スナーク号の航海 (61) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは夕食ができるまで、すずしいポーチで、ビハウラが編んだ最高のマットの上に座っていた。同時に村人たちにも会った。二、三人連れや集団でやって来たりしたが、握手をし、タヒチ語で「イオアラナ」と挨拶した。正確な発音はヨー・ラー・ナーだ。がっしりした体躯の男達は腰巻き姿で、シャツを着ていない者もいた。女達はそろってアブーと呼ばれる布で肩から足下までをおおっていた。優美なエプロンのようなものだ。見て悲しくなるのは、象皮病に苦しんでいる者が何人かいることだ。すばらしいプロポーションの魅力的な女性がいる。美人だが、片方の腕の太さがもう一方の腕の四倍、いや十二倍もあるのだ。彼女の横には六フィートの男が立っている。筋肉質で、よく日焼けし、申し分のない体をしているが、足やふくらはぎが象の足のようにむくんでいる。

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南太平洋の島の住居

南太平洋の象皮病の原因について確かなことはわからないようだ。汚染された水を飲んだからだという説もあるし、蚊にかまれて感染したという説もある。元々の素質に加えて環境に順化する過程でそうなったという第三の説もある。とはいえ、それをひどく気にかけている者はだれもいない。南太平洋では似たような病気が伝わっていることもありうる。南太平洋を航海する者にとっては現地の水を飲まなければならないときもあるし、蚊にさされずにすむこともある。とはいえ、そういうことをこわがって予防措置を講じても役には立たない。海で泳ごうとはだしでビーチを走れば、その少し前に象皮病の患者が歩いたところかもしれないのだ。自分の家にとじこもっていても、食卓に並ぶ新鮮な食物すべてが、肉や魚や鶏や野菜がそれぞれ汚染されている可能性だってある。パペーテの公設市場では、ハンセン病とわかっている患者二人が歩いていた。魚や果物、肉、野菜などの日常の食品がどういう経路でその市場に到着したのかは、神のみぞ知る、である。南太平洋の航海を楽しむ唯一の方法は、どういうことも無頓着で、心配したりせず、自分はまばゆいばかりの幸運の星の下に生まれてきたのだと、クリスチャンサイエンスの信者のように固く信じることだ。象皮病に苦しんでいる女性がココナツの果肉から果汁を素手でしぼり出すところを見たとしても、しぼりだす手のことは忘れて飲みほし、なんてうまいんだと感心することだ。さらに象皮病やハンセン病のような病気は接触感染するのではないらしいということも忘れないようにしよう。

異常に肥大し変形した手足を持つラロトンガ島の女性がぼくらに飲ませるココナツ・クリームを準備し、タイヘイイとビハウラが料理をしている調理場に行くのを目撃した。それは室内で乾物類の箱に載せて、ぼくらに供された。主人達はぼくらが食べ終わるのを待っていた。それから自分たちのテーブルを広げたが、それもぼくらに供されたのだった! ぼくらはたしかに歓待されていた。まず、見事な魚が出た。釣り上げるのに何時間もかかったもので、水で薄めたライムジュースにつけ込んであった。それからローストチキンが出た。おそろしく甘いココナツが二個、飲用に供された。イチゴのような風味で、口に入れるととろけるバナナもあったし、アメリカ人の先祖がプディングを作ろうとしたことを後悔するほどにうまいバナナのポイもあった。煮たヤムイモやタロイモ、大きすぎず小さすぎず切り分けた、多汁で赤い色をした調理バナナもあった。ぼくらはその豊富さにびっくりしたが、子ブタがまるまる一匹、かまどで焼かれて運ばれてきたのには仰天した。これはポリネシアで最高に贅沢な食事なのだ。その後にコーヒーが出された。黒くて、うまく、タハア島の丘で栽培された現地産のコーヒーだった。

ぼくはまたタイハイイの釣り道具に魅了された。釣りに行く約束をし、チャーミアンとぼくは今夜はここに泊まることにした。タイハイイがサモアの話を持ち出し、舟が小さいからというこちらの言い訳がまた彼を失望させたが、彼は顔には出さず笑顔を浮かべていた。ぼくらが次に行く予定にしていたのはボラボラ島だ。さほど遠くないが、ボラボラ島とライアテア島との間には小型船が就航していた。それでぼくはタイハイイに、スナーク号でボラボラ島まで行かないかと言ってみた。彼の妻がボラボラ生まれで、そこに実家もあるとわかったので、彼女も誘ってみた。すると彼女の方が、ぜひ実家に泊まるようにと、逆にぼくらを招待してくれた。その日は月曜だった。火曜に釣りに行き、ライアテアに戻ってくる。水曜にぼくらはタハア島まで来て、島から一マイルほどのところでタイハイイとビハウラを拾ってボラボラ島へ行くことにした。こうしたことすべてを決め、それ以外の話もした。だが、タイハイイが知っている英語は三語だけだし、チャーミアンとぼくが知っているタヒチ語は一ダースほどだ。それに、ぼくら四人全員が理解できるフランス語が一ダースくらいあった。むろん、こうした多言語が入り交じった会話はすらすらとは進まなかったが、メモ帳と鉛筆、チャーミアンがメモ帳の裏に画いた時計の文字盤と身振り手振りで、何とかうまくやれた。

スナーク号の航海 (60) ― ジャック・ロンドン著

少し帆走してスナーク号に戻ると、彼は身振り手振りでスナーク号の目的地を聞いてきた。サモア、フィジー、ニューギニア、フランス、イギリス、カリフォルニアと、航海予定の順に言うと、彼は「サモア」と口にし、自分も行きたいと身振りで示した。船には君を乗せるだけのスペースがないと説明するのはむずかしかった。「舟が小さいから」という理由をフランス語で言って納得してもらった。彼は微笑したが、その後に失望した表情を浮かべた。とはいえ、すぐにタハアに来るようまた招待してくれた。

チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせた。セイリングして高揚した気分がまだ残っていたぼくらは、ライアテア宛の手紙や訪ねる予定だった役人のことはすっかり忘れてしまった。靴にシャツ、ズボン、たばこ、マッチ、読むべき本をあわててビスケットの缶に詰めてゴム生地の布で包み、カヌーに乗った。

「いつごろ迎えに行こうか?」と、ウォレンが声をかけた。帆に風をはらんでタヘイに向かいかけていたので、ぼくはすでにアウトリガーに身を乗り出していた。
「わからない」と、ぼくは答えた。「戻るときにはできるだけ近くまで来るよ」

そうして、ぼくらはスナーク号を離れた。風は強くなっていた。追い風を受けて帆走した。カヌーの乾舷は二インチ半(約七~八センチ)しかないので、小さな波でも舷側をこえて入ってくる。水くみが必要だった。水くみはバヒネの仕事だ。バヒネとはタヒチ語で女性を指すが、カヌーに女性はチャーミアンしかいないので、彼女の役割になった。タイハイイとぼくは二人ともアウトリガーに乗り出していて、カヌー本体の水くみはできなかったし、カヌーがひっくり返らないようにするだけで手一杯なのだった。それで、チャーミアンが単純な形の木椀で海水をすくいだしたのだが、見事な手際でかいだしてしまうので、航程のほぼ半分は手を休めてのんびりしていた。

ライアテアとタハアは、周囲をサンゴ礁に囲まれた同じ海域にあるユニークな島だ。どちらも火山島で、山稜には凹凸があり、山頂は尖塔(せんとう)のように屹立(きつりつ)していた。ライアテア島は周囲三十マイル、タハア島は十五マイルある。となれば、それをぐるりと取り囲んでいるサンゴ礁の大きさも想像できるだろう。二つの島の間には一、二マイルの砂州が伸びていて、美しい礁湖となっていた。広大な太平洋からの波が、長さ一マイルか半マイルも一直線になってサンゴ礁に押し寄せてくる。サンゴ礁を乗りこえ、無数の水しぶきとなって降り注いでいる。もろいサンゴでできた岩礁はその衝撃に耐えて島を守っていた。その外側には頑丈な船が難破して浮かんでいた。サンゴ礁の内側は波もなく穏やかで、ぼくらが乗っているような乾舷が二インチほどのカヌーでも帆走できるのだ。

上がタハア(タアア)島で、下がライアテア島。
島を取り囲むようにサンゴ礁が形成されているのがよくわかる。この両島から南東百数十キロのところ(神奈川・三浦半島から伊豆七島・御蔵島ほどの距離)にタヒチ島がある。

ぼくらは海面をすべるように飛んでいった。しかも、なんという海だ! わき水のように透明で、最高級の水晶のように透き通っている。しかも、さまざまな色の壮大なショーが展開され、どこの虹よりもすばらしい見事な虹がかかっていた。カヌーはいまや赤紫の海面を飛ぶように走っていたが、ヒスイを思わせる深緑色はトルコ石の色に変わり、その深い青緑は鮮やかなエメラルド色に変化した。海底がまた白いサンゴ砂になると、まばゆいばかりに白く輝き、奇怪なウミウシも出現した。あるときは、すばらしいサンゴの庭の上にいた。そこでは、色とりどりの魚が遊び、海のチョウチョがひらひら飛んでいるようだ。と思うまもなく、次の瞬間には、ぼくらはサンゴの魔法の庭にいた。その次の瞬間には、ぼくらは深い海峡の濃い海面を突っ走っていた。トビウオの群れが銀色に輝きながら飛翔している。さらにまた次の瞬間には、ぼくらはまた生きているサンゴの庭の上にいて、それぞれがさっき見たばかりのサンゴよりすばらしいのだ。頭上には熱帯の空がひろがり、ふわふわした雲が貿易風に流されながら浮かんでいる。柔らかいかたまりの雲は水平線のはるか上方まで積み重なっていた。

ふと気がつくとタハア島の近くまで来ていた。タハアはター、ハー、アーと同じ強勢で発音する。タイハイイはチャーミアンの水くみの達者なことに満足し微笑を浮かべていた。岸から二十フィートほど離れたところでカヌーが浅い海底につかえたので、ぼくらはカヌーから海に降りた。足の下が妙にやわらかだった。大きなウミウシがまるまり、ぼくらの足の下で身をよじっていた。小さなタコを踏みつけたときは、それにましてグニャッという感じがして、すぐにわかった。浜辺に近づいてみると、ココナツとバナナの林の中に、竹でできた草葺きの屋根を持つ高床式のタイハイイの家があった。家から奥さんが出てきた。やせた小柄な女性で、親切そうな目をしていた。北米のインディアンの血筋でないとすれば、蒙古系かなと思える特徴があった。「ビハウラだよ」と、タイハイイが紹介した。ビハウラと呼んだが、英語のスペルがどうかなんて考えて発音したのではない。ビハウラは一音節ごとに鋭く強調され、ビー・アー・ウー・ラーと聞こえた。

彼女はチャーミアンの手をとり、家の中へ導いた。後に残されたタイハイイとぼくもその後についていった。そこで、彼らが所有しているものはすべてぼくらのものだと伝えられた。身振り手振りだったが、それは間違いない。与えるという行為について言えば、ヒダルゴウと呼ばれるスペインの下級貴族ほど気前のよいものはない。とはいうものの実際には、ぼくは本当に気前のいいヒダルゴウにおめにかかったことは、ほとんどない。ぼくとチャーミアンはすぐに、彼らの所有物をあえてほめないようにしようと心がけた。というのは、ぼくらが特定のものをほめると、それはすぐにぼくらへの贈り物になってしまうからだ。二人の女性は女同士で服について話をしたり互いの服を手にとったりしていた。タイハイイとぼくは男同士というわけで、ダブルカヌーに乗って四十フィートの竿でカツオを釣る仕掛けは言うまでもなく、釣りの道具や野生化したブタの狩猟について話をした。チャーミアンが編み籠をほめた――ポリネシアで見た最高の籠だ。すると、それは彼女のものになった。ぼくは真珠貝で作ったカツオ釣りの針をほめたが、それはぼくのものになった。チャーミアンはワラを編んだヒモの編み目に魅了された。一巻きで三十フィートはあり、どんなデザインの帽子も思いのままに作れる量だ。するとそのヒモ一巻が彼女に進呈された。ぼくは昔の石器時代にまで起源をさかのぼれるようなポイを作る臼をじっと見つめていたが、それはぼくに進呈された。チャーミアンはポイ用のカヌーのような形をした木椀を感心して眺めていた。木に四本の脚まで彫りこんである。それも彼女のものになった。ぼくはひょうたんで作った大きな置物をつい二度見してしまったが、それもぼくのものになった。それで、チャーミアンとぼくは相談し、もう何もほめないようにしようと決めたのだ。その価値がないというのではなく、ぼくらがもらってしまうにはもったいなさすぎるからだ。そして、スナーク号に積んであるもので何かお返しになるものはないか頭をひねった。こうしたポリネシアの贈り物をする風習に比べれば、クリスマスの贈り物なんて頭をなやますほどの問題ではない。

スナーク号の航海 (59) - ジャック・ロンドン著

第十二章

歓待

よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる。
ポリネシア人の研究

スナーク号はライアテア島でウツロア村の沖合いに錨泊していた。昨夜着いたときは暗くなっていたので、ぼくらは朝から上陸する準備をしていた。早朝、ぼくは小さなアウトリガーカヌー*1が礁湖を飛ぶようにやってくるに気がついた。ちょっと考えられないような巨大なスプリットスルを揚げている。カヌー自体は棺桶のような形をした丸木舟で、長さ十四フィート(約四・二メートル)、幅十二インチ(約三十センチ)、深さ二十四インチ(約六十センチ)ほどだ。両端がとがっているのを除けば、船というにはほど遠い。舷側は垂直になっているし、アウトリガーがなければすぐにひっくり返ってしまうだろう。ちゃんと縦になって浮かんでいられるのはアウトリガーのおかげだ。

ありえないセイルと言ったが、たしかにそうなのだ。実際に自分の目で見ない限り、とても信じられないだろう。というか、見たって目を疑うしかない。セイルを揚げた状態でのブームの長さに衝撃を受けてしまう。帆の上の方がとんでもなくでかいのだ。あまりにも大きいので、普通の風が吹いただけでスプリット(斜桁)はそのパワーを支えきれないだろう。帆を支えている帆桁の一端はカヌーに固定されているが、もう一端は海面上に飛び出していて、張り綱で支えてある。セイルの下縁はメインシートで下に引かれているが、帆の上縁はスプリットに固定されている*2。

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とんでもない帆

単なるボートではないし、単なるカヌーでもなく、セイリングに特化したマシンというべきか*3。操作している男は自分の体重をうまく使って強心臓で帆走させているが、心臓の強さの方がまさっているだろう。このカヌーが風下から風上へ向かうのと村の方へ風下帆走するのを見ていたが、一人きりの乗員は、風上に切り上がっていくときはアウトリガーの外側の方に身を乗り出し、風が強くなるとうまく風を逃がしていた。

「ようし決めた」と、ぼくは宣言した。「あのカヌーに乗るまでライアテアを出ないぞ」
数分後、ウォレンがコンパニオンウェイからぼくを呼んだ。「あんたが言ってたカヌーがまた来たぜ」
ぼくは甲板に飛び出し、持ち主に挨拶した。長身痩躯のポリネシア人で、無邪気な顔をしていた。澄んだきらきらした眼をして、頭も良さそうだった。赤い腰巻きに麦わら帽子という格好だ。両手には贈り物を持っていた。魚一匹とひと抱えの野菜類、それに何個かの巨大なヤムイモ。そのすべてが微笑(これがポリネシアの島々での通貨だ)と何回ものマウルール(タヒチ語で「ありがとう」)で受け渡しされる。ぼくは、そのカヌーに乗って見たいと身振り手振りをまじえて伝えてみた。

彼の顔は喜びに輝いて「タハア」とひとこと言い、同時に三マイルほど離れた島の、高くて雲がかかった山頂にカヌーを向けた。タハア島だ。いい風が吹いてはいたが、戻りは風上航になるし、ここにきてタハア島に行きたいとは思わなかった。ぼくはライアテアへの手紙をことづかってきていたし、役人にも会わなきゃならず、下の船室には上陸する準備をしているチャーミアンもいた。ぼくは何度も身振りで礁湖でちょっと帆走してみたいだけだという希望を伝えた。彼の顔にはすぐに失望した表情が浮かんだが、微笑して承諾してくれた。
「ちょっとセイリングしようぜ」と、ぼくは下のチャーミアンを呼んだ。「でも水着を着ろよ。ぬれるから」
現実とは思えなかった。夢だった。カヌーは海面を猛スピードで滑走した。タイハイーが操船している間、ぼくはアウトリガーに身を乗りだして、風でカヌーが持ち上がるのを体重で抑えた。風が強くなると、彼もアウトリガーに身を乗りだし、同時に足でメインシートを押さえこみ、両手で大きな舵を操作した。
「タック用意!」と、彼が叫んだ。
帆から風が抜けていくときにバランスをとるため、ぼくは慎重に体重を内側に移動させる。
「タック!」と叫ぶと、彼はカヌーを風上に向けた。
ぼくはカヌーから横につきだしている腕木に乗って反対側の海面上に移動した。反対舷で風を受けてまた帆走する。
「オーライ」と、タイハイーが言った。
タック用意、タック、オーライという三つの言葉がタイハイーの知っている英語だった。それで、彼はアメリカ人の船長のいる船にカナカ人の船乗りとして乗り組んでいたことがあったのではないかと、ぼくは思った。風がとぎれ、また次の風が吹いてくるまでの間、ぼくは彼に対して繰り返し「船乗り」という言葉を口にしてみた。フランス語でも言ってみた。海という言葉も水夫という言葉も通じなかった。ぼくのフランス語の発音が悪いのか、他の理由からか、反応しないのだ。で、ぼくは勝手に自分の想像は当たっていることにした。最後に、近くの島々の名前を言ってみたところ、うんうんと、それには反応した。ぼくの質問がタヒチに及ぶと、彼はその意味がわかったようだった。彼がどういう風に考えているのか、ほとんど手に取るようにわかったし、彼が思案する様子を見ているのは楽しかった。彼ははっきりとうなづいた。そう、タヒチに行ったことがあるのだ。しかも、ティケハウ、ランギロア、ファカラヴァなどの島々の名前も自分から口にした。それはツアモツまで行ったことがある証拠だった。貿易船のスクーナーに乗り組んでいたのだろう。

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タイハイー

訳注
*1: アウトリガーカヌーは南太平洋で発達したカヌーの一種で、細長いカヌーが転覆しないように片側あるいは両側につきだした腕木の先にアマなどとよばれる細い浮力体がつけてある。一般的なカヌーのようにパドルでこいだり帆走したりできる。

*2: 写真で見るかぎり、帆の形状はクラブクロウ(カニのハサミ状)で、とんでもない帆というのは、上部が大きい逆三角形の帆がついていることを指す。

*3: 現代のセイリング・マシンといえば、海のF1とも呼ばれるアメリカズカップに使用されるヨットになるだろう。2016年9月現在、このアメリカズカップの予選となるルイ・ヴィトン・カップが世界各地を転戦しながら行われているが、使用されているヨットは、アウトリガーカヌーが起源ともされるカタマラン(双胴ヨット)である。カタマランは外洋でより遠くへ行けるように、アウトリガーの代わりにカヌーを二隻ならべた進化形で、通常のモノハル(単胴船)が海水を押しのけながら進むのに比べると、海面をすべるように進むので、はるかに効率がよく高速帆走が可能になる。

スナーク号の航海 (58) - ジャック・ロンドン著

ある日の夕方、彼があくびをしたので、何時間ぐらい眠るようにしてるんだ、
と聞いてみた。
「七時間」という返事だった。「だが十年後には六時間にし、二十年後には五時間だけにするつもりだ。つまり、十年ごとに一時間ずつ減らしていこうってわけさ」
「じゃあ百歳になったら、まったく寝ないというのか?」
「そう、そのとおりだね。俺は百歳になったら寝る必要もなくなると思ってるんだ。それに、そのころはもう宙に浮いてる暮らしているはずさ。植物にも空中で育ってるのがあるだろ」
「だが、そんなことできたやつなんかいないだろ?」
彼は頭を振った。
「そんなやつのことは俺も聞いたことがない。ま、これは、俺独自の理論ってやつでね、宙に浮いて暮らすのは気持ちよさそうだとは思わないか? むろん不可能かもしれないが――無理というわけじゃない。あんたも知っているように、俺は夢想家ってタイプじゃないだろ。現実を忘れたことはないんだ。未来に思いをはせるときには、いつも戻り道がわかるように紐をつけておくのさ」
この自然人は冗談めかして言っているのだろうが、いずれにしても単純明快な生活をしてはいるのだ。衣装持ちじゃないので洗濯代はたいしてかからないし、自分の農園では果実を売って暮らしているが、労賃については自分では一日五セントと見積もっている。いまのところ市場への道が封鎖され、社会主義も広めなきゃってんで街で暮らしているが、街での生活費は家賃を含めれば一日に二十五セントになる。こうした経費の支払にあてるために、中国人向けの夜間学校も経営していた。

この自然人は理屈にこり固まったやつじゃない。菜食主義者だが、肉しかなければ肉も食うし、たとえば牢屋や船上では木の実や果物でやっていける。日焼けをのぞけば、何か具体的な計画があるというのでもなかった。

「投錨しても、錨がきかずに走錨することがあるだろ――つまり、人の心は無限で底なしの海みたいなもので、犬の檻とは違うんだ」と、彼は語を継いだ。「要するに、俺はいつも走錨してるんだ。俺は人類の健康と進歩を願って生きていて、そっちの方向に走錨するようにしてるってわけだ。この二つは俺には同じことなんだよ。錨がきいて一カ所に閉じこめられなかったから俺は救われたんだ。俺は錨で死の床につなぎとめられはしなかった。俺はヤブの中まで錨を引きずっていって、医者連中から逃れたのさ。健康を取り戻し、強くなったところで、人々に自然に帰ろうと呼びかけたんだが、だれも聞く耳を持たなかった。それで、汽船に乗ってタヒチまでやってきたんだ。俺に社会主義を教えてくれたのは操舵手だったな。人間が自然に帰って生きていくには、経済的に平等じゃなきゃだめだってね。それで、俺はまた錨を引きずっていきながら、共同体を作ろうとしているわけさ。それが実現すれば、自然の中で暮らすことも簡単になるだろうよ」

「昨夜、夢を見たんだ」と、彼は思い出しながら続けた。顔は少しずつ輝いてくる。「自然の生活をしたいという二十五人の男女がカリフォルニアから汽船で到着したみたいだった。それで俺は連中と一緒に野ブタの獣道を農園まで登りはじめたんだ」

ああ、日光浴が好きな自然人のアーネスト・ダーリングよ、ぼくは君や君の気ままな暮らしをうらやましく思ったことが何度もある。今でも踊りながら階段を上ったり、ベランダでおどけた仕草をしていたり、崖から海に飛びこんだりしているのが見えるよ。目を輝やかせ、陽光をあびた体は光に包まれ、「アフリカのジャングルのゴリラは、自分の胸をたたく音が一マイル離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだ」と言いながら胸をたたく音が鳴り響いている。

そうして思い出すのはいつも、別れを告げた最後の日の君だ。スナーク号は再び外海に向けて、波がくだけている岩礁の間を抜けようとしていた。ぼくは海岸にいる連中に手を振った。とくに、ちっぽけなアウトリガーカヌーの上に直立している、赤いふんどし姿の、日に焼けた太陽神のような男に対して友情と愛情をこめて別れを告げたのだ。

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パンノキの朝食