米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第34回)
(前回までのあらすじ)太平洋横断中に明治天皇が崩御され、サンディエゴ到着後には上陸した船長が失踪するという前代未聞の出来事が相次いで起こりましたが、今度は航海士が急死します。
意気揚々たる世界一周航海の前途に、なにやら暗雲がただよってきた気配です。
先帝をしのぶ
「本日午後二時ごろ、いま当地を視察されている竹越代議士が来船されてスピーチをされることになっている……」という一等航海士の説明が、九月六日の朝に与えられた。
母国においてならばいざ知らず、五千里も離れた異国において、しかも国内外の五千万の国民が等しくやるせない思いを抱いて暗く沈んだ心でいるときに、日本の政界の一方の論客として知られた知名の士を迎えるのは、少なからず心強く、またなつかしく思われる。
「私がこの敬愛する練習船の上で諸君にお話しする時間はわずかに十五分間にすぎませんので、今日は諸君がまだご存じないと思う先帝陛下*1にまつわる逸話(いつわ)を一つ二つお話しいたしましょう」
*1: 先帝陛下 - 1912年7月、大成丸の太平洋横断中に明治天皇が崩御した。
その口調たるや、すこぶる平易である。声の調子も剛毅(ごうき)というわけではなく、その身振り(ゼスチャー)には、いささかも誇張した様子は見えない。一体に、その演説ぶりには、老成(じみ)な、落ち着いた、底力ある秘められた力が象徴的に示されていたが、それとは別に自分の目を奪うものがあった。獅子(しし)のような威容を示す皇帝髭(インペリアル)と、強い印象を植えつけるその重々しき言葉の響き(サウンド)と、それとは相反する質素な容姿(すがた)である。
先帝陛下にまつわる逸話(いつわ)には、次のような、初めて聞くよう話も一、二あった。
明治二十三年、山県(やまがた)公が総理として第二次内閣を組閣されたとき、法相として故山田顕義(やまだけんぎ)伯爵をご推薦申し上げた。直ちにご裁可になると思っていたのに、その後なんの沙汰(さた)もない。そこで山県総理は参内(さんだい)しておそるおそるその理由をお尋ねしたのだが、その際に、ますます陛下の聡明にして強記なること、および世の中の出来事にも精通されていた上での英断といった仔細(しさい)が判明したので、ただただ恐縮し、かしこまるしかなかったとのことである。なぜかというと、以前に山田伯爵は政治と宗教を混在させて内閣の上位にさらに神祇官(しんぎかん)なる者を設置すべしという説を抱かれていたことがあった。そのことを陛下はよくご承知になっていて、「山田はわが国の誇るべき立憲政体をして、ペルシャやエジブトのような開発途上の国のそれと同一視する考えなのか」とお考えになり、山県総理に対しては、山田伯爵にそのような説を主張しないという誓いをさせるのであれば裁下(さいか)してもよいとのお言葉であったという。これをもってみても、陛下が何かとあわただしい最中にも、いかに世の中の動きを知ろうと試みておられたか、またどれほどの権力を持った臣下であっても、その持論が国憲政体と背馳(はいち)する以上は見逃すことはできない、という資質をうかがい知ることができるだろう。
と、謹厳(きんげん)にして沈重(ちんちょう)なる話しぶりは、彼岸の頃の秋の空に満ちあふれた敬愛の情を遠く離れた海外にいる二百人の自分らに伝えて余りあるのである。かくて約三十分ばかりの後、『南国記』の著者たる竹越与三郎代議士を乗せた本船のボートのエンジン音が高く舷外に聞こえた。聞くところによれば、氏は前の晩、ロサンゼルスで講演をされ、今夜は当地において二度の講演があるそうである。その場合には、船の上のように「わずか十五分間ですから……」ではすまされまい。従って、汽車の片側から観察した南カリフォルニアの叙景(スケッチ)を億面(おくめん)もなく、当地に十年暮らしている在留日本人の前に展開するのだろう、と余計な心配をする者もあった。
山田航海士の客死(かくし)
薄井(うすい)様。 九月八日は世にも悲しき日でございました。あなた様は今も記憶しておられますでしょうか。さる七月六日、本船が世界一周の壮途(そうと)につかんとして、あなた様の熱き見送りを品川埠頭で受けたとき、私が紹介した山田三等航海士とかたい握手をかわされたことを。この山田寅次郎(やまだとらじろう)氏こそ、今ここに悲しき追悼(ついとう)を述べる対象となる存在になってしまわれたのでございます。
このようなことを公的な新聞紙上で申し上げるのは誠に心なき業(わざ)ではあるのですが、あまりに惜(お)しい才に恵まれていた、わがうら若き友の、青雲の階段の第一歩において、はかなく倒れられるという人生の悲しい出来事は、来たるべき練習船の歴史においても重大であるとともに、世にこのような類(たぐい)の悲しみが多いことを思い浮かべた故(ゆえ)でございます。
繰り返しますが、大正元年九月八日*2は哀しき日でございました。この日、山田三等航海士には七十名ばかりの学生の監督として、ある長老派のキリスト教会での朝餐式(ちょうさんしき)に臨席(りんせき)するため、他の学生よりは少しく遅れて私と二人で上陸いたしました。氏と自分とは故国の松本中学校時代よりの友として、また母校たる商船学校時代の友として、少なからざる因果を有していたのですが、同じく練習船の乗員として、悲しむべき最後の日とも知らずして臨終の折(おり)にまで伴うべき運命(さだめ)を与えられて上陸したことこそ、よくよくの縁であったのだとひそかに思っています。
*2: 明治45年(1912年)は、明治天皇崩御のため、7月30日以降、改元されて大正元年となった。
この日はプラザのパームの木陰(こかげ)も濃い影を投げかけ、草いきれを肌に感じるような暑い日でした。氏は私を伴ってアイスクリーム屋に立ち寄られました。目指す教会の前にある白人の家あたりまで来たのは十一時ごろでした。驚いたのは、氏は気分が悪いといって、その白人の家の縁側(ベランダ)にあるロッキングチェアに寄りかかっている間に、にわかに苦悶とけいれんと嘔吐をなされたことでございます。さっそく白人の医師が呼ばれ、主人の親切にて寝室に移され、異なる言葉の国の人とも見えぬ手厚き親切を受けたのですが、ああ、どうしたのでしょうか、刻一刻と冷えていく足寒(そっかん)と拡大する瞳孔(どうこう)と、症状は悪化の一途でした!
やがて急使により一等航海士(チーフ)と医官(ドクター)が驚きつつも駆けつけてこられました。さっそく、すべての応急手術がなされたものの、脈拍は依然として不規則で、症状は依然として昏睡(こんすい)状態を脱することができません。協議の上、氏は当地第一のアグニウフ病院に移され、二回のカンフル注射と、一回の浣腸とが施こされたのですが、どのような数奇な運命を持っていたのか、ついに同日午後三時、再び目覚めることのない永い眠りにつかれました。
初めて荘厳にして暗愁(あんしゅう)なる死の手の蚕食(さんしょく)を目撃した自分は、ただ茫然として夢をみているような幻境(げんきょう)にあって、なお逃れようとして逃れることができない死の力の偉大にして悲しきことをつくづくと味わわされました。ことに氏がまさに倒れんとする際に繰り返し繰り返し口を重ねて、教会の招待のことをけいれんした舌で懸念(けねん)されていたことは、自分に無限の意味と言外の印象を与えたのでした。今やまさに死に瀕(ひん)せんとする人が、これほどまでに自分を超越できるのか、利他的となることができるのか。自分はただ深く自ら想いをめぐらすしかございませんでした。
翌日、この貴(とうと)い犠牲者の葬儀は、在留日本人会の斡旋(あっせん)により、とどこおりなく一聖堂において行われ、その遺骸(いがい)は「命を捨てて」の悲曲*2と、士官学生総員の見送りを受けてロサンゼルスの火葬場に送られるべく停車場(ステーション)に到着しました。
*2: 『命を捨てて』 -同じ タイトル、同じ歌詞で、陸軍軍楽長・古矢弘政作曲のものと滝廉太郎作曲のものなどがある。どちらかは不明。一般に軍歌に分類されるが、国威発揚という勇ましいものではなく、歌詞の内容も旋律も死者を悼む挽歌(ばんか)。
山田三等航海士の客死(かくし)は実に不意打ちでした。突発事でした。絶対的の出来事のように見えました。しかし、自分は氏の逝去(せいきょ)と関連して、真面目にしてかつ重大なる意味が、人類の上に、少なくとも二百の乗員の上に存在することと思っています。
死は厳粛にして、荘重なる人生の謎でもあります。神なる者の存在を認めるのであれば、その神のくだす摂理(せつり)の一つなのでしょう。神の摂理は、人々の歓楽(かんらく)が極度に達したときに下されるそうです。かくして次々に犠牲者の血は尊(たっと)くも流されたのでございます。歓楽に酔い燦華(さんが)におぼれた人々を覚醒(かくせい)させるために選出された犠牲者の血はいみじくも尊きものであることかな。
かくして、わが山田三等航海士の死は永久(とこしえ)にわたりて貴重なる意義をなすものと思います。まずは右……あなた様のご健康を祈りつつ。
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