼくらのために特別に覆いをつけた貨車を用意するよう命じてくれた。ドイツのケルンに着くと、貨物用の料金は「まったく支払う必要がなかった」3。

原注
*3: これは例外的なケースだ。イギリスに戻ってから、ぼくはその人にお礼状を書いた。こういう手荷物としての優遇措置がまた受けられると期待するのはもう無理だろう。カヌーを貨車に載せる場合、何かと扱いにくく場所もとるので、特別扱いには反対するのが当然だと思われている。フランスでは、鉄道の貨物車は他国の貨車より長さが短いし、関係者たちはカヌーは交易品と同じ扱いになると主張した。ここで述べたのは、ベルギーとオランダで起きたケースだ。ドイツでは、カヌーを手荷物として運ぶことについて問題はほとんど生じなかった。スイスでは、誰も異議をとなえなかった。だって、こいつイギリスからの旅行者だぜ、というわけだ。イギリスの鉄道関係者はどうかといえば、カヌーのような長尺で軽量の物品を好意的に判断してくれる人も多少はいて、カヌーを客車の屋根に載せて運んだりもできる。偉い人たちは、交易品としてカヌーに関税をかけても税収が増えるわけじゃないと思っていて、カヌーイストはポーターが運搬するときには必ず自分も手伝うので、手荷物か否かでトラブルが起きることは少ないだろう。カヌーを使ったこういう旅が現実に可能だと広く理解されるようになれば、いずれ各国の鉄道すべてで何らかの明確な規則が定められることになるだろう。結局、カヌーの旅は貨車で運んだりするため遅いものにならざるをえず、普通の交通機関を利用して観光して歩いたほうがずっと簡単ではある。

静かなところがいいと思って、ケルンでは対岸のドイツ地区にあるベルヴューホテルに行った。ある大きな合唱団体がそこでコンクールをやっていて、すばらしい歌や踊りが演じられていた。翌日の日曜日、この静かなはずのドイツ地区で、射撃祭が行われた。見事な腕前で射撃王に選ばれた男は、その妻とともにオープンカーならぬ幌のない馬車に乗ってパレードをした。二人とも正装して真鍮製の王冠をつけ、歓声を上げる群衆に会釈を返した。闇夜に青い光がきらめき、ロケット花火が打ち上げられた。

ケルンでは、アバディーン伯爵が蒸気船の切符を買いに行っている間に、カヌーを台車に乗せた。彼が前で引っぱり、ぼくは後ろから押して運んだ。川までの道すがら、みすぼらしい身なりの男につきまとわれた。荷物の運搬人として雇ってくれというのだ。断ると、ひどく腹を立てた。大きな石ころを拾い上げ、荷車の後を威嚇しながら追ってきた。あの石をカヌーにぶつけられでもしたら壊れるなと気が気じゃなかった。両手をカヌーから離すわけにもいかないので、近づかないよう足で蹴って遠ざけながら、小走りで急いだ。衛兵の一人がその様子を目撃していた。すぐに警官がそいつを捕まえ、ぼくのところに連れてきた。すると、そいつは怒るどころかガタガタ震えていた。「この辺では旅行者が被害にあってるんですよ」と、警官は処罰したそうな口ぶりだったが、ぼくは彼を罰しないようにと言った。この出来事について書いたのは、今度の航海でこういう目にあったのは、このときのたった一度だけだということを知ってもらいたいからだ。

ぼくらはカヌーを蒸気船に積みこみ、ライン川の川幅が広くなっているビンゲンまで運んだ。ここの景色はすばらしくて、ぼくらは川を存分に楽しんだ。絶好の風を受けて帆走したり、中洲に上陸したり、蒸気船の引き波を利用して波に乗って加速したりと、ヨットの航海にピクニック、それにボートレースをあわせて一度に楽しんだというわけだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 9: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第9回)


ライン川では、若者も少年たちもとても泳ぎが上手で、その多くは飛びこみもうまかった。ところどころに似たような構造の女性用プールもあった。水遊びするときは口数も多くなるので、そういうところでは、うるさいくらい元気な歓声が聞こえてきたりする。

川の近くにある駐屯地の兵士たちも規則正しく行進して水浴びに来ていたが、ある日、ぼくらは大勢の若い新兵が水浴びするために集まっているのを見た。

水につかっている者もいれば、射撃訓練で的を狙っている者もいた。的は三個あって、それぞれ厚紙でできていた。垂直に立てた板に取り付けてある。記録係は防弾用の盾で安全に保護されてはいたが、三つの的すべてがよく見えるように、的から非常に近いところに配置されていた。射撃する側は一人ずつ、それぞれの的に対峙して銃を撃つ。弾丸は厚紙を貫通して丸い穴を残し、弾丸自体は背後の地面にめりこんだ。掘り出してまた使うことができるわけだ。イギリスでは鉄製の的を使うので、弾丸は破裂して四方に散らばってしまい、記録係や周囲の人間にとっては危険きわまりない。

そんな感じで三人が射撃すると、太鼓と旗とラッパの合図で射撃がやむ。と、記録係が防弾用の盾から出てきて、それぞれの的にできた弾丸の痕を示し、紙を貼って穴をふさいだ。記録係が防弾盾の背後に戻ると、射撃が再開される。この安全な射撃訓練のやり方は、イギリスで最近まで軍隊の訓練で用いられていた方法に比べると、ずっとよかった。このフランス流の方法は、射撃の腕前がはっきり示されるという点でも非常に効果的だ。

川で、ある湾曲部を曲がると、牛の大軍が群れをなして川を渡ろうとしているところだった。ぼくはカヌーに乗ったまま、そのど真ん中に入り込んでしまい、牛が闖入者(ちんにゅうしゃ)にどのように反応をするのかを身をもって知るはめになった。ナイル川でカヌーを漕いだときに、朝や晩に黒い牡牛が川を泳いで渡るのを目撃したことがあるのだが、それは川から這(は)い出てくる「牝牛」についてエジプトの王が見た夢の一つを思い出させるものだった*1。創世記に出てくるこの逸話には子供心にも当惑したが、実際に川を渡る牛に遭遇してみると、そうおかしな話でもない。聖書は、牛が川を泳ぐということを明確に示した本でもある。真実は目ではっきり見たときに、より本当らしく思えてくるものなのだ。

夕方になって長い影ができるようになったころ、ぼくらはオランダのマーストリヒトの町の近くまでやって来た。ここには、ヨーロッパでも最も強固な要塞が築かれている。つまり、町は一世紀も前のアームストロング砲やホイットワース小銃に抗するため、まっすぐな高い壁に囲まれていた。

川は深くて流れは速かったが、暗くなってから近づいたのに、どこにも街の灯が見えなかった。林を抜けて、町の真ん中あたりまで来たはずだったが、家々の灯がどこにも見えないのだ。この町の家には窓がなく、明かりもつけず、ロウソクをともすことすらないのだろうか? そう、一つの明かりも見えないのだった!

川の両岸には巨大な高い壁が続いていた。右岸を調べたが門や港のようなものを見つけることはできず、この奇妙な場所の左岸沿いは崩れていた。

後でわかったのだが、交易や往来する船はすべて、そこからぐるっと回って、この古くて荒廃した要塞の上へと続く運河に向かうことになっていた。そのため、両岸の無愛想なレンガ造りの壁がぼくらを取り囲み、脇道にそれないようにしているわけだった。そのまま進んでいくと、闇の中で、頭上に橋がぼんやり見えてきた。そこに到着すると、橋の上にいたオランダの悪ガキどもが小石を雨あられと降らせて、ぼくらを歓迎してくれた。ヒマラヤスギの傷がつきやすいデッキの上で、小石は情け容赦なくぱらぱらと音を立てた。

ようやく壁をよじ登れそうな場所を見つけた。がれきが積み重なり、ちょっとした坂のようになっていて、そこには何もないのだが、そこからカヌーをなんとか堅固な要塞の上まで引き上げることができそうだった。そうやって、この眠ったような町にカヌーを運び入れた。門番がぼくら二人の顔をランプの光で照らし、いぶかしむように凝視したのも無理はない。灰色の服を着た二人のやせた男が運んでいるものは、二つの長い棺桶のように見えただろうから。門番氏は驚いていたが、話のわかる人で、ぼくらをホテルまで、暗くて人気のない通りを歩いて案内してくれた。

脚注
*1:  川から這(は)い出てくる牛 - エジプトの王(ファラオ)が繰り返し見たという、最初は丸々と太った牝牛七頭が、それからやせこけた牝牛七頭が川から出てきた夢のこと。
旧約聖書の創世記によれば、ユダヤ人の祖であるヤコブの子のヨセフが、その夢は「七年の豊作と七年の凶作が続く」ことを示す神のお告げだと預言したことから、ヨセフは王に重用され、イスラエル人をその後の飢饉から救うことになったとされる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 8: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第8回)


リエージュでやっとアバディーン伯爵と合流した。計画では、これよりずっと前に一緒になるはずだった。彼も今回の航海用にカヌーを新造していた。ぼくのロブ・ロイ・カヌーより一フィート長く、幅は二インチ細かった。一番の違いは、船体に頑丈なオーク材ではなくモミの木を使ってあることだ。そのカヌーはロンドンからリエージュまで送られてきていたが、輸送中にデッキを縁どりしているコーミングが破損していた。それで、家具職人のところに持ち込み、数時間かけて修理してもらった。

ぼくらはカヌーを川に浮かべた。見送る人はなく、真夏の太陽が照りつけるなかで、リエージュを後にした。

これで、今回の旅も気の合う二人連れとなった。それぞれが自分のカヌーに乗り、とても楽しかった。ときどき帆を揚げてセーリングを楽しんだり、一、二マイルをパドルで漕いだり、互いに助けあって堰(せき)をこえたり、川沿いの土手からカヌーを引いて歩いたりした。*2

原注2:この後も何度かやってみたのだが、ずっと座りっぱなしでいるのが苦痛になってきたときには、カヌーを引いて歩くのもありだと思う。連続して十時間とか十二時間とか、ずっと座りっぱなしだったりすると、カヌーを降りて歩きながら引いていくのもそう悪くない。とはいえ、カヌーの旅になれてくると、ゆったりとくつろいだ状態で長時間をカヌーの床板に座っていても平気になってくる(マットやクッションは不要だ)。それに、条件のよい川では、カヌーを降りて気分転換する必要もない。ぼくのカヌーは非常に軽量だったので、運河では小指一本で引いていくこともできたが、引いて歩くよりは、漕ぎ疲れて腕が痛いときでも川を漕いで下った方が早いのは間違いない。

川では、互いに自分が面白いと思う流れのところを進むようにした。川幅が広いと、かなり離れたところから会話をかわしたりするので、その声に土手にいる地元の人々が驚いたりした。というのも、会話している片方の姿は見えるのに、その相手はとなると、川岸の草や丈の高いスゲに隠れて見えないので、なにやら独り言を大声で叫んでいる変なやつ、となる。こういう風に大きな声で話をしていると、大声で歌をうたっているような感じがしてくる。合唱しているようなものだが、単にハモるよりずっとエネルギーに満ちていて、自由にやっていいというと、ぼくらのような根っからのイギリス人はすぐに一つになって常軌を逸した躁状態になる。

八月の真昼の日射しはすさまじく、そうした元気もしまいにはなくなってきた。それで、とある村で食事をしようと上陸した。

食事をすませてカヌーに戻ったとき、川で鋭い叫び声が聞こえたので、そっちを振り返った。叫び声の主は小さな男の子で、どうやら川に落ちたらしい。流れのなかで必死に大きな荷船にしがみつこうとしている。当然のことながら、ぼくは救助に向かった。カヌーで一直線にすっとんでいき、ずぶ濡れの不運な子供をカヌーの細い船尾につかまらせた。その子は叫んだりもがいたりしていたが、ともかく無事に荷船に引き上げられたのだった。

ベルギーやドイツ、フランスの川では、そのほとんどに、川に浮かべた立派な水浴び場がある。これはとても便利な設備で、イギリス人も外国で水浴びする人はとても多いのに、悲しいかな、イギリス本国にはまだない。

この水浴び場は川岸に係留されている。百フィート(約三十メートル)ほどの木の枠組みに、柱やチェーンや金属網を組み合わせた生け簀(いけす)のような構造で、人為的に作った川底には浅いところから深いところへと傾斜がつけてあり、水浴び中に川下に流されてしまうこともない。こうした簡易プールの周囲には浴槽のようなボックスや階段、ハシゴがあり、技量に応じた飛びこみ板もある。現在では、ロンドンにも一カ所できている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 7: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第7回)


美しくて幅も広い川で、流れも早く水深もあり、しかも追い風が吹いているという状況では、帆走も楽ちんだ。通りすがりの小型の蒸気船に近づくと、舷窓ごしに小銭をくれたり、コップについだビールを差し入れてくれたりした。乗客たちはぼくらに驚き、笑ったり、あれこれ言いあったりしていたが、なかには、この、どうみても惨めな英国人を見て「笑ったりするのは不作法では?」と懸命にしかめっ面をしている人もいた。

今度の航海では、こうしたかぞえきれないほどの、ちょっとした出来事が次々に起きた。そういうことはすべて、岸辺での出会いとはまるで違っている。ウイという地名の砦まで来たところで一日目の予定が終了したのだが、絵に描いたような、まったく新しい体験はこうしてはじまったのだった。

カヌーは夜間には馬車置き場に保管してもらった。翌朝見るとカヌーに問題はなく、馬具をかける釘に引っかけて干していた帆はまだ半乾きだった。が、厩務員やその仲間の連中がどこにもいなかった。皆、ある偉大な音楽家の長い葬列に参加していたのだ。その音楽家の名前も、ウイという地名についても、それまで聞いたことがなかったのだが、死んだ音楽家はウイに住んでいて、五十歳だったという。ウイについては、巻末の地図に掲載してある。

はじめての川をのんびり下っていく楽しみというのは、なんとも独特で魅力的なものだ。少し進むごとに新奇なものが見えてくるか、わくわくするようなことが始まるのだ。こっちでツルが舞い上がったかと思うと、向こうではアヒルが羽をばたばたさせていたりする。カヌーの脇でマスが跳ねて水しぶきをあげたりするし、川の湾曲部を曲がるときには、岩場を流れ落ちる水音が用心するよう警告してくれる。いきなり水車用の水路が出現することもある。こうしたことすべてが――風景や川沿いに住む人々や天候に加えて、難所に出くわしても何とか先へ進もうと決意したり、カヌーを無人の原野に放置できないので、なんとか暗くなる前に人家のあるところまでたどり着こうと思ったり、昼食を入れるはずのバッグはずっと空っぽだったりという――こうしたことすべてが、馬車にゆられて百マイルの旅をしているときには居眠りしていびきをかいていたはずの旅人の心に緊張感をみなぎらせてくれるのだ。

人生という旅と同じように、悩みや困難も、それ自体がそれぞれ人生について教えてくれる。人生がすべて、一直線の運河で曳航される船に乗っているようなものだったら、どうしたって緊張感も失われるし、ボーッとしたまますごしてしまうだろう。カヌーの旅では、浅瀬や岩場や渦が魂をゆさぶるような試練となって襲いかかるので、波を受けて激しく上下動したりすることのない大型帆船の旅では、小さなカヌーでなんとか無事に港までたどり着けたときの、あの、ほっとした気持ちを半分も味わえないだろう。

川の流れはすぐに早くなり、生命があるようにリズミカルになった。必死で漕いだので、お腹もすいた。いきなり木々が前方に出現し、どんどん高くなってくる。が、実際には、ぼくの方から林に向かって突っ走っているのだ。川岸では、感じのよい村々が、ぼくに会いに来るように、ゆっくり動いている。夢のなかの絵のように、すべての生命が一つになって穏やかに滑っていく。はるか遠くで何か音がしているが、気になるほどではなく、ごみごみもしていない。突然に何かが起きたり、けたたましい物音が聞こえたりすることもない。自分が動いているのではなく、つねに他の物が動いているようだった。州都のリエージュに近づくにつれて、さすがに街の喧騒が聞こえてきた。そこでは高速船スラン号を見た。両舷で水をかいて推進していた。その蒸気船の引き波で、カヌーは激しくゆれた。その波は船着き場の中まで追いかけてきた。着くとすぐにカヌーを陸揚げし、庭のようなところに置いた。夜間はそこに保管するのだ。

リエージュは、いたるところ銃だらけだった。この地では、だれもかれもが銃を作ったり携帯したり発砲したりしていた。背中にライフルを背負った女性さえいたが、ライフル一丁の重さは十ポンドもある。市場にはたくさんの果物が並んでいたし、訪ねてみる価値が十分にある教会も存在しているものの、この地のイメージは結局は銃だった。

だが、旅で目撃した町々の様子をこと細かに表現することがぼくの目的ではない。リエージュについては何年も前に訪ねたことがあるし、実際にこの航海記で取り上げる町のほとんどは、はじめての場所ではない。だから、今度の航海の魅力がどこにあるかといえば、知らない土地に行くことではなく、すでに知っている土地を新しい視点で眺めてみるというところにあるのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 6: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第6回)


シーアネスからドーバーまで鉄道でカヌーを運ぶことにした。機関車の燃料となる石炭を積んだ貨車の上に積むしかなかったが、土砂降りの雨が降りだし、風も強くなったので、蒸気機関から出る火花が大量にカヌーにも吹き込んでしまう。それで、カヌーは大型のスーツケースみたいなものだからと頼み込んで、なんとか貨物車に積むことができた。今度の長旅は、こんな風にして始まった。

ロンドン・チャタム・ドーバー鉄道会社は、この新種の「箱」を乗客の手荷物として取り扱ってくれたので、追加料金を支払う必要はなかった。ベルギーのオステンドまでの船旅でも、汽船会社は同じように寛大に取り扱ってくれた。というわけで、イギリスのカヌーイストが大陸に渡る際には「このコースがお勧め」だ。

ベルギーに渡航する前、ドーバーに一日滞在した。必要な物資を買い入れ、カヌーで使うジブ(前帆)を腕の良い職人に仕上げてもらった。ドーバーでは、カヌーを緑色の海に浮かべ、埠頭の先端付近の、波が打ち寄せているあたりで試走を兼ねてカヌーを漕いでもみた。ベルギーのオステンドでも、押し寄せてくるうねりに乗ってみたり、巻き波や堤防の砕け波の近くで漕いでみたりもした。オステンドでは、風はドーバーほどではなかったが、引き潮が強くて波も高かった。浅いところでは、太った海水浴客たちがパチャパチャやっていた。アヒルのようにすいすい泳いでいる人もいた。妙な服を着せられ、波で体が上下するたびに泣き叫んでいる子供たちもいて、大人たちは大喜びしていた。そうした光景を横目で見ながら、幅が広くて直線上の運河で帆を揚げて静かに進んでみたりした。

そこからまた汽車に乗ったのだが、鉄道会社にかけあって事情を説明すると、カヌーを貨物車で運ぶことに同意してくれた。ブリュッセルまでの「超過貨物」分の料金として一フランか二フラン払った。ブリュッセルでは、カヌーを荷車に載せ替え、街なかを突っ切って別の駅まで運んだ。夕方にはナミュールに着いた。ここでは夜の保管場所として宿の主人が空き部屋を提供してくれたので、椅子を二つ並べてカヌーを載せておいた。

翌朝、ポーター二人に担いでもらって市街地を抜け、サンブル川でカヌーを漕いだが、漕ぎ下るというほどのこともなく、すぐにムーズ川*1に合流した。

きらめく川面に光輝く太陽、小さく可憐なカヌー、うきうきする心、積みこみ終わった荷物たち、速い川の流れ──こういうものを、だれが徒歩や鉄道や汽船や馬の旅と交換しようと思うだろうか?

こういう航海の最初の段階では、快適な流れがあれば、それで十分に満足できる。岩や急流の魅力についてはまだよくわかっていないからだ。川旅では、川にいるというだけで目新しいことの連続なのだから、初めのうちはこのムーズ川のように静かで、のんびりできる、ちゃんとした川を選ぶべきだ。川岸は水辺から見るとおとなしい感じだが、流れの中央に出てみると新鮮な景色がひろがっている。普通の旅行では車窓に見えている風景が、川の上では自分を中心に一気に拡大し、前方から押し寄せてくるのだ。川に浮かんで穏やかに揺れていると、景色はこっちでは大きくなり、あっちではまた新しくなって、次から次へと自分に向かって迫ってくる。

最初の浅瀬では、ぼくは慎重の上にも慎重を期した。カヌーから降り、手にかかえて渡ったのだ。それからひと月もすると、こういう浅瀬があっても平気で突っこんで舟底を小石でがりがりこすりながら突っ切ったりするようになってしまった。とはいえ、この最初の障害物に遭遇したときは心細くて、どうやって乗りこえようかと思案したものだ。そのとき、うまい具合に男が一人やってきて(ま、たいていはそうなるんだが)、二ペンス払うというと、喜んでカヌーを抱えて陸上を迂回するのを手伝ってくれた。それで、またカヌーに飛び乗ったわけだ。

脚注
*1 ムーズ川 - フランス北東部からベルギー、オランダを経て北海へとそそぐ全長950キロメートルの川(オランダではムース川ともいう)。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 5: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第5回)


帆を揚げて進んでいくと、だんだん川幅が広くなり、川の水も塩からくなってきた。ぼくはこの界隈の地形についてはよく知っていた。以前、ケント号という小さなかわいいヨットに犬を一匹乗せ、海図に方位磁石とヤカン一個を積んで、テムズ川の河口付近を二週間ほど航海したことがあったのだ。

蒸気船のアレクサンドラ号がやってきた。階段状になったアメリカ式の高いデッキには大勢の人々がいて、この小さなカヌーに歓声をあげてくれた。ぼくらの航海が新聞に掲載されていたのだ。もうここまで来ると、両岸は遠くかすんだ青色になり、川というよりは海という感じになってきた。ノールまで来ると、イルカの大群に遭遇した。悪さをするわけではなく、すばしっこく動きまわる愉快な連中だ。これまでイルカがこれほど近くに寄ってきたことはなかった。カヌーがあまりにも小さいので、シャイで利口なイルカたちにとっても、それほど警戒すべき相手とは見えないのだろう。カヌーは波を乗りこえるたびに揺れたし、イルカたちはパドルが届きそうなところまで何度も近寄ってきたが、追い払ったりはしなかった。連中に尾で一撃されれば、こっちの方がすぐにひっくり返ってしまうからだ。

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マクレガー本人が描いたセーリングカヌーでの航海の様子

サウスエンドまで快適なセーリングだった。それから豪雨になったので帆をおろし、シューバーイネスまでパドルを漕いだ。砲兵隊の野営地に数日滞在する予定にしていた。第一回の射撃競技のために全国各地から集結しているのだった。

英国陸軍砲兵隊は、ぼくらのようなこのイベントの志願兵を丁重に遇してくれた。将校の四分の一が砲兵隊の全国会議に出かけていて留守だったので、余計な気を使わずにすんだ。とはいえ、この野営地は低湿地に作られていて、あちこちぬかるんでいた。ヨークシャーやサマセットやアバディーンなどからやって来た、六十八ポンド砲を扱う頑健で背の高い男たちも、ぬかるみで苦労していた。彼らは分厚いブーツをはき、ユーモアもあった。小雨が降り続くなか、キャンプファイアを取り囲んで歌をうたったりした。翌日は標的に向けて砲撃した。彼らは正真正銘の志願兵だった。

風がちょっとした嵐くらいに強くなってきたので、荒れた海域でカヌーの耐航性を徹底的にためしてみる絶好の機会のように思えた。ひっくりかえって岸に打ち上げられでもしたらカヌーは損傷するだろうし、ぼくも泳いだ上に服も着替えなければならなくなるだろう。

このロブ・ロイ・カヌーの浮力には、あらためて驚かされた。安定性が失われることもなかった。波と波の合間に、マストを立てて帆を揚げることもできた。この実験ではカヌーに荷物を積まなかったので、びしょ濡れになってもまるで気にならなかった。あらゆることを試し、あれこれやってみて、これなら大丈夫だと確信が持てた。

翌朝早く、出発した。向かい風だったので、サウスエンドまで大荒れの海でパドルを漕いた。着いてから服を乾かしたが、乾くまで水浴びを楽しんだ。水温はぬるかった。そこでカヌーを汽車に積みこみ、サウスエンドの埠頭からは列車の旅となったのだった。

テムズ川では、新しいのや古いの、豪華なものなど、いろんな種類の船を目撃することができるが、ぼくらのカヌーは驚くほど人々の興味と好奇心をかき立てた。その理由については特定できない。海に出ていく船としてはあまりに小さいことに驚く人々もいたし、パドルの漕ぎ方が従来の方法とは違っているので、それにびっくりする人もいた。帆を揚げていると、多くの人が面白がってくれた。ロブ・ロイ・カヌーの優美な形が気に入ったという人もいれば、ヒマラヤスギを張ったデッキや小粋な旗に感心する人もいた。多くの人は船長たるぼくの服装をじっと見つめ、「どこへ行くんだい?」と聞き、その後でもまだ、こっちをじっと見つめていたりしていた。ぼくもたいてい「本当のところ、自分でもよくわからないんですよ」と答えたりした。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 4: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第4回)


第2章

満潮を利用し、喜び勇んで出発した。ウェストミンスター橋をカヌーでくぐり抜け、あっという間にブラックフライヤーズ橋も通過した。よどみではカヌーに乗って波とたわむれた。実際のテムズ川は豆のスープのような色をしているが、このときは朝日をあびて、どこもかしこも金色に光っていた。

グリニッジ付近では、いい風が吹いた。さっそく新品の真っ白な帆に風を受けた。心が浮き立つような波きり音をたて、軽やかに帆走する。蒸気船や外航船、ごつくて小さいタグボートやずんぐりむっくりの大きな荷船で、テムズ川は活気にあふれていた。行きかう船の乗員たちと何度も会話をかわす。こうやって出発したからには、これからは来る日も来る日も、川で暮らしている人々と、英語やフランス語、オランダ語、ドイツ語や他のいろんな方言で話をすることになるだろう。

ユーモアという点では、荷船の連中は気さくで冗談好きだが、言葉づかいは乱暴だ。たいていは「よお、そこのお二人さん!」とか「ちっちゃい舟だな?」とか「保険に入ってるかい、大将?」という台詞(せりふ)ではじまるのだが、ぼくは誰にでも笑顔を見せてうなづくようにしていた。川や湖で出会った人たちは皆、親切だった。

パーフリート周辺はとてもきれいだったので、よく見ようと一、二回タッキング*1で方向転換し、そこにあるすてきなホテルに泊まろうと決めた。出発するならここからがおすすめだ。

カヌーに乗ったまま、うっとりしていると、一匹のアブが手にとまった。みるみるうちに腕が腫れあがってしまった。夜には腕に湿布をし、翌日は包帯で腕を吊って教会に行ったほどだったが、これは村の日曜学校でちょっとした話題になった。川や沼地ではカエルがよく鳴いているので、人なつっこい動物ではなく、餌になるようなハチやアブやブヨがたくさんいるだろうと予測はしていたものの、カヌーの航海で実際に虫に悩まされたのは、これがはじめてだった。

パーフリートの静かな小さい教会に入ると、一人の高齢の紳士が扉のところで倒れて死んでいた。何か悪いことの前兆だろうか。

パーフリートでは、コーンウォール感化院の船が係留されていた。岸辺を散歩している少年たちもいる。そろいの服を着て、礼儀正しかった。この興味深い船の船長が親切にもぼくを船に迎え入れてくれて、夕方の礼拝はいつまでも忘れられないものとなった。

古いフリゲート艦の主甲板には百人ほどの少年たちが列を作って座っていた。開いた窓の下には夕日に赤く染まった川面が見え、夕方の心地よい冷たい風が吹いている。少年たちはオルガンの伴奏で賛美歌をうたった。気持ちのこもった、いい感じの音楽だった。船長がこの雰囲気にぴったりの一節を朗読し、祈りが捧げられた。かつて路上生活をしていた、このかわいそうな少年たちのために力を貸して祈ろう。社会が意図的ではないにしても彼らを放置してきたことに比べれば、彼らが社会に対して抱いている感情はすばらしいとしかいいようがない。

翌朝、干し草保存用の屋根裏部屋からカヌーを下ろした。カヌーはそこで安全に保管されていた。これから先、ぼくのカヌーはいろんな奇妙な場所で保管されることになるだろう!

グレーブスエンドで必需品を積み込み、カヌーを川面に浮かべた。潮に乗り、タバコを一服する。ようやく出発したんだなという実感がわいてくる。ここから不思議な魅力的でもある自由と目新しい体験が始まったが、これは航海の最後までとぎれることなく続いた。

リュックサックを背負ってはじめてどこか遠くへと足を向けるときや、一人でヨットに乗って長距離航海に出かけるときに、こういう感覚を感じることがある。

だが、徒歩の旅では海や川に出くわすと、そこで行きどまりだ。ヨットで航海したとしても、浅瀬や岸辺には近づけない。そこでカヌーの出番になる。カヌーは漕いでよし、帆走してよし、陸にあげて運搬してもよしというわけで、陸からでも海からでもローマに行けるし、本人が希望すれば香港にまでだって行けてしまうのだ。

脚注
*1:タッキング - ヨットで帆に風を受ける向きを右舷から左舷へ/左舷から右舷へ変える方法の一つ。船首を風上に向け、風軸(風の吹いてくる方向)をこえることをタッキング(略してタック)、船首を風下に向けて帆走しながら方向を変えることをジャイビング(略してジャイブ)という。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 3:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第3回)


長い間ずっと観光地から観光地へという団体旅行を繰り返していても十分に楽しいという人はいる。もう一歩踏みこんだ旅がしたいと思う人々は、ブラッドショー版のこみいった鉄道時刻表を眺めながら旅のプランを練り、大型スーツケースやバッグに帽子を入れる箱やステッキ持参で、お仕着せではない旅を楽しむわけだが、夜汽車で海外に到着するときには、あれこれ手配する必要があるし、知らない町でどのバスに乗るかも決めなければならない。ほっとできるのはホテルの寝室にたどり着いたときで、ため息まじりに「やれやれ、どうやら無事に着いたぞ!」と叫ぶわけだ。

だが、山々や洞窟、教会や美術館、廃墟や戦場をたっぷり見てまわり、経験を重ね、いろんなことを学んでくると、旅では楽しみよりも心配が先に立つようになり、以前に駆け足でながめてまわった国々での自然の景観やその地の人々の生活をもっと知りたいと思ったりするようになる。

ヨーロッパ大陸の大小の河川はイギリスの旅行者にはほとんど知られていないし、その美しさや流域の生活すべてをきちんと見てまわった人もいない。

ガイドブックをなぞって町から町へと移動する旅で、旅行者はこうした河川を渡ってはいるし、水辺の景色に感嘆もいるのだが、それきり忘れてしまう。また蒸気船に乗って夕方まで堂々とした大河を下ったり、川沿いに走っている鉄道に揺られて汽笛を聴きながらトンネルとトンネルの間で愛らしい川をちらっと眺めたりすることもあるが、そういうものはすぐに通りすぎてしまう。

だが、豊かで美しい風景は、旅行者には関係なくそこに存在していて、新鮮で宝石のような生活や人々が、訪れてくれる人を待っているのだ。そういうところは地図に描かれていないし、ラベルもなく、どんなハンドブックにも掲載されていない。そういう宝に遭遇する喜びは、そのためにエネルギーをついやす勇気を持つ旅行者のみに与えられるのだ。

ぼくらはカヌーに荷物を積みこみ、この川という新しい世界の旅に出ることにした。こうしたことすべてがそろってはじめて「人間とその苦闘の物語」*1になる。

ところで、服装はどうだったか、説明しておこう。

今回の旅でのぼくの服装といえば、カヌーに乗っているときは、灰色のフランネル地のスーツを着ていた。また別に買い物や日曜に着て出かけるような普通の軽装の服も持っていた。

「ノーフォーク・ジャケット」は、ブラウスのようなゆったりとしたフロックコートで、肩にトレンチコートのようなヨーク、腰にベルトがついていて、ポケットが六個もある(原注3)。このすばらしい新流行のコートのポケットそれぞれに何か品物を入れ、ケンブリッジの麦わら帽子、キャンバス生地の渡渉靴、青い眼鏡、防水のオーバーコートを用意し、加えて、日よけ代わりにも使える予備の前帆(ジブ)があれば、雨でも晴れでも、深みでも浅瀬でも、空腹でも退屈していても、きっと旅の一日を存分に楽しむことができる。

まず四時間ほど漕ぎ、休憩したり流れにまかせて漂ったり、本を読んだり帆走したりする。その後でまた三時間まじめに漕ぐ。それから、川で泳いだり宿屋で入浴して着替えたり、散歩を楽しむ。そうやって夕方にはまた気分を一新し、うまい食事に舌鼓をうちながらバカ話で盛り上がったり、本を読んだり、絵を描いたり、手紙を書いたりしてから寝るというわけだ。

イギリスが選挙で盛り上がり、国会議員が座席を奪い合い、弁護士が忙しそうに駆けずりまわり、ウインブルドンで最後の議席が決まる七月末には、旅の用意はすべて整い、気温も十分に暑くなっていた。さあ、ロブ・ロイ・カヌーで旅に出るときだ。


原注3
二度目、三度目、四度目の航海にも、これと同じ服装で出かけたが、ボタン一個欠けることはなかった。

 

訳注
*1:人間とその苦闘の物語 - ローマ時代のラテン語の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』の一節をもじったもの

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ヨーロッパをカヌーで旅する 2: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第2回)


ここで紹介するのは、そういったカヌーを使った旅の最初のものだが、ほかにも多くの人々が後に続いている。ロイヤル・カヌークラブが刊行している「カヌーイスト」には、そういう人々の一覧が掲載されている。このクラブの会長は英国皇太子で、世界中に六百名の会員がいる。

ぼくが名づけたロブ・ロイ・カヌー*1はオーク材で作ってあるが、デッキ部分にはヒマラヤスギを使った。大きさはドイツの鉄道の貨物車に搭載できるサイズに抑えた。つまり、全長十五フィート(約四・五メートル)、幅二十八インチ(約七十一センチ)、高さ九インチ(約二十三センチ)で、重さは八十ポンド(約三十六キロ)だ。三カ月の旅に必要な荷物は、三十センチ四方で深さ十五センチの黒い袋一個にまとめた。パドルは長さ七フィート(約二・一メートル)で、両端に水をかくブレードがついている。帆走用の帆は四角形の縦帆(ラグセイル)と三角の前帆(ジブ)の二枚。装飾といえるのは、きれいなブルーの絹でできた英国国旗だけだ(原注1)。

この小さなカヌーを手に入れてから、これでどこへ行けるのか、どの川を漕ぐことができるのか、景色がきれいなところはどこなのかを調べるのは、けっこう大変だった。

ロンドンで調べてまわったが、ろくな成果はなかった。パリのボートクラブですら、フランスの川のことについて何も知らなかった。むろん連中はライン川のことは知っているのだが、それはそこがドイツとの国境だというだけのことで、ライン川から先では、ぼくの旅は未知の発見をする航海になるはずだ。だから、この旅が休暇をカヌーに乗ってすごそうという多くの人々にとってのよい刺激になればと思うのと同時に、似たようなカヌーの旅をする人が遭遇するであろうトラブルを減らすことにつながればとも願っている(原注2)。

とはいえ、何も川下りの「ハンドブック」を作ろうってわけじゃない。楽しいことをしようという意欲にあふれた者は、地図にちゃんと載っている川や水路図誌が整備された運河だけを旅することからは、いずれ足が遠のくんじゃないだろうか。たとえば『モーゼル川上流域案内図』から抜粋したものを次に引用するが、こういう、こと細かにびっしり書きこまれた案内書に黙々と従うのではなく、過酷な荒野で、夏でも快適にすごせる装備を持ち、自由きままな旅を夢見てはどうだろうか。その手のガイドブックから実際に引用してみると、

(一) 「右に曲がり、小川を渡り、幅が広く急な森の小道をアルバースバッハの集落まで登る(約40分)。集落は緑濃い草原にある。5分もすると十字路に着く。そこからは「I**」に通じる道を進むこと。10分で低地にある「r**」に着くが、そこに製粉工場がある。さらに10分進み、「r**」へのゲートを抜けると、3分で「I**」に至る踏み分け道になるが、それは礼拝堂に通じている。15分もすると、森へと続く砂利道は登りになる」
(某ライン川ガイドブック、94ページ)

むろん、この手のガイドブックをバカにして笑うつもりはない。旅人にとってはしっかりした道案内として役に立つし、作家にとって有益なこともあるだろう。旅をはじめたばかりのころは、すべてをスムーズに楽に行いたいものだし、荷物を蒸気船や汽車で運搬し、イギリスからの客が多いホテルに宿泊して馬に乗ったり歩いたり、あなたが何を食べたいのか何を見たいのか、何をしたいのかをよく知っている人々と一緒になって移動していくためには、そういうガイドブックが必要だし親切でもあるのだから。


原注1: 今回の航海を終えた後、筆者はもっと短くて幅も狭い改良型を作った(名前は同じロブ・ロイだ)。そのカヌーでスウェーデンやノルウェー、デンマーク、ドイツのホルシュタイン地方や各地の河川を航海した。

 

その旅の記録は『バルト海の航海』(未訳)にまとめてある。こういうカヌーの改良についても、木版画の挿絵とあわせて、その本に記載しておいた。三隻目のカヌーは六カ月間の航海中にカヌーの内側にもぐりこんで眠れるようにしたが、それについての詳しい説明は『ヨルダン、ナイル、紅海、ゲネサレでのロブ・ロイ』(未訳)に記載した。これはパレスチナやエジプトおよびダマスカスの河川や海でカヌーを漕いだ旅の記録である。四番目のカヌーは、オランダのゾイデル海や周辺の島々、フリースラントの海岸で使用した。一番新しいロブ・ロイ・カヌー(七隻目)は、スコットランドの北にあるシェットランド諸島やオークニー諸島、それにスコットランドの湖で漕いでみた。

 

原注2:ドイツやオーストリアの最良の地図にも誤りがあった。川ぞいにあるとされた村を、ぼくは一マイルも離れた森の中で見つけたし、自分のボートから離れないぞと決意した者には(立派な決心だ)役に立たなかった。

 

訳注*1:ロブ・ロイはロバート・ロイの略称で、ジョン・マクレガーが故郷スコットランドの英雄のロバート・ロイ・マグレガー(こちらはマグレガーとにごる)にちなんで名づけたとされる。

robroycanue筆者自身の挿絵から

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ヨーロッパをカヌーで旅する 1: マクレガーの伝説の航海記

 ジョン・マクレガー(1825年~1892年)はスコットランド出身の冒険家、旅行作家、慈善活動家。
現代のカヤックの原型ともいえるロブ・ロイ・カヌーを設計・製作し、実際にヨーロッパやアメリカ、エジプトなどでそれを使って航海した。本書を含む彼の航海記(三冊)は当時の欧米で大評判となった。
イギリスのロイヤル・カヌー・クラブ(RCC)やアメリカン・カヌー協会(ACA)の創立者でもあり、現代のカヌー/カヤック(を利用した旅、カヌーツーリング)の生みの親ともいえる。
いわば釣りにおけるアイザック・ウォルトン(釣魚大全の著者)のような存在ともいえる。
『宝島』などで知られる若き日のスティーヴンソンも、マクレガーのカヌーを使った航海に触発され、カヌーでヨーロッパの川や運河を旅している。

ヨーロッパをカヌーで旅する

ジョン・マクレガー著
明瀬和弘訳

第一章

ある日のこと、ぼくは列車の事故で客車の座席の下に投げ出され、ちぎれた電信線にからまってしまった。そのためライフルで射撃しようとすると手が震えるようになった。遠く離れたところにいる雄牛の目を狙うのは無理になったが、ぼくはまた少年の頃のように喜々として水辺の生活に戻ろうと、寝床でカヌーを使った新しい航海を夢見たり、どういう舟にしようかと計画を練ったりしたのだった。

川を利用する内陸の旅で、手こぎボートが役に立たないのははっきりしている。なぜか。舟旅に絶好の川でも、自然の河川はオールで漕ぐには川幅が狭すぎたり、逆に広くて水深が浅すぎたりするのだ。まがりくねっていたり、岩や瀬があったり、水草や水没した木、水車用の堰(せき)や障害物も存在している。倒木や急流もあれば渦をまいているところもある。山間部を縫ってくねくねと流れている川には、必ずといっていいくらい滝があったもする。そういう場所は野性味たっぷりで、とても手こぎボートで近づけるようなところではない。また三角波で水浸しになったり、肉眼で見てもわからない水面下に隠れている岩で転覆することもある。

ところが、オールを使った手こぎボートを悩ますこうした状況そのものが、逆にカヌーに乗った旅人にとってはうれしい刺激になってくれるのだ。カヌーでは、漕ぎ手は後ろではなく前方を見ている。自分がたどるコースや両岸の景色もすべて目に見える。障害物があっても、パドルをひとかきすれば脇をすり抜けていくことができる。狭い場所でもこまかな位置の調整ができるし、アシや水草が生い茂っていたり木の枝や草があっても楽に通り抜けることができる。体を動かさず帆を張って進むこともできる。川底につかえたとしても、パドルで押しながら進めるし、あぶないところでは用心して舟を降りたっていい。浅瀬では舟を引きながら徒渉し、草原や生け垣、堤や障害物や壁があっても、乾いた土の上を引きずって進むことだって可能だ。ハシゴや階段では手で押し上げればよいし、高い山々や広い平原では、カヌーを荷車にのせて人が引いたり馬や牛に引かせたりして乗りこえることもできる。

こうしたことすべてに加えて、カヌーにはデッキをおおうカバーがついている*1ので、無甲板のボートよりはるかに耐航性がある。深くよどんだ場所でも水門でも水車用の水路でも、平気で乗り入れることができる。大海原の激しい磯波や川の急流でも、水はデッキの上を流れていき、カヌーの内側はいつも乾いている。

また、カヌーは座る位置が低く、体を移動させる必要がなく、パドルを失うこともない。手こぎボートよりも安全だ。何日も何週間も自力で長時間を漕いで移動し続けるということに関しては、背もたれにもたれることもできるので問題はない。パドルを膝に載せて肘掛け椅子に座っているようにくつろぐことができるし、そうやって流れや風に身をまかせながら周囲を見まわしたり、読書や食事をしたり、スケッチしたり、土手で眺めている人たちとおしゃべりしたりすることだってできてしまう。それでいて、とっさのときには両手ですぐにパドルを持って対応できるのだ。

最後に、帆を日よけや雨よけ代わりに用いてカヌー内部で足をのばして横になることもできる。夜はデッキをおおっているカバーの下で眠れる。ベッドの代わりとしても、偉大なウェリントン公*2も満足するくらいのスペースはある。しばらく水辺はいいやという気分になったときは、カヌーから離れて宿屋に泊まればよいし、そうすれば、馬のように「下を向いて食べる」こともない。また、カヌーを自宅に送り返したり売り払ったりして旅を続け、一等車の快適なクッションにもたれて世界を見てまわることだってできる。

とはいえ、こんな風にカヌー旅を礼賛していると、「それって、別の方法で旅をした上での話なのか? いろんな楽しみがあるだろう? 氷河や火山に登ったことはあるのか? 洞穴や地下墓地に入ったことはあるか? ノルウェーで幌のない馬車に乗ったり、アラブで馬でのんびり散歩したり、ロシアの平原を疾駆したりしたことはあるのか? ナイル川の船旅やトリニティ・カレッジでのボート競争、アメリカの蒸気船、エーゲ海の帆船、そり滑りやヨットでのセーリング、ラントン型*3の自転車――そういうのをやった上でそう言っているのか?」と疑問があびせられるのも当然だ。

そうした質問に対する答はイエスだ。実際に速かったり遅かったりするいろんな移動手段を十二分に楽しんだ上で、そう言っているんだ。ヨーロッパやアジアやアフリカ、アメリカでカヌーを使ってみて、やっぱりパドルを漕いで旅をするのが、すべてにおいて最高だとわかったわけさ。

カヌーの旅にはこんなふうな長所があるし、天気や健康にも恵まれていたので、これから話をさせてもらうカヌーの旅は、本当に楽しさに満ちていたんだよ。


訳注

 

*1:デッキをおおうカバー - カヌーとカヤックの違いについて、カナディアンカヌーに代表されるように上側に何もカバーがなくむきだしになっているのがカヌーで、カヤックは人間が入る部分を除く上側全面にカバーがついている。その両者をあわせて広い意味でカヌーと呼ぶことも多い。パドルもシングルパドルとダブルパドルの違いがあるが、連載にあわせて少しずつ説明を加えていく。

 

*2:ウェリントン公 - イギリスの公爵で、フランスとのナポレオン戦争における英雄。

 

*3:ラントン型自転車 - 前輪が小さく、大きな後輪が2個ついている三輪車。1863年にイギリスで発明されたが、それから数年後の明治維新の頃には早くも日本にも輸入されたという記録がある。

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