現代語訳『海のロマンス』24:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第24回)


小さきホーム

 四時間の当直勤務をすませた三十人の海賊王の子供たち(シーキングス・チャイルド)は、冷たくなった足を暖めようと期待して小さな寝床へ向かう。

寝床の数は八つ。涼しげな水色のカーテンが引かれた奥に、静かに並んでいる。鈍く光るハンドルを押して入れば、四面を磨いたような白い塗装に反射した海洋(うみ)の光線(ひ)は直ちに瞳に迫ってまぶしいかとばかり視神経を驚かす。拭き清められた二つの舷窓(スカッツル)からあふれ入る海軟風(シーブリーズ)は、芳醇(ほうじゅん)なオゾンの清冽なエキスを五百三十二立方フィートの小さなホームにみなぎらせる。

朝の八時である。ローヤル*1を揚げ、ジブ*2を下ろし、あふれ出るエネルギーにまかせて一気呵成(いっきかせい)に甲板洗いまでこなし、ヘトヘトになった身体(からだ)で、やけにふくよかで暖かい毛布の上に倒れこむ。碧波(なみ)が目もさめるほど窓外にどこまでもつらなっていて、気も遠くなるほどはるかかなたの霞(かす)み匂うあたりまで続き、わずかに一本の髪の毛のような細い水平線(ホライズン)となっている。張り詰めた強弓(ごうきゅう)の弦(つる)のように舷窓(スカッツル)の中央を芋刺しに貫く直線(ライン)は、空の白と濃い青緑色の海をクッキリと二つに断ち切っている。つかのまの休息をむさぼりたい身には、頭をめぐらすことさえ億劫だ。できるだけ瞳孔(ひとみ)を左に寄せて、美しいマドンナの額像を瞳に収める。

ほっと一息ついて一歩部屋に入るときにあざやかに目に飛び込んでくるのが、この清楚(せいそ)なマドンナの像である。ここからこうやって斜めに眺めていると、また別な風な美しさが感じられる。聡明なる額(ひたい)と美しい髪とは、開(ひら)いている舷窓(まど)の縁(へり)に生じる暗い陰影(かげ)の中にうずもれて暗く感じられるが、その慈愛を示す豊頬(ほうきょう)と強い意志を示す引き締まった口とは、さわやかな夏の朝(あした)の光線(ひかり)が穏やかにさし入っている中でも、いとも気高く見える。

クレオパトラの鼻はアントニウス*3を迷わし、アウグストゥス*4をもてあそぼうとした卓絶した武器と聞く。たしかに鼻は──すぐれたる鼻は多くの顔面美の要素を総合し結びつける要(かなめ)の存在である。寝床からはその高尚なローマ風の鼻が横向きに見える。いたずらに鋭くはなく、といって軽薄でもなく、遅鈍(ぐどん)にならない程度に丸みを失っている。なるほど、鼻は美人を支配す、である。まことにいい形である、いい線美(ライン)であると一人で悦にいっていると、けたたましい靴音が上甲板に乱れて、「カッパ、用意」という声が響いた。つづいて「ローヤル、ハリヤード、スタンバイ」*5という士官の号令が聞こえる。スコールが来たらしい。

互いに相手の心を読もうとするように、八つの眼が空中にかち合って激しく火花を散らす。すわっという間に元の静寂(しずけさ)にもどる。あぶない。甲の二つの目が「やっちょるな」とばかりに会心の笑みをひらめかす。ただちに乙が「うん」と受ける。丙(へい)と丁(てい)の目には「気の毒に……」という憐憫(あわれみ)の色がほの見える。四人は再び目をそらしてマドンナを見る。相変(あいか)わらず入口を見つめたまま、気高い尊い表情を示している。横になっている四人の者が起き上がって部屋を出ても、ローヤルは降りても、船がサンディエゴに着いても、四人の者が口髭(くちひげ)をはやして大層な月給をもらうようになっても、依然として気高く尊く入口を見つめていることだろう。

甲が会心の笑みをもらしたからといって、丙と丁とが憐憫(れんびん)の光を見せたからといって、マドンナの像を奥ゆかしく思って眺めていたとしても、この八フィート立法の狭い空間で何かを刷新する運動でも起こそうというのではない。一室八人、十六のホームをして各自、自分のことは自分でするという自治の精神を会得せしめ、自分らの部屋や自分らの受持区域(パート)は自分らで治め、自分らで営み、決して他の部員に笑われないようにせよという一等運転士(チーフオフィサー)の方針は、すこぶる賢い方法である。

かくて十六の小さい自治の王国や侯領(こうりょう)がおのおの研鑽し錬磨して、やがて三十人の四分舷直(コーターワッチ)はその面目を発揮し、六十人の左右の両舷ただちにその出色をほしいままにし、百二十五のミカドの練習生はサクソンやゲルマンの船員たちと舷(げん)を並べマストを連ねてもあえて遜色のない水準に達することができる。何の肩書も特権もない外交官として、任命書を持たない使者として、強くたくましい平和の戦士として、千里の外に国民が広がっていく先駆となすことができる。



脚注
*1: ローヤル - 帆船で微風のときにマストの最上部に展開する横帆(ロイヤル・セイル)。


*2: ジブ - マストの前に展開する縦帆。

*3: アントニウス - 共和制ローマの政治家マルクス・アントニウス(紀元前83年~紀元前30年)。
エジプトのプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラと昵懇(じっこん)だったとされるシーザー(カエサル)の部下で、その死後は第二回三頭政治を行った三頭の一人となった。シーザーの死後、クレオパトラと親密な関係になり、最後にはライバルのアウグストゥスに滅ぼされた。

*4: アウグストゥス -シーザー(カエサル)の姪の息子で、第二回三頭政治の三頭の一人。
後にローマ帝国の初代皇帝(紀元前63年~紀元14年)。

*5: ローヤル、ハリヤード、スタンバイ - ローヤルは微風用なので、風が強くなると下ろすことになる。ハリヤードは帆を上げ下げするロープで、「ローヤル、ハリヤード、スタンバイ」は「ロイヤル・セイルを下ろすため、担当者はハリヤードを持って待機せよ」という意味になる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 37:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第37回)

言葉が通じない海外で話をするとなると、絵を描く必要がでてくる。これは、アラブをのぞけば、身振り手振りよりもずっといい。ロシア中央部のニジニ・ロヴゴロドの市場を訪ねたとき、ぼくは「中国人街」で多くの時間をすごしたのだが、チン・ルーという中国人と話をするのがとても難しかった。身振り手振りも役に立たない。だが、連中は茶箱に赤いロウを持っていて、そばには白い壁があった。そこで、ぼくは自分のやっていることについて英語で説明しながら、同時に白い壁に赤いロウで絵を描いてみた。すると、それが興味を引いたらしく、中国人やロシアのカルムイク人、それにどこの国かわからないが異国風の人々が何十人と集まって来るではないか。自分が伝えようとしていた相手の集団は、ぼくの言いたいことを完全にわかってくれたように思えた。

というわけで、カヌーに上達したら、次は通じやすい身振り手振りを覚え、ちょっとした筆記具を携帯しておけば、飢え死にすることもないし、寝るところが見つからないということもなく、ずっと遠くまで、いろんな土地やそこの人々と知りあって楽しく旅を続けることができる。

ヴォルガ川からライン川に話を戻そう。ツェラー湖(またの名をウンター湖)に入ると、流れはずっと穏やかになる。コンスタンス湖の景色に比べると満足できるとまではいえないが、冠雪した山々を背景に持つこの湖は美しくはある。しかも、残念ながらコンスタンス湖には島がなかったが、このツェラー湖にはいくつかあって、そのうちの一つはかなり大きいのだ。ぼくが到着する前、フランス皇帝*1が湖畔の城に二日滞在していたらしい。カヌーで旅している男がやってくると皇帝が知っていたら、もう一週間ほど滞在を延ばしていてくれたのではあるまいか3

皇帝陛下と朝食をともにするには遅すぎたとはいえ、ぼくはカヌーを漕いでシュテックボルンの村に入った。文字通り川の縁に宿屋が一軒建っていて、川旅をする者には便利この上ない環境だ。ライン川のこの付近では、こうした場所をよく目にした。そういうところでは、パドルを手に持ったままドアをたたき、犬に吠えられたりもせず食事を注文できる。熱々のジュージュー音を立てている食事にありつけるのだ。テーブルの支度ができるのを待つ間、カヌーの荷物を整理し、カヌーを窓辺のバルコニーに係留しておく。朝食や食事をとる間も、休憩したり本を読んだり絵を描いたりしている間もずっと、自艇は目の届くところにあるわけだ。

経験から学んだことだが、子供というものは、どんなやんちゃな子であっても、川に浮かべてあるカヌーにちょっかいを出す者はほとんどいない。だが、大人は別だ。どんなに好人物でも、小さな舟が岸辺に残されていたりすると、それを引っ張ってみたり、つっついてみたりしないと気が済まないらしい。



原注
3: この皇帝とカヌーについては、次の記事が参考になる。この記事は四月二十日(皇帝の誕生日)の「グローブ」誌に掲載されたものだ。


「今朝発行された1866年4月6日付の布告により、大臣は、1867年の万国博覧会において、プレジャーボートおよび河川の航行に付随する技術と業界に関連するすべてについて特別展示を行う団体のための特別委員会を設置する。この措置は、素人愛好家の航海が過去数年間に担ってきた重要性を示し──報告書で示されているように、この新しいスポーツに名誉を与えるもので、フランスにおいてこれが発展することを長く妨げてきた古く馬鹿げた偏見をなくすことにつながると考えられている。なんでも英国風を好む皇帝は、特に英国のスポーツすべてを模倣して取り入れることを積極的に後援するようになっているが、マクレガー氏の『ロブ・ロイ・カヌーの航海』を読んだ後、カヌーを展示するよう提案したと言われている。『ロブ・ロイ・カヌーの航海』では、プレジャーボートは単に楽しいだけではなく、フランスの若者たちに人里離れた未知の川や渓流を一人で探検するという多くの新しい発想が展開されている。」


バルト海での航海に用いたロブ・ロイ・カヌーはパリで開催されたこの博覧会に展示された。皇帝はセーヌ川でこのカヌーの性能を自分の目で確かめ、すぐにサールから姉妹艇のカヌーを購入し、それを王位継承者に与えた。この継承者はロイヤル・カヌークラブの一員となったとき、愛艇をローヌと命名し、船長とカードを交換するという良き慣習に従った。

訳注
*1: フランス皇帝 - ナポレオン三世(1808年~1873年)。フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの甥(ルイ・ナポレオン)のこと。
ドイツとの普仏戦争で捕虜になった後、晩年は英国のロンドンですごし、その地で没した。


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現代語訳『海のロマンス』23:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第23回)


水の上で水の苦労

「事業やめ五分前」という風下当番(リーサイド)の予告に、今日もまたこれで平安に暮れたという、ちょっとのどかな気分が人々の胸に浮かぶころ、午後三時半の事業やめのラッパが心地よく、あまねく響きわたる。

フィラデルフィアの鐘*1が独裁(ティラニー)と独立(リバティ)との鮮やかなる分界線をなしたように、このラッパの音は力仕事と遊戯との鮮やかな境界線である。このラッパを境にして、二つの相異なれる性質と内容とを有する王国が隣(となり)あっている。本船では、左右両舷の当番の交代により、午前は九時より十一時半まで、午後は一時より三時半まで、二時間半の日々の作業がある。帆縫い、錆(さび)おとし、ペイント塗り等がその主な成分(エレメント)である。


*1: フィラデルフィアの鐘 - アメリカの独立や奴隷解放などの節目に、この鐘が鳴らされ、自由独立の象徴となっている。 現在は「自由の鐘」と呼ぶのが一般的。

三時半から七時半までの四時間を子供時間というのは、すこぶるゆかしい響きを与える。輪投げに二つ勝った、三つ負けたと、大の男が互いにシッペをしあっていると思えば、一方には、甲板球技(デッキゴルフ)にAは2、Bは5と血眼(ちまなこ)になって勝ち負けを争っている。ある者は船倉蓋(ハッチ)の上で禅ざんまいの瞑想にふければ、船首楼(フォクスル)で岡田式静座法で肺と横隔膜の操(あやつ)りに夢中の者もある。この労苦(ろうく)から放楽(ほうらく)に移る瀬戸際に立って思い切りの悪い雨雲のように、うろうろと歩きまわっている者がある。真水(みず)当番がこれだ。

一号から二十二号に分かれた十六の部屋から毎日一人ずつの真水(みず)当番なるものを選出して、一室八人が使用する真水(みず)が支給される。本船は品川を出帆するときに総容積七百トンの船槽(タンク)にいっぱいの真水(みず)を積みこんできたが、三時半のラッパを合図に真水(みず)士官とも呼ばれる四等運転士(フォース)が来て真水用のポンプの鍵を外す。薄汚い事業服(ジャンパー)を着た十六人の男が三つずつ小桶(バケツ)を持って中甲板(ちゅうかんぱん)に集まる。見ようによっては、鮫ヶ橋(さめがはし)近辺の共同井戸の光景(さま)とも思われるだろう。

一つの小桶(バケツ)にはほぼ五升(しょう)ほどの真水(みず)が入るので、一人一日が使用できる水の量はわずか二升である。この二升の水で顔も洗えば口もすすぐ。なかには冷水摩擦などとしゃれるのもいる。その使い方の細かいこと、細かいこと、なかなかの手際で、鮮やかだとほめてやるべきである。海水(みず)の上で真水(みず)に不自由するのは、銀行に勤めて金に不自由するようなもので、医師を商売にして病気をやるように、また嘘の花柳界(ちまた)に育ってもだまされるように、皆、前世の宿縁(しゅくえん)である。船乗りに向かって海水浴を平常(へいぜい)するから体が丈夫になるだろうとか、海からの生魚を直ちに口にするのはうらやましいなどと言ったら、それこそ大変! 神経質な船乗りはそれを比喩的(アイロニカル)な喧嘩(けんか)を吹っかけていると早合点するだろう。

おっと話が上陸した。そうそう、そこで十六人がわれがちに飛びつく。いの一番にかけつけた者が水を一番先にとるのだから、横着者(おうちゃくもの)は気の毒にも呆然として、十五分ほどは立ち続けて待っていなければならない。後から行ったものは、たちまちベヤリ損(そこ)なうことなる。

弥生が岡の寮舎(りょうしゃ)にコンバル、ギキョルなどの新語があるように、練習船の中にもベヤル、コミヤルなどの珍熟語がある。ベヤルはいわゆるベヤリングをとる(方位を知る)の省略(アブリビエーション)で、着目するとか先鞭(せんべん)をつけるとかいう場合に用いられる、外国の港でスタイルのよい金髪の女性が客としてたくさん来るときなどは、盛んにこの言葉が用いられる。コミヤルはヤリコメラルの反対で、コッソリ失敬するとの意味である。

せっかく汗水たらして汲(く)んできた真水(みず)を、いつの間にかコミヤられて落胆(がっかり)することがしばしばある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 36:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第36回)


スイスの国境付近のホテルでは一般にドイツ語とフランス語のどちらも通じるし、人々はこうした外国の旅行者の相手をすることにも慣れている。

とはいえ、村をめぐる川旅では、こうした便利なウェイターや複数の言語ができる案内係がどこにでもいるというわけではない。つまり近くにいる人とか、ぶらぶら歩いている通行人に話しかけるしかないわけだ。

言葉が通じない外国からの旅行者と頻繁に接する機会のある人々は、少しずつ「身振りで示す言葉」を習得していく。互いに同じような仕草をやっていると、仲間意識も芽生えてくる。そうなってくれば土地の方言とかなんとかってことも関係がなくなって、カヌーを運ぶ手伝いをしてくれる人を見つけたりするのも簡単だ。つまり、こんな風にやるのだ。

まずカヌーを岸につける。カヌー内部を片づけ、スポンジで水を拭き取ったり、スプレースカートを外したりしていると、そのうち人々が集まってくる。そこで、ズボンのベルトを締め直して歩く用意を整えておく。、ニコニコしながら周囲を見まわし、気のよさそうな人を探し、英語で丁寧に次のようなことを話しかける。身振り手振りは、自国語でその内容を説明しながらやると、より自然にできるようになる。「え~と、ずっとご覧になってたので、ぼくが何をしたいかわかりますよね。これからホテルに行きたいんですけど、そう、ヤ・ド・ヤ。ほら! あなた、──そう、あなたですよ! カヌーのそっち側を持ち上げてくれませんか、そう──そっと、ね、ゆっくり、ゆっくりですよ!──いいよ、そう、腕の下に、こうやって。そう。じゃ行きましょうか、ホテルまで」

となると、自然に行列ができる。子供たちが面白がって先導してくれる。そういうのが好きな子供って、どこにも必ずいるものだ。ギリシャ神話の上半身が人間で下半身が馬のシーレーノスを取り囲む家畜神のファウヌスのように、皆がカヌーを取り囲み、踊るように飛び跳ねたりしている。女たちはそれを見つめたまま、群衆が通り過ぎるまで、おとなしく待っている。土地のお年寄り連中は行列から少し離れた安全なところにいる。こうした行進は、じっくり眺める価値があるのだろう。
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というような具合に、身振り手振りで何かを伝えたいときには、それにあわせて、彼らがわかるような名詞や副詞をその国の言葉で一言、口にするだけで足りる。その代わり、はっきりと発音し、正確に使う必要がある。それが相手にうまく伝わりさえすれば、後は無言でも、全体として間違いだらけの下手なドイツ語でも、うまく理解してもらえる。

とはいっても、その肝心の名詞が思い出せなかったり──あるいは、そもそもそういうことすら下調べしていなかったり──した場合でも、しっかり考えてやれば、それなりに分別のある人が相手の場合は身振り手振りでもかなりの程度正確に伝えることができる。こんな風に──

少し前のことだが、北アフリカのチュニジアにあるカルタゴを出て、アルジェリアの海岸沿いにカヌーで旅したことがある。案内人は、現地で見つけた生粋のカビル族の男だった。どこに行きたいかについては、あらかじめ彼と契約し、訪問地のリストを作っておいた。ところが、その案内人は、ぼくが訪問を希望していた場所を平気で通り過ぎていくではないか。

ぼくはそれを伝えようとしたが、どうしても通じなかった。というのは、ぼくのアラビア語はシリアで覚えたもので、彼の言葉とは発音が違っていたのだ。そうしたある夜、ラバを飼っている集団と出会い、長老がぼくらをジプシーの馬車のような小屋に泊めてくれた。そこで、ぼくは英語で話しながら身振りで目的地について長老に説明した。この案内人はぼくの希望する場所を通り過ぎてしまったのだ、と。それから、ぼくはその場所の名前を発音してみたのだが、全部違っているか、相手にわからせることはできなかった。その場所は「マスクタイン」とか「魅惑的な水域」と呼ばれているのだが、火山性の美しい渓谷で、いたるところで水が沸き上がるように流れ、小さな塩の山ができているところだった。

月の光に照らされて座りながら、身振り手振りでこのむずかしい場所について伝えようとした。ぼくはパイプを砂に浅く埋め、手に水をくんだ。アラブ人はこうした身振り手振りの言葉が好きなので、長老は穴のあくほど見つめている。ぼくは掌の水をパイプのボウルの火に上から降りかけ、吸い口から息を吹き込んでそれを砂ごと吹き飛ばした。その間もずっと英語では説明をしているのだ。同じことを再度やってみた。すると、このイシュマエル*1の子孫の黒い瞳がパッと輝いた。彼は額を打ち、飛び上がった。「わかった」と言っているのだ。それから彼はいびきをかいていた連れのガイドをたたき起こし、大きな声でそのことを教えた。それで、ぼくらは翌日、ぼくが行きたかった場所にまっすぎ向かうことができたのだった。



訳注
*1: イシュマエル - 聖書の創世記に出てくるユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰する人々の始祖とされるアブラハムの長男。

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現代語訳『海のロマンス』22:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第22回)


無線電信

どこか天空から断続的にぶきみな音が聞こえてくる。薄い鼓膜に耳に残る波調(リズム)を与え、非音楽的な共鳴を起こさせる間隔をとって、細かくきざんだツゲのクシの目を逆なでしたような音がしたと思うと、ピカピカッピカピカッと長短(ちょうたん)相連続(あいれんぞく)する青い閃光(せんこう)が後檣(ミズンマスト)の空を激しく彩(いろど)った。

午後八時から初夜当直(ファーストワッチ)に立っている三十人六十の眼(まなこ)は一斉に、百メートル四方の闇の空に飛ぶ。波は平らで雲もない穏やかな夜である。空中にある電気のエーテルの弾力性(エラスティシティ)は最もよく安定しているだろう*1。無線電信にはもってこいの夜だと言わねばならぬ。青い閃光はくだけて夏の空に散りばめられた星になったかと思うほどに飛散して光っている。その闇の空に向けられた人々の眼(め)には、欣喜(よろこび)の色があふれている。

母国での最も荘重なる、最も偉大なる、最もめざましいできごとを見ることができないのは遺憾(いかん)の極みである。せめては一瞬も早く事の成り行きを知りたいというのが、四千海里離れた船上にいる二百人の日本臣民の悲しき衷情(ちゅうじょう)である。無線電信は二十日ぶりに八百海里をへだてたサンフランシスコの領事のもとに打たれたのであった。年号が大正となったと、誰やらがしたり顔で噂をしている。大正は大成に通じるという喜びもある。

しかし、住みにくい世の中をのがれ、誘惑の多い刺激と色彩の追っ手の眼をくらますには、船に乗って悠々と大海原に浮かび出るにかぎる。霞(かすみ)を食らい露(つゆ)を飲まずともすむわけである。盛者必滅(せいじゃひつめつ)色即是空(しきそくぜくう)と観(かん)ぜなくてすむわけである*2

そういう者には、無線電信はいらぬおせっかいである。呪詛(じゅそ)すべき仇敵(きゅうてき)である。憎むべき外道(げどう)である。マルコーニはデビルに相当することになる*3。陸上(おか)から二千海里の沖に出たときにはじめて、世間のしがらみのない別世界にたどり着くわけで、そうなると、自(おの)ずから微笑が浮かんでくるだろう。すべての人間社会の権威や約束や情実などとは関係のない大自然の懐(ふところ)に入るのだ。一生涯このような境地にあるのは無理だとしても、一月(ひとつき)でもよろしい。一日でもよろしい。永劫より永劫に続く、時の流れの一瞬をつかみ、ごく短い間でも心の落ち着きを勝ち得たならば、その分だけ陸上(おか)の煩瑣(はんさ)な生活に比べて幸福だろう。

昔、陸上(おか)に住む人間がこう言った。周囲の海は清く、天下泰平(てんかたいへい)である。しごく平穏なので、吾、これから酒を飲もう、と。いかにものんきそうである。いかにも虚心坦懐(きょしんたんかい)のようである。しかし、その次に、たちまち酔って下手な踊りを踊る、ときた。これだからウンザリする。いくら酔ったって、いくら太平だったって、下手な踊りでは何の役にも立たない。祈祷(いのり)の席で、あくびをしたよりもひどい。船の上ではいくら踊りを踊っても、人としての情などない海を相手では、手ごたえがなかろう。無線電信で耳元で青い火を出してジッジッと来るまでは、吾、まさに酔わんとす、である。海という詩境に逍遥(しょうよう)することができる。すべての煩悩(ぼんのう)や絆(きずな)から解脱(げだつ)することができる。何を好き好んで利害の風に吹かれたいのだろう。何のために浮世(うきよ)の音をききたがるのだろう。……と、ふいに自分は大成丸の船上にいる一人であって、船はすでに一時間五マイルの速力で無線電信の有効距離圏に入っているのだと悟ったとき、いくらもがいても駄目(だめ)だと思った。

だからサンディエゴを出帆して再び海に出るまでは、この世間と没交渉の別世界については、当分見合わせとする。そのサンディエゴには、手紙というすこぶるつきの人間世界のしがらみの束が届いているに違いない。ヤレヤレ。


脚注
*1: エーテルの弾力性 - かつてアインシュタインの特殊相対性原理や光量子仮説が登場するまで、エーテルは「宇宙に満ちている物質」で、光の波動説では「光を伝えるもの」とされていた。
今の知識では意味不明に思われるが、ここでは無線電信の電波の伝搬状態がよいことを述べている。


*2: 盛者必衰、色即是空 - 前者は平家物語でよく知られているが仏教の無常観に由来し、後者も仏教の般若心経に出てくる言葉で、いずれも世の中が無常であることや万物は空であるといった趣旨。


*3: マルコーニ -グリエルモ・マルコーニ(1874年~1937)はイタリア出身の発明家で、無線電信の発展に貢献したとしてノーベル物理学賞を受賞している。
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ヨーロッパをカヌーで旅する 35:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第35回)


ここから湖の反対側にあるコンスタンツの町まで漕いでいくのは楽勝だった。とはいえ、そこには税関があり、これを避けて通るわけにはいかない。「カヌーの検査が必要です」「かまいませんよ、どうぞお調べください」というやり取りをしたものの、担当者の上司が不在だったので、明朝までにカヌーを税関まで運んでおいてくれ、という。この件で議論をし、一時間も無駄にした。ぼくはまず「スイスは自由なんじゃないのか」と抗議したい気持ちだ。とはいえ、コンスタンツはスイスにあるのではなかった。この場所は、厳密にはバーデン大公国になっていて、「大」公国という名前を守るために重箱の隅をつつくようなことをやって旅行者を閉口させているわけだった。気のいい地元の人が一人、そういうお役所仕事は恥だと思ったみたいで、カヌーを調べて問題がなければ通してやれよと説得してくれた。

その担当者はまるで三千四百トンもあるブリッグ型帆船でも調べているかのように、小さなカヌーの検査にたっぷり時間をかけた。で、その検査が船尾まで達したところで、ぼくはおもむろにカヌーの隔壁にある丸い穴を指さした。彼はその穴をのぞいた。人だかりができていたが、沈黙して見守っている。穴からのぞいても真っ暗で何も見えない(実際、何も入ってはいないのだ)。お役人は厳かにカヌーについて「入国可」と宣言した。というわけで、晴れてカヌーをホテルまで運ぶことができたのだった。

とはいえ、コンスタンツは、ヤン・フスという、実際に「大」という尊称をつけたくなる、真実を探求する気高い殉教者*1とも縁のある土地なのだ。公会堂では、数百年前にヤン・フスが投獄されていた正真正銘の独房があり、以前に旅行でここを訪れたとき、ぼくは塔から望遠鏡でそれを眺めたことがある。ヤン・フスは鉄の棒で串刺しにされ、火あぶりに処せられた。そのため、彼の偉大な魂は、燃え盛る薪(まき)の山を脱して昇天した。

報復を、ああ、主よ、あなたの聖徒が虐殺され、その骨は凍てつくアルプスの峰々に
捨てられてしまいました
神父たちがことごとく物や石ころをありがたがっているときでさえ
純粋にあなたの真理を守り続けていたというのに

ミルトン*2

ライン川は川幅が広かった。水深があって、かすかに青みがかっている。透きとおっていて、水面下のものもよく見えた。小石まじりの川底は下の方からカヌーへ向けてめくれあがってくるようだったし、集落にある教会なども土手の上で静かに回転しているようだった。川ではなく、土地とそこにあるものの方が動いているように思えた。それほどに川面は鏡のようになめらかで、川はおだやかに流れていた。

この川でもまた漁師を見かけるようになった。立派な網を仕掛けたりしている。さらに、川には四本の杭(くい)の上に建てた標的小屋もあった。標的というのは、一辺が六フィートほどの巨大な立方体である。川の中にある柱の上に設置された別の小屋から、その標的に向けて射撃がなされるのだ。巨大な木片の背後の安全なところに隠れた記録係が、巨大な木片を縦軸に沿って回転させて銃痕を修復し、当たった位置を知らせていた。

コンスタンツ湖はボーデン湖とも呼ばれるが、湖を離れてライン川に入るとまもなく、水路の幅が急激に狭くなった。川幅は逆に幅一マイルか二マイルほどに広がっていた。つまり、あちこちに草の生い茂る島ができていて水路が枝分かれしているのだ。長い棒を差し込んでみると、水の勢いに押されて揺れ動くのがわかる。蒸気船の航路は非常な回り道となっているが、カヌーはそういうところでも快適に飛ぶように流れていくことができる。丈の高いアシの茂った島の背後には、それぞれきまって釣り船がいて、川底に打ちこんだ二本の杭に係留されていたり、釣り船の主が片手でオールを操って音もなく漕ぎながら、魚がいそうな淀みに向かって移動したりしていた──かなり新しいやり方だ──その漁師のもう片方の手は網を繰り出しているのだ。粗雑な造りの荷船も浮かんでいた。深くて流れのあるところでは、なすすべもなく、ぐるぐる回っていたり、巨大な四角い帆を揚げてもっと深い方へ向かおうとしていたり、あるいは無風状態で巨大な四角い横帆が垂れ下がっていたりした──帆の外観については、上下に幅広の紺色の線が二本引かれていた。帆ということでは、ジュネーブの先端がとがった大三角帆*3を広げた様子、特に二本マストで白い帆をこちらに向けて穏やかな追い風を受けて両舷に二枚の帆を展開している様子は、艤装という観点からは、巨大な横帆よりはずっと優雅に見える。

このあたりの川底はかなり起伏があって流れも速いので、ところどころで大きな渦ができている。しかも沸騰するように下から突き上げては盛り上がり、また奇妙な崩れ方をしたりしていた。そしてまた、さっと大きな円を描くように渦をまいてから前方へと進むのだ2



原注
2: こうした大渦は、慣れていないと、接近するにつれて非常な注意が必要に思われるが、そうたいしたことはない。というのは十分に水深があるので、渦はカヌーをひねるように傾けて回転させようとするだけだ。帆を揚げているときは別だが、そう気にすることはない。後戻りしていないかだけ注意していればよい。こうした渦の一つを全速力で横切ってみれば、バウの突然の動きにパドルで対抗する必要すらないことがわかるだろう。何かがカヌーの航行に干渉するわけではなく、そのままこらえておいて、それから渦と逆の方向に漕いでやれば何の問題もない。
 

訳注
*1: ヤン・フス(1369年~1415年)は、チェコ出身の神学者で宗教改革家。歴史的に見ると、マルチン・ルターの宗教改革より百年以上も前から、さまざまな宗教家がカトリック教会の腐敗を糾弾していた。
ヤン・フスもその系譜に連なる一人で、ローマ・カトリック教会を非難したために破門となり、1414年のコンスタンツ公会議で異端として火あぶりの刑にされた。
 

*2: 「報復を……」 - 『失楽園』で知られる十七世紀・英国の詩人ジョン・ミルトン(1608年~74年)の「ピエモント山の虐殺」と題するソネットの冒頭。
1414年~1418年にコンスタンツで開かれたローマ・カトリック教会の公会議で、ヤン・フスは異端とみなされ火刑に処せられたが、この詩はその出来事に触発されたもので、教会の腐敗に対して「神に報復を求め」ている聖書の黙示録の一節(6-10)を下敷きにしている。

*3: 大三角帆 - 帆の形やリグ(艤装)については、こちらで図解しています。

帆(セイル)やヨットのリグ(艤装)による分類と名称

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現代語訳『海のロマンス』21:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第21回)


船に無賃乗船した生き物たち

本船が七月十八日に房州(千葉県南部)の一角から辞し去ったとき、三種類の生き物が勢力を増やそうと、この世界的大旅行の途(と)に加わった。すなわちネコと赤とんぼとハエである。ネコは前に述べた船随一の愛嬌者である。

けなげにも一人、雄々しくも、なつかしき故郷の山野を離れ多くの仲間と別れて、本船に舞い込んだ赤とんぼ君は、二、三日の間はその美しい姿を船室(キャビン)の中に輝かせていたが、船が北上するにつれて加わってきた寒気のためにか、露が多く空気が冷ややかなある朝、そのあわれな最後の姿が後甲板の上に見出された。

最後に登場するハエこそ、世にも横着にして動いてやまざる底(てい)の不敵な曲者(くせもの)である。室町幕府の知恵袋といわれた細川頼之(ほそかわよりゆき)*1を出家させて以来、ハエはうさんくさいもの、しつこいものと相場が決まった。四枚の羽と六本の足でさえだいぶ厄介であるのに、複眼という八方にらみの怪しい道具を頭につけている。ときどきは造物主の持つ気まぐれな、いたずら好きの一個性をつくづくうらめしく思うことがある。こんな奇妙な動物を人間の厨房(キッチン)や居間に放った造物主の行動はすこぶる皮肉である。冷ややかなアイロニーである。いろいろの妖怪変化(ようかいへんげ)をパンドラ姫の箱に入れたジュピターの悪戯(いたづら)と同じである。いままで梁(ビーム)におった一匹のやつがブーンと不気味にうるさい音をだして降って来たと思ったら、自分の当然の権利であるかのようにゆらりと筆の先にとまる。じっとしばらくその行動を注視する。

悠々(ゆうゆう)として慌(あわ)てず急がず、後足をくの字に曲げて薄い羽をしごいている。しゃくにさわったから軽くフーッと吹いてみる。それでもいやに落ち着いて、静かに片方の二枚の羽と三本の足を動かして巧みに元の姿勢に戻り、効力の平均(バランス・オブ・エフィカシー)という力学的証明を最も簡単に最も愚弄(ぐろう)する方法でやってのける。愛想もこそもつき果てて、ただ見ていると、図に乗って今度は前の二本足を熊手のように動かし、例の傑物の眼をでんぐり返るほどゴリゴリとこする。やりきれない。ヒョーッと突然(だしぬけ)に一大陣風(スコール)を口から吐き出す。少しはひるんだろうと思ったら、パッと飛んでツーと電光石火(でんこうせっか)のごとく眉間(みけん)の真ん中にへばりついた。いまいましいと思って、十分の用意と成算とをもって、くたばれとばかりに額を打ったら、いたずらに悄然(しょうぜん)たる響きを残して高く飛び、舷窓(スカッツル)の縁(へり)にいた仲間の一つに飛びついた。付和雷同(ふわらいどう)と模擬踏襲(もぎとうしゅう)との両性能の活用において、ハエは犬にも劣らぬ豪(ごう)の者である。

一波起こって万波生じる。一匹の奴がさわぎだしたらもうだめだ。喧々囂々(けんけんごうごう)と百畳の食堂は一面にただハエの羽音のみだ。本船には種々の生の食料が保管されており、日々の献立(メニュー)を塩梅(あんばい)する衛生係は三人の学生が担当している。今、一人の衛生係が黒板に何か書いている。

今やハエはわれらの仇敵(あだ)となった。うるさいこと、おびただしい、諸君、とろうじゃないか、衛生部はこの犠牲的努力に向かって寸志を提供する。

    一、ハエ三十匹ごとにサイダー瓶一本
     一、ハエを追ってみだりに士官室に飛びこまないこと

と。
敵将を得たる者には報奨金と領地を与えるとは、春秋時代からの論功行賞の目安である。サイダー瓶一本はすこぶる奇抜(きばつ)である。

ただでさえ長航海の無聊(ぶりょう)に苦しみ、何かないかと手ぐすね引いて機会を狙っている連中である。
ワーッと鬨(とき)の声をあげて歓迎したのも無理はない。ある者は草履(ぞうり)を片手に天井を望んで震天動地(しんてんどうち)の大活劇を演じている。ある者は石油を入れたコップを持って巧みに壁間のハエを誘殺し、孔明の七縦七擒(しちしょうしちきん)の妙計*2を学ぶもの、用意周到に罠(わな)をしかけて待つ者、食堂はたちまちの間に一大修羅場(しゅらば)となった。なかには遠く厨所(ギャレー)や船倉(ホールド)にまで遠征して、にわかごしらえのハエ取りウチワや棕櫚(シュロ)の箒(ほうき)を手に普段は行かないところまで遠征して大量に捕獲した者もある。

多人数の努力というものはおそろしいものだ。さしも真っ黒に見えたハエ群も見事に全滅しさった。ついて衛星係に聞けば、サイダー瓶の支出百四十四本、ハエの死骸は実に四千三百二十と。テルモピレーの激戦*3も奉天の大勝利*4も一歩譲るだろう。



脚注
*1: 細川頼之(ほそかわよりゆき) - 室町時代の守護大名で幕府の管領(かんれい)を務めた。京都の地蔵院(臨済禅宗)に頼之の木像と墓がある。


*2: 孔明の七縦七擒(しちしょうしちきん)の妙計 - 中国の春秋三国時代の英雄・諸葛孔明(しょかつこうめい)が敵将を捕獲しては釈放するという硬軟両方の措置を使い分けて敵将を心酔させるに至ったことから。
原文では七擒七縦(しちきんしとちしょう)となっているが、一般に用いられる語順に改めた。意味は同じ。


*3: テルモピレーの激戦 - 紀元前五世紀のペルシャ戦争におけるギリシャ軍とペルシャ軍との戦闘。ギリシャ軍の中心だったスパルタ国の兵士三百人が全滅したとされる。


*4: 奉天の大勝利 - 日露戦争(1904~1905年)最後の大規模な戦闘となった奉天会戦。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 34:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第34回)


その日の午後は、騒々しい二つの楽団でだいなしになった。両者は明らかにライバルで、互いに負けまいと大音響を出しあっていたのだ。とばっちりを受けたのは、週末を湖畔で静かにすごしたいとやってきた旅行者たちだ。ぼくは湖の周辺で長い散歩をしたのだが、この騒音からのがれることはできなかった。おまけに、戻ってくると、月の光に照らされた湖にボートを浮かべている男がいて、打ち上げ花火を発射したり爆竹を鳴らしたり回転花火を放り投げたりしているのだった。ぼくとしては、遠くの、残雪が満月に照らされている山々をうっとりと眺めているほうがずっとよかった。しかも、頭上には「一つ一つの星」がきらめき、それが湖面にも映っているのだ。

コンスタンツ湖は長さが四十四マイル、幅は九マイルほどだ。翌朝早く、心身ともににすっきりして湖にカヌーを浮かべてみた。湖面には、さざなみ一つなかった。すると、もう一度スイスの旅を、以前とは違う新しいやり方でやってみたいという気持ちになった。まもなく、ぼくはカヌーに乗って沖出しし、どちらの湖岸からも同じような距離にあるところまで漕いでいった。ここまで来ると、どっちに漕ぎ進んでも対岸が近づいてくるようには感じられない。それで、一休みした。このときに感じた興奮は確かに初めて体験するものだった。周囲の景色はどこを見ても美しく、どこを眺めるのも自分の勝手だった。どこにも近道はなく、道路もなく、航路も見えない。時間もなく、せかされる予定表もなかった。パドルを漕ぐだけで右にも左にも行けた。どっちに行くか、どこで上陸するかも、まったく自分しだいなのだ。

聞こえてくるのは、一隻の蒸気船の外輪がゴトゴトいう回転音だけだ。しかも、その蒸気船はまだ遠くにあった。その船が近づいてくると、乗客たちはカヌーに喝采してくれた。ぼくの勘違いでなければ、彼らは笑顔を浮かべ、こっちがいかにも楽しそうに、そして素敵に見えるので、それをうらやましがっているというようにも思えた。これからどうするか少し思案したが、このままスイスまで行ってしまおうと決めた。集落が続く湖岸を漕ぎ進み、奥まった入江にある小さな宿屋に寄ることにした。カヌーを係留し、朝食を注文した。宿には八十がらみの老人がいた。彼が主人で給仕も兼ねているのだった。立派な人だった。人は年を重ねるにつれて、年長者には敬意を払うようになる。

その宿屋で食事をしたり本を読んだりスケッチをした。暑く、静かだった。そうしていた五時間ほどの間、彼は日向ぼっこをしながらぼくの話相手をしたり、ぼくの目を山々に向けさせたり、眠そうな声で何かを答えたりしていた。今度の川や湖の旅では、平和でほとんど夢のような休息のひとときだった。激しい川下りをしてきた後なので、なんとも心地よかった。ここには、カヌー旅につきものの急流や悪戦苦闘というものがまったくないのだ。

宿屋の近くに介護施設があった。古い城で、少し認知症気味のかわいそうな女たちが入所していた。カヌーに取り付けた小さな旗が彼女たちの注意を引いた。入所者たちは全員外に出るのを許され、カヌーを見物に来た。楽しそうに笑顔を浮かべ、訳のわからないことを言ったり身振りで示したりしている。この奇妙な集団と別れると、他の場所でまた上陸した。一本のすばらしい樹木があったので、その木の下で一、二時間かけてカヌーの損傷したところを修理した。ちょっとした道具は積んであるのだ。今度の旅の次のステージではイギリス人の視線も気にしなければならないので、念入りに磨き上げた。

あまりに暑く、湖には波を起こすエネルギーすらなかった。羊につけてある鈴が、ときどき、疲れて気乗りしないように、不規則にチリンチリンと鳴っていた。一匹のクモがカヌーのマストから木の枝まで糸を張り、セキレイが近くの小石の上を跳ねながら歩いている。湖水に半分浸かった状態のカヌーと、そばの草むらに寝転んでいるぼくの方をいぶかしげに見つめたりしていた。


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現代語訳『海のロマンス』20:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第20回)


ああ、七月三十日

帆を操作するために帆桁(ほげた)に取り付けられているタックというものがある。直径三インチ(七・五センチ)の鋼のロープだ。簡単には切れそうにない女の髪の毛は一房でも大きなゾウの強さをつなぐに足るそうである。ましてや太く強い鋼(はがね)の線である。見ようによってはずいぶんと強そうである。

バビロンの城壁はたあいもなくユーフラテス川の河畔に埋まり、ラメス王のオベリスク*1はその見苦しい姿をロンドンの真ん中にさらしている。そういう世の中である。まして、本当に細い一本のロープだもの、時間の経過という力の前には、すべての物質は無力である。ささいなことを論じるスコラ哲学には「朽ち果てて終わる」とある。

[訳注]*1: ラメス王のオベリスク - ラメス王は古代エジプトのファラオ(王)であるラムセス二世(治世は紀元前13世紀ごろ)と思われる。

オベリスクは特に古代エジプトで製作された細長い塔状の記念碑を指し、ロンドンには通称「クレオパトラの針」と呼ばれるオベリスクがある(かの有名なクレオパトラとは直接の関係はない)。
古代エジプトのオベリスクでは、ロンドン、パリ、ニューヨークに移設されている三本がよく知られている。

見ようによっては、芋のツルより弱くて切れるかもしれない。しかし、それほど風も吹かない快い凪(なぎ)の日であったんだが、などと小首をかしげても追いつかない。自分はこんなことを考えながら練習船の主帆(メンスル)の切れたタックを眼前にながめた。

ときは明治四十五年、七月三十一日の午前七時である。場所は北緯四十度八分、東経一六七度四十五分、広大な北太平洋のただなかである。タバコをかんで黄色いツバをペッペッと吐いて「ウイスキーこそ船乗りの生活にふさわしい」と歌った昔の船乗りは古い物語の中に葬り去られた時代である。デルファイの巫女(みこ)*2などはやらなくなった今日である。蒸気とプロペラとが、帆とロマンスを海から追放した海の上である。まして科学的な頭と排神秘的思潮とを持った賢明なる二十世紀の船乗りの前である。

*2: デルファイの巫女 - 古代ギリシャのデルファイで、神の意思(神託)を伝えるとされたアポロン神殿の巫女(みこ)。政治にも影響を及ぼしたとされる。

であるから、もしもこれよりわずかの後に、前檣(フォアマスト)のローヤルが目に見える変化の手で引き裂かれるようにビリビリとフットロープから見事に二つに裂けて飛んだりしなかったならば──まだ帆船では十三日という数字の威嚇(いかく)と金曜日という週日の権威とが失われていない*3のであるから──これほど乗組員の注意を引くことはなかっただろうに。

*3: 十三日の金曜日 - 一般には「キリストが磔(はりつけ)になった日だからキリスト教圏では不吉」とされているが、これは俗説で、明確な根拠はないようだ。洋の東西を問わず、迷信というのはそういうものかもしれない。

知識は記憶の堆積であるといえるならば、不安は同性質の予報的な奇妙な現象が集中することにより生じると推論することができる。ローヤルの破れた頃から、そろそろ人々の顔には疑わしい、不思議だ、妙だという雰囲気が流れ出した。迷信的な思いこみがソロリソロリと人々の頭を支配しかかる。神秘的な気分が船の空気を染めはじめる。シャロットの女の鏡*4はかくてだんだん曇りはじめた。雨でさえ降る前には青嵐(せいらん)が堂に満つといわれている。何事か起こらねばならぬ。

*4: シャロットの女の鏡 - 英国に伝わるアーサー王伝説に登場するシャロットは、英国の詩人テニスンの詩『シャロットの女』のヒロインであり、彼女をめぐる悲劇の詩に触発されて多くの絵画も描かれている。
シャロットは現実の世界を見ることを禁じられ、鏡を通して世界を見ていた。
夏目漱石の『薤露行(かいろこう)』はアーサー王伝説を取り扱ったファンタジー小説だが、この中でシャーロットの女についても取り上げている。

事件の進行が発覚するには、ある程度の空間と時間の推移とが必要であると哲理は教えている。空間は二千何トンという大容積で十分である。この上はただ時間の推移を待つばかりだ。

一時間後の船内の空気は、依然として静まりきっているわけにはいかなかった。時間の推移とともに、シャロットの女の鏡はついに破れた。そのときは北太平洋の妖霧(きり)のために乗組員の心を腐らせ、根気をけずり、神経を逆なでするするように、うっとうしく憂鬱な状態が続いていた。この場合、この霧はかなりの効果(エフェクト)を示すなかなかの背景だったと言わなければならない。加えて、無線電信という道具も加わった。ジャキジャキと鯨の脂肉を鉄火にあぶったような音と、青くすごく光る威嚇的で幽玄な光がまだほの暗い下甲板に射しているところはなかなか壮観である。舞台は整っていた。

天皇陛下のご病状については、七月二十二日に石橋校長から

陛下は十四日来胃腸を害せられ、体調不良のところ十九日より腎臓炎を併発され、熱が四十一度、脈拍が百八となり、すこぶるご重態にして、誰もが憂慮(ゆうりょ)している

との来電があってから以後、二十四日には、陛下はその後は快方にむかわれ、誰もがほっとしているという情報が、二十七日には、陛下のご容態はまたまた悪化し、脈が百七、熱が三十九度になられたという情報が、二十八日には、ご容態は良好に転じたとの報に接し、歓喜に堪えず、なお神のご加護と国民の心をこめた祈願により全快されることは疑いなしという情報の、計四回の喜憂(きゆう)相なかばする消息が伝えられたが、その後はなかなか晴れない妖霧(きり)と戦いつつ、心ひそかに憂慮(ゆうりょ)しながらもなお最後の望みがある消息に慰められていたのだったが、この日の朝になって、九時に整列し作業を開始するという航海中の行事が中止になり、九時半に総員、後甲板(こうかんぱん)に整列するよう命じられた。

ひょっとしてと、心臓が少し縮み上がって、肋骨の三枚目をける。四角い重いものがスーと腹の下から浮いてきて、胸のなかでもだえるように揺れ動く。どこの船室でも重苦しい空気だが、ヒソヒソとはばかるような低い声がしている。誰の顔にも緊張し興奮した様子と、おそろしく真面目な表情がみなぎっている。

暗い表情を浮かべた百十五の顔が後甲板に並ぶと、恒例の分隊点検が済んだ後、「集合っ──」と全員を海図室の前に集めた船長は、厳粛かつ荘重な口調で、まだ学校から正式の通知は来ないのだが、銚子局発の某軍艦および郵船会社の〇〇丸宛の無線通信により、畏(おそ)れ多くも天皇陛下におかれては、七月三十日午前零時四十分、ついにご崩御されたことを、ここに遺憾ながら発表する、国民として誠に哀悼の念に堪えないしだいであると述べ、いま我らは遠く千五百海里も離れた洋上にあるわけだが、母国にいる国民と同じように陛下の赤子(せきし)たる思いを胸に、八月一日午前十時二十五分──東京のちょうど八時──に先帝陛下の奉弔(ほうちょう)式を、または七月三十一日午後二時十五分──東京の正午──に新帝の即位祝賀式を挙行すること、ならびに今後は当分の間、行事および教習を中止し、音楽や唱歌や遊戯(ゆうぎ)を禁ずる旨を公表された。

ついに来た。もしやと思ったことが、ついに来た。言葉につくせない感情が湧いてきて、いまさらのごとく胸をふさぐ。寒い刃(やいば)の光が暗闇にひらめき、匕首(あいくち)を直ちにズバと胸元に突きつけられたような気持ちとでも言おうか。
かくて、自分らはその生涯に二度とない世界一周という革新的経験を試みつつある最中だったが、はからずもこの偉大なる荘厳で悲しみに満ちた国家的規模の革新を経験したわけである。

天子(てんし)崩ずるときは世の中もまた哀悼すると言われている。自分らも当分は敬虔(けいけん)な態度で筆を洗わねばなるまい。

帆繕(ほづくろ)い

巨大な黄色い帆柱(マスト)は三層の甲板を貫き、甲板から仰ぎ見るその頂(いただ)きは雲にも届きそうなほどで、かすかに揺れている。マストの涼しい影が長く甲板(デッキ)に落ちている。

維摩*5が堂にこもって無言の勤行をなすときのような静寂(しずけさ)が、八月一日以降、船内のいたるところをおおっていた。信号用のラッパはもちろん、士官の号笛(ごうてき)も、伝令管(ボイスチューブ)の鈴音(すずおと)も、すべて音という音は未練なく船の上からふるい落とされてしまった。一秒間六回以上の振動を空気にささやく発音体は禁止されたわけである。このクレタ島の迷宮(ラビリンス)*6のような、荘重な沈黙が保たれている練習船の上甲板(じょうかんぱん)で、かすかな、きわめてかすかなささやきが聞こえる。

*5: 維摩(ゆいま) - 釈迦(しゃか)の在家の弟子。初期の大乗仏教の経典の一つである維摩経(ゆいまきょう)にその名を残している。
黙して語らないことが意味を持つという「維摩の一黙、雷のごとし」など、禅と深い関係もある。


*6: クレタ島の迷宮(ラビリンス) - ギリシャ神話で、クレタ島のミノス王が牛頭人身の怪物ミノタウロスを閉じ込めたとされる迷宮。

練習生の実習科目として、帆縫(ほぬ)いなるものがある。鬼とも組みあって戦うぞという面魂(つらだましい)の豪の者が、甲板に座って、おぼつかない様子で糸で帆をつくろっている姿は、十五番の先が長い縫い針が厚い〇号のキャンバスを縫っていくときの小さなさっさっという音に聞きほれているように見える。手を縫った、指を刺したというような逸話を前の航海で残している二期生の古顔が、きょうは「君、ここはシツケをして一針(ひとはり)抜きにするんだよ」などと、さかんに裁縫の術語(テクニカルターム)を使う。自分の手塩にかけてどうやらできあがった新しい帆(セール)が初めて檣頭(マストヘッド)に高くかけられ、おりからの海軟風(シーブリーズ)に適度に湾曲して、快く船を押しやるのを見るときの快感と軽い誇らしい気持ちは、やったことのない者にはわからないと、髭男の一人が満足そうに見上げている。しかし、日焼けした黒く太い指をした髭面(ひげづら)の男が黙々と、危うげに仮縫(かりぬ)いをしたり、シツケをしたりするのを見るのは、かよわい女が力業(ちからわざ)をなすのを見るときに浮かぶような、ある種の複雑な感情にかられる。

君、こういうところを国のマザーやシスターに見せたら……と述懐する人の気持ちはどうであるか知らんが、自分はこの短い時間のうちに無限の憐(あわ)れさを感じて、真夏の夕暮れのような気分になるのである。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 33:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第33回)


一九三九年、一隻の蒸気船がここを航行しようとしたが、浅瀬に乗り上げてしまった。努力のかいなく離礁できず、そのまま放置された。というわけで、蒸気船に乗るにはドナウウェルトまで行かなければならない。そこからは蒸気船で黒海まで行くことができる。ウイーンから下流を航行する旅客船は高速で予約も可能だ。

ウルムには丸太のイカダが浮かんでいた。こうした丸太はイル川から来たのだろうと思う。というのは、ドナウ川の上流をカヌーで下っているときには丸太を見かけることはなかったからだ。川には公設の洗濯場がいくつもあった。川に大きな建物が浮かぶように設置され、庇(ひさし)が大きく張り出している。五十人ほどの女性が片膝をついたり低い手すりから身を乗り出すようにして一列に並んでいるのが見える。こぞって服を容赦なくたたきつけている。

ぼくはまっすぐその女性たちのところへ向かった。カヌーを上陸させられるようなところがないか、また駅までどれくらいあるのかを聞くためだ。すると、年かさの婦人がカヌーを運ぶための男手と手押し車を見つけてきてくれた。ぼくがイギリスから来たのだと知ると、女性たちは一斉に前よりも大きな声で話をしだし、懸命にたたいたりこすったりしたので洗われている服がかわいそうだった。

例によって駅ではひと悶着あった。とはいえ、カヌーの取り扱いはその半分にすぎなかった。残りの半分はというと、ヴュルテンベルク王がらみだった。この王様がフリードリヒスハーフェンの王宮に行くための特別列車に乗り込もうとされていたのだ。王族の至近距離にゲーグリンゲンからやってきたみすぼらしい不審な男がいる、目を離すな、というわけだ! この王様は明らかに威厳のある振る舞いをされていたが、すべてが王様らしいというわけではなかった。それどころか、誰も乗っていない王室御用達の列車に敬意を表するよう衛兵に命じるときなど、それを面白がっているようなところもあった。

王様の一行はすぐに出発して見えなくなった。

ぼくが山岳や森林をへめぐり波とたわむれていた十二日間に起きた世の中の動きを知るため、ここで新聞を買った。すると、「アレはどうなってる?」といろんな人に声をかけられた。アレというのは、海底ケーブルを敷設していたグレート・イースタン号での事故と、スイスの氷河で起きた災害のことだ。海底ケーブルの破断と山岳地帯における登山者の死亡事故に何か関係でもあるのかと思わせるほどだった。ぼくが新聞を読んでいる間も、列車はフリードリヒスハーフェンに向けて南下していく。カヌーは貨物扱いで、運賃は三シリングだった。気はすすまなかったが、木片を精緻に組みつけたカヌーの磨き上げた前部甲板に荷札が貼りつけられていた。

コンスタンツ湖*1の北端にある港は活気に満ち、汽車を降りて眼前に広がる魅力的な景色を眺めるだけの価値はあった。この地について、湖を渡ってスイスまで運んでくれる蒸気船を待つ間に半時間もあればあらかた見物できると片づけてしまうのは申し訳ない。ぼくは日曜日には休むことにしている。そのためにここに来たのだ(速く、遠くへ旅行したいというのであれば、逆説めくが、日曜日はむしろ休むようにしたほうがよい)。ホテルは駅前にあり、湖に面してもいたので、ここはまさにカヌー持参で立ち寄るためにあるような場所だった。というわけで、ぼくはカヌーを上の階のロフトまで持ち込んだ。そこでは洗濯女たちがカヌーを置いておくスペースを空けて監視してくれただけでなく、親切にもセイルや激しい航海で傷んでいる他のこまごまとしたものまで修理してくれた。

翌日、プロテスタントの立派な教会で礼拝があった。参列者も多く、きらびやかな衣装を着た典礼係が取り仕切っていた。礼拝は一人の婦人によるヘンデル作曲のメサイアから『慰めよ』の独唱という、絶妙かつシンプルなものではじまった。彼女の声は、この厳粛なメロディーが普通は男声で歌われるものだということを忘れさせてくれた。それから大勢の子供たちが祭壇に上がって十字架像を取り囲み、とても美しい讃美歌をうたった。次に参列者全員が加わり、品よく、しかも熱意をこめて讃美歌を斉唱した。若いドイツ人の牧師が雄弁に説教をたれ、散会となった。



訳注
*1: コンスタンツ湖:ドイツとスイスの国境にある湖で、ボーデン湖とも呼ばれる。面積は約536平方キロで、琵琶湖よりやや小さい程度。

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