ヨーロッパをカヌーで旅する 40:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第40回)


翌日、鉄道の駅で、ぼくは「貨物」受付の窓からカヌーの尖ったバウを突っこみ、「ボートの料金」をたずねた。係員はまったく驚いた様子を見せなかった。というのは、ぼくがイギリス人だとわかったので、どんな奇人変人や狂人的な行動であっても、イギリス人ならやりかねないと思っているのだった。とはいえ、ポーターや警備員、運転士とはちょっと面倒な議論をした末に、やっとカヌーをなんとか貨物車のトランクの間に押しこむことができた。アメリカ人旅行者の尖った鉄張りの箱が薄いオーク材のカヌーに穴をあけていないか、鉄道会社に代わってときどき確かめた。プラットホームで積みこみを待つ頑丈な木製の樽がごろごろ転がされてカヌーのすぐそばを通るのではないかとか、魚籠や鉄の棒や木箱やいろんな不格好な貨物がカヌーに当たりはしないかとか、どうにも気になって仕方がない。こういうものって、汽車が停車したりするたびに貨車の中で倒れたり転がり落ちたりするものなのだ。

単なる物にすぎないカヌーに対して、こうして心配したり不安になったりするというのは、生き物ではないモノに対し、楽しみや苦しさを自分に置き換えて感じたことのない人にとっては、ちょっと異常だと思われるかもしれない。しかし、それ以外の人たちは、こういう航海ではボートに対する愛着がどんなに強いか、わかってくれるだろう。ここで強調しておきたいのは、こういう華奢な乗り物で旅をする人が今では増えていて、旅の折り返し点をすぎると、そうしたモノをなんとか無傷で母国まで持って帰りたいという気持ちが日増しに強くなってくるということだ。

チューリヒまでカヌーを鉄道で運搬する料金は二か三シリングくらいだった──駅とホテル間の運搬に要した費用の方が高くついた。そこからまた車両に載せて、古き良き鉄道の旅のようにトンネルを抜け、スイスを象徴する山岳地帯に到着した。そこにはスイス各地から旅行者が集まってくる。ホテルや巨大なレストランが立ち並び、さまよえるイギリス人にたっぷりの食事を提供したり、食事療法を施したりするのだ。むろん、値段はめちゃくちゃ高い。

ここでは、またしてもぼくの食べっぷりが噂になって、それに悩まされた。そう、これはしょっちゅうで、疑いもなく身体に関することなのだが、山に登ったりカヌーを漕いだり、ラバを御したりと、旅人が自分の筋肉を使って自分の体と荷物を運んでいる場合、たんぱく質をいかに取り込むかというのは、少なくとも当人にとっては死活問題なのだ。

スイスやドイツで快適に過ごしたいと思うのであれば、宿泊はドイツのホテルがおすすめだ。景色のよい観光名所の近くに建てられているイギリス人観光客向けの巨大な宿舎は避けた方がいい。汽車や蒸気船から降りた観光客はそのままバスへと乗せられ、待ち構えたホテル業者のところへと運ばれていくのだが、パパとママと三人の娘、それにお手伝いさんが一人という家族がいる。むろん、案内人が付き添ってくれる。また登山杖を持った、どこか戸惑った様子の女性もいる。手にしている白く長い杖はスイスに着いたときに渡されるのだが、それをどう使うのか、当人には見当もつかないのだ。次に、同じ車両から一ダースもの若いロンドンっ子の集団が下りてくる。一行は男も女も表面を取りつくろった顔をしているが、内心は心細さを感じているので、ホテル経営者は好きなように扱える。

添乗員と一緒ではなく、妻や重い荷物や娘も連れず、ぼくは一人でホテルに入ると、勇気を振り絞って、骨なし肉とジャガイモを注文した。三十分ほどして、肉二切れにホウレンソウを添えたものが出てきた。どちらも一口で食べ終えたし、冷えてもいた。果物を注文した。ナシが出たが、傷んでいた。小さなブドウも一房も出たが、これは高級品だった。代金として二シリングを払った。

翌日は、それと対照的に、湖を三マイルほど漕いで下ったところで、前日と同じように骨なし肉とジャガイモに果物付きの食事を注文した。今度は、二流のドイツの宿屋だ。骨なし肉がすばらしいジャガイモを添えて出されたが、実においしかった。果物は大粒のブドウや桃、果汁たっぷりのナシ、熟したリンゴと赤く色づいたプラムが、大きなカゴに盛り合わせて出てきた。代金は一シリング六ペンスだった。なぜこうなるかというと、イギリス人は値段が高くてもブツブツ言うだけで代金は払ってくれるが、ドイツ人は払わないからだ。イギリス人なら我慢できる料理にも、ドイツ人は我慢できないというわけだ。別にホテルの経営者を責めているわけではない。彼らはできるだけお金を稼ごうとしているわけだし、金を稼ごうとすると、誰でもそうなってしまうというだけの話だ。

夜明けの薄明かりのなかで、チューリヒ湖をカヌーで出発した。夕方まで快適な航海だった。涼しく、静かで、湖面には周囲の色彩豊かな集落が映っていたし、柔らかい歌声やゆったりとした音楽も聞こえていた。月が昇ってくると、はるか遠くの冠雪した山々が銀色に光った。カヌー用のボートハウスを見つけたのは、このときだけだ。また、カヌーが手荒に扱われたのも、このときだけだった。翌朝、責任者だというまじめで実直そうな男がやってきた。カヌーは無残にもひっくり返り、浸水しているのがわかった。座席は放り出され、周囲に浮いていた。カバー類もだめになっていた。帆は結び目がほどけていたし、大切なパドルは、汚い手で握られたために汚れていた。こうしたことを心苦しく思った男は、英語とドイツ語とフランス語の罵詈雑言を黙って聞いていたが、代金の半フランとともに、そのことをずっと忘れないはずだ。それ以来、ぼくは面倒でも、カヌーは必ずホテルまで運ぶようにした。ここでは、もう一つ別の体験もした。荷物を蒸気船で送っておき、目的地で受け取ろうとしたのだが、荷物が無事に着くかなと心配になり、なんとも気がかりで、利便性という効用も吹き飛んでしまった。カヌーの旅では、荷物は常にカヌーのどこかに収納し、自分で持ち運ぶべきだと痛感した。自由であることが、カヌーイストの喜びなのだ。


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現代語訳『海のロマンス』26:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第26回)


海洋の変化

雲行けば船も従い、船行けば雲もまた追って、紫紺(しこん)の海に銀(しらがね)と咲く潮(うしお)の花を眺めくらしつつ、今日ははや三十八日の汐路(しおじ)を重ねた。

弓を引いては発し、引いては射るといったように、風は絶え間なく変化する。あるときはごうごうと音を立てる猛烈な台風となり、あるときはすね毛の根本にまつわりつく気流のくすぐりほども感じさせない。はるかな海底からこんこんと湧き出てくる潮(うしお)の脈拍。あるときは渦を巻き、みなぎるように沸き上がり、その堂々たる響きは赤き血潮(ちしお)の色も濃い船乗りの血管にも強く共鳴し、あるときは腕達者で繊細な、さざ波のように途切れずに続く音(ピアノ)となって、その何とも言えない妙なる音は、空想にふけるマドロスの胸に奥ゆかしい海の琴の音を伝える。

朝になると明けの明星も姿を隠し、夕べには月の光に照らされる。海の変化は秒を削り、分を割りて、なお一瞬時のいとまを与えない。

今や練習船大成丸は静かに太平洋のうねり(スウェル)に揺られながら、二度目の真無風(デッドカーム)を味わっている。四本のマスト、十八本のヤードは再びスウェーデン式体操やスパニッシュダンスを強いられる苦しい羽目にあるのである。

つい昨日までリギンは風に鳴り、バウは波に吠(ほ)え、弓を離れた矢のように、一時間八海里も走ったのを思えば、うそのようである。

帆船にとって、風がなくなり船が進まなくなったことほど、心細く、また哀傷(みじめ)なことはないだろう。見渡す限り空は一面の瑠璃(るり)色に染められ、水平線のかなたには干からびたような雲が不機嫌そうな面(つら)をさらしている。海の面(おもて)は、ありとあらゆる波の起伏的行動(モーション)を封じ去って、大小高低さまざまな波浪はネプチューンの巨砲に削られたようになめらかで、少しの変化もない。風といえばアホウドリの胸毛をゆるがすほどの力もなく、速度を調べる側程儀は引き上げられ、大小三十四枚の帆(セイル)は一斉に意気地なくマストにへばりついて、天地の間に見えるものは、ことごとく倦怠(アンニュイ)と退屈(ダル)との象徴(シンボル)でないものはない。油を流したような海とはこのことであろう。なだめられ、すかされ、だまされて泣き寝入りになったように……。おとなしいと言うより、むしろ無気力の沙汰(さた)である。

海はこのように恭順(きょうじゅん)の体を示しているのに、ここにうねりというつむじ曲がりの彰義隊(しょうぎたい)が控えている。風がへこたれ、海は変わってしまった、そっちがそうなら、……と静かに収まっている水の層を、その平らになろうとしている水の重さに逆らって、むりやりに上下に揺すりはじめる。そのたえざる微動が薄い水の表面を破らない範囲内において、はるか遠くから伝わってくる力を強く感じられる帆船は、汽船や軍艦に比べて、一層安定(ステイブル)である。さらに大なるスタビリティ―を持っている。本船のGM値*1は実に三フィート二インチ余もある。うねりが来ると、二千四百トンの大船も、くすぐられるように竜骨(キール)の下からユラリユラリと持ち上げられる。

見渡せば、船の横動(ローリング)に応じて、マストやヤードは皆それぞれに勝手気ままな方向(むき)にダンスをやっている。前檣(フォア)のやつは盛んにポルカをやっている。負けるものかと中檣(メイン)のヤードは浮いた浮いたとカドリーヌをやる。後檣(ミズン)のやつはと見ると、皆さん陽気に騒ぎましょうとばかりに、コチロンをやっている。御大喪(ごたいそう)中であるぞ、控え! とどなっても、帆柱(マスト)とうねり(スウェル)との妥協である。いっかな聞きそうにない。とにかく、波長の長いうねり(スウェル)は船乗りにとって鬼門である。

無風(カーム)で相当に苦しめられた船乗りは、またさらに苦しむべく、ここに時化(しけ)なるものを迎えなければならない。なんとも因果なことである。

一番上に展開するロイヤルはもう前の初夜当直(ナイトワッチ)に絞られた。風力七*2となる西方の疾風(ゲール)はヤードリギンに当たってビュービュー悲鳴を発し、海は夜目(よめ)にも目立つ雪のような波頭をいただいて震え走るのである。

怒り、狂い、焦(じ)れ、騒ぐ、北太平洋の広大な海域を伝わってきた波浪(なみ)は、相手ほしさのその矢先で、恐れる気配もなく乗り入れた二千余トンの帆船の鋭い船首(ステム)で、むざと二つに切り破(わ)けられた腹立たしさに、憤然としてガンネルを噛む勢いものすごく、ドシンと舷(ふなばた)に当たりざま、たちまち三千尺の高さに跳ね上がる。それを待ち構えたように、意地の悪い烈風がそれとばかりにけしかける。

軽佻(けいちょう)な波は、この尻押しのおだてにたやすく乗せられて、何の容赦もなく大きな煙突のような藍青色(エメラルドグリーン)の長い大きい水柱が水煙をたてて踊りこむ。リギンに時ならぬしぶきが散り、甲板はたちまち泡立つ海となり、洪水のような海水が滝のように風下の方へ流れ走る。こういうとき、中夜(ミッドナイト)の夜話は例の怪談話をするのに最もふさわしい。今も左舷二部の当直員は二番船倉口(ハッチ)の周りに円座して、N氏の大阪川口の綿問屋木ノ吉の所有にかかる新造スクーナーの進水当夜の奇談に心を奪われていた。と、たちまち頭上の船橋(ブリッジ)から「ゲルン絞れ!」*3という士官の号令が凛(りん)として夜の沈静(しず)んだ空気を震わせつつ、高く響いた。

ハリヤードを延ばし、シートをやり、クリュ―ラインを引き、囚われた大鷲のようにバタつく帆を巧みにヤードにまで縛りつける。やがて「絞帆(こうはん)たため!」の号令が下る。

すわと、はやりきった心を沈めて猿(ましら)のごとくスラスラとリギンを伝う後ろから、海洋(うみ)の男性的素質(ネイチャー)の両極を見よとばかりに、礫(つぶて)のような獰猛(どうもう)な驟雨(スコール)が激しく洗い落すようにやってくる。驟雨(スコール)の過ぎ去った後のヤードを見上げれば、蒼穹(そうきゅう)を燦然(さんぜん)と散りばめている無数の星くずを、今にも払い落すように横動(ローリング)するマストの上で、雨に濡れてパンパンの板のようになった帆をたたみ上げるその速さ、その手練(てだ)れ。

陸にしがみついている人、セイラーを軽視する人にぜひ見せたい見事な光景である。



脚注
*1: GM値 - 船舶で、G(重心位置)とM(横揺中心)間の距離を指し、この値が大きいほど復元力が大きくなる。「(横)メタセンタ高さ」ともいう。

*2: 風力七 - 風の強さは一般に「ビューフォート風力階級」で示される。風力七は風速13.9m~17.1mで、風力階級表によると、海上では「波頭が砕け、白い泡が風に吹き流される」状態。
ちなみに、太平洋では風速が17.2mを超えた熱帯低気圧が台風と呼ばれる。


*3: ゲルン - トップギャランと呼ばれる横帆のこと。
横帆式の帆船では、帆(セイル)は、マストの下から順に「コース」「トップスル」「トップギャラン」「ロイヤル」と呼ばれる。数が多い場合はさらに細分化され、「アッパー(上)**」「ロワー(下)**」が付く。
強風で縮帆する場合、上の帆からたたんでいく。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 39:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第39回)


第七章

朝になると、大気に不思議な変化が生じていた。あたり一帯が白く濃い霧に包まれていた。これは「ぞくぞくするような川下り」ができそうだと思ったので、急いでこの乳白色の世界にカヌーを浮かべた。たとえば、橋の下をくぐるとする。人々の声がまるで頭上から、というか天から降ってくるように感じられるのではないかと思ったのだ。しかも、この霧は十一月のチェシャ―チーズほどにも濃厚で、それだけ興味深いものになりそうだった。川旅での霧は何度か経験しているのだが、今回は、つい目と鼻の先にあるカヌーの先端すらまったく見えない。こういう状況──何も見えないまま速い流れに乗って漕ぐという状況──は、まったく予想外だし、新鮮でもあった。何も見えないという状態が、大きな喜びを感じさせてくれる。

空想はいつも無限だ。しかも、脳裏に描く絵はいきいきとして、色もあざやかだ。結局のところ、外部の物体の印象というものは絵にすぎないと、哲学者たちも述べているではないか。景色など見えない霧中の川旅だとしても、頭の中で思い描きながら楽しめばよいのではないか、と。

音もそうだ。声はたしかに聞こえるのだが、魔女や妖精がしゃべっているようでもある。実際には、川岸で女たちが洗濯しながらおしゃべりしているだけなのだろうが。とはいえ、現実と空想の両方で姿の見えない人々の相手をしつつ、神経は極限まで集中させる。またも声が近づいてくる。これは、カヌーがまっすぐ岸に向かっているということだ。気をつけろ! そのうちに霧が晴れてくると、自然の景色の移り変わりが最も興味深いものの一つとなった。山や荒野の旅で、こうした霧に遭遇し、また霧のカーテンが急激に、あるいは徐々に薄れていくのを楽しんだ人は多いと思う。が、なにしろ自分が今いるところは、美しい川の上なのだ。

こうした様子についてうまく表現できればと思ってはいるのだが、なかなかうまく伝えられない。いわば、ターナーの一連の風景画のような景色が左右にちらほら見えたり、頭上に木々や空や城が一瞬だけ輝いて見えたりもした。それがまたベールに包まれ、すっかり隠れてしまったりもした。心の中で、そうした一連の景色をつなげて想像してみるしかない。たまに日光が差しこんできて現実の風景が見えたりもするのだが、それはまったくの興ざめだったりした。しまいには霧はすっかり晴れてしまったのだが、これは太陽神ソールが異様なほど暑い光線を投げかけて霧を払いのけ、自分を隠した恨みをはらしたのだろう。

このあたりのライン川は、土手が急な崖になっている。その向こうには、気持ちのよい草原やブドウ畑、それに森がバランスよく混在して広がっていた。もっとも、カヌーの川下りがそれなりに快適なときは、どんな景色でも好印象になりがちだ。やがて、森が深くなった。背後の山々は屹立していく。流れはどんどん速くなり、丘の上に点在していた家々はぐんぐん近くなり、だんだん都会風になってきた。と思うと、視界がパッと開けて、シャフハウゼンが見えてきた。その間も、不機嫌そうな川音が「前方に急流あり」という警告を発している。こういうところを航行する際は注意が必要だ。とはいえ、別に難所というわけではない。というのも、このあたりになると、蒸気船が通ってきているからだ。蒸気船が航行するような川は、むろん、カヌーにとっては何の支障もない。大きな橋のところまでやってくると、「ゴールデネン・シフ」(英語では、ゴールデン・シップ)という名前のホテルがあった。こういうのを見てしまうと、人は我知らず愛国者になる。というのも、名前はイギリスのもののパクリだし、隣接する壁には、なんとも微妙な一人のイギリス人の巨大な絵が描かれていた。その絵のイギリス人は、スコットランドのハイランド地方の民族衣装らしきものを着ていて、キルト特有の格子柄らしいのだが、イギリスではまったく見かけることのない柄なのだった。

ここでもカヌーは人々を驚かせた。が、その反応は今までにない新しいものだった。現地の人々が「どこから来たの?」とたずねるので、ぼくがイギリスからと返事をする。ところが、相手は、そんなことはありえないと、なかなか信じてくれない。ぼくがたどってきたコースでは、ドイツから来たとしか思えないらしい。

とりあえず宿を確保するという午前の作業はすぐに終わり、それからは一日中ぶらぶらと街を散歩した。太鼓や楽団の演奏が聞こえたので、そっちに行ってみると、そろいの制服を着た二百人ほどの子供たちの集団がいた。本物の銃を持った少年兵だ。命令を聞く合間にリンゴをかじったりしていたが、なかなか勇ましい一団で、歩調を乱す年少の子供をにらんだりもしていた。その子はまだ八歳くらいで、歩幅が足りず、行進についていくのに苦労していた。

連中は小競り合いを模した演習をしていた。ラッパではなく、小さなヤギの角で命令を伝えている。角笛は鉄道でも使われていた。音は明瞭で、遠くからでもよく聞こえる。イギリスの軍事演習でも、この手の角笛を使えば、もっとましになるかもしれない。

シャフハウゼンの滝の上にあるベル・ヴューまでは、わずか三マイルだった。そこまで行けば、気品のある景色が一望できる。ライン川のこの大きな滝は何年か前にも訪ねたことがあった。そのときの記憶よりはずっと立派に見えた。最初に見たときより二度目の方が印象が強くなる景色というのはうれしいものだが、珍しいことではある。夜になると、川はベンガル花火の光を反射して一段とすばらしかった。そして、沸き上がるような水の泡や絶えることのない豊かな水量の流れにその光が当たると、まるで光の川が流れ落ちているようで、魔法のような美しさと華やかさだった。そうした光景はホテルのバルコニーからよく見えた。ホテルにはいろんな国から大勢の旅行者が来ていた。ぼくの隣にはロシア人が、反対側にはブラジル人がいた。

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現代語訳『海のロマンス』25:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第25回)


人食い魚の来襲

船は昨日から暑気(しょき)にあてられた中風病みのように、ブラリブラリと二度目の無風(デッドカーム)を味わっている。

わが練習船も帆前船(ほまえせん)である。先年ドーバー海峡で不慮の災厄にかかった一万二千トン五本マストのバーク型*1のプロイセン号もまた帆船である。ホワイトスター社やキューナードや北ドイツハンブルグ汽船会社等の大会社の練習船もまた帆船である。何故であるか、帆船は石炭を食わぬから……と、世の一般の人々は即答するだろう。それも一つである。因数(ファクター)の一つである。しかし、必須の要点(エレメント)ではない。

わが練習船は大小三十二枚の帆の他に、わざわざ多くの不便と──純帆船に比べると高い──費用とを犠牲にして、立派な補助機関を持っている。時と場合とによってはドンドンと機走をする。氷を作る、電灯をともす。しかし、事情の許す限りは風の慈悲(マーシ―・オブ・ウインド)を頼りに帆走する。風の慈悲にすがるとは、風を受けて進むのを喜ぶだけではなく、風に置いてけぼりを食らわせられるのを喜ぶという気持ちである。真無風(デッドカーム)を楽しむの心である。

青い蒼空(そら)と赤い星(ほし)とを朝に夕にながめ暮らし、しかも単調(モノトニー)を感じないとき、数日にわたる真無風(デッドカーム)を味わって、しかも倦怠(ダル)を知らないとき、われわれは海に慣れたという。最もよく海に慣れたとき、最も長く真無風(デッドカーム)を経験したとき、六十万円の巨額*2を投じて建造された練習船の本来の使命はいかんなく遂げられるのである。このようにしてはじめて、練習船を帆前(ほまえ)にした意味があるというものである。

今本船は、この高貴で偉大な使命の一部を遂行するため、甘んじて無風のうちに逍遥(しょうよう)している。

無風になって、フカが来ないのは、フランス料理にカタツムリが出ないようなもので、コーランを読んでメッカに詣(もう)でないようなものである。物足りないこと、おびただしい。鉛色に悪光(わるびかり)した海は鷹揚(おうよう)にゆらりゆらりとうねって、これでも太平洋かと思わせる。笹舟(ささぶね)を浮かべて吹いたらツイツイと行きそうである。そろそろおいでなさるころだがと思う耳元で、「ホラ、来た」という喜びの声が響いた。

すわ敵が接近したかとばかりに身構える。指さす方(かた)にと眼をこらせば、さても面(つら)憎きまでおさまりかえった敵の振る舞いかな。鋸(のこぎり)の目のような鋭い背びれと、静かに極めて静かに平らに重い水面を破って進み来る様子といったら。美人がにやりと笑うのには不気味なものがあるし、暴君ネロの親切は薄気味が悪い。人食い魚(フカ)*3が静かにふるまう様子は……やはり、すごく恐ろしく薄気味が悪く感じる。船尾の舵で分けられた水が一面に白い軽い泡を吹き、その下に、海の怪物(モンスター)が悠々と長くしなる尾をヘビのようにくねらせている。薄茶の背は直下に見る海の透徹(とうてつ)した色に彩られて、美しい褐色がかって見え、その輪郭(アウトライン)に近づくにしたがって腹の一部分は目も覚めるような深緑色をしている。口とおぼしきあたりは、ただ銀色に光っている。あれで一口にパクリとくるかと思ったら、少なからず興が覚めた。

カツオ釣りの名人にして、アホウドリをとらえるのも巧みだった水夫長(ボースン)は、またこの怪魚の征服者として有名である。フカと聞いて、とるものもとりあえず駆けつけてくる。知己(ちかづき)になろうぐらいの勢いで、さっそく牛肉(にく)の一片を投げてやる。獰猛(どうもう)に寄ってきた怪物は、ユラリとその巨大な腹をひるがえす。その速さ! その軽さ! アッという間に、キラキラと青白く光って落ちていった肉はその巨大な口におさめられた

どうしても針にかからない。「外国のフカは利口だ」と、水夫長(ボースン)が嘆(なげ)く。このとき、一人が「あれ、きれいな小さい魚が──」という。船上から眺める多くの乗員の影法師がはっきりと海面に写っている。多くの眼が一瞬ひかる。ブリモドキとも呼ばれる水先魚(パイロットフィッシュ)である。萌黄(もえぎ)色の細長い体に、暗緑色のシマが見事に列をなしている、二尺ぐらいの小さな魚が四匹。ちょうどフカの案内をするように、鼻先をヒラヒラと喜遊している。どんなに腹が減ってもフカはとって食わないそうだ。それもそのはず、フカはこの魚をダシとして獲物を釣りよせ、水先魚(パイロットフィッシュ)はまた頭部の吸盤でフカに密着して旅行する*4とは水夫長(ボースン)の話(レクチャー)である。「それでは水先魚(パイロットフィッシュ)はちょっと、タバコ屋の看板娘という恰好(かっこう)だね」といって、一同を笑わせたものがいた。



脚注
*1: バーク型 - マストが三本以上あり、一番後ろのマストだけに縦帆を持つ帆船(前側のマストは横帆)。


*2: 六十万の巨額 -物価変動データに基づいて百年前の金額を現在の金額に換算すると、ほぼ二十億円ほど。が、この金額で同規模の帆船を新規建造するのは、現代ではむずかしいかもしれません。
ちなみに、大阪市が二十世紀末(1993年)に竣工させた三本マストの練習帆船「あこがれ」(現「みらいへ」)は、大成丸に比べると二回りほど小さいのですが、建造費は十四億円だったとされています。


*3: フカ -鮫(サメ)と同じ。一般にフカは西日本でよく使われ、古事記に出てくる因幡(いなば)のシロウサギの神話ではワニ(ワニザメ)とも呼ばれている。


*4: 吸盤で - サメとブリモドキが共生しているのは、本文にある通り。しかし、ブリモドキには吸盤はないため、この部分は同じように共生しているコバンザメとの混同があるようです。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第38回)


宿の主人はぼくのスケッチブックに興味津々(きょうみしんしん)だった。それで、フランス語のできる友人を一人連れてきた。その人はブリキの管でボートを作ったのだそうだ。人が乗るところが補強されていて、腰かけとオール受けも付いている、世にも奇妙な外観をした細身のボートだ。それはぜひ浮かべてみなくっちゃと、ぼくはなんとか彼を説得してボートを川に浮かべさせ、自分もカヌーに乗って伴走した。二艇で近場を巡航した。二本の金属製チューブを並べたボートは、チューブ以外の部分は足の長いクモのように水面から高いところにある。それに比べると、こっちはオーク材で作った木製カヌーで高さも低い。とはいえ、デッキはニス塗りで小粋に光っているし、旗も風になびいている。二艇で並走する。どっちも単独ですら珍しいのに、それが二隻も並んでいる光景は前代未聞だったろう4

原注4: 英国では今ではペダルを漕いで動かす外輪を持つ双胴船をよく見かけるが、動きは鈍重だ。二つに分かれた船体の内側部分が平行な垂直面になっていれば、この双胴カヌーでの帆走は波のない水面では快適だ。

このあたりの川の雰囲気は、スコットランドのクライド川やその河口付近のカイルズ・オブ・ビュートと呼ばれる多島海に似ていた。国境も入り組んでいる。川に沿ってフランスの集落があり、頭上にはイタリアの空が広がっている。ぼくらは大勢のユダヤ人が住んでいるという集落までやってきた。ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)を訪れてみたかったのだ。だが、なんと、ここもまたバーデン大公国になっているのだった。しかも、武装した衛兵が油断なく見張っていて、ぼくらが領土に接近してくるのに気づくと、彼は配置についた。ぼくらと正面から対峙し、上陸するんなら、どこか他の場所にしろと命令した。この男は民間人だったが、その命令はもっともでもあったので、ぼくらはその場を去り、スイス側に向かった。そうして、二隻並んでイバラの生い茂る岸辺に上陸したのだった。イバラの草陰にボートを隠し、丘の上にある休憩所に向かった。六ペンスでワインを飲むためだ。

休憩所では、かわいらしいスイス娘が店番をしていて、イギリス人なら一人知ってるわ、と言った。「イギリス人て、みんなプライドが高いから気の毒よね」とも。そのイギリス人は彼女に英語の手紙を書いてよこしたのだそうだ。じゃあ、その手紙を読んでみてくれないかと、ぼくは彼女に頼んだ。手紙は「いとしの君、あなたを愛しています」と始まっていた。手紙の書きだしとしては、それほど高慢ちきと言われる筋合いのものでもない気がした。連れのブリキ製の双胴船の男は、彼女にコーヒーポットを作ってやろうと約束していた。なにしろ、彼がブリキ職人であることは一目瞭然だったし、なんとも好人物のブリキ職人なのだ。

娘はぼくらがボートやカヌーに乗りこむところまでついてきた。そこに彼女の父親がやってきたのだが、娘が二人の男と一緒にいるのを見て目をぱちくりさせていた。アメリアというこの娘は「誇り高き」イギリス人と船に乗ったブリキ職人に手を振って見送ってくれた。ぼくら二人もそこで別れた。ブリキ職人は大きな四角い彩色した横帆を揚げて帆走し、ぼくはといえば、それと反対の川下の方へ漕ぎ下っていった。

「誇り高きイギリス人」──この言葉を口にした娘が視界から消えても、ぼくの耳にはこの言葉が響いていた。そもそも、ある国の人間が他の国の人間を「誇り高い」──言い換えれば、自尊心が過剰だと判断できるものだろうか。というのも、誇りとかプライドというのは、誰でも同じように持っているものではないのだろうか? これに簡単に答えをだせる人は、天から降ってきた哲学者に違いない。なぜなら、イギリス人でもフランス人でもアメリカ人でもいいが、彼らを第一印象で断言するのは簡単なのだ。だが、実際にその国の人々の間で暮らし、本当に知り合った上で、では彼らはどういう人たちかを判断するとなると、そう簡単ではない。

いわく、ジョン・ブル(イギリス人)は自由を獲得した大昔の勝利を、また世界各地に進出し繁栄していることに、またこの世の終わりまで平和が続くという希望を思い描いて自己満足している。

いわく、ブラザー・ジョナサン(アメリカ人)はまさしく十年前に始まり、ぼくらすべてを本当に驚愕させた南北戦争の勝利に誇りを抱いていて、大海原のかなたの大陸で領土が拡大していく輝かしい未来を楽観的に思い描いて喜んでいる。

いわく、フランス人は自国が輝かしい光に包まれていることを喜んでいる。その光は安全な港を示す灯台というよりは、危険が迫っていることを警告する信号であることの方が多いのだが。いや、それよりもっと悪く、危険な火花や大きな音を伴う戦争という大爆発の予兆かもしれないのだが、それでもフランス人は、他の国がその光を見なければならないこと、その騒音を聞かざるを得ないのに最後にどうなるのかわからないでいることを喜んでいる。

いわく、ジョン・ブルは高所から見下ろして満足している。ブラザー・ジョナサンはその高所を見上げて満足している。フランス人は自分の悪行を他者に見せつけ、自分が世界の手に負えない子供(アンファン・テリブル)であることに満足している。

これまで何週間も、ぼくにとっては毎日がピクニックみたいなものだった。だが、この日に限っては、ぼくは夜も航海を続けた。空気はとてもさわやかで、日没の赤い太陽は、やがて昇ってくる白い月と入れ替わる。川もここまで下って来ると、航海には何の危険もなかった。数マイルごとには集落がある。ぼくは月の光の下での航海を十分に堪能し、シュテインの町で上陸した。夜も遅かったので、川辺にはもう人っ子一人いなかった。到着が遅れたときには、よくあることだ。ぼくはパドルで水音を立てて一かきか二かきし、大きな声で歌を歌った。イタリア語にオランダ語、それにスコットランドのピブロックというバグパイプで奏する景気のよい曲だ*1。それに実際の物音も加えた。すると、それを耳にした暇人たちが集まってくる。そうやって必要な人手を集めるわけだ。

集まってきた人々のうちの一人がすぐにカヌーを宿屋に運ぶ手伝いを買って出てくれた。夜も遅く変な客だったが、宿では上品な女将さんが歓迎してくれた。そのときから、すべてがあわただしくなった。英語でぼくと話をしてみたいというドイツ人がやってきたのだ。何もわからず黙って聞いていた他のドイツ人たちと同じように、彼の英語はぼくにもちんぷんかんぷんだった。

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現代語訳『海のロマンス』24:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第24回)


小さきホーム

 四時間の当直勤務をすませた三十人の海賊王の子供たち(シーキングス・チャイルド)は、冷たくなった足を暖めようと期待して小さな寝床へ向かう。

寝床の数は八つ。涼しげな水色のカーテンが引かれた奥に、静かに並んでいる。鈍く光るハンドルを押して入れば、四面を磨いたような白い塗装に反射した海洋(うみ)の光線(ひ)は直ちに瞳に迫ってまぶしいかとばかり視神経を驚かす。拭き清められた二つの舷窓(スカッツル)からあふれ入る海軟風(シーブリーズ)は、芳醇(ほうじゅん)なオゾンの清冽なエキスを五百三十二立方フィートの小さなホームにみなぎらせる。

朝の八時である。ローヤル*1を揚げ、ジブ*2を下ろし、あふれ出るエネルギーにまかせて一気呵成(いっきかせい)に甲板洗いまでこなし、ヘトヘトになった身体(からだ)で、やけにふくよかで暖かい毛布の上に倒れこむ。碧波(なみ)が目もさめるほど窓外にどこまでもつらなっていて、気も遠くなるほどはるかかなたの霞(かす)み匂うあたりまで続き、わずかに一本の髪の毛のような細い水平線(ホライズン)となっている。張り詰めた強弓(ごうきゅう)の弦(つる)のように舷窓(スカッツル)の中央を芋刺しに貫く直線(ライン)は、空の白と濃い青緑色の海をクッキリと二つに断ち切っている。つかのまの休息をむさぼりたい身には、頭をめぐらすことさえ億劫だ。できるだけ瞳孔(ひとみ)を左に寄せて、美しいマドンナの額像を瞳に収める。

ほっと一息ついて一歩部屋に入るときにあざやかに目に飛び込んでくるのが、この清楚(せいそ)なマドンナの像である。ここからこうやって斜めに眺めていると、また別な風な美しさが感じられる。聡明なる額(ひたい)と美しい髪とは、開(ひら)いている舷窓(まど)の縁(へり)に生じる暗い陰影(かげ)の中にうずもれて暗く感じられるが、その慈愛を示す豊頬(ほうきょう)と強い意志を示す引き締まった口とは、さわやかな夏の朝(あした)の光線(ひかり)が穏やかにさし入っている中でも、いとも気高く見える。

クレオパトラの鼻はアントニウス*3を迷わし、アウグストゥス*4をもてあそぼうとした卓絶した武器と聞く。たしかに鼻は──すぐれたる鼻は多くの顔面美の要素を総合し結びつける要(かなめ)の存在である。寝床からはその高尚なローマ風の鼻が横向きに見える。いたずらに鋭くはなく、といって軽薄でもなく、遅鈍(ぐどん)にならない程度に丸みを失っている。なるほど、鼻は美人を支配す、である。まことにいい形である、いい線美(ライン)であると一人で悦にいっていると、けたたましい靴音が上甲板に乱れて、「カッパ、用意」という声が響いた。つづいて「ローヤル、ハリヤード、スタンバイ」*5という士官の号令が聞こえる。スコールが来たらしい。

互いに相手の心を読もうとするように、八つの眼が空中にかち合って激しく火花を散らす。すわっという間に元の静寂(しずけさ)にもどる。あぶない。甲の二つの目が「やっちょるな」とばかりに会心の笑みをひらめかす。ただちに乙が「うん」と受ける。丙(へい)と丁(てい)の目には「気の毒に……」という憐憫(あわれみ)の色がほの見える。四人は再び目をそらしてマドンナを見る。相変(あいか)わらず入口を見つめたまま、気高い尊い表情を示している。横になっている四人の者が起き上がって部屋を出ても、ローヤルは降りても、船がサンディエゴに着いても、四人の者が口髭(くちひげ)をはやして大層な月給をもらうようになっても、依然として気高く尊く入口を見つめていることだろう。

甲が会心の笑みをもらしたからといって、丙と丁とが憐憫(れんびん)の光を見せたからといって、マドンナの像を奥ゆかしく思って眺めていたとしても、この八フィート立法の狭い空間で何かを刷新する運動でも起こそうというのではない。一室八人、十六のホームをして各自、自分のことは自分でするという自治の精神を会得せしめ、自分らの部屋や自分らの受持区域(パート)は自分らで治め、自分らで営み、決して他の部員に笑われないようにせよという一等運転士(チーフオフィサー)の方針は、すこぶる賢い方法である。

かくて十六の小さい自治の王国や侯領(こうりょう)がおのおの研鑽し錬磨して、やがて三十人の四分舷直(コーターワッチ)はその面目を発揮し、六十人の左右の両舷ただちにその出色をほしいままにし、百二十五のミカドの練習生はサクソンやゲルマンの船員たちと舷(げん)を並べマストを連ねてもあえて遜色のない水準に達することができる。何の肩書も特権もない外交官として、任命書を持たない使者として、強くたくましい平和の戦士として、千里の外に国民が広がっていく先駆となすことができる。



脚注
*1: ローヤル - 帆船で微風のときにマストの最上部に展開する横帆(ロイヤル・セイル)。


*2: ジブ - マストの前に展開する縦帆。

*3: アントニウス - 共和制ローマの政治家マルクス・アントニウス(紀元前83年~紀元前30年)。
エジプトのプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラと昵懇(じっこん)だったとされるシーザー(カエサル)の部下で、その死後は第二回三頭政治を行った三頭の一人となった。シーザーの死後、クレオパトラと親密な関係になり、最後にはライバルのアウグストゥスに滅ぼされた。

*4: アウグストゥス -シーザー(カエサル)の姪の息子で、第二回三頭政治の三頭の一人。
後にローマ帝国の初代皇帝(紀元前63年~紀元14年)。

*5: ローヤル、ハリヤード、スタンバイ - ローヤルは微風用なので、風が強くなると下ろすことになる。ハリヤードは帆を上げ下げするロープで、「ローヤル、ハリヤード、スタンバイ」は「ロイヤル・セイルを下ろすため、担当者はハリヤードを持って待機せよ」という意味になる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 37:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第37回)

言葉が通じない海外で話をするとなると、絵を描く必要がでてくる。これは、アラブをのぞけば、身振り手振りよりもずっといい。ロシア中央部のニジニ・ロヴゴロドの市場を訪ねたとき、ぼくは「中国人街」で多くの時間をすごしたのだが、チン・ルーという中国人と話をするのがとても難しかった。身振り手振りも役に立たない。だが、連中は茶箱に赤いロウを持っていて、そばには白い壁があった。そこで、ぼくは自分のやっていることについて英語で説明しながら、同時に白い壁に赤いロウで絵を描いてみた。すると、それが興味を引いたらしく、中国人やロシアのカルムイク人、それにどこの国かわからないが異国風の人々が何十人と集まって来るではないか。自分が伝えようとしていた相手の集団は、ぼくの言いたいことを完全にわかってくれたように思えた。

というわけで、カヌーに上達したら、次は通じやすい身振り手振りを覚え、ちょっとした筆記具を携帯しておけば、飢え死にすることもないし、寝るところが見つからないということもなく、ずっと遠くまで、いろんな土地やそこの人々と知りあって楽しく旅を続けることができる。

ヴォルガ川からライン川に話を戻そう。ツェラー湖(またの名をウンター湖)に入ると、流れはずっと穏やかになる。コンスタンス湖の景色に比べると満足できるとまではいえないが、冠雪した山々を背景に持つこの湖は美しくはある。しかも、残念ながらコンスタンス湖には島がなかったが、このツェラー湖にはいくつかあって、そのうちの一つはかなり大きいのだ。ぼくが到着する前、フランス皇帝*1が湖畔の城に二日滞在していたらしい。カヌーで旅している男がやってくると皇帝が知っていたら、もう一週間ほど滞在を延ばしていてくれたのではあるまいか3

皇帝陛下と朝食をともにするには遅すぎたとはいえ、ぼくはカヌーを漕いでシュテックボルンの村に入った。文字通り川の縁に宿屋が一軒建っていて、川旅をする者には便利この上ない環境だ。ライン川のこの付近では、こうした場所をよく目にした。そういうところでは、パドルを手に持ったままドアをたたき、犬に吠えられたりもせず食事を注文できる。熱々のジュージュー音を立てている食事にありつけるのだ。テーブルの支度ができるのを待つ間、カヌーの荷物を整理し、カヌーを窓辺のバルコニーに係留しておく。朝食や食事をとる間も、休憩したり本を読んだり絵を描いたりしている間もずっと、自艇は目の届くところにあるわけだ。

経験から学んだことだが、子供というものは、どんなやんちゃな子であっても、川に浮かべてあるカヌーにちょっかいを出す者はほとんどいない。だが、大人は別だ。どんなに好人物でも、小さな舟が岸辺に残されていたりすると、それを引っ張ってみたり、つっついてみたりしないと気が済まないらしい。



原注
3: この皇帝とカヌーについては、次の記事が参考になる。この記事は四月二十日(皇帝の誕生日)の「グローブ」誌に掲載されたものだ。


「今朝発行された1866年4月6日付の布告により、大臣は、1867年の万国博覧会において、プレジャーボートおよび河川の航行に付随する技術と業界に関連するすべてについて特別展示を行う団体のための特別委員会を設置する。この措置は、素人愛好家の航海が過去数年間に担ってきた重要性を示し──報告書で示されているように、この新しいスポーツに名誉を与えるもので、フランスにおいてこれが発展することを長く妨げてきた古く馬鹿げた偏見をなくすことにつながると考えられている。なんでも英国風を好む皇帝は、特に英国のスポーツすべてを模倣して取り入れることを積極的に後援するようになっているが、マクレガー氏の『ロブ・ロイ・カヌーの航海』を読んだ後、カヌーを展示するよう提案したと言われている。『ロブ・ロイ・カヌーの航海』では、プレジャーボートは単に楽しいだけではなく、フランスの若者たちに人里離れた未知の川や渓流を一人で探検するという多くの新しい発想が展開されている。」


バルト海での航海に用いたロブ・ロイ・カヌーはパリで開催されたこの博覧会に展示された。皇帝はセーヌ川でこのカヌーの性能を自分の目で確かめ、すぐにサールから姉妹艇のカヌーを購入し、それを王位継承者に与えた。この継承者はロイヤル・カヌークラブの一員となったとき、愛艇をローヌと命名し、船長とカードを交換するという良き慣習に従った。

訳注
*1: フランス皇帝 - ナポレオン三世(1808年~1873年)。フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの甥(ルイ・ナポレオン)のこと。
ドイツとの普仏戦争で捕虜になった後、晩年は英国のロンドンですごし、その地で没した。


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現代語訳『海のロマンス』23:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第23回)


水の上で水の苦労

「事業やめ五分前」という風下当番(リーサイド)の予告に、今日もまたこれで平安に暮れたという、ちょっとのどかな気分が人々の胸に浮かぶころ、午後三時半の事業やめのラッパが心地よく、あまねく響きわたる。

フィラデルフィアの鐘*1が独裁(ティラニー)と独立(リバティ)との鮮やかなる分界線をなしたように、このラッパの音は力仕事と遊戯との鮮やかな境界線である。このラッパを境にして、二つの相異なれる性質と内容とを有する王国が隣(となり)あっている。本船では、左右両舷の当番の交代により、午前は九時より十一時半まで、午後は一時より三時半まで、二時間半の日々の作業がある。帆縫い、錆(さび)おとし、ペイント塗り等がその主な成分(エレメント)である。


*1: フィラデルフィアの鐘 - アメリカの独立や奴隷解放などの節目に、この鐘が鳴らされ、自由独立の象徴となっている。 現在は「自由の鐘」と呼ぶのが一般的。

三時半から七時半までの四時間を子供時間というのは、すこぶるゆかしい響きを与える。輪投げに二つ勝った、三つ負けたと、大の男が互いにシッペをしあっていると思えば、一方には、甲板球技(デッキゴルフ)にAは2、Bは5と血眼(ちまなこ)になって勝ち負けを争っている。ある者は船倉蓋(ハッチ)の上で禅ざんまいの瞑想にふければ、船首楼(フォクスル)で岡田式静座法で肺と横隔膜の操(あやつ)りに夢中の者もある。この労苦(ろうく)から放楽(ほうらく)に移る瀬戸際に立って思い切りの悪い雨雲のように、うろうろと歩きまわっている者がある。真水(みず)当番がこれだ。

一号から二十二号に分かれた十六の部屋から毎日一人ずつの真水(みず)当番なるものを選出して、一室八人が使用する真水(みず)が支給される。本船は品川を出帆するときに総容積七百トンの船槽(タンク)にいっぱいの真水(みず)を積みこんできたが、三時半のラッパを合図に真水(みず)士官とも呼ばれる四等運転士(フォース)が来て真水用のポンプの鍵を外す。薄汚い事業服(ジャンパー)を着た十六人の男が三つずつ小桶(バケツ)を持って中甲板(ちゅうかんぱん)に集まる。見ようによっては、鮫ヶ橋(さめがはし)近辺の共同井戸の光景(さま)とも思われるだろう。

一つの小桶(バケツ)にはほぼ五升(しょう)ほどの真水(みず)が入るので、一人一日が使用できる水の量はわずか二升である。この二升の水で顔も洗えば口もすすぐ。なかには冷水摩擦などとしゃれるのもいる。その使い方の細かいこと、細かいこと、なかなかの手際で、鮮やかだとほめてやるべきである。海水(みず)の上で真水(みず)に不自由するのは、銀行に勤めて金に不自由するようなもので、医師を商売にして病気をやるように、また嘘の花柳界(ちまた)に育ってもだまされるように、皆、前世の宿縁(しゅくえん)である。船乗りに向かって海水浴を平常(へいぜい)するから体が丈夫になるだろうとか、海からの生魚を直ちに口にするのはうらやましいなどと言ったら、それこそ大変! 神経質な船乗りはそれを比喩的(アイロニカル)な喧嘩(けんか)を吹っかけていると早合点するだろう。

おっと話が上陸した。そうそう、そこで十六人がわれがちに飛びつく。いの一番にかけつけた者が水を一番先にとるのだから、横着者(おうちゃくもの)は気の毒にも呆然として、十五分ほどは立ち続けて待っていなければならない。後から行ったものは、たちまちベヤリ損(そこ)なうことなる。

弥生が岡の寮舎(りょうしゃ)にコンバル、ギキョルなどの新語があるように、練習船の中にもベヤル、コミヤルなどの珍熟語がある。ベヤルはいわゆるベヤリングをとる(方位を知る)の省略(アブリビエーション)で、着目するとか先鞭(せんべん)をつけるとかいう場合に用いられる、外国の港でスタイルのよい金髪の女性が客としてたくさん来るときなどは、盛んにこの言葉が用いられる。コミヤルはヤリコメラルの反対で、コッソリ失敬するとの意味である。

せっかく汗水たらして汲(く)んできた真水(みず)を、いつの間にかコミヤられて落胆(がっかり)することがしばしばある。

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