現代語訳『海のロマンス』107:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第107回)

カメレオンの独り言

一、絵はがきと交換される

ぼくはカメレオンという小さな動物である。ぼくはこの練習船――かつて見たことのない大きな帆船(ふね)――に乗って、南大西洋を航海している。

ぼくは今、こころよい昼寝の夢からさめる。そのさめた目の前すぐの空間を、音もなくスーツと紫の色美しいものが、静かな熱帯の大気をゆるがして落ちる。

ぼくはフクシアの木にとまっている。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花ではないが、生者必滅(せいじゃひつめつ)の色を見ろやとばかり、今日もまた寂しいフクシアの花*がポツンポツンと時をこめて落ちている。

* フクシアの花
熱帯・亜熱帯原産の美しい花を咲かせる低木。
日本ではかつてホクシャと呼ばれていた。
Fuchsia 'Multa'Dominicus Johannes Bergsma, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

人のいない図書室の昼は快く静かである。つい半時ばかり前に好物のハエに首尾よくありついたせいか、どうやら腹がくちくて、とかく得意の瞑想(めいそう)に陥(おちい)りやすい。ところが、ちょっとここに断っておくが、昼寝をする前に心得顔(こころえがお)に、まず一通り仲間の動静を観察するのはぼくの癖である。

グルンと右の目をまわして斜(はす)に三十七度くらいの仰角(ぎょうかく)を作りつつ仲間のカメレオンの青公を見上げると、平常(いつも)しなを作るときにするように、四つの足と一本の尾とでしっかと木を握って背筋を中心にブルブルと身体を痙攣(けいれん)させている。

右とは反対に後方下へ向けた左の目には、いましも灰色から白色に変色しようとしている、これも仲間のカメレオンの白君が、まだ食い足らぬと見え、キョトキョトと目ばかりせわしそうにデングリ返しながら、のっそりのっそりと這(は)いまわっているのが映(うつ)る。

離れたところにある上甲板で次の当番の名前を読み上げる風下当番(リーサイド)の声が遠く聞こえる。フクシアの花がまた一つ、赤く紫に色即是空(しきそくぜくう)と落ちてゆく。自分の住んでいる木の花がかくも情けなく凋落(ちょうらく)していくのを見るのは少なからず心細い。

ぼくがかくのごとく心細く感じた時、ドヤドヤと不意に足音が聞こえて、二、三人の学生が入ってきた。その先頭に立った男は、かつて見知ったこの室(へや)の主人公である。船内では学習係とかいって図書の貸し出しと、学習の肝いりとを兼ねる偉い人だとのことである。口々に何事かわめきながら戸棚から一冊の厚い洋書を出し、鳩首(きゅうしゅ)して、あるページを忙しく読んでいるかと思えば、また時には変な気味の悪い目つきをして、各自(てんで)にまじまじとぼくの顔を眺める――

というだけでは、悟(さと)りの悪い人間に、何の前兆だかちょっと判断がつくまいが、聡明(そうめい)にして鋭敏なる観察眼を有する点において上甲板のシカに劣らざる自信を持っているぼくは、直感的に、頻々(ひんぴん)と彼らの提供する滑稽なる挙止(きょし)や動作(どうさ)のよってくる本来の意味と、簡単にして幼稚な彼らの胸中の心の動きを読むことができた。

かつて見たことも聞いたこともなかったカメレオンという動物を、思いがけずケープタウンで準備する間もなく手に入れてから、にわかに高まったぼくらに対する感興と趣味とは、彼らを駆って、ここに百科全書(エンサイクロペディア)に記載された項目を調べるに至ったのである。

ちょっと話の順序として、どんな悲惨(ひさん)なる経路をたどってぼくらがうまうまと、草かぐわしきアフリカの自由境から練習船(このふね)に誘拐(ゆうかい)されてきたかを語ったならば、いまさらに人間なるものが人間中心説(アンスロポセントリシズム)の大信者として傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にわがままな行為を強行する、得手勝手(えてかって)な動物であることを自覚するであろう。

それは心地よく朝晴れのした日であった。

茂りあう緑濃き木の葉の間から、悠々たる白雲の静かに行き来する、のどかに青い蒼穹(そら)を仰いで、すこびるご機嫌となっていると、こつぜんとして暴風と地震と雷とが一度に来たような一大衝撃が根から幹から枝へと樹木全体の緑の葉を一時にふるい落とすような勢いで響き伝わった。

この危機一髪の瞬間でも、衝動的、反射的、本能的機能を巧みに用いることができるぼくは、渾身(こんしん)の力をことごとく四足(しそく)と尾端(びたん)とに集中して、しっかりと枝をつかんだつもりであった。

ところが、この急な震動が静まって周囲の天地がようやく静謐(せいひつ)になってぼくの意識が明瞭に復活してきたとき、意外にも、残念にも、ぼくは仰向(あおむ)けに地上に倒れておったのに気がついた。

やがて、子供らしい一つの手が出てむづとつかんだと思ったら、「南無三宝(なむさんぽう)失敗(しま)った」と思わず口走ったぼくを、無造作(むぞうさ)に暗いポケットの中へと入れてしまった。

かくして同僚二匹とともに、フクシアの樹(き)にとまらせられて、うまうまと練習船(ここ)につれてこられたわけなのだが、実は、このホレイスという小童(こわっぱ)はその二、三日前に練習船(ここ)へ遊びに来て、学生を相手に、

「日本の絵はがきをくださいな」

「うん、やってもいい」

「くださるなら、あのう――カメレオンを捕まえてきますから」

「そうか、それはありがたい。よろしく頼むぜ」

……っていうような会話を交わしていて、その結果がこんなことになったと知っては、うらめしいやら悲しいやら情けないやらで、涙が大きな目からとめどもなく流れた。

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現代語訳『海のロマンス』106:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第106回)

四、ソバとジワジワ

耳元で何人(だれ)だか、グーグーと大きな艶(つや)消しのいびきをして、それが無遠慮にも、薄い鋭敏な自分の鼓膜に響いて、とかくに覚めやすい暁(あかつき)の夢を破る。誰だろうと不審がるにも及ばず、その雄大な音量からも、その無作法な呼吸運動からも、たしかに人間である。しかも、この船の上の人間のうちで最もわがままな、最も勢力ある練習生の仕業(しわざ)であることもまた確かである。

四時間ごとに否応なしに起こされて当直勤務に立つべく出てくる三十人あまりの練習生は――どうも練習生と十把(じっぱ)一絡(ひとから)げに扱うのがあまりに多くてお気の毒であるが、相当の敬意を表しつつも誤解を招かないこの呼び方は他の表現ではぴったりこない――当番を交代し整列が済むと、彼らはたちまちバラバラと列を乱し、すぐさま寝そべって夢にひたる極楽境へと旅だってしまう。

樹下(じゅか)や石上(せきじょう)に宿を求めて草を枕とし、花を主人(あるじ)にした古人(こじん)のよい心がけは知らないが、ハッチを寝床とし、ロープを枕とする練習生の考えは、暑苦しい下甲板の寝床(ボンク)を、心地よい風が吹き渡っていとも涼しい上甲板の別荘に移したつもりでいる。

この眠っている連中から少し離れて、二人の学生が何かしみじみと密談している。古い言い草だが、「聞くともなしに」立ち聞きをすると、なんでも日本へ着いたら上陸早々一番先に何を食うかという問題で、一人はソバと言い、他はジワジワ*と言い、今や盛んに議論しあっているところである。

「君、ジワジワなんていうものは俗中の俗なるものだあね。そんなことを言うと、趣味が低級だと馬鹿にされるよ」

などと、趣味高尚と心得たソバ屋党が反駁(はんばく)すると、

「すべての欲求の本体は絶対的に抜群無比の実質を具備しなければならない。ソバなんか食いたければ缶詰にしても持ってこられるからね」

などと、どうでもいいようなことに力こぶを入れて堂々と議論している。

* ジワジワ: 具体的にどういう食べ物なのか(何かの俗称?)不明。

当人はこれでも紀元前にマケドニアのフィリッポス二世を弾劾したデモステネスくらいの雄弁であると信じている。自分は情けないような、つまらないような気がして、結果を見ずに、先に失敬して寝てしまった。

五、連日の無風

この二、三日、連日の無風(カーム)で、船は「ビクともするもんじゃない」というように少しも動かない。騒がず迫らず泰然(たいぜん)と重い尻をドッシリとおろしている。まさか「日本を出るときふんどしを忘れた」せいでもあるまいが、これでは真(まこと)に長い道中ブラブーラである。やりきれない、やりきれないと練習生たちが不平を言うのも無理はない。

セントヘレナを出たのはつい少し前のように思われたものが、今日ははや四月六日である。

この頃は海も空も静かで、大気は乾燥しきって軽く澄みきっているためか、昼間は馬鹿に暑苦しく、夕焼けは馬鹿にきれいで、夜中は馬鹿に涼しく露っぽい。

ことに夕焼けの壮大にして艶麗(えんれい)なる風趣は、情緒に富んだ大自然の技巧の一端を示す一大キネオラマ*である。平常見慣れた練習生たちも船縁(ふなべり)に寄りかかっては思わず「いいなあ」とかなんとか、賛美の声をもらしている。練習生の一人の日記には、次のように書かれてあった。

* キネオラマ: パノラマの景色に光線を当てて変化させて楽しむ、明治から大正にかけてはやった興業。語源は「キネマ+パノラマ」。

この海洋(うみ)に輝く雲の色を見れば、はかなきものは若き恋なり。ときどきは日が海に没してまもなく、奇っ怪な形のKの雲が水平線をおおって、呉(ご)でもなく越(えつ)でもなく、どうやら見慣れた羽田の岬の蜃気楼かとも疑われる夕べもある。

雲とは承知で見るが、意識の理と智とをちょっとごまかせば確かに陸影(りくえい)だ。

鈍い頭はこの不思議な情景を前において、半ば修正に引きづられ半ばは実感に脅かされて、現実と幻覚との、想像と実在との、写真と神秘との間に彷徨(ほうこう)する。

菅原道真(すがわらみちざね)の口から吐き出されたザクロの炎のような*深紅(しんく)に染められた雲は、上に向かって爛紅色(らんこうしょく)――朱泥(しゅでい)色――橙紅色(とうこうしょく)――に薄められ、雲と接する蒼穹(そら)の部分も、上から順次に濃い碧瑠璃(へきるり)から藍青色(らんせいしょく)、群青、ヨモギ色と反対に下に向かってぼかされ、崇高(すうこう)にして偉大なる日輪の臨終を飾る下(もと)に、まつげを動かすわずかな時間も与えぬ勢いで、夕暮れの海がまさに一日の多様多種だった様子を刻々と変化させつつ終わりを迎えようとしている。

* ザクロの炎: 左遷され太宰府で死亡した道真は怨霊(おんりょう)となって朝廷をはじめとする人々に祟(たた)りをもたらした――ザクロを口に含み、種を吐き出すと、怨念が炎となって家を燃やした――という故事から。

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現代語訳『海のロマンス』105:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第105回)

二、洋上の練習生たち

いつだったか、セントヘレナを出て間もない頃のことであった。ホカホカと暖かい午後の陽気にそそのかされて、ジメジメと暗い汚い湿っぽい茶箱の巣を出て人声のする方へとおもむろに歩いて行くと、食って、寝て、修業日誌を書いて、ブレースを引くという同じ事の繰り返しをする以外には深刻なる生活の意義を認めぬ洋上の練習生たちが、浮世のせちがらい風はどこを吹くかとばかり、天下泰平に寝そべり返っている。航海中、彼らは決まって十二時から一時までの昼の休みには二番船倉(ハッチ)のまわりに非生産的に円座して、ディズレーリ*のいわゆる「仰視(ぎょうし)せざる青年は俯瞰(ふかん)すべし、上昇せざる精神は匍匐(ほふく)するの運命を免れず」という有名な格言を現実に立証しながら、ガヤガヤと、何かさも愉快そうに話している。いずれはまた例の血の気の多い割には脳みそのうすっぺらな頭脳(あたま)からひねりだすおべんちゃらだろう。

* ディズレーリ: ベンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)は英国の首相を務めた政治家であり作家でもあった人物。

しかし、こんな輩(てあい)でも集団(モッブ)となればなかなか勢力のあるもので、さすが世界に雷名(らいめい)をとどろかした巨頭たる宰相も群衆(モッブ)のためにはずいぶん痛めつけられた例(ためし)もある。さわらぬ神に祟(たた)りなし。ここはこっそりと穏便に通り抜けようと、足下をまわって司厨所(ギャレー)の方へと向かう。と、すばやく気づいた一人が、「こやつは実際に無愛想な動物だな」と口火を切ったのを機会(きっかけ)に、ヤレ無神経だとか、のろまだとか、無気力だとか、いろいろとあまり利益にならぬ言葉が出たのち、とうとう自分の最も嫌いな「馬鹿」という言葉が飛び出した。

いやな心地をさせられた自分は恨(うら)めしさのあまり、その男の顔をつくづくと見てやった。

ところが、どこやら見覚えのあるのも道理、この君子殿(くんしどの)は、先日ジャガイモの一切れを自分の鼻の先ににおわせながら、ご苦労にもメインデッキを三遍連れまわって、タバコにもせず、ぽんと無常にも芋を海の中に投じた不届きの男である。それ以来、芋を食うたびに、この男の顔が眼前に浮かんできて、思わず歯に力が入るのである。

この男が、今デッキに頬杖(ほおづえ)をつきながら、隣の男に向かって、「ね、君、ほら、ギリシャ神話でアポロがダフネを追いかけるときダフネを形容した『恐怖(おそれ)をもった大きな目は黒く潤んで足はしなやかに鹿のごとく速く――』とかいう語(ことば)があるだろう。よくたとえたものだね、まったくこの夢二(ゆめじ)式の大きな黒い目と細いすらりとした足つきは美人の象徴(シンボル)だね」などと、今日は柄にもなく褒(ほ)め立てる。末が恐ろしい。

三、享楽主義者の悪戯(いたずら)

かく理不尽(りふじん)に中途で自分を抑留した連中(モッブ)は徒然(つれずれ)なるままによい暇つぶしの対象物を捕まえたと考えたのか、大喜びで、ヤレ、中甲板のある室(へや)の寝床(ボング)に失敬したとか、士官のサルーンに粗相(そそう)したとか、英語教官の室(へや)でカミソリ用のレザーストラップを食ったとか、さかんに自分の旧悪をあばきにかかる。

とかくするうち、さすがにだじゃれや人笑わせの種もなくなったのか、多くの練習生たちはさもしゃべりくたびれたというように、今度は仰視せる青年の姿勢に戻って、ゆったりとして青い空と品よく前方にふくれだした鼠色(ねずみいろ)の帆とを見上げている。

座が分れて無駄話が種切れとなり、座興の材料の供給が不十分となると、先天的に幇間(ほうかん)の才能を多少とも持っているおっちょこちょいは、必死になって尻すぼみの状況を元に戻すため少しでも挽回(ばんかい)しようとつとめ、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。

かかる輩(てあい)こそ「歓楽の盃(さかづき)を飲んでは幻想に行きつ戻りつする」人種である。「一挙手(いっきょしゅ)も一投足(いっとうそく)も中途半端な」輩(てあい)である。「日々の雀躍(じゃくやく)をもって生の歓喜(よろこび)となし、生の充実となし、意義ある現実の生活となす」輩(てあい)である。自分が楽しければいいという主義を貫徹(かんてつ)するため、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。

ここまで推理してきたとき、はたして享楽主義者をもって自(みずか)ら任じる一人がむんづと自分の尾をつかんだ。

誰でも知っている通り、たいがいの人間は腰のあたりをさすられると非常にこそばゆく嫌な感じがするものである。我輩(わがはい)の尾は、まさにその腰に相当する。そこで自分は余儀なく嫌悪の念をこめた第二低音(テノール)を発声して、そんなことをされるのは不愉快だという意志を十分表明したつもりであった。

しかるに、意外にも、驚きと落胆とに陥(おちい)った余の面前で、不思議にも思わぬ歓声のどよめきが起こった。

「これは面白い。まるで猫と山羊とをかけあわしたような声だ」

「あの波動(リズム)は音階の何調になるのだろう?」

「あんな奇声が表象する心理状態とは、どんな種類だろう、や、実に珍奇だ」

などと、二十五の今日までまだ鹿を見たことのなかった連中が手を打って嬉しがる。

尾をつかんだ享楽主義者は、思わぬ手柄に呆然(ぼうぜん)と本来の悪戯(いたずら)の目的を忘れた。

それは糸くずを小生(それがし)の小さな尾の先に結(ゆ)いつけ、小生が気味わるがって後足でピョンピョンと蹴上(けあ)ぐる様子を、ヤレ面白い、やれ神経過敏な動物だ、とかいって手をたたこうとする下心であった。でなければ、二、三日前のように汚いシャツを頭からかぶせて士官のサルーンに追い込む考えであったに違いない。

しかし、このとんでもない災難も、おりから大声で整列一分前と怒鳴った風下当番(リーサイド)君の声で運よく免(まぬが)れたのは幸福の至りであった。

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現代語訳『海のロマンス』104:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第104回)

上甲板の鹿

ここにちょっと「大成丸観」の著者としての自分を紹介しておく必要がある。

余は名前はまだない。種族は双蹄類(そうているい)の鹿族(しかぞく)で、スプリンクボック属である*。今から一年と三ヶ月前にアフリカの東岸モザンビークの森林中で生まれたのだ。

* この「鹿」は一見するとシカそのものだが、現在の分類では、「偶蹄類(ぐうているい)ウシ科スプリングボック属」になる。
並外れたジャンプ力を持つことでも知られている。

今から一年と三月ばかり前にアフリカの東岸モザンビークの森林の中で生まれたそうである。ところが、まだほんの子供のときに捕らえられて同地のユニオン・キャッスル汽船会社の支店長の手元で養われることになった。それが、数奇(すうき)なる運命は執拗(しつよう)に罪のない自分に祟(たた)ったものとみえ、いくばくならずしてその支店長がある機会を利用して敬意を表するための進物(しんもつ)としてケープタウンの同じ会社の支店長に贈られた。

ところが元来気の小さいケープタウンの衛生局は、動物は伝染病の媒介者だという口実で、一切輸入し上陸させることを差し止めたので、処置に苦しんだ汽船の船長は、見当違いの敬意を表するため自分をとうとうこの練習船の船長の足下(そくか)に捧(ささ)げたという次第である。

幸いに、練習船には好物のジャガイモの貯蔵にことかかなんだので、自分はさしさわりなく丸々と太ってきた。

ジャガイモは船中で唯一の生鮮食品だとのことである。いつぞや、「この鹿も幸福(しあわせ)なものさ、ぼくらでさえあまり食えないフレッシュを常食としているからな」などの、心細い会話を立ち聞きしたこともあった。

一、すさまじい唱歌

このごろは朝から晩まで鍋(なべ)の上に座っているような暑さである。午後の四時というにもう夕飯を済ましてしまう学生諸君の動作をひそかに偵察すると、ボタボタとインゲン豆のような汗をこぼしながら、「こうなると、食事をするのが一種の苦痛だね」などと、先を争っては逃げるように上甲板へとはい上がる。

いかに熱帯の航海でも、南東の涼しい貿易風に吹かれる上甲板はさすがに広い涼み台の観がある。

で、ここで、すこぶるいい気持ちになった連中はやがて浮かれ出して、日課のごとくさまざまの軍歌や唱歌を合唱する。自分は南アフリカで鹿となってまだ日本語というものに親炙(しんしゃ)せぬためか、それがなんだか唐人(とうじん)の寝言(ねごと)のようでさっぱりわからぬが、連中の歌は多くは竜頭蛇尾(りゅうとうだび)で、いつの間にかフーッと途中がなくなってしまう。

ただ、その中で完全に最後まで歌い終わるのは、なんでも「桃から生まれた桃太郎」という歌である。聞くところによると、この歌は日本ではわんぱく盛りの鼻たれ小僧か小娘の社会に限ってのみ使用されるそうである。それを子供の二、三人もいそうな年配の堂々たるひげ面の男が臆面(おくめん)もなくドラ声で怒鳴り散らすところは天下の奇観である。

しかし、こんな乱暴な輩(てあい)の乱暴な合唱も、さすがに四時から七時半までの薄暮当直(イブニング・ワッチ)中に限られているのは、混乱と無権威のさなかに一筋の自覚と節制が通っているのを示す一例で、儒教主義や黙従主義の教育家、社会政策家の杞憂(きゆう)をうち消すに十分なる発見であろう。

初秋の静かに力ない夕日はリギン(索具)の隙間(すきま)から甲板(デッキ)を照らして、飽満(ほうまん)した芋腹(いもばら)で倦怠(けんたい)を味わいながら、うつらうつらと夢心地に、まさに人の世の一切の杞憂(きゆう)を忘れようとする大事の瀬戸際に、にわかに耳元の近くでハンドポンプの運転が始まって、続いてそれに拍子を合わせて二、三十人の合唱の声が起こった。

彼らはいましもサニタリータンク(浄化槽)に水を入れつつあるので、歌は今まで聞いた種類のものに比べると、リズムといい抑揚といい、内容といい効果といい、全然毛色の異(かわ)ったものであった。

ボヒーの夢を揺籃(ようらん)の 静けき床に結ぶとき
目玉ランプのものすごく あたりかわまず怒鳴り込む。

冷たき雨に寒き風 寝ぼけ眼(まなこ)を襲い来て
破れかぶれの雨合羽(あまがっぱ) 淪落(りんらく)の身をかこちつつ。

見張りの務め重くして 偲(しの)ぶ無常の鐘(かね)の音に
落花の邦(くに)を嘆じつつ ゲルンリギンに鼻(はな)赤し。

ブレイス引けとの号令に 飛び出す健児(けんじ)足早く
顔のみ猛(たけ)き野次馬の 声は力にまさるなり。

菜(さい)の不足を補いて 辛(つら)さも辛(つら)しタクアンに
さらに二杯を追加して 我迎天の威(い)も凄(すご)し。*

すさまじい歌もあったものだ。

練習生の一人のMという男の作だそうだが、これほど赤裸々に、これほどてらいもなく、これほど虚心坦懐(きょしんたんかい)に自己を告白し自叙できれば、まずもって会得(えとく)し悟(さと)りを開き達観(たっかん)せる大勇者と認めてやって差し支えない。こういう勇者に限って必ず座右にうぬぼれ鏡などというけち臭いものを備え付けておく不心得(ふこころえ)はないそうである。

船乗りになって、「真の男らしい」生業でひとつ苦しんでみようなどと志す若い男たちはすべからく、この辺の機微をわきまえる必要があるだろう。

                                あなかしこ。

* タンツー節として現代の帆船でも歌い継がれている(?)。
歌詞については、時代や船ごとに微妙に異なっているが、本書の記述から推して、由来はこの練習船・大成丸にあるらしい。

ちなみに、タンツーとは「仕事にとりかかる」という意味の (to) turn to が語源とされるが、ヤシの実を二つに割ったもので甲板を磨く作業。これを厳冬期に裸足(はだし)でやるのは……

こちらは、現代の航海訓練所のタンツー節

*****

ボビーの夢を揺藍(ようらん)の 静けきベットに結ぶ時
目玉ランプの物凄(もの)く あたりかまわず怒鳴り込む

ブレイス曳(ひ)けとの号令に 飛び出す健児(けんじ) 足早く
顔のみ猛(たけ)き野次馬の 声は力に優(すぐ)るなり

草木も眠る丑(うし)三つに 暫(しば)しまどろむハッチメン
折(おり)から呼子(よびこ)が鳴りわたり リーフォアブレース よいやさのさ

タンツーかかれの号令に ガシャガシャサイドに 押しやられ
七つのお鐘が鳴るまでは プープデッキをはいまわる

七つの鐘はまだおろか 八つのお鐘が鳴るまでは
八つのお鐘が鳴るまでは プープデッキをはいまわる

霙(みぞれ)降る夜の冷たさも ロイヤル畳(たた)めの号令に
脱兎(だっと)のごとく飛びついて ゲルンリギンを登り行く

一人旅路の大成(たいせい)に 言い寄る英船「チーフ船」
暫(しば)しウインク千鳥足(ちどりあし) 老大成も気は若い

洋上はるか東に 思案(しあん)たっぷり白砂の
かんざし姿は誰を待つ 惚(ほ)れた信夫翁(あほうどり)が離りゃせぬ

帆影(ほえい)映ろう甲板に ごろーり夢を結ぶ時
通うは遠き故郷の 夢を破られログ流せ

寒さと霧にせめられて 外套合羽(がいとうかっぱ)の達摩(だるま)さん
ブレース引けとの号令に ハッチの陰から踊り出す

ダウンローヤル待構え 猿のごとくに駈け上り
ゲルンのあたりで一休み ローヤルヤードで一仕事

※細部の表現については資料によって異同があります。

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現代語訳『海のロマンス』103:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第103回)

セントヘレナへの決別

セントヘレナは、三月二十日の朝十時に出帆した。

あまりにも風向が見事だったので、文字どおり帆で出るという予定であった。ところが、いわゆる月に叢雲(むらくも)、花に風、「帆船に軍艦」といえばいえるわけで、あいにく当時、石炭積み込みのため練習船の風下に碇泊(ていはく)しておった英国軍艦ヒヤシンス号のお尻がだんだんと出張ってきて、あわよくば鞘当(さやあ)てでもしかねまじき形成となったので、にわかに変更して、平常(いつも)の通り機走で出てしまった。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』102:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第102回)

花雫(はなしずく)せよ、沈黙の谷

いずこに彼は今や在(あ)る!!
かつては超人と謳歌(うた)われ、傲慢(ごうまん)と誹謗(そし)られた彼。
全欧の覇権(はけん)とたわむれ、各国の王の位を弄(もてあそ)び
地球というテーブルで、人骨(ほね)のサイコロを振った彼。
すさまじき最後を見なかったか。人の世から離れた遠き孤島に。
心ある人は独り静かにただ微笑(ほほえ)みて泣くべし。

とは、「人食鬼」、「悪魔」、「猛獣」などと恐れ、嘲(あざけ)り笑う以外にはこの大英傑を呼ぶことのできなかったジョンブル(英国人)の中のただ一人(いちにん)の、真摯(しんし)にして感傷的な謳歌者たるバイロン卿の有名な賛辞である。

ナポレオンが死去した際には遺骸(いがい)を英本国に送るべしという、コックバーン司令官に下った内令は途中で変更された。新総督サー・ハドソン・ローエは、万一の際におけるナポレオンの墓地は、生前に彼が最も愛慕(あいぼ)した谷に定むべしとの訓令を受け取った。

ごつごつとした形状(かたち)のセントヘレナという孤島における六年間。

ナポレオンは、まぶしいくらいに光り輝き、目もくらめくばかりに絢爛(けんらん)だった過去の追憶に生きるの外(ほか)は、閑暇(ひま)あるごとに日々、気の毒なほどに狭苦しく限られた土地の上に、窮屈な馬上の散策を試みては、はかなき瞬間の満足を、意義も努力も責任もない当時の生活において見いだすことを寂(さび)しい日課とした。

そして、その散策は常に、ロングウッドの館から三マイルほど北西にあたるゼラニウムの谷に向けられた。鬱然(うつぜん)と茂る木の間に鳴く鳥の音もかすかに、風もないのにホロホロと散るゼラニウムの花雫(はなしずく)がなんとも艶(えん)なる山懐(やまふところ)に、この偉人は散策する場所を静かに見いだした。

猜疑(さいぎ)と白眼(はくがん)との圧迫に耐えずして、水に乏(とぼ)しく霧に苦しめられるロングウッドの館をさまよい出た彼は、ビロウドのような青い草に身を投げて、耳元近くでこんこんと湧き出る泉の声を聞きながら、木の間を透(す)かして悠々(ゆうゆう)たる白雲の流れていく様子を仰ぎ見るとき、しばしば、志を得ず囚(とら)われの身となった愁(うれ)いを忘れたのであろう。

清らかに湧(わき)いずる泉の音と、無心の風に吹かれてなびける二本の柳樹(りゅうじゅ)とは、彼をこれほどまでに強くゼラニウムの谷に執着させた最大のものであった。

帝(てい)が後年、総督本人に向かって、「今後十数年をいでずして英国のカストレリー卿やバサルスト卿やその他の連中は、今、吾(われ)と言葉を交わしている君ももろともに、いずれも皆、忘却の墓に葬られてしまうだろう。もし、将来において君らの名前を記(しる)す者がいるとすれば、それは君らが吾に対して無礼侮辱(ぶれいぶじょく)を加えたとしてであろう。これに反してナポレオン帝は長く歴史上の花となり――」と憤慨(ふんがい)したごとく、ハドソン・ローエの過酷(かこく)で無情なる圧迫の手はひしひしと帝(てい)の周囲に加えられた。

――実際、ローエはこの偉大なる囚人の看守役たる歴史的名誉をまっとうするの道は、ただもっぱら誅求(ちゅうきゅう)束縛(そくばく)を厳にするの一途(いっと)のみであると考えたかも知れぬ

――しかも、帝(てい)はなお平素(へいそ)、このローエが統治している小領地たるこの谷を思慕(しぼ)して、その最後の病褥(びょうじょく)にあっても、

「余(よ)、もし健康を回復したら、あの泉のほとりに記念碑を建てよう。もしまた、このままに死ねば、あそこに遺骸(いがい)を葬(ほうむ)ってくれ」とまで言われた。

一八二一年五月五日、紆余曲折(うよきょくせつ)の多かった五十二年の生涯を遺伝性の胃がんに終わった帝(てい)の葬儀は、ゼラニウムの谷で、同年五月八日に行われた。

英国の歩兵にかつがれた棺(ひつぎ)の上には、紫色のビロウドと、帝(てい)がマレンゴの決戦で銃弾により穴があいた外套とが置かれた。

追悼(ついとう)し回想して涙に泣き崩れたる女性等を乗せて随行する馬車、馬に乗ったベルトランとモントロンの二人の伯爵、総督ローエおよび提督マルコルム二の両氏、帝(てい)の生前の愛馬などからなる葬列は、島生活の六年間を通じて帝に最も愛撫(あいぶ)された小ナポレオン、ベルトランを先頭に静かに谷へと下っていった。

宗教上の儀式が終わってレンガ工事に着手中、いちじるしく帝(てい)を敬愛していた群衆は、争って帝(てい)が生前に好きだった柳の枝をとって記念にしようとした。この憧憬にもとづく真情の流露(りゅうろ)を見せつけられた総督は、いちじるしく機嫌をそこない、制止するよう厳命を発した。が、群衆の来襲はますますはなはだしくなり、制止の命令も役に立たなかったので、ついに帝(てい)に対する最後の反抗的私憤を示すため、墓に柵をめぐらせ(今も墓の周囲には柵が現存している)、さらに、見張りの哨兵(しょうへい)を配置して人民の墓参を禁ずるに至った。

されど、ぼくは、死後においてなお迫害と陵辱(りょうじょく)から脱することができなかった憐れなる世界最後の偉人に報いるに、

“Si taceant homines, facient te sidera notum, sol nescit comitis immemor ease sui”
(人が沈黙を守れば、星、なんじの名を輝かす。彼の輝ける太陽は永劫にその友を忘れない)というエピグラムを以てしよう。


セントヘレナ島での滞在記は今回で終了し、次回からは、セントヘレナを出発して南大西洋、インド洋、太平洋を進む帰途の航海となります

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現代語訳『海のロマンス』101:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第101回)

ああ、ボナパルト将軍

L'impératriceMarie-Louise
ナポレオン夫人、マリー・ルイーズ皇后の肖像画(ルーブル美術館蔵)
François Gérard, Public domain, via Wikimedia Commons

一八一五年の八月十一日、愁(うれ)いをおびて静かなるドーバーの海を横切って北の方トーベイの港へと急ぐ英国軍艦ベルロフホン号の後甲板(こうかんぱん)に、新たに悲しき追憶の痛手に悩み、悲憤(ひふん)し懊悩(おうのう)する心持ちを包み隠すことができないまま、希代(きだい)の英雄たる大ナポレオンが立っていた。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』100:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第100回)

ロングウッド館を振り返って

またもやド・ラ・カーズ伯の回想録のご厄介になるのであるが、ナポレオン臨終の箇所に

『……藍色の羅紗(らしゃ)の外套は帝(てい)がマレンゴの役*に着用されたものであるのだが、これで御遺骸(ごいがい)をおおった。手足を自由にし、左の腰間(ようかん)に御剣(ぎょけん)を帯(お)びさせ、胸上に十字架を持たせた。御遺骸(ごいがい)から少し離れたところに銀器を置き、その内に御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)とを盛る……。』

という一節がある。

* マレンゴの役: 一八○○年六月にナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍が相対した、イタリア北部にあるマレンゴでの戦闘。ナポレオンはその勝利を記念して愛馬をマレンゴと名づけた。

この御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)については

『……卿(おんみ)はまた朕(ちん)の心臓を取りてこれをアルコールに漬け、バタムに携えて行き、これを朕(ちん)が愛するマリー・ルイーズ皇后にもたらせよ、かつ朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕(ちん)は深く后(きさき)を愛して一日も忘れたることなしと……』

また

『朕(ちん)は卿(おんみ)に、朕(ちん)の胃を特によく診察検査して正確で詳細な報告を作り、これを朕(ちん)の太子(たいし)*に渡すよう依頼する……お願いだから、わが太子がこの苦しい病にかからないようにしてくれ……』と言っている。

* 太子(たいし): 皇位を継承する者のこと。皇太子、王太子とも呼ばれる。ここではナポレオンの息子であるローマ王を指す。
Nap-receis 50
二十代で夭逝したローマ王(ナポレオン二世)の肖像画
[Moritz Michael Daffinger, Public domain, via Wikimedia Commons]

どんな偉人でも豪傑でも子に対する純愛のためには盲目的となるのは下世話(げせわ)にいう『親馬鹿ちゃんりん』の一句につきている。

しかし、囚(とら)われ人として六年間の流刑地生活で、それを慰謝(いしゃ)するような書簡を一通も送らなかったマリー皇后の冷淡な所作と、病気で苦しく呻吟(しんぎん)しつつもなお思慕(しぼ)の情を最愛の后(きさき)の上にはせている帝(てい)の心持ちとを比べると―-もっとも、当時は島の内外の書簡の交通は実に厳重で、帝(てい)からの手紙もしばしば総督に抑留されたが、逆に欧州より帝(てい)に宛てた書信は問題なく届いたようだし――女の恋は橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事のごとし*、手管(てくだ)に乗るな甘い男たちと言ってやりたい。

* 橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事: 出所不詳。
橄欖とは「かんらん科」の常緑高木のことだが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる橄欖の森は「オリーブの森」の誤訳という。また、女性心理の機微を描くのが巧みなモーパッサンの短編集『オリーブ園』(Le champ d’oliviers)も当時は橄欖の森と訳されていた。

ぼくは――ぼくに限らず、ナポレオンを偉人として崇拝するすべての人々はたぶん――その政策に、兵略に、その外交に、人びとの信頼を得るやり方に、彼の行くところ必ず現れる性格のうちに、必ず啓示される精神力に、離れようとして離れられない魅力を持つ、雄渾(ゆうこん)な思想の閃(ひらめ)きをみとめざるをえない。

こうした色彩を有すると信じられる彼の性格や気魄(きはく)は、ぼくをして過去の歴史上に現れた人物の中で最も崇拝するにいたった理由であろうと思う。清盛に見るような、秀吉に見るような、その鋼鉄をあざむくような冷ややかにして強固なる意志と、いったん志を定めるとあくまでも徹底せずにはおかないといった微動だにしない気概(きがい)は、いかにも男の中の男らしいという、快(こころよ)い響(サウンド)を吾人の耳に与えるのである。

しかも、その境遇がいささか異なるといえども、同じく悲惨極まる末路をたどりながらも、その一方で浄海入道(じょうかいにゅうどう)*は煩悩(ぼんのう)解脱(げだつ)の大事な瀬戸際に立ちつつ不可避の、悪病のむくいたる重い病にうなされつつ、なお、わが死後は一切の供養(くよう)念仏(ねんぶつ)はこれを営むに及ばず、ただ急ぎ右兵衛佐(うひょうえのすけ)の頭をはねて吾が墓前にかけよと豪語したが、それに比べると、なんとも心弱き大ナポレオンの臨終の遺言なることか!!

* 浄海入道(じょうかいにゅうどう): 平清盛(1118年~1181年)のこと。出家後の法号が太政入道浄海。

胃や腸の痙攣(けいれん)、深いため息、悲しい叫び声などに続き、絶え間ないむせび泣きに見舞われた臨終の苦痛は、病気に倒れた日から、湯や水も喉に入らず、その胸中の熱いこと、あたかも火のごとく、その寝ているところから四方へ四、五間(八、九メートル)内では熱気が燃えるように、ほんとうに怪しい病であった、とされる入道が死去した際の苦悩と比べてみると、かの入道にも負けない大なる執着を有し大なる意思の征服を遂行したナポレオンの遺言が、たとえようもなく見劣りすることこそ、口惜(くちお)しくも恨(うら)めしき限りである。

朕(ちん)はセーヌ河畔(かはん)、朕(ちん)の深く愛したるフランス国人民のうちに朕の遺骸が葬られんことを希望する。これは、まずまずよいだろう。

朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕は后を愛して一日も忘れたることなしと。

とは、さてもさても芸のない、のろけなることよ!

卿(おんみ)の目撃したるところをことごとく、彼ら(ナポレオンの母および一家)に告げよ。ナポレオン大帝は身に一物をも所持せず、たった一人で遺棄(いき)され、きわめて悲惨な状態で崩御したと。

というに至っては、はかなく落ちぶれて死んでいく人の声である。

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現代語訳『海のロマンス』99:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第99回)

ナポレオン臨終の部屋

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ナポレオンのデスマスク(Rama, CC BY-SA 2.0 FR, via Wikimedia Commons)

ド・ラ・カーズ伯の回想録に

『ロングウッドの家は、その入口は新設の室にて、この部屋は前室にもなれば食堂にもなりたり。その隣室は客室、その次には第三の薄暗き室ありて、これは帝(てい)の書類等を入れる部屋たりしが、後にこれを食堂とせり。この部屋に入りて右折すれば、帝の御室(おんしつ)の戸あり。御室(おんしつ)は二間続きにして、広さは等しく、二室いずれもはなはだ狭し。一つを書斎とし他を寝室となせり……。』

とあるもの、および

『帝(てい)は正六時にしてまったく絶命せられた。余(よ)は御髪(みぐし)を剃(そ)り、御骸(おんむくろ)を洗わせて、これを他の寝床に移す……。』(同上)

とあるもの、また

『御遺骸(おんいがい)はこれを寝室に安置し、室内をおおうに黒き羅紗(らしゃ)をもってせり。』

とあるものなどから推測すると、現在は塑像(そぞう)が安置してある部屋(当時は客間に使用されていた)の入口の長押(なげし)にある『皇帝崩御の間』なる銘板に十分な信用を置く以上は、当時ナポレオンが書斎とし寝室とした二間とは、現在はロングウッド駐留のフランス国代理領事兼ロングウッド周辺の土地管理者たるボージェ氏の私室となっている部屋で、ナポレオンはなにか偶然の出来事から客間だったこの翼面(ウイング)の第二室で発病し、そのまま起きることができず寝たきりになったために死後に母屋(おもや)の寝室に移したのか、または初め母屋の寝室で病臥(びょうが)したのを自分の希望で比較的に明るくて風の通りもよい客間に移させたまま、そこで永眠したと推定しなければならない。

食堂の左側半分は一時はモントロン伯一家の住居にあてられたが、後にナポレオンの図書室となり、並列している別棟は回想録の著者ド・ラ・カーズ父子および皇帝の随行者の居室にあてられ、元帥(げんすい)ベルトラン伯一家にはこれより二マイルほど後方に孤立している『仮小屋』が与えられた。

寝室にはナポレオンが常用していた小さな寝台と長椅子とがあり、マントルピースの左右には、孤島における六年もの軟禁生活でナポレオンをして最も力強く執着せしめた最愛の子ローマ王の額がかかり、マントルピースの上には同王の大理石の半身像(バスト)が置かれた。この半身像(バスト)が熱烈なるナポレオンの望郷の念を癒(いや)やすべく、わざわざ四千マイルの大海原を超えてセントヘレナに送られたとき、ことごとく反抗的態度をとった狭量なる小心者のハドソンローエはこれを破砕するよう命じて、ナポレオンから『利害が対立する問題のため彼らの加える圧政はなお耐え忍ぶ。しかれども、清らかで尊ぶべき家族間の愛情の表現をも阻止せんとするはこれを許しがたし』と憤怒(ふんぬ)の一喝(いっかつ)をくったという面白い逸話(いつわ)が伝えられている。

* ローマ王: 皇帝ナポレオン(ボナパルト)とオーストリア出身の皇后マリー・ルイーズの息子。
帝政下ではナポレオン二世とも呼ばれたが、父ナポレオンの死から十一年後、二十一歳で病死した(1811年~1832年)。
ちなみに、ナポレオン三世(ルイ・ナポレオン)はナポレオン・ボナパルトの甥(弟の子)で、二世より三歳年長。

その他ローマ王を抱擁(いだ)ける皇后マリー・ルイーズの肖像画、フレデリック大王使用の銀時計およびナポレオンがイタリアでの戦争で所持していた時計などが飾られてあった。しかし、これらの記念物は一八四〇年にことごとくパリに持ち去られて、今もなおブランテイション・ハウス(セントヘレナ総督官邸)に保存されているものはわずかにピアノ、ビリヤード台、食器棚、タンス、書棚などにすぎないとは、ぼくがジェームズタウン港の写真の裏に花押(シグネチュア)を依頼したとき、フランス領事ボージェ氏が親切に教えてくれた話の一節であった。

元来、ロングウッド館は一七四三年に総督ダムバーが予備糧食庫(よびりょうりょくこ)にあてるために建造した納屋(バーン)であって、後年に改造されて副総督の住居となり、一八一六年以降はナポレオンの寓居(ぐうきょ)となった、疎漏(そろう)きわまれる、間に合わせ的のものであった。

このように元は納屋であったためか、ネズミの類が大繁殖していたるところに侵入し、あるときはまさに着用せんとした帽子の中からネズミが踊り出でてナポレオンを驚かせたこともあったとか。

かてて加えて、安定した穏やかな気候とは言いがたいロングウッド台地の天候は、あるときは強風が吹き、あるときは暴雨にさらされ、あるときは妖霧(ようむ)に包まれるというように、すこぶる不健康なもので、屋外は精神(こころ)をくじく湿潤の瘴気(しょうき)に満ち、屋内ではビンの中にいるようなひどい暑さに苦しませられるという、ずいぶん手数のかかった厄介きわまる僻地(へきち)で、その上に給水も完全ではないときているから、賓客(ひんきゃく)たる世にも怖い囚人をまんまともだえ苦しませて死亡させる意図のある人々にとっては、世界に二つとない、おあつらえむきの流刑地である。

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現代語訳『海のロマンス』98:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第98回)

ロングウッドの館

Longwood House(source: Public domain, via Wikimedia Commons)

これぞ、まさに八十八年前の秋九月、自然の花や草も野や丘でいたずらに枯れ、流れる水もいたずらに減ってしまった悲しき朝(あした)、今歩いているのが一世を風靡(ふうび)した一代の益荒男(ますらお)を葬送したし道かと思えば、そぞろ身にしみて懐(なつ)かしく、青き丘に、生い茂れる千草(ちぐさ)の間を切り開いて通じた一筋の赤土路が、一世紀の長き月日にわたっていかに多くの階級の人々が足跡をきざんだことであろうと思いめぐらしたとき、数年来このかた感じたことのない思いが怪しくも浮かびだした。

これが、英雄は死してなお人身を支配するということであろう。不世出(ふせいしゅつ)の傑物と呼び、憎むべき悪魔とそしり、毀誉褒貶(きよほうへん)のちまたに今もなお彷徨(ほうこう)しとどまっているナポレオンも、その遺跡(あと)を訪れてみようとするほどのすべての人の心に、これほど絶大にして比類のない深い印象を与えたことを伝え聞いては、破顔一笑(はがんいっしょう)、「だから俺もハドソン・ローエに向かって、ナポレオン帝は永く歴史の花となり、文明国民の光となって、その口にのぼるべきや疑いをいれず云々(うんぬん)と啖呵(たんか)を切ったのさ」と、豪語するかもしれぬ。

精神的にはぼくとまったく別世界に住んでいる案内の老爺(ろうや)の教(おし)えるままに、秋空にくっきりと高くそびゆる二七〇〇フィート(標高八一八メートル)のダイアナス・ピーク(セントヘレナ島の最高峰)を望めば、白い馬尾雲(メイヤーズ・テイル)はしとやかなる高山の呼吸(いぶき)に静かに呑みこまれたり吐き出されたりしている。肌に快(こころよ)い秋風が白く光って通り過ぎた路に、うすら寒い影を落としながら、案内者はいろいろのことを話して聞かせる。遠く右手に見える富貴湾(プロスペラス・ベイ)から上陸した英人が一六七二年に二度目に、いったんオランダ人の手に委(ゆだ)ねたジェーズムタウンを背面攻撃で難なく攻略した物語、孤島に幽閉された不遇の身に自暴自棄(じぼうじき)になったナポレオンは死にたい死にたいと口癖のように言っておったことなど――

路はさらに一度うねって、ささやかな家が二、三軒、チョコナンとたたずんでいるところへ出た。里標(マイルストーン)が一つ立っている。この家と家の路地をつと抜けた案内のローレンス老は、同じ年配の老人と親しげに挨拶(あいさつ)している。その老人はまだ若いときセントヘレナに来たフランスの宣教師で、今は布教をやめて還俗(げんぞく)している先生だと後でわかった。

この抜け道がすなわちまっすぐにロングウッドの館の正門に通ずるのだと知ったときは、いささか意外な感じがした。

蒼(あお)く美しい芝生で縁をとった砂利まじりの路がゆるく右へ右へとカーブして細々となよやかに縮まり、一面に青い絨毯(じゅうたん)を敷いたような軽い勾配(こうばい)の斜面にスラスラと蛇のごとく這(は)い上がっていく路の末が見える。

漆喰(プラスター)塗りの白い建物が東西に長く、南北に短い丁字形(ちょうじけい)をなし、東西に立てる別の一棟と並行して灰色がかった空の下になつかしげに見えている。この美しい斜面を上りつくしたところに形ばかりの小さな粗末な門があって、これを中心として低い生け垣が四方に連なって「館(やかた」」とニューハウス(英国から新しい材木を送って築造したのだが、ナポレオンは移住せず死んでしまった。今は製麻会社の事務所となっている二階家)との境界を区切っている。この生け垣の外に一つの傾きかかった掘っ立て小屋があって、踏みしだいた飼い葉や燃えさしの薪(まき)などが散らばっている上に、自在鉤(じざいかぎ)*がかかって水桶(みずおけ)を片手にした現地の人が二、三人、ひそひそと話をしておった。

* 自在鉤: 鍋や釜などを吊(つ)るせるようにした鉤(かぎ)

毎度のこととて年中行事の一つでもあるごとく、つと無遠慮に入る案内者の後から、くぐるように半ばくずれかけた屋根のない冠木門(かぶきもん)を通ると、路の左側はひねくれた一本の高い松(まつ)の他はもうもうたる雑草の原であるのに対して、右側の庭の一般は見事な花園(かほ)となって、ゼラニウム、ダリヤ、ベツレヘムの星(オーニソガラム、和名オオアマナ)などが、この時期のこの館にふさわしい風姿(ふうし)を見せ、偉人の跡を偲(しの)べとばかり奥ゆかしく咲きにおっている。なかんずく、もう復活祭(イースター)が近づいたためか(三月三十日のことだ)、ところどころイースター・リリーが藤紫色の花弁をしとやかに風にそよがしているのが美しく目についた。花園(かえん)の柵に沿った道の導くままに、吾らは南北に連なる丁字形の家屋の一角翼(ウイング)の端に出て、ささやかなポルチコ*とベランダとを有する部屋へ通る。澤太郎左衛門のいわゆる『前房(ぜんぼう)』といった応接室であろう。三つの窓がうす暗く開いている右側の壁に沿ってかまぼこ形でビロウド張りの机があって、ペンと芳名録とが載せてあった。右側の中程には黒大理石のマントルピースがあった。

* ポルチコ: 屋根のあるポーチ

何気(なにげ)なく次の部屋へ入ろうとして、ふと入口の上に水平に渡された長押(なげし)を見上げると、粗末なラベルに Salon ou mour ut l’empereur (皇帝が逝去されたサロン)とある。すわとばかり、襟(えり)ならで浮き出しかかったカラーをただす。この涙のもようされるほどにお粗末に見ゆる十畳に足らぬ小さな部屋こそ、かの超人ナポレオンが Tete … Armee(武装の頭)なる二語を最後に、雄図むなしく孤島のがいろうに埋められたところである。一面にそっくれ立った、木目の多い、汚い、赤松の粗材(そざい)を用いた床板に落ちる初秋の力なき薄暗い影を見つめていると、いわれなき涙がとめどもなくにじみ出て、恨めししような癪(しゃく)にさわるような苛々(いらいら)した哀感がそこはかとなく胸にあふれた。今更、狭量(きょうりょう)にして無知なる敵愾心(てきがいしん)を悪しざまに乱用した小人物が腹立たしくもまた気の毒になる。

かつてはチュレリーにフホンテネブローに、あるいはマルメイゾン王宮に翠帳(すいちょう)珠簾(じゅれん)の豪奢(ごうしゃ)な生活に飽きし発乱治世(はつらんじせい)の大天才が、かかるいぶれき陋屋(ろうおく)に幽囚(ゆうじゅう)六年の月を眺めしかと慨(がい)すれば、いたずらに成敗を天の命に帰して一切の執着、隠忍を一笑にふしさる宿命論者の消極的の愚(ぐ)を嘲(あざけ)りたくなる。かく観じきたる時、現今(いま)は知らず一世紀前の英国紳士の武士気質(ナイトシップ)――謹厳にして常識的と天下に呼称しおれる――に忌(い)まわしい疑念を差し挟まずにはいられない。

かく心の興奮と、遊子俯仰(ふぎょう)の涙とに熱き目を上げれば、何一つ飾りのない薄寒い部屋の右側に、大理石のマンテルピースにまたがって幅四尺高さ六尺くらいの見事な鏡がある。

右側の壁に開ける、フランス式シャッターのついた二つの窓を通して見える、花美しき前庭と、うら哀しきロングウッドの至景(ちけい)とを一時にその中に映じている。この鏡と対面(むか)って二つの窓の間に薄い木片(きぎれ)の柵に護られ、月桂冠(ローレル)を戴けるナポレオンの半身像(バスト)が安置せられてある。絵で見、事績で想像した顔とはだいぶ勝手が違うようである。どことなく覇気(はき)とか精悍(せいかん)とかいう分子を去勢(きょせい)したような疲れた表情を見せている。それもそのはず、その下に

Buste àapes lel moule (par Chaudet) 型どりした胸像(ショードによる)
Copy from the Cast after death 死後の型からの写し

と英仏二カ国語で二行に分けて書いてあるのを見ると、この石膏像は帝(みかど)が死去した後の顔面の模型(デスマスク)から、ショーデ氏によって直ちに模造せる最も真に近い最も尊いものであることがわかった。

『……たまたまドクトル・ブルトンは石膏のある地脈を吾らに示してくれたれば、海軍少将マルコルムは直ちに命を与えて端艇(ボート)を海に浮かべ、数時間の後、石灰となれる土(つち)五塊(ごかい)を携え来たりたる故に……』と「ナポレオン回想録」に当時の実況を詳しく伝えている。

この部屋――ささやかな十畳敷きの見る影もなき室なれど、なんのとりえもないこのセントヘレナを懐古的、歴史的に世界に膾炙(かいしゃ)せしめている――と、Sallea manger (食堂)と銘うった次の室(へや)との間には小さな衝立があって、その後ろに暗い大きな室(へや)がどうぜんと見いだされる。この食堂はちょうど丁字形の根元に当たるので、これから左右の母屋の各部屋にはprivate(私室)と扉(ドア)に書いてあった。

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