現代語訳『海のロマンス』68:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第68回)
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高きは例のテーブルマウンテンから、低きは例のユニオン・キャッスルの定期船に至るまで、港内の形象は皆灰青色(はいせいしょく)に黒ずんでいるが、その中に、目も覚めるような雪白色の船体を誇示した練習船が、クリーム色のヤードを品よく上に高くそろえた頂きに血液のごとく赤き羅針章旗(コンパスマーク)をなびかせて入港する。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 82:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第82回)
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水もれするカヌーに乗っているのは、なんとも情けなくみじめだ──足を引きづった馬に乗ったり、銃身の曲がった銃を使うようなものだ。カヌーでは多くの機能が必要とされるが、最優先すべきは信頼性である。それで、最初の村まで来たところでカヌーを止めた。そこで修理してくれる人を見つけてパテなどを調合してもらい、それを継ぎ目に押し当てた。岸辺の宿で食事をする間に硬化してくれるはずだ。その場所では、長大なイカダが組み立てられていた。パリまで下るのだそうだ。宿ではエネルギーに満ちあふれた農夫たちが一瓶二ペンスのワインを飲んでいた。

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現代語訳『海のロマンス』67:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第67回)

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ケープタウン入港の第一印象

偏差(バリエーション)二十九度西、自差(デビエーション)二度西。羅針盤の針路(コンパスコース)南五十度西、
ライオンズヘッドまでの視距離(ディスタンス)十六海里、テーブルマウンテンまで十六海里、時刻は二月十二日午前十一時半。角距離(アンギュラーディスタンス)、右舷(うげん)船首(バウ)一点より右に約七十度*1。

*1: 偏差: 地球の地軸を基準にした理論上の方位(真方位)と磁石が指す方位(磁針方位)との差。
地域によって大きく異なる場合がある。日本周辺では偏差は一般に一桁だが、極地に近いほどずれは大きくなることがある。
自差: 磁針方位と、船に搭載されている方位磁石(コンパス)の指す方位のずれを指す。
方位磁石は近くにある金属の影響を受けるので、自差は船ごとに異なる。また、同じ船でも向いている方角によってその差は増減する。
ナビゲーションでは、方角ごとの自差を測定した自差修正表を用意しておいて方位の調整を行う。
角距離: 二点間の距離を観測者から見た角度で示したもの。

百十七日と十五時間三分、一万二千七百五十六海里という空前無比の、苦しくも楽しい、長く単調な大航海の後、いよいよ二月十二日午前五時、音に聞こえたテーブルマウンテンがうっすらと紫紺色(しこんいろ)をして夢のように淡く見えたときの感慨は実になんともいえないものがある。

クリーム色の黎明(あかつき)の空から、くっきりと浮き出すように立ちはだかったその紫紺色(しこんいろ)の平たいてっぺん!! エー、くたびれたとばかり、武者震いしながら、ヒューッと無造作に横なぐりになぎ払った、造物主の斧が力強く乳白色の空を流星のように流れたとき、一つの峰は無残にもその肩から上を一直線に断ち切られた。……それがたぶんこのテーブルマウンテンであろう。

見ようによっては、たけだけしい獅子(しし)が伏したまま頭を持ち上げているように見えるライオンズヘッドを前景として、サタンを暗示する鬼ヶ峰(デビルピーク)と、救世主を連想させる十二使徒峰(アポストル)とを左右の両翼として、三千五百フィート(1080m)の空中に偉大なる木槌(きづち)のような頭をそびえかせているテーブルマウンテンは実に深い印象を与える山である。

この尊き偉大なる山を、いたずらに船乗りの方位目標物とするのは失礼である。いたずらにスケッチ上の景勝美の対象物として取り扱うのは気の毒である。少なくともなんらかの哲学的意義と、宗教的崇拝と、理学的帰納とを、この尊くも偉大なる木槌(きづち)のような頭に植えつけなくては申し訳ない。

ぼく自身はこのように崇拝(すうはい)し私淑(ししゅく)しているのだが、それにはまったく頓着しない専任教官は「この山をスケッチしろ」という。命令には従わなければならないので、方位は南6度、距離は十八海里などと書いていると、「やー、妙な鳥が──」と、大きく頓狂な声で注意する男がある。見れば、なるほど妙な鳥が不器用に尻を振りながら海水(みず)の中へついついと潜っている。

太い不細工(ぶさいく)な首と、小さな漆黒(しっこく)の厚い羽翼(はね)とを持った水鳥が、かわいい赤い水かきをお尻の下でひらめかしては、水面をのんびり泳いでいる。見渡すと、暑い夏の光線(ひ)がまぶしくキラキラと海水に輝いて、白い縞(しま)が悪光(わるびか)りする水の面(おも)には、同じような鳥があちらにもこちらにもたくさんいる。「ペンギン」に違いないという者、いや違う、あれは「カモノハシ」だというもの、またもや博学博識を競った連中の議論が甲板(デッキ)に花を咲かせる。

三錨湾(スリーアンカー・ベイ)に近づいたとき、ただでさえ暑苦しい夏の光線(ひ)をもてあそんで、突然に大きな建物の二階からピカリッ、ピカッと、光るものがあった。スコットランド生まれの英語教官の説明で、これは光学式電信機(ヘリグラフ)だとわかったが、「あの建物には俺の友達がいる。したがって、このモールス信号の通信は俺にしているのだ」と推論したのには、さすがの生意気盛りの学生たちも、上には上があるものだと感心しきりだった。

船はようやく近づいて、午後の一時頃からは、ケープタウンの町が見えた。外国の町といえば、昨年、サンピエトロで最初の印象を与えられて以来、いつも判で押したように茶色、とび色、あずき色、橙(だいだい)色、土器(かわらけ)色と刺激的色彩のみが意識の上に残った。ぼくはこういう色は死と衰退と憎悪との連想が見る人の頭脳(あたま)に植えつけられるような気がして嫌いである。わがケープタウンの建築もその色彩の上から見て、この悲しむべき同じ傾向から免れることができないらしく、同じく茶色である。とび色である。土器(かわらけ)色である。死と衰退と憎悪の色である。

なかば石垣を築きかけた防波堤をめぐって港内(なか)に入りかけたとき、英国ユニオン・キャッスル社のバルモーラルという定期汽船(一万三千トン)が出港(で)ていくのに出会った。見ると、防波堤の先端(はし)には、親戚知己(しんせきちき)であろう、ハンカチーフを振りながら別離の涙をぬぐう女、杖やこうもり傘を振る男、いずれも霧の都、灰色の町、ロンドンに帰る者に向かって、六千海里の船路安かれと祈っている者ばかりである。ケープタウン内港は面積六十エーカーのビクトリア錨地(ベイスン)と八エーカーのアルフレッド船渠(ドック)で構成されている。港内(なか)は案外に狭く、五つの桟橋(ジェティ)には、ぎっしりとユニオン・キャッスルのきれいな定期船が舫っている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 81:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第81回)
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軍が常駐している地区には約五百棟の住宅があった。頑丈な造りで、広々としていて、明るかった。すべてがレンガ造りで屋根はスレートだ。手入れもきちんとされている。建物はそれぞれ長さが約七十フィート(二十一メートル)、幅二十フィート(六メートル)の平屋である。この野営地にはすでに百五十万ポンドが費やされている。この住宅地の奥には兵士向けの庭がある。これはイギリスの野営地でも近年に取り入れられている特徴だ。この場所には数千人の兵士しかいないので、そのうち興味深いものはすべて見てしまった。レストランでは、二十人ほどの将校が連れだって朝食に集まってきているのを目撃した。が、とにかく声が大きく、粗雑で品がなく、言葉づかいも乱暴なことに驚かされた。ものすごい騒音で、それが途切れることがない。フランスの食事で、これほどひどいものには出会ったことがない。朝食を食べる間のわずか半時間ほどだが、これほど大声で怒鳴りちさずにはいられないのは、何か特別な理由があるのだろうと考えざるをえないほどだった。

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現代語訳『海のロマンス』66:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第66回)

六、ケープタウンへの寄港が決定

練習船は二月五日にグリニッジの子午線*1を突っ切ってしまった。セントヘレナ*2は西経六度である。北方の風が連日連夜吹きつのるので、セントヘレナへ向けて変針することができないという。そういう噂が少しもれ聞こえてくる。しかし、こう途中でてまどっては行く先が案じられる。誰いうともなく、本船はひとまずケープタウンへ寄港するとの噂がたつ。さては、いよいよ怪しい。 続きを読む

ヨーロッパをカヌーで旅する 80:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第80回)eyecatch_2019

第十四章

運河を通ってナンシーまでやって来た。美しくて古い町だ。カトリックの大司教や陸軍元帥がいて、立派なホテルが一軒に大きな洗濯場が何か所かある。太鼓やラッパに氷菓子など、人生を豊かにする品すべてがそろっている。だが、ナンシーという町が軽騎兵の部隊を招致したことにより、こうしたものすべてが脇に追いやられてしまった! 大聖堂では、イタリアだったか、前にも話したのよりさらに悪趣味なミサが行われていた。ミサを執行する司祭が三十人以上もいて、この物静かな老人たちは豪華で派手な刺繍(ししゅう)をほどこした服をまとい、ラテン語をつぶやきながら、頭を下げたり、向きを変えたり、しかめっ面を浮かべたりしているのだが、実際にあらゆる限度を逸脱していた。こうしたことは、キリストに代わって執り行われるという形の聖餐式(せいさんしき)に参列し、「わたしを記念するため、このように行いなさい」*1という言葉の真実の解釈として、こんな茶番を受け入れざるをえない人々にとって侮辱でしかない。

*1: 新約聖書の「コリント人への第一の手紙」の11章24節。
いわゆる聖餐式(せいさんしき、ミサ)の奥義ともいうべき、パンを裂いて祝福する儀式についてのキリスト自身の言葉とされる(訳文は日本聖書協会発行の新訳聖書より)。

大勢の会衆はほぼ全員が女性で、昔の聖人をたたえる若い神父の雄弁な説教に聞き入っている。古代のお偉い人物が最も尊敬されるべき聖職者であった可能性はあるものの、実際のところ今の修道院で出会う聖職者の多くとそうたいして違ってはいまい。ヨーロッパやアジアやアフリカで聖職者に頻繁に接した経験からすると、そういう聖職者の一人が近寄りがたいほど傑出してすぐれていたと過度に美化されるのを目にすると、つい笑ってしまう。とはいえ、おそらく、この聖職者様は毎日の沐浴をきちんと務めることによって他とは違うんだということを明確に示し、クリーンな人物であるという稀(まれ)な評判を得ていたのだろう。

午後になると、この聖人の遺骸は、何千人もの女と少数の男の行進と共に通りを運ばれて行った。参列したご婦人方のうち、白いモスリン生地の服を着用した人が何百人もいて、ゆっくり行進しながら聖歌を口ずさんでいる。見物人は全員、帽子を脱いでいる。ぼくの方は、痩せこけた修道士の体が邪魔になって、礼拝の様子がよく見えなかったので、麦わら帽子をかぶったまま脱がなかった。

社会性を持って暮らしているフランス人は公共の宗教というべきものを持ち、集団で礼拝し、それとわかる行動や色彩や音を持っているのに違いない。そうした、深い献身と深い沈黙は北の地方には適している。気温が高く活動を控えがちな低緯度地方でも静かな礼拝というものは存在しうるが、やはり太陽がさんさんと輝く地方向きとはいえない。三十年ほど前、ケンブリッジの学生だったぼくらの仲間のうちでも優秀なやつが、イギリスが島国であることとイギリスの気候が国民の気質に与える影響についての論文を読んでくれたことがある。たとえば、ナンシーのような田舎町のフランス人についていえば、快適か否かはほぼすべて天候に左右されるので、雨や雪が降ると気分も落ちこんでしまうだろう。だから、そうしたフランス人がイギリスに行ったとすると、英語がうまくできなくて誤解されて人に笑われたり、夕食には二皿しか料理がでなかったりするし、まずいコーヒーを飲むはめにもなる。夕方に営業している屋外のラウンジなどないし、そういうときはイギリスの家庭生活を見る機会だと言われたとしても招かれることはない(英国の家庭に呼ばれるフランス人はほとんどいない)。そういう外国人の不運な境遇は直接にはイギリスの気候のせいであり、イギリスのあるグレートブリテン島が、イギリス人はみな霧と木綿とたばこの煙に包まれて、すべてがみじめだという印象を与えたとしても何の不思議もない。

ナンシーからマルヌ川まで、カヌーを貨車で運んだ。貨車の方が遅いので、それが着くまでの間、先着していたぼくはフランスのアルダーショットともいうべき軍事施設があるキャンプ・デ・シャロンを訪ねた。駅からバスが出ている。長く埃っぽい街道筋に人家はほとんどなかった。たまにあると、なんともお粗末で、手で押しただけで、そのまま押しつぶされてしまいそうだった。ここは軍事地区というわけではないのだが、軍事施設関連の商人たちが住み着いている町で、たいていの軍事基地の周囲にはこういうところがある。で、ぼくがやって来たのは「プレース・ソルフェリーノ」というところだった。ここに「マラコフ通り」というのがあり、宿屋の印はフランス人が切り落としたブタの尻尾を持った中国人だった。ここの軍事施設は大平原のど真ん中にあって、埃っぽかった。大地の色も白っぽくて、目が痛いくらいにまぶしい。今度の航海で一番暑い日ではあった。とはいえ木陰もあったし、広々とした大地は一面の草原にもなっていた。ここは陸軍の演習地だ。今は亡き皇帝が丘の上の東屋から軍の行進を見守ったりしていたところだ──もっとも、その軍もやがては恐怖にかられて逃げ出してしまうことになってしまったのだが。

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現代語訳『海のロマンス』65:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第65回)

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二、バードウッド・バンク

五月八日。ケープホーンを通過した翌日のこととて、後片付けで忙しく、総帆(そうはん)展揚(てんよう)でまた忙(せわ)しい。

専任教官の訓示(くんじ)によると、本船は午後五時ごろにバードウッド・バンクの西部を横切るだろうとのことである。

バードウッド・バンクとは、フォークランド島の南方百二十海里くらいの地点で、五十五度の経度線と、スタテン島の西岸との間に、東西二百海里、南北六十海里で広がっている、平均水深四十尋(ひろ)*1と、海底が浅くなったところ(バンク)である。

 

*1:尋(ひろ)は大人が両手を広げた長さ(約一・八メートル)。二十尋(ひろ)は三十六メートル。

底質(ていしつ)がサンゴ殻(がら)か火山岩片、海の色は暗褐色で、水深は二十五尋(ひろ)から六十尋(ひろ)まであり、中央が最深部であるという。

一八二一年に、ドクトル・バードウッドによって発見されたのだという。

本船も二、三度、深海測温法(しんかいそくおんほう)を行ったが、初回は八十尋(ひろ)で、次は七十尋(ひろ)、海の色には変化がなかった。

意識に十分なる満足を与えずして、ただ海図(チャート)とコンパスとの相談づくで無事ケープホーンを通過したものと、自分勝手に決めた翌日(あくるひ)、さらに、胸底からわきおこってくる懐疑を抑えつつ、ログラインと深海寒暖計とで、見えもせぬ砂堆(バンク)を五百尺(約150m)の底に断定したとは乱暴にもほどがある。

科学とは情実(じょうしつ)を無視し、思いこみを蹂躙(じゅうりん)し、人間一切の義理と、世の中一切の約束とをまったく気にしない、理知の曲者(くせもの)である。冷酷であること鉄のごとき没情感である、と言っても、どこからも文句は出ないだろう。それとも出るなら出してみろ。

三、ヘンリエッタ号

「こちらはドイツ、ハンブルグ籍のヘンリエッタ号」

「了解。名乗るのが遅くなりましたが、こちらは日本国の練習船・大成丸です。どちらへお急ぎですか」

「イギリスのマージー川の河口にあるリバプール港へ……」

「どちらから?」

「チリのアントファガスタの泊地から……」

「出港してどれくらいになりますか」

「三十二日です。安航を祈ります」

「ありがとう。それではさようなら」

こんな意味の会話を万国信号で交信しながら、ヘンリエッタ号は本船の船首一海里の海を右舷「一杯開き」で快走していった。

正月十二日である。本船は折からの右舷後方からの順風に乗じて、トップスル六枚と前帆(ぜんほん)とで七海里のスピードで走っている。ところが「ハンブルグ籍の船」は総帆(そうはん)三十枚であるから、四時半頃に本船の右舷後方に見えたものが、六時半には並行の姿勢をとって通信をはじめ、七時にはすでに本船を追い越して夕闇の中に隠れてしまった。

さすがに商売船は速い速い。

四、海水が赤い

正月十八日(土曜) 南緯四十三度、西経三十五度。

日本のちょうど裏側である。思えば遠くへはるばると流れながれてきた旅路(たびじ)である。

昨日、今日と、青黒くにごった海の中に粘土色に線を引くように、山崩れの川のようなものが遠くまで連なって流れてくる。何か微細な虫類かまたは藻の類だろうと、バケツでくみ上げて顕微鏡で観たら、無数のエビの子のようなものが浮遊していた。

学名コペポーダ(ラテン語で「櫂(かい)の足」)という甲殻類の一種だという。

ダーウィンの『ビーグル号世界周航記』に、次のような一節がある。ちょっと面白い。

「……海水の変色については、二、三の語るべきことがある。南米はチリの近海を航行中、青みをおびた紅色の海水を見たが、これは顕微鏡で見ないとわからない小生物の集合……。南米のティエラ・デル・フェゴ島の近海では、海面に鮮紅色の線を見たが、これは甲殻類の一種であるエビの発生に原因する……アザラシ猟をする者たちは、これをクジラのエサだと言っている。」

五、トリスタン島

正月三十日正午、南緯三十七度、西経十三度三十分。トリスタン・ダ・クーニャ諸島の一つであるイナクシブル島まで約四十五海里。

トリスタン島は八千余フィート(標高2010m)もある峻峰(しゅんぽう)が高く抜きんでていて、雲の上にそびえているのが見える。どことなく富士に似ている。たまらなくなつかしい。紫(むらさき)匂(にお)うばかりの山裾(やますそ)がなだらかに両方に流れて、左の方の腰には、立派な標本のような雲がきれいに咲いている。

左舷船首(ポート・バウ)にはイナクシブルが、その左の端をやはり麓(ふもと)の雲に包まれてすっくと立っている。午後の七時ごろ、北西の風を左舷に受けて、イナクシブルの風下(かざした)正横(まよこ)を五海里の距離で通過する。

実におそろしい島である。見る人の視覚をブルブルと脅かす効果を与えるに十分なる島である。見る者に、厳粛にして冷酷なる威容と感じさせる島である。イナクシブル(近づきにくい)とはよく言った。ことに、その右の端に狂犬の歯のように屹立(きつりつ)している岬は、今にもバタリと水煙をあげて倒れそうに見えるくらいに、細く鋭く長い。

千尋(せんじん)の海底から徐々に円錐形をなしつつ持ち上がったという推理と意識とを連鎖させるのはむずかしいほとに、細く鋭く長い。慕(した)い寄る周囲の海を、ええ、うるさいと、けんもほろろに、しずくも滴(したた)らせずにきれいに振り払って、無情にもムッと突っ立ったような島のたたずまいである。

恐ろしい岩くれだった絶壁の皺層(しゅうそう)にはふわりふわりと白い雲が悲し気にたなびいている。

無人島である。冷たい、さびしい、荒れ果てた無人島である。

英領トリスタン・ダ・クーニャ諸島は、トリスタン、イナクシブル、ナイチンゲールの三島からなり、南緯三十七度、西経十二度にある。

この諸島は最初はポルトガル人によって発見され、以後、オランダ、フランス、アメリカ等の手をへて一八一七年にはじめて英領と宣言され、定まった主権者を迎えるにいたった。住民は最大の島トリスタンに七十五人(男三十六人、女三十九人)いるのみで、他の二島は無人島である。この七十五人はこの辺の海で難破した船乗りの子孫だという*2。


*2: リスタン・ダ・クーニャ島の現在の人口は260人。南大西洋南部の孤島で、ギネスブックでは「世界一孤立した有人島」に認定されている。

 

産物はポテト、果樹、海獣*3、海獣油等である。また島内には清水が多く湧き出すため、帆船がときに寄港することがある。


*3: 海獣 - 海に生息する哺乳類(クジラ、イルカ、ジュゴン、アザラシ、ラッコなど)の総称。

英国の軍艦は一年に一回やってくる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 79:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第79回)
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むろん、橋に到達すれば、そこには集落があるはずだ。実際に、そこではまさしくドナウ川のゲーグリンゲンで起こったのと同じ光景が繰り返されることになった。暗くなって川岸にカヌーを着けて引き上げ、水滴をふきとった後、ぼくは土手の上に見える家まで登っていき、ドアをたたいた。窓が開き、夜着を来た立派な夫婦が顔を出した。夜分の侵入者を確かめるように、ローソクを手にしている。このうえなく喜劇的な光景だ。男の方が「これは悪ふざけか?」と聞いてくる。こんな時刻に、こんなところまで、まさかイギリスからの旅人がのこのこやってくるとは想像もしていなかったのだろう。だが、事情がわかると相手はすぐにぼくに手を貸し、近所の小さなレストランまでカヌーを運ぶのを手伝ってくれた。そこでは十人ほどの男たちが飲んでいたが、カヌーを見ようとランプを持って押し寄せてくる。それから、ぼくらは暗い通りを抜けて別の家までカヌーを運んだ。そこでもまた別の酒のみ連中が引き継いでくれて、カヌーをそこの庭に置かせてくれた。翌朝、好奇心にかられた人々が、旗をひらめかせているカヌーを壁ごしに見ようとやってきた。妻を寝かせたまま濡れたカヌーの運搬を手伝ってくれた家のご主人には五フランを謝礼として渡した。喜んでくれた。物価の安いこのあたりでは五ポンドの価値はあるはずだ。夜が明けると、前日に悪戦苦闘した場所をたどってみた。闇夜に手探りで進んできたさまざまな水路を逆にたどっていくのはとても興味深かった。

この町で、一人のフランス人紳士と出会った。陽気で快活な人だったが、あの、楽しくもあり、無分別でもあり華々しくもあるパリと比較して、国境に近いこの町が大きな工場の城下町のようになっていることを嘆いていた。氏によれば、パリでは何日もベッドで眠ることなく舞踏会や芝居見物やパーティーに明け暮れるのだそうだ。その人はご親切に、その大きな製塩工場に連れていってくれた。そこで精製された塩はヨーロッパ中に送りだされているらしい。ここの岩塩は石炭の鉱脈のように地下深くで採掘され、坑道から運び出される。坑道は長くて、高さもあった。水槽に水がためてある。それに岩塩を入れて溶解させる。そこから平たい釜に流し入れる。炉の熱で水分が蒸発し、吹きだまりの雪みたいな乾いた塩のかたまりができる。重量単位で販売する塩にはまた水をかけて湿らせ、容積単位で売る塩は結晶化させて、すきまだらけのいびつな形にして可能な限り大きなスペースをとるようにしてある。なかなか商売上手である。

この場所にも運河があった。川はとても浅いので、カヌーはこの人工の水路に浮かべた。強く絶好の風が吹いているので、すぐに帆走した。この運河は行き交う船が多く、ロックは数えるほどしかなかった。だから退屈することはなかった。ロックでは許可証の提示を求められた。ぼくとしては、これまでと同様に、笑顔の顔パスで通ろうとした。が、運河沿いを巡回していた運河の係員が重大な規則違反だとみなし、ロックでは「通行証」を作る必要があると言ってきかなかった。最後の手段として、ぼくは相手にもう何度も人に見せてすりきれかけているスケッチブックを見せた。すると、彼はすぐに興味を示してページをめくった。規則違反の容疑者のスケッチに大笑いした後に、まじめな顔をして罰を言い渡すことはできない──というわけで、なんとか通してもらった。

不思議なことに、地方の人々はちょっとしたスケッチでも本当に喜んでくれる。なにかと邪魔をしてくる人には、ときどきスケッチを見せたりする。相手は必ずといっていいくらい他の連中にも見せようとその場を離れる。で、彼らが戻ってきたときには、こっちは影も形もないという寸法だ。一度、女の子にぼくの弟の似顔絵を渡したことがある。すると、彼女は翌朝にその絵を戻してくれたのだが、なぜかしわくちゃだった。母親によれば、その娘は一晩中ずっとその絵を握りしめていたのだという。

これは君らにも有効だよ、若いカヌーイストたち。不運な浮浪児となかよくなるには、子供向けの冒険の本でもあればいい。子供たちには物乞(ものご)いするのではなく、稼(かぜ)ぐことを教えよう。色のあせた茶色っぽいボロ服ではなく、靴磨きの子のように明るい赤いコートや少年水夫のような明るい青い上着に変えさせよう。そうして「チチェスター」みたいな川岸に設置された浮浪児の収容施設に声援を送ろう。本の読み方を教え、「イギリスの働く人々」や「少年新聞」、「少年少女文学」とか「おしゃべりっ子」とかを渡し、ゴミみたいな新聞は破り捨てよう。

カヌーに乗っているときは、姿勢をただし、ゆったりと座ろう。

そして、こうした子供たちみんなのために祈ろう。でなければ、君のやっていることは意味がない*1。祈るときは膝まづけという偉そうな「説教」など気にすることはない。ずっと下流では、君やぼくに伸ばされる力強い腕が待っている。少年少女たちがお互いに恵まれない境遇のぼくらに声援を送ってくれるのだ。

*1: 著者のジョン・マクレガーは自設計のカヌーによる航海を行う一方、ロンドンの法廷弁護士として活動し、キリスト教に基づく貧者救済のフィランソロピスト(社会奉仕活動家)としての側面も持っていた。
当時のベストセラーとなったロブロイ・カヌーによる航海記の印税はすべて、難破船の海員協会と王立救命艇協会に寄付されている。

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現代語訳『海のロマンス』64:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第64回)

ケープホーンからケープタウンへ

一、トビウオとボースン鳥とイルカ

世界で最も有名な岬を回航し、「肩の重荷から逃れた船乗り」の欣喜(きんき)と安心と失神とを推察することができるかと思われるほどに、平安にして気高く、力抜けを感じる日が幾日となく続いた。

ケープホーンの寒い風と冷たい雨を遠く南の海に振り捨てて虎口(ここう)を逃れた練習船(ふね)は、うれしそうに身震いしながら一時間に十海里ほどの速力で、追手(おって)のかからぬうちにそれ逃げろやれ逃げろと、ただひたすらに北へ北へと突っ走る。

寒さは皮をはぐように一日ごとに暖かくなる。晴れやかな周囲の状況の展開に応じた、快(こころよ)いのどかな心理の動きである。

こんな風に船が快(こころよ)く走るとき、こんな風に心理が心よく推移するとき、うん、もっともじゃ、もっともじゃ、俺もしごく同感じゃと、その欣喜(きんき)と快(こころよ)い心理とを分かち楽しもうというように、海ではイルカが踊り、トビウオが飛び、空にはボースン鳥(オオグンカンドリ)とアホウドリとケープ・ビジョン(マダラフルマ・カモメ)とが舞っている。

すべてが海洋(うみ)の荘厳美と雄大美と情感美とを飾る好個(こうこ)の書割(かきわり)である。オーシャン・スピリットを象徴する好個(こうこ)の脇役(わきやく)たちである。

イルカはかつてハーシュースの母アイオロスをユーノーの嫉妬(しっと)の手から救ってから、またとないネプチューンの忠僕(ちゅうぼく)となった*1。つるつるとすべっこい鼻頭(はながしら)をうれしそうに青い波間に現わして、ジャブジャブと白い泡をたたせながら一列横隊に梯形(ていけい)をなして突進して来るところは、勇ましいというようり、むしろ自覚せぬ滑稽(こっけい)である。

*1: ローマ神話から。ネプチューンはギリシャ神話のポセイドンに当たる。

トビウオとイルカは、海神ネプチューンが有する性格中のユーモアなる一半面を象徴する海のひょうきん者であると、ぼくは信じている。

ドブンと沈んではひょっこりと青い海の上に現れる。沈むやつに浮き上がるやつ!! 船の上から見ると、実にのどかな眺めである。なんとなくお人よしのバカ息子のような可愛さが感じられる。

このイルカに一段と輪をかけた滑稽(こっけい)なものがトビウオである。海洋に生まれ育ったくせに、空を飛ぼうというのがすでにひょうきん者である。インド洋あたりでは、このひょうきん者が時々、月明かりで南風が吹く良夜に、こっそりと甲板に忍びこんで、流れるような月光の下で、その白い腹を銀色に輝かせて狸(たぬき)寝入りをしている。そこへ来かかったのがあわてものの水夫で、「誰だ? 危ない!! こんなところへ小刀(メス)を捨てているとは?!」などと、一人でぶつぶつ怒りながら、この小刀を拾おうとすると、そのとたん、この狸(たぬき)寝入りの横着者(おうちゃくもの)はキラリと跳(は)ねて、あっとばかり、水夫をして腰を抜かせることも珍しくないという。

アホウドリのことはすでに書いた。

ケープ・ピジョンとは、ケープホーン付近に特有の、ねずみ色の小さい体と、雄勁(ゆうけい)な羽翼(はね)とを持って、カワウソのようにピョンピョンピョンピョンと荒天(しけ)のなかを飛んでくるやつである。ウミツバメ(ストームペトレル)と共に、時化(しけ)の前兆といわれている。

「おい、ちょっと見い。この寒空に絣(かすり)」を着ている鳥がいるぞ!!! ずいぶん物好きなやつだなあ……」と、一人の友に肩をたたかれて振り向くと、暗い空と灰色の海との間を黒白(こくびゃく)の斑点(ぶち)入りの羽(はね)を持った鳥が、喜び飛んでいる。これがボースン鳥である。

なぜボースン鳥というのか? それはわからない。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 78:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第78回)
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びっくりした後には、家族の情というものに接することになった。

川岸に、どう見ても心配しきりという様子の三人の女性がいた。母親と娘とお手伝いさんで、魚釣りに出かけたきり何時間経っても戻ってこない男の子二人を探しているのだった。

女たちは二人を見なかったかと、ぼくにしきりに聞き、何か気づいたことはないかと涙ながらにすがってくる。ぼくとしても、なにか安心するようなことを言ってやりたいのだが、そういう男の子は見ていないのだ! 川を下りながら、釣りをしている子供を見た記憶はなかった。女たちはとり乱した様子で去っていったが、ぼくの方にはやりきれない思いが残った──女の涙、特に母親の涙を見て、せつなく感じない者などいないだろう。とはいえ、岩場のど真ん中で必死でパドルを漕ぎながら、不意に、そういえば、彼女たちの説明する姿格好に当てはまる男の子を目撃したことを思い出した。

それで、すぐさま上陸し、おろおろしている母親たちを走って追いかけ、「その子供たちなら一時間前には無事でしたよ」と伝えた。二人には男の召使が付き添っていたのだが、お守りの男は釣りに夢中になっていて、子供たちはといえば、釣りに飽きてヤギと遊んでいたのだ。幼い息子たちが無事だと聞いた母親は喜びのあまりまた泣きだした。それを見て、こっちも自分の学校時代が鮮やかによみがえってきた。子供時代、自分が無分別に遊びまわり、そのことで母親をどれだけ心配させたのかということが。

そういうことがあってからは、川の様子や景観のイメージが一変した。ありきたりの埃っぽい街道やガタンゴトンとうるさい列車での出来事に比べれば、はるかに生き生きとした世界で、存分に楽しむことができた。

二度か三度、浅瀬でカヌーを引きながら歩いて渡ったり、カヌーが川底にぶつかったりした。「堰(せき)」も一つ二つあった。が、夕方までは快適に川下りを楽しめた。しかし、流れは遅く、遠くの地平線にセント・ニコラスの塔群が見えているのに、それが一向に近づいてこない。それどころか、横にずれていく。ということは、この川はとんでもなく蛇行しているということだ。カヌーを精一杯の速さで漕いだものの、夕闇が迫ってくるのも早かった。ボートに乗った二人組を追い越した。フランス人が運動のためにボートを漕いでいるのを、このときはじめて見た。ボートはカヌーについてこれなかった。川底につかえたのだ。そのまま置いてけぼりにしたものの、連中はあわてず騒がず、なかなか座礁したところから動かない。それで引き返して離礁を手伝ったりした。

その後で、高さが十五フィート(約三メートル)はありそうな大きな堰(せき)があった。これまで出会ったなかで一番の高さだ。ため息が出た。丸一日ずっと漕いできた挙句に、カヌーを下り、暗い中でカヌーを土手に引っ張り上げて堰(せき)を超えなければならない。おまけに、その下流では浅い迷路のようなところに入りこんでしまった。灯りもなく、どうやってそこを通り抜ければよいのか見当もつかない。一休みして立ちどまると、周囲を闇と沈黙が支配し、動くものは何もない。やっと流れのあるところに出る。が、喜ぶ元気もない。ぼくはカヌーを引っ張って渡渉し、そこでまたカヌーに乗り、さらに半マイルほど進んだ。すると、右岸で見張りをしていた男が大きな声をかけてくれた。「前方、風下側に橋と家があるよ!」と。われながら、思わず歓声を上げた。この最後の一時間の悪戦苦闘は、ほんの数行でまとめることができるかもしれない。流れはなく、危険もなかった。退屈極まりなく、水に濡れ、灯りもなく、ずっと気がめいるようなことが続いた、と。それで、ぼくはその間はずっと歌を歌ったり口笛を吹いたりしていた。

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