ヨーロッパをカヌーで旅する 84:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第84回)
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翌日は早朝に出発した。川の流れはまずまずで、この日も青空のもと、強めの追い風を受けて帆走したりもした。川沿いで出会った農夫や市場へ向かう人たちとも興味深い話をした。そういうフランス人が一番驚くのは、ぼくが一人旅で、それで幸せでいられるというところらしい! 身勝手に思われるかもしれないが、こういう旅では完全な一人旅の方が絶対にいい。

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現代語訳『海のロマンス』69:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第69回)

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ロンドン行きが中止になった真相

青年の心理(こころ)として、とかく直覚的判断がおもしろいほどに的中するときがある。事件が発生し、進行した後に事実をまげて訳知り顔に語るというのではないが、実際に、ぼくらは今度の「ロンドン行きは中止」について、すでに四カ月前のサンディエゴ停泊中に、絶対的にそうなると推断したわけではないが、少なからずそれを懸念していたし、また全然予想しないわけでもなかったのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 83: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第83回)
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こうした丘の一つに、マダム・クリコの館があるのに気づいた。この名前は多くのシャンパンのボトルやそれ以外のボトルのコルクにも刻印されている。エペルネの近くのアイのブドウ園はこのワインの名産地だ。ワインは瓶詰にされた後、ボトルの首を下に向けて沈殿物をコルク周辺に集める。それから熟練した職人がコルクを交換する際に、瓶内の圧力で少量のワインもろとも沈殿物を吹き飛ばす。ボトルは「洞窟」や巨大な貯蔵室に保管されるが、そうした場所は温度変化がほとんどない。そのために瓶(びん)が破裂することもある。ボトルの四分の一がそうやって爆発したこともあったそうだ。この有名なマダム・クリコでは、一八四三年の暑かった夏、四十万本のボトルが失われたという。その後、大切な貯蔵庫の冷却用に十分な量の氷がパリから調達できるようになると、そういうことはなくなった。フランスでは毎年約五千万本の「本物」のシャンパンが製造されているという。世界中で「フランス製シャンパン」と称するものが年間に何百万本飲まれているのか、確実なところは誰にもわからない。イタリアのワインの産地として有名なベローナでも、ここのシャンパン・ボトルは尊重されている。

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現代語訳『海のロマンス』68:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第68回)
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高きは例のテーブルマウンテンから、低きは例のユニオン・キャッスルの定期船に至るまで、港内の形象は皆灰青色(はいせいしょく)に黒ずんでいるが、その中に、目も覚めるような雪白色の船体を誇示した練習船が、クリーム色のヤードを品よく上に高くそろえた頂きに血液のごとく赤き羅針章旗(コンパスマーク)をなびかせて入港する。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 82:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第82回)
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水もれするカヌーに乗っているのは、なんとも情けなくみじめだ──足を引きづった馬に乗ったり、銃身の曲がった銃を使うようなものだ。カヌーでは多くの機能が必要とされるが、最優先すべきは信頼性である。それで、最初の村まで来たところでカヌーを止めた。そこで修理してくれる人を見つけてパテなどを調合してもらい、それを継ぎ目に押し当てた。岸辺の宿で食事をする間に硬化してくれるはずだ。その場所では、長大なイカダが組み立てられていた。パリまで下るのだそうだ。宿ではエネルギーに満ちあふれた農夫たちが一瓶二ペンスのワインを飲んでいた。

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現代語訳『海のロマンス』67:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第67回)

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ケープタウン入港の第一印象

偏差(バリエーション)二十九度西、自差(デビエーション)二度西。羅針盤の針路(コンパスコース)南五十度西、
ライオンズヘッドまでの視距離(ディスタンス)十六海里、テーブルマウンテンまで十六海里、時刻は二月十二日午前十一時半。角距離(アンギュラーディスタンス)、右舷(うげん)船首(バウ)一点より右に約七十度*1。

*1: 偏差: 地球の地軸を基準にした理論上の方位(真方位)と磁石が指す方位(磁針方位)との差。
地域によって大きく異なる場合がある。日本周辺では偏差は一般に一桁だが、極地に近いほどずれは大きくなることがある。
自差: 磁針方位と、船に搭載されている方位磁石(コンパス)の指す方位のずれを指す。
方位磁石は近くにある金属の影響を受けるので、自差は船ごとに異なる。また、同じ船でも向いている方角によってその差は増減する。
ナビゲーションでは、方角ごとの自差を測定した自差修正表を用意しておいて方位の調整を行う。
角距離: 二点間の距離を観測者から見た角度で示したもの。

百十七日と十五時間三分、一万二千七百五十六海里という空前無比の、苦しくも楽しい、長く単調な大航海の後、いよいよ二月十二日午前五時、音に聞こえたテーブルマウンテンがうっすらと紫紺色(しこんいろ)をして夢のように淡く見えたときの感慨は実になんともいえないものがある。

クリーム色の黎明(あかつき)の空から、くっきりと浮き出すように立ちはだかったその紫紺色(しこんいろ)の平たいてっぺん!! エー、くたびれたとばかり、武者震いしながら、ヒューッと無造作に横なぐりになぎ払った、造物主の斧が力強く乳白色の空を流星のように流れたとき、一つの峰は無残にもその肩から上を一直線に断ち切られた。……それがたぶんこのテーブルマウンテンであろう。

見ようによっては、たけだけしい獅子(しし)が伏したまま頭を持ち上げているように見えるライオンズヘッドを前景として、サタンを暗示する鬼ヶ峰(デビルピーク)と、救世主を連想させる十二使徒峰(アポストル)とを左右の両翼として、三千五百フィート(1080m)の空中に偉大なる木槌(きづち)のような頭をそびえかせているテーブルマウンテンは実に深い印象を与える山である。

この尊き偉大なる山を、いたずらに船乗りの方位目標物とするのは失礼である。いたずらにスケッチ上の景勝美の対象物として取り扱うのは気の毒である。少なくともなんらかの哲学的意義と、宗教的崇拝と、理学的帰納とを、この尊くも偉大なる木槌(きづち)のような頭に植えつけなくては申し訳ない。

ぼく自身はこのように崇拝(すうはい)し私淑(ししゅく)しているのだが、それにはまったく頓着しない専任教官は「この山をスケッチしろ」という。命令には従わなければならないので、方位は南6度、距離は十八海里などと書いていると、「やー、妙な鳥が──」と、大きく頓狂な声で注意する男がある。見れば、なるほど妙な鳥が不器用に尻を振りながら海水(みず)の中へついついと潜っている。

太い不細工(ぶさいく)な首と、小さな漆黒(しっこく)の厚い羽翼(はね)とを持った水鳥が、かわいい赤い水かきをお尻の下でひらめかしては、水面をのんびり泳いでいる。見渡すと、暑い夏の光線(ひ)がまぶしくキラキラと海水に輝いて、白い縞(しま)が悪光(わるびか)りする水の面(おも)には、同じような鳥があちらにもこちらにもたくさんいる。「ペンギン」に違いないという者、いや違う、あれは「カモノハシ」だというもの、またもや博学博識を競った連中の議論が甲板(デッキ)に花を咲かせる。

三錨湾(スリーアンカー・ベイ)に近づいたとき、ただでさえ暑苦しい夏の光線(ひ)をもてあそんで、突然に大きな建物の二階からピカリッ、ピカッと、光るものがあった。スコットランド生まれの英語教官の説明で、これは光学式電信機(ヘリグラフ)だとわかったが、「あの建物には俺の友達がいる。したがって、このモールス信号の通信は俺にしているのだ」と推論したのには、さすがの生意気盛りの学生たちも、上には上があるものだと感心しきりだった。

船はようやく近づいて、午後の一時頃からは、ケープタウンの町が見えた。外国の町といえば、昨年、サンピエトロで最初の印象を与えられて以来、いつも判で押したように茶色、とび色、あずき色、橙(だいだい)色、土器(かわらけ)色と刺激的色彩のみが意識の上に残った。ぼくはこういう色は死と衰退と憎悪との連想が見る人の頭脳(あたま)に植えつけられるような気がして嫌いである。わがケープタウンの建築もその色彩の上から見て、この悲しむべき同じ傾向から免れることができないらしく、同じく茶色である。とび色である。土器(かわらけ)色である。死と衰退と憎悪の色である。

なかば石垣を築きかけた防波堤をめぐって港内(なか)に入りかけたとき、英国ユニオン・キャッスル社のバルモーラルという定期汽船(一万三千トン)が出港(で)ていくのに出会った。見ると、防波堤の先端(はし)には、親戚知己(しんせきちき)であろう、ハンカチーフを振りながら別離の涙をぬぐう女、杖やこうもり傘を振る男、いずれも霧の都、灰色の町、ロンドンに帰る者に向かって、六千海里の船路安かれと祈っている者ばかりである。ケープタウン内港は面積六十エーカーのビクトリア錨地(ベイスン)と八エーカーのアルフレッド船渠(ドック)で構成されている。港内(なか)は案外に狭く、五つの桟橋(ジェティ)には、ぎっしりとユニオン・キャッスルのきれいな定期船が舫っている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 81:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第81回)
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軍が常駐している地区には約五百棟の住宅があった。頑丈な造りで、広々としていて、明るかった。すべてがレンガ造りで屋根はスレートだ。手入れもきちんとされている。建物はそれぞれ長さが約七十フィート(二十一メートル)、幅二十フィート(六メートル)の平屋である。この野営地にはすでに百五十万ポンドが費やされている。この住宅地の奥には兵士向けの庭がある。これはイギリスの野営地でも近年に取り入れられている特徴だ。この場所には数千人の兵士しかいないので、そのうち興味深いものはすべて見てしまった。レストランでは、二十人ほどの将校が連れだって朝食に集まってきているのを目撃した。が、とにかく声が大きく、粗雑で品がなく、言葉づかいも乱暴なことに驚かされた。ものすごい騒音で、それが途切れることがない。フランスの食事で、これほどひどいものには出会ったことがない。朝食を食べる間のわずか半時間ほどだが、これほど大声で怒鳴りちさずにはいられないのは、何か特別な理由があるのだろうと考えざるをえないほどだった。

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現代語訳『海のロマンス』66:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第66回)

六、ケープタウンへの寄港が決定

練習船は二月五日にグリニッジの子午線*1を突っ切ってしまった。セントヘレナ*2は西経六度である。北方の風が連日連夜吹きつのるので、セントヘレナへ向けて変針することができないという。そういう噂が少しもれ聞こえてくる。しかし、こう途中でてまどっては行く先が案じられる。誰いうともなく、本船はひとまずケープタウンへ寄港するとの噂がたつ。さては、いよいよ怪しい。 続きを読む

ヨーロッパをカヌーで旅する 80:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第80回)eyecatch_2019

第十四章

運河を通ってナンシーまでやって来た。美しくて古い町だ。カトリックの大司教や陸軍元帥がいて、立派なホテルが一軒に大きな洗濯場が何か所かある。太鼓やラッパに氷菓子など、人生を豊かにする品すべてがそろっている。だが、ナンシーという町が軽騎兵の部隊を招致したことにより、こうしたものすべてが脇に追いやられてしまった! 大聖堂では、イタリアだったか、前にも話したのよりさらに悪趣味なミサが行われていた。ミサを執行する司祭が三十人以上もいて、この物静かな老人たちは豪華で派手な刺繍(ししゅう)をほどこした服をまとい、ラテン語をつぶやきながら、頭を下げたり、向きを変えたり、しかめっ面を浮かべたりしているのだが、実際にあらゆる限度を逸脱していた。こうしたことは、キリストに代わって執り行われるという形の聖餐式(せいさんしき)に参列し、「わたしを記念するため、このように行いなさい」*1という言葉の真実の解釈として、こんな茶番を受け入れざるをえない人々にとって侮辱でしかない。

*1: 新約聖書の「コリント人への第一の手紙」の11章24節。
いわゆる聖餐式(せいさんしき、ミサ)の奥義ともいうべき、パンを裂いて祝福する儀式についてのキリスト自身の言葉とされる(訳文は日本聖書協会発行の新訳聖書より)。

大勢の会衆はほぼ全員が女性で、昔の聖人をたたえる若い神父の雄弁な説教に聞き入っている。古代のお偉い人物が最も尊敬されるべき聖職者であった可能性はあるものの、実際のところ今の修道院で出会う聖職者の多くとそうたいして違ってはいまい。ヨーロッパやアジアやアフリカで聖職者に頻繁に接した経験からすると、そういう聖職者の一人が近寄りがたいほど傑出してすぐれていたと過度に美化されるのを目にすると、つい笑ってしまう。とはいえ、おそらく、この聖職者様は毎日の沐浴をきちんと務めることによって他とは違うんだということを明確に示し、クリーンな人物であるという稀(まれ)な評判を得ていたのだろう。

午後になると、この聖人の遺骸は、何千人もの女と少数の男の行進と共に通りを運ばれて行った。参列したご婦人方のうち、白いモスリン生地の服を着用した人が何百人もいて、ゆっくり行進しながら聖歌を口ずさんでいる。見物人は全員、帽子を脱いでいる。ぼくの方は、痩せこけた修道士の体が邪魔になって、礼拝の様子がよく見えなかったので、麦わら帽子をかぶったまま脱がなかった。

社会性を持って暮らしているフランス人は公共の宗教というべきものを持ち、集団で礼拝し、それとわかる行動や色彩や音を持っているのに違いない。そうした、深い献身と深い沈黙は北の地方には適している。気温が高く活動を控えがちな低緯度地方でも静かな礼拝というものは存在しうるが、やはり太陽がさんさんと輝く地方向きとはいえない。三十年ほど前、ケンブリッジの学生だったぼくらの仲間のうちでも優秀なやつが、イギリスが島国であることとイギリスの気候が国民の気質に与える影響についての論文を読んでくれたことがある。たとえば、ナンシーのような田舎町のフランス人についていえば、快適か否かはほぼすべて天候に左右されるので、雨や雪が降ると気分も落ちこんでしまうだろう。だから、そうしたフランス人がイギリスに行ったとすると、英語がうまくできなくて誤解されて人に笑われたり、夕食には二皿しか料理がでなかったりするし、まずいコーヒーを飲むはめにもなる。夕方に営業している屋外のラウンジなどないし、そういうときはイギリスの家庭生活を見る機会だと言われたとしても招かれることはない(英国の家庭に呼ばれるフランス人はほとんどいない)。そういう外国人の不運な境遇は直接にはイギリスの気候のせいであり、イギリスのあるグレートブリテン島が、イギリス人はみな霧と木綿とたばこの煙に包まれて、すべてがみじめだという印象を与えたとしても何の不思議もない。

ナンシーからマルヌ川まで、カヌーを貨車で運んだ。貨車の方が遅いので、それが着くまでの間、先着していたぼくはフランスのアルダーショットともいうべき軍事施設があるキャンプ・デ・シャロンを訪ねた。駅からバスが出ている。長く埃っぽい街道筋に人家はほとんどなかった。たまにあると、なんともお粗末で、手で押しただけで、そのまま押しつぶされてしまいそうだった。ここは軍事地区というわけではないのだが、軍事施設関連の商人たちが住み着いている町で、たいていの軍事基地の周囲にはこういうところがある。で、ぼくがやって来たのは「プレース・ソルフェリーノ」というところだった。ここに「マラコフ通り」というのがあり、宿屋の印はフランス人が切り落としたブタの尻尾を持った中国人だった。ここの軍事施設は大平原のど真ん中にあって、埃っぽかった。大地の色も白っぽくて、目が痛いくらいにまぶしい。今度の航海で一番暑い日ではあった。とはいえ木陰もあったし、広々とした大地は一面の草原にもなっていた。ここは陸軍の演習地だ。今は亡き皇帝が丘の上の東屋から軍の行進を見守ったりしていたところだ──もっとも、その軍もやがては恐怖にかられて逃げ出してしまうことになってしまったのだが。

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現代語訳『海のロマンス』65:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第65回)

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二、バードウッド・バンク

五月八日。ケープホーンを通過した翌日のこととて、後片付けで忙しく、総帆(そうはん)展揚(てんよう)でまた忙(せわ)しい。

専任教官の訓示(くんじ)によると、本船は午後五時ごろにバードウッド・バンクの西部を横切るだろうとのことである。

バードウッド・バンクとは、フォークランド島の南方百二十海里くらいの地点で、五十五度の経度線と、スタテン島の西岸との間に、東西二百海里、南北六十海里で広がっている、平均水深四十尋(ひろ)*1と、海底が浅くなったところ(バンク)である。

 

*1:尋(ひろ)は大人が両手を広げた長さ(約一・八メートル)。二十尋(ひろ)は三十六メートル。

底質(ていしつ)がサンゴ殻(がら)か火山岩片、海の色は暗褐色で、水深は二十五尋(ひろ)から六十尋(ひろ)まであり、中央が最深部であるという。

一八二一年に、ドクトル・バードウッドによって発見されたのだという。

本船も二、三度、深海測温法(しんかいそくおんほう)を行ったが、初回は八十尋(ひろ)で、次は七十尋(ひろ)、海の色には変化がなかった。

意識に十分なる満足を与えずして、ただ海図(チャート)とコンパスとの相談づくで無事ケープホーンを通過したものと、自分勝手に決めた翌日(あくるひ)、さらに、胸底からわきおこってくる懐疑を抑えつつ、ログラインと深海寒暖計とで、見えもせぬ砂堆(バンク)を五百尺(約150m)の底に断定したとは乱暴にもほどがある。

科学とは情実(じょうしつ)を無視し、思いこみを蹂躙(じゅうりん)し、人間一切の義理と、世の中一切の約束とをまったく気にしない、理知の曲者(くせもの)である。冷酷であること鉄のごとき没情感である、と言っても、どこからも文句は出ないだろう。それとも出るなら出してみろ。

三、ヘンリエッタ号

「こちらはドイツ、ハンブルグ籍のヘンリエッタ号」

「了解。名乗るのが遅くなりましたが、こちらは日本国の練習船・大成丸です。どちらへお急ぎですか」

「イギリスのマージー川の河口にあるリバプール港へ……」

「どちらから?」

「チリのアントファガスタの泊地から……」

「出港してどれくらいになりますか」

「三十二日です。安航を祈ります」

「ありがとう。それではさようなら」

こんな意味の会話を万国信号で交信しながら、ヘンリエッタ号は本船の船首一海里の海を右舷「一杯開き」で快走していった。

正月十二日である。本船は折からの右舷後方からの順風に乗じて、トップスル六枚と前帆(ぜんほん)とで七海里のスピードで走っている。ところが「ハンブルグ籍の船」は総帆(そうはん)三十枚であるから、四時半頃に本船の右舷後方に見えたものが、六時半には並行の姿勢をとって通信をはじめ、七時にはすでに本船を追い越して夕闇の中に隠れてしまった。

さすがに商売船は速い速い。

四、海水が赤い

正月十八日(土曜) 南緯四十三度、西経三十五度。

日本のちょうど裏側である。思えば遠くへはるばると流れながれてきた旅路(たびじ)である。

昨日、今日と、青黒くにごった海の中に粘土色に線を引くように、山崩れの川のようなものが遠くまで連なって流れてくる。何か微細な虫類かまたは藻の類だろうと、バケツでくみ上げて顕微鏡で観たら、無数のエビの子のようなものが浮遊していた。

学名コペポーダ(ラテン語で「櫂(かい)の足」)という甲殻類の一種だという。

ダーウィンの『ビーグル号世界周航記』に、次のような一節がある。ちょっと面白い。

「……海水の変色については、二、三の語るべきことがある。南米はチリの近海を航行中、青みをおびた紅色の海水を見たが、これは顕微鏡で見ないとわからない小生物の集合……。南米のティエラ・デル・フェゴ島の近海では、海面に鮮紅色の線を見たが、これは甲殻類の一種であるエビの発生に原因する……アザラシ猟をする者たちは、これをクジラのエサだと言っている。」

五、トリスタン島

正月三十日正午、南緯三十七度、西経十三度三十分。トリスタン・ダ・クーニャ諸島の一つであるイナクシブル島まで約四十五海里。

トリスタン島は八千余フィート(標高2010m)もある峻峰(しゅんぽう)が高く抜きんでていて、雲の上にそびえているのが見える。どことなく富士に似ている。たまらなくなつかしい。紫(むらさき)匂(にお)うばかりの山裾(やますそ)がなだらかに両方に流れて、左の方の腰には、立派な標本のような雲がきれいに咲いている。

左舷船首(ポート・バウ)にはイナクシブルが、その左の端をやはり麓(ふもと)の雲に包まれてすっくと立っている。午後の七時ごろ、北西の風を左舷に受けて、イナクシブルの風下(かざした)正横(まよこ)を五海里の距離で通過する。

実におそろしい島である。見る人の視覚をブルブルと脅かす効果を与えるに十分なる島である。見る者に、厳粛にして冷酷なる威容と感じさせる島である。イナクシブル(近づきにくい)とはよく言った。ことに、その右の端に狂犬の歯のように屹立(きつりつ)している岬は、今にもバタリと水煙をあげて倒れそうに見えるくらいに、細く鋭く長い。

千尋(せんじん)の海底から徐々に円錐形をなしつつ持ち上がったという推理と意識とを連鎖させるのはむずかしいほとに、細く鋭く長い。慕(した)い寄る周囲の海を、ええ、うるさいと、けんもほろろに、しずくも滴(したた)らせずにきれいに振り払って、無情にもムッと突っ立ったような島のたたずまいである。

恐ろしい岩くれだった絶壁の皺層(しゅうそう)にはふわりふわりと白い雲が悲し気にたなびいている。

無人島である。冷たい、さびしい、荒れ果てた無人島である。

英領トリスタン・ダ・クーニャ諸島は、トリスタン、イナクシブル、ナイチンゲールの三島からなり、南緯三十七度、西経十二度にある。

この諸島は最初はポルトガル人によって発見され、以後、オランダ、フランス、アメリカ等の手をへて一八一七年にはじめて英領と宣言され、定まった主権者を迎えるにいたった。住民は最大の島トリスタンに七十五人(男三十六人、女三十九人)いるのみで、他の二島は無人島である。この七十五人はこの辺の海で難破した船乗りの子孫だという*2。


*2: リスタン・ダ・クーニャ島の現在の人口は260人。南大西洋南部の孤島で、ギネスブックでは「世界一孤立した有人島」に認定されている。

 

産物はポテト、果樹、海獣*3、海獣油等である。また島内には清水が多く湧き出すため、帆船がときに寄港することがある。


*3: 海獣 - 海に生息する哺乳類(クジラ、イルカ、ジュゴン、アザラシ、ラッコなど)の総称。

英国の軍艦は一年に一回やってくる。

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