スモールボート・セイリング 〜 スモールボート・セイリング(その5)

Small-Boart Sailing (5)

ジャック・ロンドン著
結局、こういう厳しい出来事というものは、小さな船でのセイリングで最上の部分である。振り返ってみれば、そうしたことが楽しさにメリハリをつけてくれたのだと思う。小さな船での航海では自分の勇気や決意が試されたり、また神様に恨まれていると思いこむほど悲観的になったりもするのだが、後になってみると、そう、後になってみると楽しい記憶として思い出されるし、小さな船で帆走している仲間のスキッパーたちとの交流にもなつかしさを感じるのだ!

狭くて曲がりくねった沼沢地。潮が半分引いて出現した泥の海。近くの皮なめし工場のタンクから出る廃液で変色し濁った海。両岸のいたるところに点在する荒れ果てた果樹園の陰で草が生い茂っている湿地帯、倒壊しそうな古くこわれた波止場。そうした波止場の先端に係留されている白く塗られた小さなスループ型のヨット。ロマンティックなところは微塵もない。冒険の香りすらしない。小型艇でのセイリングでよく語られる楽しさとは裏腹の、絵に描いたような見事に逆の現実。クラウズリーと私にとっては、それは朝食を作り、デッキを洗うといった、つつましくも地味な朝ということになるだろうか。デッキ洗いは私の得意技だが、デッキの向こうに広がっている汚れた海面を見たり、ペンキを塗ったばかりのデッキを見たりしているうちに、やるきが失せてしまう。で、朝食後、チェスを始めた。潮が引き、ヨットが傾き始める。だが、転げ落ちそうになるまでチェスを続けた。傾きがますますひどくなったのでデッキに出てみると、船首と船尾の舫い綱がピンと張っていた。傾いた船の様子をうかがっていたところ、急にまた傾いた。綱は限界まで張りつめている。
「船腹が海底についたら傾きもとまるさ」と私が言った。
クラウズリーは舷側からボートフックで水深を測っている。
「水深七フィート(約二・一メートル)」と彼は言った。「深いところと浅いところがあるが、船がひっくり返って最初に当たるのはマストだろうな」

船尾の係留ロープから不気味な、かすかに切れる音がした。見てみると、ストランドがすり切れていた。おおあわてで船尾から波止場にもう一本のロープを渡して結ぶのと同時に、元のロープが切れた。船首側のロープにも一本増し舫いをしたが、最初に結んでいたロープが音をたてて切れた。その後の作業と興奮は地獄絵図さながらだった。

私たちは舫い綱の数を増やしたが、ロープは次々に切れていき、いとし愛艇の傾きはますますひどくなった。ありったけの予備ロープを使った。帆の展開に使うシートや帆を揚げるハリヤードも外して使った。太さが二インチもある綱も使った。マストの上部や真ん中あたりなど、いたるところにロープを結びつけた。懸命に作業し、汗をかき、神が自分達を呪ってるんだと互いに本気で言いあった。地元の連中が波止場にやってきて、じろじろ眺めている。クラウズリーが巻きとったロープを傾いたデッキから汚いヘドロに落としてしまい、船酔いした蒼白な顔で引きあげていると、地元の連中が大声ではやしたてたので、私は、彼が波止場に登っていって人殺しするのをかろうじて阻止した。

スループのデッキが垂直になるまでに、ブームリフトの下端をほどいて波止場の係船柱に結びつけた。一方の端はマストヘッドに導かれている。滑車とロープを組み合わせたテークルでピンと張った。ブームリフトは鋼線だ。これなら荷重に耐えてくれるだろうと確信したが、マストを支えているステイの保持力についてはそうは思えなかった。

引き潮はまだ二時間は続く(潮が大きい時期だ)し、となれば、また潮が満ちてきてスループが無事に起き上がるかどうかわかるまであと五時間はかかるということだ。

● 用語解説
スキッパー: 小型船の艇長
ボートフック: 舫先端が鉤(カギ)状になった竿
ストランド: より糸。細い糸を束ね、より合わせて太いロープが作られる
ブームリフト:  マストトップからメインセールのブーム(帆桁)を吊っているロープ

スナーク号の航海 (92) - ジャック・ロンドン著

だが、しばらくすると、イチゴ種にもなれてきた。この文章を書いている時点で、ぼくは腕に五つ、むこうずねに三つのイチゴ種があった。チャーミアンは右足の甲の両側に一つずつできている。タイヘイイは自分のイチゴ種に半狂乱だ。マーティンのむこうずねにできた最後のやつは、それ以前のイチゴ種を侵食し圧倒していた。ナカタにもいくつかできていたが、彼は無造作に皮膚をはぎとったりしている。ソロモン諸島でのスナーク号の歴史は、初期の冒険者たちから連綿と続いている、すべての船が体験するものだった。「水路誌」から引用してみよう。

ソロモン諸島に相当の期間を滞在する船舶の乗組員は、傷や擦過傷が悪性潰瘍に変化するのを知ることになる。

水路誌では、発熱に関する問題もやっかいだとされている。

新しく到着した者たちは、遅かれ早かれ、発熱に苦しむことになる。原住民も同じ症状を呈する。一八九七年、白人五十人のうち九名が死亡するにいたった。

そうした死には偶発的なものもあった。

スナーク号では、ナカタが最初に発熱し倒れた。ペンデュフリンでのことだ。ワダとヘンリーがそれに続いた。その次はチャーミアンだ。ぼくは二カ月なんとかしのいだが、結局は倒れてしまった。その数日後、マーティンも続いた。ぼくら七人のうち、発熱しなかったのはタイヘイイだけだったが、彼は熱よりも故郷に戻りたいという望郷の念にかられていた。ナカタは例によって治療に関する指示を忠実に守り、三度目の発熱がおさまるころまでには、この病気にかかっても二時間ほど汗をかき、キニーネを三、四十粒も飲むと、それから二十四時間後には、十分とはいえないまでもまずまずの回復をみせるまでになった。

だが、ワダとヘンリーは患者として扱いにくかった。まず、ワダはひどくおじけづいていた。もう自分の運はつきて、ソロモン諸島に骨をうずめることになると思いこんでいた。自分の人生はつまらなかったと、くよくよしていた。彼はペンデュフリンで赤痢にかかり、さらに不運なことに、一人の犠牲者が、棺ではなく地面に埋葬されるのでもなく、ブリキ板に乗せられて運び出されるのを目撃してしまったのだ。誰もが発熱し、誰もが赤痢にかかった。皆、いろんな病気にかかった。死は日常に存在した。今日でなければ明日、というわけで、ワダはとうとう死ぬ日がやってきたと信じきっていた。

ワダは潰瘍には無頓着で、昇こうをかけるのを忘れたり、むやみにかきむしったりしたので、潰瘍が体全体に広がってしまった。発熱時も指示に従わず、その結果、一日で十分に治るはずのところが五日間も寝たきりになったりした。ヘンリーも同じようにひどい状態だった。キニーネははっきりと拒絶した。その理由というのが、ずっと前に熱をだしたときに医者がくれた薬とぼくが出した錠剤の大きさと色が違っているというのだった。というわけで、ヘンリーもワダと同じ道をたどった。

しかし、ぼくはこの二人をだまし、彼らに必要な治療を施した。つまり信仰療法ってやつだ。連中は自分がまもなく死ぬというのを恐れていた。ぼくは大量のキニーネを二人に無理やり飲ませて体温を測った。このとき薬箱にあった体温計を初めて使ったのだが、何の役にも立たないとすぐにわかった。それなりの商品ではあるのだが、現実の役には立たないのだ。つまり、この二人の患者に体温計の数字をそのまま告げたら、二人はやっぱりなと思い、そのまま死んでいただろう。彼らの体温は華氏百五度(摂氏四十度)もあったのだ。ぼくは二人に体温計を使い、ほっとしたように体温は華氏九十四度(摂氏三十五度弱)だよ、笑顔で言ったのだ。それから、またキニーネを飲ませ、気分が悪かったり体がだるかったりするのはキニーネのせいで、じきによくなると告げたのだ。すると、二人ともよくなった。ワダは自分は死ぬと思いこんでいたが、そうはならず回復した。人が誤った思いこみで死ぬことがあるとすれば、誤った思いこみをさせて生き続けさせるということがあってもよいのではないだろうか?

スナーク号での体験に基づくと、気概とか生き残るという意思の強さという点では白人に軍配があがりそうだ。スナーク号の二人の日本人のうちの一人と、二人のタヒチ島人は恐怖にかられていたので、背中をたたいて激励し、無理にでも生き抜くようしむけてやらなければならなかった。チャーミアンとマーティンは苦痛もどこか楽しんでいたし、自分のことはさておき、冷静に自分の生き方を信じていた。ワダとヘンリーはもう死ぬと思いこみ、タイヘイイにいたってはもう葬式しかないという雰囲気で、悲しげに祈り、何時間も叫んだりしていた。その一方で、マーティンは悪態をつきながらも回復し、チャーミアンは苦痛にうめきながらも、治ったらあれもやりたいこれもやりたいと計画を立てたりしていた。

スナーク号の航海 (91) - ジャック・ロンドン著

マーティンはイチゴ種について聞いた。知っておくべき理由があったからだ。彼の腕や足の傷、傷の真ん中のただれた潰瘍を見て判断できるのであれば、やつには確かにわかるはずだった。イチゴ種には慣れていくもんだ、とトム・バトラーは言った。体の奥深くに侵入するまでそう深刻というわけではない。ところが、そいつは動脈の壁を攻撃するようになり、動脈が破裂すると死に至ることになる。最近も何人かの原住民が浜辺でそんな風にして死んでいた。とはいえ、その何が問題なのか? イチゴ種でなければ──ソロモン諸島では──まったく別の話になる。

ぼくはこのときから、マーティンが自分の傷について、どんどん関心を深めていっているのに気がついた。治療薬としては昇こうがよく用いられるが、会話のはしばしから、マーティンは健全な気候のカンザスへの望郷の念が強まっているようだった。チャーミアンとぼくは、カリフォルニアの方がまだちょっとましだと思っていた。ヘンリーはラパ島に着くまで愚痴ばかりこぼしていたし、タイヘイイはボラボラ島ではずっと危険な状態だった。ワダとナカタは日本の歌をうたっていた。

ある夕方、スナーク号がウギ島の南端を周航しながら信頼できる泊地を探していたとき、サン・クリストバルの海岸に向かっていた英国国教会の伝道者ドリュー氏の乗る捕鯨船が接近してきて停船した。一緒に食事をしようというのだ。マーティンはミイラのように足に赤十字の包帯をぐるぐる巻いていたので、そこからイチゴ種についての話になった。マーティンのものもソロモン諸島でよくあるイチゴ種だと、ドリュー氏は断言した。白人はみんなそれにかかるんだ、と。

「あなたもなったことがあるのですか?」と、マーティンは英国国教会の伝道師もこんな病気にかかることがあるのかとショックを受けた様子で聞いた。

ドリュー氏はうなづき、かかっただけじゃなく、今も何人か治療している最中ですよと、つけ加えた。

「治療には何を使ってるんですか?」と、マーティンが勢いこんでたずねる。

ぼくもその答を聞きたくてたまらなかった。回答しだいで、ぼくの医者としての立場が見直されるか、権威失墜してしまうか、のどちらかのだ。ぼくが面目を失うだろうとマーティンは信じているようだった。ところが、氏の返事は──なんと、すばらしい回答だったことか!

「昇こうですよ」と、ドリュー氏が言った。

その瞬間、ぼくはマーティンの信頼を勝ち得たと確信した。ぼくがやつの歯を抜いてやろうかと提案したら、すぐに同意してくれるほどに。

ソロモン諸島の白人はみなイチゴ種にかかている。切り傷やすり傷が新しくできると、現実問題として、それがイチゴ種になった。ぼくが会った人は誰でもかかっていたし、十人中九人まで完治してはいなかった。だが、一人だけ例外がいた。ソロモン諸島に来て五カ月になるという若者だった。着いて十日後に発熱で倒れ、それ以来しょっちゅう熱を出していたが、イチゴ種にはまったくかかったことがないという。


写真を撮るチャーミアン

スナーク号では、チャーミアンをのぞく全員がイチゴ種にかかった。チャーミアンは、日本人やカンザス出身者と同じように、自分だけはかからないと信じこんでいた。自分は純血だから免疫があると説明し、日がたつにつれて、ますます純血を強調するようになった。ぼく個人としては、世界を周航しているスナーク号で男は重労働を強いられるが、彼女は女性だからそういう作業をする必要がないため、その結果として切り傷やすり傷ができることが少なく感染を免れているのだと思っている。むろん、彼女にそのことは告げなかった。そんな身もふたもないことを言ってプライドを傷つけるつもりはなかった。素人医者ではあっても、この病気については彼女より知っているし、時間がぼくの味方だ。だが、残念なことに、彼女のむこうずねにできた小さく魅力的なイチゴ種の処置では、ぼくは時間の使い方を間違ってしまった。すぐに消毒薬を塗ってやったので、イチゴ種とはっきりする前に治癒してしまったのだ。またしても、ぼくは自分の船で医者としての信用を得る機会を逸したことになる。もっと悪いことに、彼女に自分がついにイチゴ種にかかったと思わせてしまったのだったが、イチゴ種とはっきりする前に治ってしまったので、それ以来、彼女の自分の純血性についての確信はかつてないほど強まったので、ぼくは航海術の本に逃避し、この件についてはもう口を出さなかった。それはマライタ島の海岸に沿って航海していたときだった。

「君のかかとの裏側にあるのは何だい?」と、ぼくは聞いた。
「なんでもないわ」と、彼女は答えた。
「そうかい」と、ぼくは言った。「でも、やっぱり昇こうを塗っといたらどう。あと二、三週間もしたら死を招くような傷になるかもしれないぜ。純血とか先祖の歴史とか、そういうのはちょっとこっちに置いといて、ともかくイチゴ種についてどう思ってるんだい」

彼女のイチゴ種の大きさは一ドル硬貨くらいで、丸三週間かかって治癒した。チャーミアンはその傷のために歩けないときもあった。彼女の話を聞いていると、イチゴ種のうちで、かかとの裏側にできたのが一番痛いようだ。ぼくの場合、そこにできたことはないので、イチゴ種では足の甲のへこんだところが一番痛い場所だという結論に至ったのだが、それについてはマーティンに判断をまかせることにした。彼はぼくらの両方に反対で、本当に痛い場所はむこうずねだと言い張っていたからだ。競馬が人気なのも当然だ、と。

スモールボート・セイリング(4) 〜 スモールボート・セイリング(その4)

日本人たちは共用しているゴザの下に潜りこんで眠った。私もそれにならい、断続的にではあるが仮眠をとった。氷のような海水が打ちこんでくるし、ゴザの上には数センチの雪まで積もった。潮が満ちてきて風上側の岩礁が見え隠れするようになり、岩の上を波が洗っていた。漁師たちは海岸を心配そうに眺めている。私も同じだったが、船乗りとしての目で見れば、どんなに泳ぎが達者でも、波が打ち寄せている連なった岩のところまで泳いでいける望みはほとんどなかった。私は両方の海岸の先端を示し、どうだときいてみた。日本人たちは頭をふった。それではと、恐ろしい風下側にある海岸を指さすと、彼らはやはり頭をふって黙りこんでしまった。絶望的な状況に呆然となっているのだろうと思った。緩衝帯になってくれていた岩礁が満ち潮のために海面下に消え、錨で支えられているだけの船に波が打ちこんできたし、私たちはたえず波をかぶるようになった。それでも、くだんの漁師たちは波が打ち寄せている岸辺を凝視したまま黙っていた。

何度か完全に水浸しになろうとするところをきわどく逃れた漁師たちは、とうとう行動を起こした。全員がアンカーにとりつき引き上げたのだ。船首が風下に向いたので、小麦粉を入れておく大きな袋ほどの大きさの帆を揚げ、そのまままっすぐ陸へと向かった。私は靴のひもをほどき、厚いコートのボタンをはずして、船が岩にぶつかる前に脱げるよう準備した。しかし、船は岩にはぶつからなかった。そうして、そのまま先へと進んでいったのだ。景色は一変していた。眼前には狭い水路が口を開けていて、その入口に波が押し寄せている。ついさっきまで、いくら岸辺を眺めても、そんな水路などなかったはずなのだ。私は干満の差が三十フィート(約九メートル)もあるのを忘れていた。日本人たちが危険と隣り合わせの状態で辛抱強く待っていたのは、この満ち潮だったのだ。われわれの船は砕けている波に突っこんでいき、そのまま曲がって小さな保護された入江に飛びこんでいった。そこは強風の影響をほとんど受けていなかったし、前の満潮時の潮が寄せた跡が長く湾曲した線になって凍りついている海岸に上陸できた。これがサンパンに乗っていた八日間に遭遇した三度の嵐の一つだった。これは、船に乗っていて打ちのめされたということになるのだろうか。私は、船が辺境の岩礁に乗り上げ、乗員は自制心を失い、そのまま溺れ死ぬのではないかと恐れていたのだったが。

別の小さな船で航海した三日間には、大型船で丸一年外洋を航海したのに匹敵するほどの驚きと災難にたっぷり見舞われた。買ったばかりの小型の三十フィートの船で試験航海に出たときのことも思い出す。六日間で二度も激しい嵐に遭遇した。一度は通常の南西風で、もう一つは荒れ狂った南東風だった。こうした強風の合間に短い完全な凪があった。また、その六日間では三度も座礁した。サクラメント川の岸辺に舫いをとったところ、引き潮で急な斜面に乗り上げた格好になり、船がとんぼ返りでもするように斜面で横転しかけたのだ。カーキーネス海峡では潮が激しく流れているのに、風がまったくなかった。錨は潮流で磨かれた海底を滑るだけで、船は大きな埠頭に吸いこまれるし、あちこちぶつかりながら四分の一マイルほども押し流されてやっと広い海面に出た。それから二時間後、サン・パブロ湾では風が吹き上がり縮帆するはめになった。嵐で荒れた海で流された小舟を拾い上げるのは楽しいことではないが、私たちはそれも強いられた。というのは、曳航していた小舟を留めていたペインターが壊れて流されてしまい、浸水までしてしまったのだ。それを回収したころには疲れきって死にそうだった。スループタイプのヨットの内竜骨から備品に至るまであらゆる箇所を酷使した。その最後の締めくくりとして、母港へ向けてサン・アントニオの河口の一番狭いところを風上に向かって帆走していたとき、タグボートに引かれた大きな船と衝突しそうになり、かろうじてかわしたこともあった。私はずっと大きい船で大海原を一年かけて航海したこともあるのだが、そのときには、こんな肝を冷やすような出来事には遭遇したりはしなかった。
● 用語解説
サンパン: 主に(東/東南)アジアで使用される平底の小型木造船
ペインター: 舫い綱を通して固定する輪などの金具。舫い自体を指すこともある
タグボート: 曳船/押船。小回りのきかない大型船などの動きを助ける

スナーク号の航海 (90) - ジャック・ロンドン著

ある日、ボーイのナカタがアイロンをかけようとして誤って自分の足をアイロン台代わりに使ってしまい、ふくらはぎに長さ三インチ、幅が半インチのやけどを負ってしまった。ぼくが自分のひどい体験から昇こうを塗るよう勧めると、彼も苦笑いし、最高の微笑を浮かべて拒否した。ぼくの血筋では問題であっても、ポートアーサーの誇り高き日本人にしてみれば、こんな病原菌なんか屁でもないと、上品かつ穏やかにぼくに教えてくれたわけだ。


来訪者たち――ソロモン諸島イザベル島のメリンゲ礁湖

コックのワダはボートで上陸する際に、ボートから飛び降りて、押し寄せる波からボートを守ろうとして貝殻やサンゴで足を切ってしまった。ぼくは昇こうを塗るよう勧めた。が、またしても奥ゆかしい微笑でやんわり拒否された。自分の血筋はロシアを打ち負かし*1、いつの日にかアメリカをも打ち破ろうかというものであり、そんなちっぽけな傷すら治せないのであれば、メンツもまるつぶれで切腹も辞さない、といった誇りを抱いていると知らされた。

というわけで、しろうと医師としてのぼくは、自分の傷を治してみせたのにもかかわらず、自分の船においてすら、まるで信用がなかった。他の乗組員たちは、ケガの原因や昇こうを用いる治療に関しては、ぼくをある種の偏執狂者だとみなすようになっていた。自分の血筋が純血ではないからといって、ほかの誰もがそうだと考えるべき理由はない、というわけだ。それからは、ぼくも、こうした提案はしなくなった。ぼくの味方は時間と病原菌で、いずれそれがはっきりするときまで、ぼくにできるのは待つことだけだった。

数日後、「この傷にはなんか変なところがあると思うんだ」と、マーティンがおずおずと切り出した。ぼくは起き上がりもせず無視してやった。彼は「傷口を洗ってやれば、よくなると思うんだ」とも付け加えた。

さらに二日が過ぎた。が、傷はそのままだった。ぼくは、マーティンが自分の足全体にお湯をかけているのを見た。

「お湯なんかじゃねえよ」と、彼は憤然として言った。「医者のくれる薬より効くと思ったんだ。これで朝になれば、よくなってるさ」

だが、朝になっても、彼は顔をしかめていた。勝利のときが近づいているのをぼくは知った。

その日も遅くなって、「その薬をちょっとためしてみようかな」と彼が言ったのだ。「効くと思ってるわけじゃないんだが」と、彼はあいまいに語をにごした。「ともかく、ためしてみようと思うんだ」

その次には、誇り高き日本人の血を引く二人がひどい苦痛に耐えかねてやってきた。ぼくは悪の報いに徳をもって応じた。つまり、二人に同情しつつ、どういう治療をすべきかを事細かに説明してやったのだ。ナカタはだまって指示に従った。彼の傷は日ごとに小さくなった。ワダは関心が薄く、治りも遅かった。とはいえ、マーティンはまだ疑っていた。すぐに治療をしなかったために、医者の処方が正しいという思いこみをさらに強めることになってしまったが、同じ処方が誰にでも有効であるということにはならないのだ。彼自身については、昇こうは何の効果もなかった。おまけに、それが正しい治療であると、ぼくにわかるはずもないのだった。ぼくには経験がなかったし、自分に使ったときはたまたまうまくいったというだけで、それだけでは、どんなときも治癒するという証明にはならない。偶然もあるからだ。この傷を治する治療は疑いもなく存在したし、本物の医者にかかったときに、その処方が何なのか、それでどうなるかがわかるということなのだろう。

ぼくらがソロモン諸島に到着したのは、その頃だった。ぼくら病人に治療や療養について何かを示してくれる医者はいなかった。ぼくは人生で初めて、人間というものはどんなに虚弱でデリケートなのかを身をもって知った。スナーク号の最初の泊地はサンタアンナ島のポート・メアリーだった。一人の白人の貿易業者がやってきた。名前をトム・バトラーといい、どんなに丈夫な男でもソロモン諸島ではどうなってしまうかを見事に示していた。彼は自分の捕鯨船で横になったまま死にかけていたのだ。顔には笑顔一つなく、知性も感じられなくなっていた。骸骨のような憂鬱な顔をして、笑うことを忘れているようだった。ひどいイチゴ腫もわずらっていた。ぼくらは彼を引きずってスナーク号に乗せた。健康状態はよく、しばらくは発熱もないと、彼は言った。腕をのぞけば何も問題はなく体調は悪くなかった。問題はその腕で、どうやら麻痺しているようだった。
彼は苦笑いしながら、麻痺については否定した。以前にわずらったことがあるが、もう回復したというのだ。サンタアンナ島の原住民によくある病気だと言いながら、動かない腕をだらりと下げたまま、体を支えられ、船室に通じるコンパニオンウェイのステップをよろよろと降りていった。これまでにも少なからぬ数のハンセン病患者や象皮病患者をスナーク号に乗せたことがあったが、これまで遭遇したこともないほどぞっとする怖さを感じさせる客だった。


ソロモン諸島ウギ島のエテエテの村

*1: スナーク号の航海に出発する数年前に起きた日露戦争(1904年~1905年)で日本が勝利したことを指す。ジャック・ロンドン自身もこの戦争の取材で来日し、スパイ容疑で逮捕されたりもしている

スモールボート・セイリング(3) - ジャック・ロンドン著

重労働とアドレナリン? 風はきまぐれで、小さなスループで帆走しながら狭い跳ね橋を通り抜けようとしているときに限って、潮の流れが速いところでやんでしまう。頼みのセイルはと見ると、ふいに風がなくなってしまったので、パタパタしているだけだ。それから、いたずらな風が吹くのだが、九十度も方向が変わったところから突風がおそってきてジブに裏風が入る。船の向きが変わり、波に押され、開けた水路ではなく、頑丈な杭に向かって流されている。潮は音を立てて流れていて、船は橋脚の間に吸いこまれようとする。かわいい、ペンキを塗ったばかりの自分の船が杭に押しつけられ、ぶつかる音が聞こえる。丸みをおびた丈夫な船体を通して衝撃が感じられる。横棒が実際に食いこんでいるのが見える。帆が裂けるのが聞こえる。末端が黒い角材が帆を突き破るのが見える。衝突! トップマストのステイが吹っ飛び、トップマストが頭上で酔っ払いのように暴れる。引き裂き、かみ砕かれる。このままだと右舷側のシュラウドが切れてしまうだろう。ロープをつかめ。なんでもいい。そして、杭に巻きつけろ。とはいえ、ロープが短すぎる。しっかり固縛することができない。ロープから手を離すわけにもいかず、大声で仲間の一人を呼び、もっと長いロープを巻きつけてもらう。しっかり持ってろ! 顔が紫色になるまで、腕が引きちぎられそうになるまで、指から血が流れだすように思えるまで握ってろ。自分がそうやって支えている間に、パートナーがもっと長いロープを持ってきてしっかり結んでくれる。やれやれと背を伸ばして手を見る。傷だらけだ。握りしめていた指は曲がったまま伸ばせない。痛みはひどくなる。だが時間がない。いつも頑固で思いどおりに動いてくれない小船は杭についたフジツボに激しく押し当てられて、ガンネルがこそげ落とされそうになっている。帆を降ろさなければ! ジブを降ろせ! それから、ロープをかけ、引いて、たぐって、持ち上げて――そういうときに限ってやってくる橋の管理人と不愉快なやり取りを交わすはめになるのだ。そうやって一時間も格闘して苦境を脱したときには、背中は痛むし、シャツは汗でびしょぬれ、指は傷だらけ、というわけで、土手の間の狭いところを流れている穏やかで慈悲に満ちた潮流にわれわれが翻弄される様子を、膝まで水につかった牛たちが、びっくりしたように眺めていたりするのだ。なんとも刺激的ではないか! 大海原の穏やかな航海の日々でこれほど刺激的なことがあるだろうか?

私はどちらの経験もある。ニュージーランドの沖で十四日間嵐に苦労したこともおぼえている。われわれは六千トンの石炭を積んだ石炭船の作業員で、錆まみれになり疲れきっていた。ライフラインは前後に伸びきっていた。海の力に抵抗するため、風上側の煙突を支える張り綱と索具に太いロープの網をかけて食堂室の扉を守っていた。しかし、扉は打ち砕かれ、食堂室も同じように海水に押し流されたりした。しかし、そのさなかにも、一つの感覚、つまり退屈だなという感じがあったことは否定できない。

それとは対照的に、私の人生で最も鮮烈な八日間は、朝鮮半島の西岸で小型船に乗っていて体験したものだ。氷点下になる二月になぜ黄海くんだりまで航海したのかはともかく、肝心なのは、私はサンパンという無甲板の船に乗っていたということだ。岩礁の多い海岸で灯台なんかないし、干満の差は三十フィートから六十フィートもあった。一緒に乗っていたのは日本人の漁師たちだ。お互いに相手の言葉ははなせなかったが、その航海は退屈ではなかった。刺すように寒かったことが忘れられないのだが、雪が猛烈に吹き荒れたので、帆をたたんで錨を降ろした。北西の風が吹き荒れ、風下には陸が迫っていた。前後の脱出路は切り立った岩だらけの岬で、その足下では波が砕け散っていた。風上側の遠くないところに低い岩礁があって、吹雪の合間に見え隠れしている。荒れ狂う黄海から私たちを不十分ながらも守ってくれていたのがこれだった。

● 用語解説
シュラウド: 横静索。マストなどを支えるために舷側から伸びているロープ/ワイヤー
ガンネル: 船縁
干満の差: 朝鮮半島では仁川付近の干満の差は最大十メートル(約三十フィート)といわれている。日本国内では有明海で最大六メートル程度

スナーク号の航海(89) - ジャック・ロンドン著

イチゴ腫*1かどうかは、ぼくにはわからない。フィジーの医者はそうだと言ったし、ソロモン諸島の伝道者はそうじゃないと言った。いずれにしても、ぼくとしては、きわめて不快な症状だということは断言できる。タヒチでフランス人を乗せたのだが、それが船乗り一人だけだったのは幸運だった。というのは、海に出ると、彼がひどい皮膚病に悩まされているとわかったからだ。スナーク号はとても小さいので、彼が家族連れだったらとても乗せておく余裕はなかった。とはいえ、ともかくどこかに上陸するまで、彼を看病するのは必然的にぼくの責任になった。医学書を読みあさって処置したのだが、その後では、いつも徹底的に消毒液を使って洗ったものだ。ツルイラ島に到着すると、港の医者は彼に対して検疫を宣言し、上陸を拒否した。面倒を抱えこみたくないというのがみえみえだった。サモアの首都アピアで、やっとのことでニュージーランド行きの蒸気船に乗せてやった。アピアでは、ぼくは蚊にひどく食われ、そこをかきむしっていた――それまでも千回は食われていただろう。それで、サバイイ島に到着したときには、足の甲のへこんだところに小さな傷ができていた。すりむいたことと、熱い溶岩を超えたときにあびた酸煙のせいだろうと思った。軟膏を塗ると直るだろう――とも思っていた。だが、軟膏は効かなかったばかりか、赤くはれ上がって、新たに皮膚がはがれ、傷は大きくなった。こういうことが何度も繰り返された。新しい皮膚ができるたびに、炎症が起こり、傷は大きくなっていった。ぼくは当惑し、こわくもなった。これまでの人生で、ぼくの皮膚の再生能力は高かったのだが、ここではどうしても直らないのだ。それどころか、日ごとに皮膚が浸食され、毒素が皮膚の奥深く入りこみ、筋肉まで犯されるようになった。

その頃、スナーク号はフィジーに向けて航海していた。ぼくはあのフランス人の船乗りのことを思い出し、そのときはじめて本気でヤバイと思ったのだ。他にも四つの傷――というより潰瘍ができていて、痛くて夜も眠れなかった。ともかくスナーク号でフィジーまで行き、着いたらすぐにオーストラリア行きの蒸気船に乗って、そこで医者に診てもらうという計画を立てた。そうこうしている間も、ぼくはしろうと医者として最善をつくした。船に積みこんだすべての医学書を読みあさったが、自分の味わっている苦痛にぴったりの症状は一行どころか一語も見つけられなかった。この問題に関しては、ぼくは分別をわきまえていた。この潰瘍は悪性かつ非常に活発で、ぼくを食いつくそうとしている。有機的な腐食毒がうごめいているのだ。ぼくは自分で結論を二つだした。第一、この毒を破壊する化学物質を見つけること。第二、この潰瘍は外側から治癒できないので、内側から直さなければならない。この毒は昇こう(塩化第二水銀)で処置しようと決めた。病名そのものも気に入らなかった。毒をもって毒を制するしかあるまい! ぼくは腐食毒に犯されていた。だから、別の腐食毒で処置しようというわけだ。数日後、ぼくは昇こうを過酸化水素を、浸透させた包帯に代えた。驚くべきことに、フィジーに到着するまでに、五つの潰瘍のうち四つが治癒し、残った一つはエンドウ豆ほどの大きさもなくなっていた。

イチゴ腫の治療に関しては、ぼくはいまでは十分な資格があると感じている。この疾患については、それなりに配慮するようになった。だが、スナーク号の残りの連中はそうじゃなかった。彼らの場合、百聞は一見にしかず、は当てはまらないのだ。全員がぼくの苦境を見ていた。ぼくが虚弱体質で凡庸だからあんな病気にかかるのだ、自分は体力もあるし、あんな毒にやられるほどヤワじゃないと、連中は密かに思っているのだ。ニューヘブリディーズ諸島のポート・レゾリューションで、マーティンは裸足で藪を歩きまわって船に戻ってきたが、むこうずねには切り傷や擦り傷がたくさんできていた。

「もっと気をつけたほうがいいぞ」と、ぼくは彼に警告した。「昇こうを調合してやるから、傷口を洗っとけよ。後で痛むよりいいだろ」

だが、マーティンは小馬鹿にしたように笑っただけだった。何も言わなかったが、ぼくには、やつがオレは他の連中とは違うんだ、二日もあれば傷は治る、と思っているのがわかった。他の連中というのは、ほかでもないぼくのことだ。彼はまた、自分の体質と高い治癒能力についての記事も読んでくれた。聞き終えると、ぼくはひどく自分がみじめに感じられた。体質という点では、ぼくは明らかに他の連中とは違っていたからだ。


戦闘用のカヌー
脚注
*1: 熱帯の伝染性の皮膚病

スモールボート・セイリング(2) 〜 スモールボート・セイリング(その2)

ジャック・ロンドン著

 それから十七歳のときに、三本マストのスクーナーの熟練甲板員として契約し、太平洋を巡る七ヶ月の航海に出た。船乗り連中がすぐに、熟練甲板員として契約するとはいい神経してるなと言ったが、なに、私は実際に熟練した船乗りだったのだ。まさにそれにふさわしい(実地で覚えるという)学校を出ていたのだ。スクーナーに乗ってもロープの扱いで初めてというのは少なかったし、その名前や使い方もすぐに覚えた。簡単だった。私は何であれ、何も考えずに丸暗記するなんてことはしてこなかった。小さな船の船乗りとして、何事についても論理的に考え、その理由を知ろうとしてきた。コンパス(方位磁石)を見ながら舵を取る方法は知らなかったので覚えなければならなかったのは本当だが、さほど時間もかからなかった。「詰め開き」とか「クローズホールド」で操舵するとなれば、そこらの船員連中に引けはとらなかった。というのは、私はそれまでまさにその方法で帆走してきていたのだから。十五分とかからず、コンパスを見て進路を確保することにも慣れることができた。複雑な飾りひもとか組みひも、ロープマットの作り方など、いかにも船乗りらしい装飾的な技術を除けば、この七ヶ月の航海で新しく学ばなければならないようなことはほとんどなかった。あらゆる点で、小型船のセイリングという手段が本物の船乗りにとっての最上の学校だったということだ。

  さらに、生まれつきの船乗りで、海という学校の経験がある者は、生涯を通して海から離れることはできない。骨の髄まで潮っけが染みついているし、死ぬまで海が呼びかけてくるのだ。後年、生活費を稼ぐのは楽になったが、私は船首楼で監視するのはやめて、いつも現場に戻ってきた。私の場合、具体的にはサンフランシスコ湾ということだが、ここほど光り輝くように明るくて、しかも厳しくもあり、小さな船でのセイリングに最適な海面はないのだ。

サンフランシスコ湾では本当に強風が吹く。風が安定するのでクルージングに最適な冬の間は南東と南西の風が支配的で、ときどき途方もない北風が吹く。夏になると、平日の午後にはたいてい、大西洋岸のヨット乗りなら疾風と呼ぶような「海風」が確実に太平洋から吹きこんでくる。東海岸の連中はいつもわれわれ西海岸のヨットが展開する帆の小ささに驚いている。連中のなかにはホーン岬をまわったスクーナー乗りもいたのだが、彼らは自分達のとてつもなく高いマストと大きく展開した帆を誇らしく見上げ、こっちの小さくした帆を見くだし哀れむように眺めるのだ。あるとき、たまたま連中がサンフランシスコからメア・アイランドまでの、こっちのクラブのクルーズに参加したことがあった。午前中、連中は湾内を快走しつつ北上していった。午後になって強い西風がサン・パブロ湾の方へ吹きこんできて戻りが長い上りのレグになってくると、事態は多少違ってきた。我々が極上のセイリング向きと呼んでいる風に対して、連中は強風が吹いたと言いながらあたふたとし、行き足を止めて縮帆におおわらわだった。それを尻目に、すでに縮帆していたわれわれの小さい帆のヨットがツバメの飛行のように一艇ずつ連中のヨットを追い抜いていったものだ。その次に彼らが姿を現したときには、マストやブームは短く切り詰められ、帆も全体に小さくされていた。

アドレナリンがほとばしるといえば、大海原で困難に陥った大型船と陸に囲まれた内海で困難に陥った小型船とではまったく違う。が、言わせてもらえば、本当に刺激的でスリルがあるのは小型船の方だろう。小さな船の船乗りなら誰でも知っていることだが、大型船に比べて、何事も一瞬で起きるし、常に何かしらすべきことがあるのだ――それも重労働が。日本の近海で大型船に乗り組んでいて台風に巻きこまれたとき、私はワッチやデッキ作業で夜通し奮闘したのだが、それよりも小さな三十フィートのスループに乗っていて縮帆に二時間も悪戦苦闘したり、南東の風がうなりをあげて吹きすさび、風下側に海岸が迫っている場所で二個の錨を引き上げたりするほうがよほど疲れたりしたものだ。
● 用語解説
熟練甲板員: 原語は able seaman。航海士などの資格は持たないが、技術や経験を持つ甲板員
ワッチ: 夜間当直
詰め開き/クローズホールド: できるだけ風上に向かって帆走すること。風が最も強く感じられ、船の傾きも一番大きくなる
海の学校: 海の上で失敗などを繰り返しながら実地で学んでいくことの比喩的表現
メア・アイランド: サンフランシスコ北方のサン・パブロ湾にある現在は本土と陸続きになっている半島

スナーク号の航海 (88) - ジャック・ロンドン著

「用意はいいか」と、ぼくはマーティンに言った。
「いいぜ」と彼は答えた。

ぼくはぐいと引き抜いた。やった! 歯はゆるゆるで、すぐに抜けた。鉗子にはさんだまま高くかかげた。

「もどしてくれよ、頼むからもどして」と、マーチンが懇願した。「速すぎて撮り損なっちまった」

抜いた歯を元に戻してもう一度、引っこ抜く間、かわいそうな老中国人はじっと座っていた。マーティンがシャッターを押す。一件落着だ。自慢たらたらみたいだって? 鼻持ちならないって? 歯根が三つもある歯をはじめて抜いたんだぜ。このときのぼくほど誇らしい気持ちになった狩人はいないだろうな。なんと言われても、ぼくはやったんだ! できたんだよ! 自分の手で鉗子を使って抜歯したんだ。死人の頭蓋骨を使って練習で抜いたんじゃないんだよ。

次の患者はタヒチ人の船乗りだった。小柄な男で、昼も夜もたえず歯痛に悩まされ、もうぐったりしていた。ぼくはまず歯茎を切開した。切開の仕方は知らなかったが、見よう見まねってやつだ。ひっこ抜くのに時間もかかったし、力も必要だった。その男は立派だった。うめいたり、ぶつぶつ愚痴をこぼしたりしているので、卒倒するんじゃないかと思っていたのだが、口を大きく開いて協力してくれたので、なんとか抜歯することができた。

それからのぼくは、何でも来いって気分になっていた。ワーテルローで敗北する前のナポレオンの心境だ。そうして、そのときは来た。そいつは名前をトミといった。こいつは悪評ふんぷんで、図体のでかい野蛮人だった。しょっちゅう暴力沙汰を起こしていた。とくに女房を二人も殴り殺しているのだ。父親も母親も裸の食人種だ。そいつがぼくの前に座り、ぼくは鉗子をやつの口に入れたのだが、座ったままでも、ぼくの背丈くらいの高さがあった。大男で暴力好きで、ぶくぶく太っているので、ぼくは信用しなかった。チャーミアンがやつの片腕をとり、ウォレンがもう片方の腕をつかんだ。そこから綱引きが始まった。鉗子が歯に近づくと、口を閉じようとする。また両腕を持ち上げ、抜歯しようとしたぼくの手をつかんだ。ぼくは作業を続けようとし、やつはやめさせようとする。チャーミアンとウォレンは腕をつかんだままだ。全員がもみあった。


船底掃除のためわざと干潟に乗り上げたスナーク号

一対三のレスリングで、ぼくは痛んだ歯を鉗子ではさんでいた。それはたしかに反則ではあったんだが、そういうハンデがあったにもかからわず、やつはぼくらを振り切ってしまった。鉗子はつるりと外れて上顎の歯に当たり、神経をさかなでするようないやな音がした。口から鉗子がはずれると、やつは飛び上がり、血に飢えたような雄叫びをあげた。ぼくら三人は後ずさりした。なぐり殺されるんじゃないかと恐れた。だが、大声でうなっている血に飢えた野蛮人は、また椅子に座り直した。両手で頭をかかえ、うめき声をあげ続け、こっちの言い訳を聞こうともしなかった。痛くない抜歯の名人というのは、ぼく自身の単なる思いこみにすぎなくて、プライドはあっという間に消えてしまった。その歯が抜けるか自信がなくなってしまい、袖の下でも渡して話をつけようかとまで思ったほどだ。だが、そうするのは名人としてのプライドに反するので、ぼくは抜歯はせずに、彼をそのまま帰した。鉗子で歯をつかんだものの抜くのに失敗したのは、このときだけだ。それ以来、ぼくは抜歯に失敗したことはない。つい先日も、風上にある島まで自発的に三日間の航海をやって女性伝道師の歯を抜いてあげたくらいだ。スナーク号の航海が終了する頃までには、ぼくはブリッジをつけたり金歯をかぶせたりといったこともやっているのではないかと期待している。