ヨーロッパをカヌーで旅する 16: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第16回)


黒い森を進んだマクレガーは、いよいよドナウ川源流のドナウエッシンゲンに到着します。


やっと雨があがって、夏の太陽が顔をだした。路上の水たまりに陽光がきらきら反射している。濡れたカヌーをスポンジでふき、歩いていくうちに、びしょぬれだった体も暖かくなってきた。馬も元気をとり戻し、興奮して実際に駆けだした。道は下り坂になり、太陽は明るく輝いている。森のなかで雷雨に襲われて滅入っていた気分も、ほんの十分ほどですっかり明るくなった。

どんなに厳格な禁酒主義者でも(禁酒といっても、ぼく自身は節度のある飲み方を心がけているだけだが)、こんなときはドイツの蒸留酒であるキルシュヴァッサーを軽く一杯引っかけても許せる気になるのではあるまいか。というわけで、「禁酒している者」はぼくの他にはいなかったので、ぼくは御者とその使用人にたしなむ程度に酒をふるまい、馬には飼料のブランマッシュを与えてブラシをかけた。これで、ぼくらはお互いに満足し、また元気に歩を進めた。

薄暗くなる前に、ドナウエッシンゲンに入った。小さな橋を渡っているとき、ドナウ川については、この水源からそのままカヌーで下ることができるとわかった。というのも、源流域の流れの中央では水深が三インチ(7.5センチ)以上あったからだ。五分もすると、カヌーを荷馬車から下ろす前から周囲には人だかりができた3。

まず、ぶらぶらしている暇な連中がやってきた。それから、もう少し人見知りする町の人たち。さらに、素性のわからない大勢の野次馬たち。この連中がどういう人たちなのか、最初はよくわからなかったが、この町で翌日にこの地方を対象とする合唱の大会が開催されるのだという説明を聞いてやっと合点がいった。六百人もの人々がやっていてきているのだが、全員がそれなりの身なりと立場の男性で国の広範囲から集まっている。この合唱大会のために、町はお祭り状態だった。宿はどこも満室だった。が、橋の近くにある「ポスト」という宿の人のいいご亭主が立派な部屋を提供してくれた。カヌーの方は、馬車置き場の天上から吊り下げさせてもらった。合唱団のテノールやバスの連中が食事中にしゃべる声はすさまじい音量だった。ぼくのロブ・ロイ・カヌーについて、いろんなことが何度も繰り返し話題になっていた。ぼくらの御者氏は別の部屋に聞き手を集め、カヌー旅の何たるかを講義したほどだ。

翌日、この町を見物して歩いたが、それだけの価値はあった。どこもきれいに飾りたてられていたのだ。家という家はきちんと片付けられ、どの通りにもゴミ一つなかった。質素な窓からは木の枝や花飾り、肩掛けやキルトの布や毛布が吊るされているのが見えたが、裕福な家々には、いろんな旗や飾りリボン、アーチに紋章、花輪などが飾られていた。おのぼりさんのような大勢の人々が通りをぞろぞろ歩き、太鼓やトロンボーンの楽隊と押し合いへし合いしながら、でこぼこの舗道をてんでんばらばらな様子で行進している。ときどき、四頭立ての馬車がガタガタ音を立てて遠くの合唱団の人々を運んでくるたびに大歓声が巻き起こった。合唱団の人々は、座席の代わりに並べた袋と袋のすき間に四本の松の木を柱として立てて草花でおおった屋根をつけた長い四輪馬車に乗っているのだが、座席には座らず立ち上がっていて、大きな声で叫び、歌い、掲げた旗を振っている。何百人もの見物人たちは一本調子の大声で「ドイツ万歳」と叫んだりしている。

原注
3: でこぼこした山道を進む長旅で、カヌーをバネのない荷車に固定するため、ぼくはさまざまな方法を試みたが、最善の方法は、長い荷車の上に二本のロープを張り、その上にカヌーを載せることだと確信するにいたった。ロープが緩衝材の役割を果たし、振動をやわらげてくれるのだ。カヌーが前後に動かないように、船首につけた牽引用のロープは前後方向にしっかり固縛しておく。ワラ束を下に敷いても、砂利道や車輪の跡の轍(わだち)が残ったでこぼこ道を数マイルも進むうちに外れてしまう。

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現代語訳『海のロマンス』 5: 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石に激賞された商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第5回)。


練習帆船・大成丸は品川埠頭で抜錨し、東京湾を南下して横浜に到着し、歓迎の式典を迎える。


夜光虫の燐光は青い瑠璃(るり)色となって砕け流れて、夏の夜の海は涼しくも美しい。

午前中に甲板を洗い、オーニングを張り、万国旗を飾って、ほっとした気持ちで林逓信大臣の一行を待っていると、午後一時頃に来船された。

「……長い航海をすると、朝に夕べに、目に見、耳に聞くものがしごく平凡単調なものですから、船乗りの心はおのずとすさんでくるということですが、諸君は上の者も下の者も互いに尊敬し、同胞(どうほう)互いに助けあって、楽しく有益にこの壮大な使命を果たされるよう望みます……」

大臣の訓示は、今や微に入り細にわたって教えさとすような調子で、さながら自分の子が鹿島から洋行するのを見送る老父のような熱情を示している。林大臣、小松次官、湯河船舶局局長、石原商船学校長などの一行は二時には練習船を離れ、やがて「総員上へ! 出港用意!」という命令が下った。

二時半頃、ミズンマストに高々とJNGHの船名旗を鮮やかにひるがえした大成丸は、松本教頭や古谷大佐、高柳幹事の諸氏が分乗する四隻の小型船に伴走されて静かに港口に出た。防波堤にひたひたと寄せては返している大海原からの青い波は、この練習船に乗っている未来のマゼランやキャプテン・クックを歓迎しているようだった。

船路安かれと祈る見送りの人々と、今日を限りと名残おしげに顧みる船上の乗員との間には、言葉では言い表せない共通したデリケートな情緒が通いあい、人々が無理して浮かべている笑顔は、悲しくもまた苦しい心の努力を示していた。

三声(さんせい)の長笛で別れを告げ、針路を南微東*1に館山に向かった練習船は、午後四時ごろ浦賀沖に達した。右まわりに大きな円を描きながら、船首を羅針盤(コンパス)*2の三十二方位に合わせ、次々に船首が各方位を向いた時間とそのときの太陽の方位角とを測定し、それぞれ三十二点で生じる羅針盤上の自差(ディビエーション)を調べた*3

一般に、船には標準となる羅針盤(スタンダード・コンパス)をはじめとして、次位の羅針盤、航法用の羅針盤など大小およそ約十五、六の方位磁石が用意されているが、そのうち、その構造がすぐれていて器差(きさ)*4や自差(じさ)などが最小のものをスタンダード・コンパスと呼び、船の針路や星や太陽、月の方位観測などにはこれを使い、他の羅針盤はこれと比較してその自差の量を減少させるものである。本船には後部ブリッジ*5に標準の羅針盤が設置され、前部ブリッジに次位の羅針盤が備えつけられている。今日やった自差補正は、主として標準羅針盤の三十二方位に生じる自差の量を確かめ、それと同時に次位の羅針盤の自差の量を標準のものと比較研究したのである。

船はぐるっと大きな円を描いて一回転し、元の針路に復帰し、迫りきたる黄昏(たそがれ)をついて鏡ケ浦に向かおうとしたが、そのとき、紀洋丸と思われる一隻の船が前方からやってきて「我は汝を見るを喜ぶ」の万国信号に続いて、TDLの信号を掲揚した。すなわち「安全なる航海を祈る」というのだ*6。本船からはただちにXORの信号旗を掲揚して海上の友の好意を謝した。そのとき後甲板にいた信号手が、その船のはるか後方で別の汽船一隻がTDL旗を掲揚しているのを認め、ただちに信号を送ってその船名旗を見れば第二遼陽丸だということがわかった。こうして波静かにしてイルカが眠っている水道の夕暮れを直進し、南路で館山に向かった練習船からは、七時に太房(だいぶさ)岬をまわって北条(ほうじょう)の灯火が見えた。


脚注
*1: 南微東(なんびとう) - 東西南北の全方位(360度)を32等分したとき、「真南からやや東」を指す。やや(微)は11.15度で、真南と南南東の間。


*2: 羅針盤 - 羅針儀、方位磁石、コンパスともいう。原文では「羅針器」という言葉が使われているが、一般的な表現に直した。


*3: 自差(じさ) - 方位磁石は船の金属等の影響を受けて誤差が生じる。自差は、船ごとに、また方位磁石の設置場所ごとに微妙に異なるため、本文にあるように、山の頂上など陸地で見分けやすい二つの物標の見通し線や太陽の位置から割り出した確実な方位を基準にして、船を実際に旋回させながら各方位で誤差を測定する。


 現代のヨットでも、正確なナビゲーションのため、コンパス(方位磁石)やオートパイロット(自動操舵機)について、下図にあるような自差表を作成して用いる。

deviation_01

上図は『アナポリス式シーマンシップ』(鯨書房)より


*4: 器差 (きさ)- 測定器固有の誤差。


*5: ブリッジ - 船の高い位置にあり、船舶で操船の指揮をする場所。船橋(軍艦では艦橋)ともいう。


*6: 安全なる航海を祈る - 船舶では、アルファベットや数字にそれぞれ固有のデザインの旗を割り当て、それを組み合わせて信号として用いる。


現在の国際信号旗は、1969年刊行の国際信号書(国際海事機関)による。


この世界一周航海が行われた1912年~1913年当時とは異なり、「安航を祈る」はUとWの旗を使う。


U旗U_flag-code    W旗W_flag-code


それぞれ単独では、U(あなたは危険に向かっている)、
W(医療援助がほしい)だが、
2文字を組み合わせることで「安航を祈る」になる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 15:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第15回)

 

ライン川源流域の川がカヌーには適していないと知ったマクレガーは、山間部にあるティティゼー湖にカヌーを浮かべることにした。その湖にはイエス・キリストを処刑したピラトの亡霊が潜んでいるという言い伝えが残っていて、生きて戻れないぞと地元民に脅されるが、それを尻目に湖へと漕ぎ出す。


もちろん、そのおかげで決心がついた。さわやかな朝で、霧がかかってはいたが、ぼくは小石まじりの岸辺からカヌーを漕ぎ出した。ざっと数えて少なくとも八人の地元民がかたずを飲んで見守っていた。数マイルを漕いだが、とても快適だった。カヌーは水面からの高さがないので、遠く離れるにつれてカヌーそのものは見えなくなる。「水面に浮いた状態で座った人間が、顔のあたりでパドルを振りまわしているように見えた」だろう。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 14: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第14回)

 

やむなくイギリスに戻った相棒のアバディーン伯爵と別れたマクレガーは、いよいよ単独行で、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流をめざし、ドイツとスイスの国境にある黒い森と呼ばれる山岳地帯に足を踏み入れます。


外国の山の中腹に一人でいる。夕日が荒涼としたな山岳地帯に暖かい日射しを注いでいる。風が軽やかに吹き抜け、まわりでは羊たちがメーメー鳴いている――うきうきするような喜びに満ち、心の底からわくわくしているのだが、この気持ちを伝えるには、同じような経験をしたことがない人々に言葉でどう表現したらよいのだろう?

近辺を歩きまわって、源流域を流れている小川はカヌーで下るにはまったく適していないことがわかった。それで木造建築の宿に戻って寝ることにした。洗い場は楕円形で、壁はとても薄く、深夜には周囲の騒音がすべて聞こえた。いま聞こえているのは、宿の主人の大きないびきと、まだ寝ていない使用人たちの話し声、猫のもの悲しい鳴き声やネズミがガリガリやっている音、牛の寝息、さらに馬をつないだ鎖のガチャガチャいう音だ。

ドイツでは寝台はベッドではなく「ベット」と呼ばれているが、それがいかに入念に組み立てられたものであるかは、夜になって布団にもぐりもうとしてみてはじめてわかる。寝床が適度に傾斜するように、いろんな物を上手に組み合わせて積み上げてあるのだ。そうしたものをいちいち取り出し、掘り崩していかなければならない。まず、少なくとも厚さが六十センチはあるふかふかの袋を引きはがし、ベッドカバーをめくり、それから目の覚めるような緋色の毛布をめくる。次に、巨大な枕を一つ、さらにもう一つ、おまけに、これも大きなくさび形のボルスターと呼ばれる抱き枕風のクッションを引っ張り出さなければならない。ベッドの寝る面に傾斜をつけるのなら、単に一方の側を高く持ち上げるだけですむと思うのだが、ドイツの人たちはどうしてこんな面倒なことをしてまで四十五度で斜めになって眠りたがるのだろうか?*1

人々の物腰は丁重で、地味だが丁寧な行動は、実際ずっとぼくについてまわった。だれもが気軽に「こんにちは」と声をかけてくれるし、ホテルの中でも、朝食をすませて出かけようとすると、まだ一言も発しないうちから「おはようございます」と声がかかるし、食事中の人には「十分に召し上がれ」となる。八時ごろに紅茶かコーヒー、パンとバターに蜂蜜での軽い会話がはじまり、お昼には昼食の「ランチ」、午後七時には夕食という形の食事が続く。

作法が洗練されているわけではない! ぼくが乗った馬車の御者は食事のときにぼくと一緒で、二人の世話をする給仕はそばで待機していたが、給仕の合間にタバコを吸ったりしていた。とはいえ、こうしたことはすべて、カナダやノルウェーでもよく見られる。山や森や急流があって人口の少ないところでは、どこでもそうだ。ノルウェーでもそうだったが、そういうところでは誰でも文字が読めるし、実際に何かを読んでいた。ドイツのごく普通の家では、フランスの似たような場所で一ヶ月に読まれるより多くの文字が読まれている1

ぼくはその日は荷馬車と御者を雇ったが、その御者は、翌朝にぼくが出した最初の指示には難色を示した。ティティゼー湖に行くため、カヌーを積んだ馬車について街道からそれるように命じたからだ。ティティゼー湖は山間にあるきれいな、長さ四マイルほどの湖で、小高い森に囲まれている。御者はぶつぶつ異議を唱えていたが、その理由は表面的なものにすぎず、本人が口に出している言葉より深い理由があるのは明らかだった。事実、人々の間で長く伝えられている迷信があって、イエスを処刑したローマ帝国のポンテオ・ピラトが湖の深いところに住み着いていて、カヌーで漕ぎ出したが最後、かのピラトがそいつを水中に引きずり込むに違いないという、なんとも不吉な噂が語り継がれているらしかった2

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訳注
*1: かつてのドイツでは、仰向けになって眠ると、悪魔が胸に乗ってくるという迷信があった。
眠っている人の胸に老婆がしゃがんでいる、こんなこわい絵も描かれている

John_Henry_Fuseli_-_The_Nightmare

『悪夢』、1781年、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741年~1825年)作 (source Wikipedia)

 

金縛りのようなものだろうか。それで、体を横向きにし、しかも上体をかなり高くした状態で眠る人が多かったらしい。

原注
1: 1867年当時のヨーロッパで、ドイツ語で発行された新聞の数は3241紙だった。そのうち747紙は政治新聞である。戦乱が続いているときは、ベルサイユでも印刷された

2: ピラトについての伝説は、ドイツやイタリアで流布している。イタリア南部にあるストロンボリ島は火山島だが、「ポンテオ・ピラトのせい」で、ある斜面の一角に人々が近づこうとしない場所がある。

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現代語訳『海のロマンス』4: 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

著者が乗船した帆船、大成丸

  • 四本マストのバーク型帆船
    ・総トン数:2439.97トン
    ・全長:277フィート(約92メートル)
    ・幅:43フィート(約14メートル)
    ・喫水:24フィート(約8メートル)
    ・総帆面積:27000平方フィート(約3000平方メートル)
    ・乗組員数:178人

第一章  さらば富士山

出帆前後

帆船乗りたちは、白い船体と高いマストを持っている練習船・大成丸を「花魁(おいらん)船」と呼び、品よく並んだ細いヤードを「かんざし」と言っている。
「越中島の子供」たちが喜んでうたう歌に

沖のカモメと商船校の生徒
どこのいずこで果てるやら

というのがある。

波に生まれて波に死ぬのは、あながち海のカモメばかりではあるまい。流れ藻に三月の春を知り、潮の香に錦繍(きんしゅう)の秋を知る、世の中で最も「男らしい生業」だと歌われている船乗りは、居住する場所すら定めていないカモメの、何ものにも拘束されることのない生活をこい願っている。

「カモメ」こそは、本当に「花魁(おいらん)船」にふさわしく、やさしい名前だ。花魁(おいらん)船は、今は多くの「カモメ」が群れつどい化粧したようになっている。

四百日余、四万海里の大航海の準備はすべて終え、大成丸は静かに品川埠頭に浮かび、
「さらば!」とばかりにほとばしる叫び声と、振られるハンカチと、輝くパラソルとを待つのみとなった。

今宵(こよい)は月もおぼろで、海風が涼しく、静かで心地よい夜だ。一人黙々と船首楼に立って、心ひそかに、一年半の後でなければ再び上陸できないわが品川に最後の別れを告げる。今宵に限って、とりわけて赤い品川の港の灯火と、とりわけて青黒い大盛りの山の影とを見つめていれば、知らず知らず熱い涙が目の縁を伝わってくる。

さらば情趣ある灯火の港、品川よ
さらば常に緑かぐわしき大森の松よ

そうして最後に、素朴なる品川の名物船頭、猪(い)のさんよ、

さらば、さらば、さらば!!

こうして「感慨の夜」は明け、はるか三海里の遠方から三百人の「越中島の子供」が、大成丸を見送るべくやってきた。十四隻のボートからあふれ出る大声の挨拶と、「ボンボヤージ」の歓声とに送られて、練習船・大成丸は七月六日午後二時半、、品川の海で抜錨し、同五時に無事に横浜に着いた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 13: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第13回)


夏の航海計画を立てるのは楽しい。ブラッドショーの海外鉄道ガイドに読みふけるのは六月とか七月だ。このガイド本には他にも有益な情報は掲載されているのだろうが、どこへ行こうかと思案しつつ、ぼくは自分に興味のある「蒸気船と鉄道」のページだけを何度も読み返した。

こうした楽しみはすべて、次のような質問に対する答えが自分のなかできちんと出ているかにかかっている。気分転換したいのか、ゆっくりのんびり過ごしたいのか? 休息のために出かけていくのか、保養のためなのか、はたまた精力的に動きまわって夏を存分に楽しみたいのか?

とはいえ、誤りのないことでも有名なブラッドショーのガイド本にも、ぼくがカヌーについて知りたいと思っていることに対する答えは載っていなかった。自分で持ち運ぶボートについての旅行ガイドなんて、どこにも存在していないからだ。だから、どうしようかという悩みについては、フライバーグですぐに決着がついた。とにかく「ドナウ川の源流まで行ってみよう」と、単純明快に決心したのだ。

で、翌朝にはもうカヌーを荷車に載せ、例によってグレーの服を着用し、埃っぽいヘレンタールの通りを歩いていた。そのときのぼくは、体調もよく意気軒高で、うきうきと心も軽く、はつらつとして明確な目標も持っていたが、具体的に何をすべきか、何を見るべきか、誰に会うべきかわからないという状態なのだった。これをどう表現したらいいのだろう? こういうときには、とにかくうれしくて、簡単に「感謝の念に満ちた!」状態でいることはできる。

あれこれ思案しながら数マイルほど歩いていくと、イギリス人を満載した馬車が追いこしていった。やがて彼らとも道連れになった。外国でのイギリス人の評判は「他人行儀で、無口で、尊大で、陰気で、信用できない」だ! ぼくに言わせれば、それはとんでもない誤解だ。 非常に美しい深い峡谷を通っていく間ずっと、連れの女性たちはぼくのような者でもちゃんと相手をしてくれたし、ヘレンタール峠をこえるときは、荷車に載せたカヌーがぼくらの後ろからちゃんと運ばれてくるようにしてくれた。旅行者は汽車でスイスに向かうので、フライバーグの尖塔を車窓から眺めて感心する人は多い。が、この峠まで足を運ぶ人はめったにいない。

黒い森という意味のシュワルツワルトがスイスへの入口になっている。森林や岩場が多くて不気味な場所だが、立派な道路が通っているし、ちゃんとした宿もあちこちにあった。村は森の中にあった。一軒おきに製材工場があるのではというくらい、せわしなく活力に満ちた音が響いてくるが、それにカッタンコットンと水車のまわる音がまじって、なんとものどかな感じだ。観光客が景色を眺めに来るのはそこまでだ。さらに進むと、暗い色をした大海原のような壮大な山岳地帯が広がっていた。家々は大きくなる一方で、その数は減っていく。ほぼすべての建物の脇に小さな礼拝堂があり、聖人の等身大の木像が破風の端に取りつけられていた。ある夜、ぼくはこうした巨大な建物の一つに泊まった。使用人やら農作業を終えた連中が戻ってくると、その半数はなかば歌うような調子で、小さな声だが節をつけて祈りを唱え、それから大盛りの夕食に挑むのだった。

馬車はさらにけわしい山岳地帯を登っていった。どちらの側も山に囲まれた渓谷の盆地のようなところで、頭上には巨大な老木がそびえている。こうした巨木はいずれ切り倒され、ストラスブールで見るような大きなイカダの一つに載せられてライン川を流れ下っていくのだろう。

ライン川のイカダは有名だからこまかい説明は省くが、広い水面に丸太が延々とつらなって浮かび、その上に小屋が立ち並び、陽気なイカダ師たちが大挙して乗っている。連結させた長大なイカダを操作しながら流すには五百人もの人手が必要で、その材木の値は三万フランにもなるという。

この峠の一番高いところが分水嶺だった。スイスのバールに宿をとり、カヌーも安全に保管してもらえるようにしておいてから、ぼくはカヌーを浮かべられる流れを探すため徒歩で遠くまで見てまわった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 12: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第12回)


天気はまたすぐによくなって楽しくなった。というか、カヌーって狩猟もできるんだって感じになってきた。というのも、いかにもここは俺の縄張りだぞといいたげな野生のカモが浮かんでいたし、浅瀬を歩いていたサギは、ぼくらが近づくと、こわいこわいという風に遠ざかっていったりしたからだ。それで、相棒は銃を構えた。ぼくは猟犬になったつもりで、川の反対側からこっそり忍び寄り、パドルで獲物を指すという遊びをやったりした。

この遊びに、ちょっと夢中になりすぎてしまった。相棒の伯爵は岸に上がり、土手で腹ばいになった。ぼくらを小馬鹿にしている鳥の方へと前進していく。彼の射撃の腕は一流で、ウインブルドンの大会でも実証済みなのだが、いかんせん短銃でサギを撃つのは簡単ではなかった。

影が長く伸びてくると、この単調な川も美しく見えてきた。夕方、人気のないプールで水浴びをし、泳ぎ疲れるとまじりけのない黄色の砂場で横になって休んだ。ハーナウで宿泊することにした。

翌日のマイン川の川下りについては、とにかく楽しかったことだけは覚えているが、最後に大きな城に着いたことを除いて、ほとんど記憶がない。城のある場所で、一隻の船が停泊していた。明らかにイギリスのものだった。その船についてあれこれ探っていると、一人の男が皇太子の船だと教えてくれた。しかも、「いまバルコニーから君たちをご覧になっているよ」と言うのだ。ここはルンペンハイムにあるケンブリッジ公爵夫人の城で、フェリーを下車した四頭立ての馬車が、皇太子夫妻をこの川辺の城へとお連れしたところなのだった。そこからフランクフルトまでは、西の強風が吹いたので、必死でパドルを漕いだ。ルシーという宿で濡れた服を乾かした。ヨーロッパで最高級のホテルの一つだ。

翌日、フランクフルトのボート乗りたちは、イギリスからやってきたぼくらのカヌーが川を軽々と進んでいく様子に驚いていた。風を受けて川を飛ぶようにさかのぼったり、「地面が濡れているだけ」の浅瀬では、パドルを漕いで向きを自在に変えた。二人とも楽しいからカヌーに乗っているのだったし、カヌーに乗ってしまえば体重は関係ない。もっとも、ぼくらの乗っているカヌーには、二人一緒に乗って快適に漕げるだけのスペースはなかった4

原注4
ロイヤル・カヌー・クラブには、何隻か「二人用」カヌーがある。各艇に二人の漕ぎ手が乗るので、非常に速い。最近ではクラブは毎年のように、各艇に四人を乗せ、ダブルパドル*1を使ったレースも行っている。オークやヒマラヤスギやパイン材で作ったカヌー以外にも、皮や帆布、ブリキ、紙、天然ゴム製のカヌーも所有している。

 

脚注
*1:ダブルパドル - 両端に水をかく平たいブレードがついているパドル。ダブルブレードパドルとも呼ぶ。
カナディアンカヌーのようにデッキがないカヌーでは、片側のみのシングルブレードパドルを使うのが一般的で、その場合、一本のパドルを持ち替えて両舷を交互に漕ぐ。

日曜日、例のやんごとなき高貴な方々がフランクフルトにある英国国教会の教会に来場された。他の聴衆と同じように歩いて礼拝堂から出てこられたが、静かで上品なやり方で、派手な行進なんかするより親しみが持てた。

厳粛な場では、シンプルに徹することが真の威厳につながる。

その翌日、とにかく行動的で陽気な相棒は、ぼくと別れて帰国することになっていた。ウインブルドンではその腕前で年間最優秀賞を獲得していたのだが、彼はウインブルドンでの二週間の射撃練習だけでは満足していなかった。沼地や草地での狩猟の予定が詰まっていて、それとは別に仕事でも故国にいる必要があったためだ。相棒はライン川をケルンまで漕ぎ下った。途中で何度か、全速力で進んでいる蒸気船にロープのフックを引っかけてカヌーを引っ張らせるという離れ業を演じて見せたりもした5

原注5
アバディーン伯爵は、後年、ある帆船に乗っていて溺死した。卿の兄弟の故ジェームズ・ゴードン氏はプロのカヌーイストで、ロブ・ロイ・カヌーに乗って英国海峡を横断した最初の人である。現在の伯爵もロイヤル・カヌークラブの会員であり、物故されたがフランスの王位継承者だった方もこのクラブに所属し、四隻のカヌーを所有されていた。協会の会長は英国皇太子である。

一方、ぼくは自分のカヌーを鉄道でフライバーグまで運んだ。そこから、まったく新しい航海を始めるのだ。というのも、ここまでは知っている川だったが、ここから先は、ロブ・ロイ・カヌーでは未知の水域を漕ぐことになる。

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現代語訳『海のロマンス』3:  ルート&目次

海のロマンスの航海したルートと目次です。

世界周航の航海ルート

航海ルート_01

目 次

さらば富士山
出帆前後
砂とりと水泳
練習生の船内生活
水夫長と木工
美しきサンゴの墓
さらば富士山
帆船のロマンス
総帆をひらいて
船中の音楽と雌猫
風下当番、舵手、見張り
草の枕も結ばねば
カツオ釣り
霧中号角(むちゅうごうかく)
陣風(じんぷう)
ああ七月三十日
帆つくろい
七檎七縦(しちきんしちしょう)の妙計
無線電信
水の上で水の苦労
小さきホーム
人食い魚きたる
海洋の変化
けたたましき警鐘
有人情と非人情
アンクルサムと彼の郷土
サンディエゴ入港
手紙とミカン
お世辞しばり
サンディエゴの名物
船長、船に帰らず
先帝をしのびたてまつる
山田運転士の客死
欣葬遙拝式(きんそうようはいしき)
都市の飾り人形
海軍士官の逃亡
アメリカ女
仮面の使人
うぬぼれ挑発策
ヘレン嬢の信仰
邦人の懐郷病
闘牛見物
湖畔行き
ミセス・ホラハン
グラスカッター
ローマランドの一日
ラモナの話
世界一のテントシティー
サンディエゴ出帆
百十七日陸を見ず
沿岸風帯より貿易風帯へ
無風帯
アホウドリを釣る
赤道通過
島物語
咆哮(ほうこう)緯度
クリスマスイブ
餅つき
氷山の見張り
南極の元旦
海上の墓場
ケープホーンからケープタウンへ
南アの南端
ケープタウン入港の第一印象
ロンドン行き中止
予定航路の変更
しゃくにさわるケープタウン
テーブルマウンテン
連邦下院参観
やかましい選挙法案
フルーツカー(セシルローズを思う)
ケープタウン雑記
セントヘレナ
セントヘレナまで
五十年前の追憶
物語の島
奈良の妹から
その土を踏んで
南海の巨人
セントヘレナ奪取法
ミセス・ブリッチャー
おそろしきローラー
とり残された孤島
ナポレオンの墓
ロングウッドの館
ナポレオン臨終の室
館を振り返って
ああ、ボナパルト将軍
花雫せよ、沈黙の谷
セントヘレナの決別
鹿と亀とカメレオン
寂漠をなぐさめてくれる花と動物
上甲板の鹿
カメレオンの独り言
荷物倉の亀
南大西洋のサメ釣り
南米の美都
世界三景の一
港口の怪具足
蛍貌の韻、訣舌の調べ
雨のサンパウロ
埠頭の浮浪者
リオデジャネイロの美観
オピドールのカフェ
白川大路の美人
美術館のまがい物
活動写真と国民性
富くじ合衆国
事前救済の設備
リオ市民の特性
ペトロポリス行
あわれテラノバ
プレジデントメーカー
下院議員の日給
南米に向いている商品
三十二億円の借金
ブラジルは移民を欲す
惨憺たる航海を続けて
南大西洋の秋
時化(しけ)物語
おそろしい一夜
陣風と虹
喜望峰付近の天候
級友二人を失う
フリーマントル
南洋より故国へ
南洋の日没美
美しい果実がみのる南洋の島
赤道をこえて
ほほえみて泣く
あれ芙蓉峰が
鏡ヶ浦の抱擁
帰山の途
土産話

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現代語訳『海のロマンス』2: 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼたちお)著

[著者 はしがき の続き]

   (三)

『海のロマンス』には、これぞと思う取り柄(とりえ)がない。

ただあるとすれば、米の値段を知らない風来坊が、浮き世となんら関係のない極端な非人情のことを長々とのんきに書きまくった、その気楽さを味わうくらいである。二つの世紀と三つの内閣とを送迎した日本の「陸の人」から見れば、実にふざけた戯言(たわごと)であるかもしれない。しかし、僕はこれが『海のロマンス』の取り柄であると思う。読む人が、うらやましくて、ついよだれがという、そういう境遇ではあると思う。

百二十日、ほぼ四ヶ月の間、口から空気と麦飯とを放り込んで、手にブレースたこ*1をこしらえる以外に、浮き世の規範も情実も義理もヘチマも度外視した無刺激な生活!! 金の「か」の字も心頭にのぼってこない気楽な生活!! いまから考えてみると、こんな月日は二度と世界のどこにも、一生涯のどこにもあるまいと思う。

(四)

東西の両朝日新聞*2に掲げられた断片的な『周航記』が一つのまとまった『海のロマンス』となったのは、まったく先輩の薄井秀一氏の友情ある犠牲的努力によるので、十月十八日に下船して、さらに十一月十六日に横須賀の砲術学校に派遣される……などと大騒ぎにせわしなかった自分のみであったならば、とうていこんな単行本はできなかったことと、心より感謝の念を捧げる。

(五)

また、この機会を利用して、序文をくださった夏目漱石先生、渋川玄耳(しぶかわげんじ)先生、鳥居素川(とりいそせん)先生、杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)先生に甚大なる謝意を表する*3。

横須賀楠ケ浦寄宿舎において

米窪太刀雄(よねくぼたちお)

大正三年一月中旬

脚注
*1 ブレースたこ: 帆船で横帆をつるす帆桁(ほげた)をヤードと呼び、ブレースはその両端につけたロープを指す。
このブレース(ロープ)を引いて帆の角度を調節するため、手にたこができる。

 

*2 東西の両朝日新聞: 明治12年(1879年)に大阪朝日新聞が創刊され、その後、東京にも進出して東京朝日新聞が発行された。両者が「朝日新聞」として統合されたのは昭和15年(1940年)。

 

*3 序文: 連載1で、漱石の序文のみをご紹介しましたが、渋川、鳥居、杉村の三氏も当時の著名人で、序文を書いています。
この三氏の序文は、連載の最後に掲載する予定です。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 11:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第11回)


一日が長く、しかも楽しかった。とはいえ、何度か、にわか雨に降られた。あわやというところで土手に乗り上げたり、竹製のマストが折れたりもした。帆が垂れ下がってしまい、突風で傘が逆さになったみたいに、みっともなかったりもした。こんな状況ではあったが、心配は何もしていなかった。ケガもしていないし、文句をいうことでもない。ぼくは庭師のところに行って、マストの代用になる、もっと強いものを手に入れてきた。タチアオイの支柱として使われたりする、緑色に塗った長い棒だ。これは今度の航海で最後まで持ってくれたし、折れた竹は帆の下縁を張るブームに作り直した。

アバディーン伯爵は次に下る予定のナーエ川を下見に出かけたが、結果はあまりかんばしいものではなかった。ぼくも試験的に河口から漕いでさかのぼってみたが、非常に水深が浅かった。

汽船で別の場所に行こうという意見には同意するしかなかった。ぼくは重力という普遍的な原則を尊重し、それには逆らわないようにしているので、カヌーの旅で地球を味方にするには、川をさかのぼるよりは下る方がずっといいというわけだ。蒸気船や馬や人力を活用してカヌーを川の上流へと運び、重力の助けを借りて川を漕ぎ下るのが賢明なやり方だ。

相棒がイギリスに戻らなければならない期日が迫っていたので、ぼくらはマイエンヌまで行ってから、汽車でマイン川が流れているアシャッフェンブルクに向かった。カヌーを貨車で運搬する際には、例によって一悶着あった。エクス・ラ・シャペルのときのように、寛大な対応をしてくれる救世主みたいな人物は出現しなかった。小うるさい手荷物係と支払いの件で交渉した。ちょっとした悪気のない嘘もついたが、今回の航海でそんなことをしたのはこのときだけだ。

鉄道で乗り合わせた乗客の一人がぼくらの旅に非常に興味を抱いてくれた。ぼくらは事細かに説明した。後でわかったことだが、相手は、ぼくらが「二つの小さなキャノン(cannons)」を伴って旅をしているのだと思い込んでいた。フランス語の小舟(canots)をカノン(Canons)と聞き違え、さらに大砲という意味もあるキャノンだと思い違いしていたのだ。で、そのキャノンとは何だということで、彼はキャノンなるものの長さと重さについても聞いてきた。ぼくらの「キャノン」は長さが「十五フィート」(約4.5メートル)で重さは80ポンド(約32キロ)、しかも、そのキャノンを売るためではなく好きで運んでいるのだと聞いても平然としていた。ぼくらはキリンを運んでいるんですよといっても、彼は少しも驚かなかっただろう。

アシャッフェンブルクという、この長い名前を持つドイツの町の宿屋に宿泊していた客たちは、丁重な受け答えながらも大きな関心を寄せてくれたので、ぼくらとしても嬉しかった。ぼくらは二人ともカヌーに乗るときは灰色のフランネル地の服を着用するのだが、これが彼らをひどく驚かせたようだ。こういう服装についてびっくりされたり、なぜこんな旅をしているのか、どこへいくのかなどと聞かれるのは、海外でカヌーを漕いでいると日常茶飯事だ。

マイン川でカヌーを漕ぐこと自体に問題はなかったが、景色は可もなく不可もなくといったところだった。いい風が吹くと、ぼくらは帆を揚げ、カヌーをヨットのように帆走させようと苦心して時間を無駄にした。川では、追い風でない限り、そううまくいくものではない。う雨が激しくなってきたので、ランチタイムということにして、ぼくらはとある宿屋の一部になっている殺風景な離れのようなところに逃げ込んで昼食をとった。そこには古くなった黒パンと生のベーコンしかなかった。ずぶ濡れになって、この粗末な食事をとっている間も、風は音をたてて吹きつのり、雨音も激しくなった。ぼくらはレインコートを着たまま寒さに震えた。今度の旅でこんなひどい目にあったのは、このときだけだ。この贅沢な旅で、これほど過酷な状況というのは他になかった。

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