米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第105回)
二、洋上の練習生たち
いつだったか、セントヘレナを出て間もない頃のことであった。ホカホカと暖かい午後の陽気にそそのかされて、ジメジメと暗い汚い湿っぽい茶箱の巣を出て人声のする方へとおもむろに歩いて行くと、食って、寝て、修業日誌を書いて、ブレースを引くという同じ事の繰り返しをする以外には深刻なる生活の意義を認めぬ洋上の練習生たちが、浮世のせちがらい風はどこを吹くかとばかり、天下泰平に寝そべり返っている。航海中、彼らは決まって十二時から一時までの昼の休みには二番船倉(ハッチ)のまわりに非生産的に円座して、ディズレーリ*のいわゆる「仰視(ぎょうし)せざる青年は俯瞰(ふかん)すべし、上昇せざる精神は匍匐(ほふく)するの運命を免れず」という有名な格言を現実に立証しながら、ガヤガヤと、何かさも愉快そうに話している。いずれはまた例の血の気の多い割には脳みそのうすっぺらな頭脳(あたま)からひねりだすおべんちゃらだろう。
* ディズレーリ: ベンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)は英国の首相を務めた政治家であり作家でもあった人物。
しかし、こんな輩(てあい)でも集団(モッブ)となればなかなか勢力のあるもので、さすが世界に雷名(らいめい)をとどろかした巨頭たる宰相も群衆(モッブ)のためにはずいぶん痛めつけられた例(ためし)もある。さわらぬ神に祟(たた)りなし。ここはこっそりと穏便に通り抜けようと、足下をまわって司厨所(ギャレー)の方へと向かう。と、すばやく気づいた一人が、「こやつは実際に無愛想な動物だな」と口火を切ったのを機会(きっかけ)に、ヤレ無神経だとか、のろまだとか、無気力だとか、いろいろとあまり利益にならぬ言葉が出たのち、とうとう自分の最も嫌いな「馬鹿」という言葉が飛び出した。
いやな心地をさせられた自分は恨(うら)めしさのあまり、その男の顔をつくづくと見てやった。
ところが、どこやら見覚えのあるのも道理、この君子殿(くんしどの)は、先日ジャガイモの一切れを自分の鼻の先ににおわせながら、ご苦労にもメインデッキを三遍連れまわって、タバコにもせず、ぽんと無常にも芋を海の中に投じた不届きの男である。それ以来、芋を食うたびに、この男の顔が眼前に浮かんできて、思わず歯に力が入るのである。
この男が、今デッキに頬杖(ほおづえ)をつきながら、隣の男に向かって、「ね、君、ほら、ギリシャ神話でアポロがダフネを追いかけるときダフネを形容した『恐怖(おそれ)をもった大きな目は黒く潤んで足はしなやかに鹿のごとく速く――』とかいう語(ことば)があるだろう。よくたとえたものだね、まったくこの夢二(ゆめじ)式の大きな黒い目と細いすらりとした足つきは美人の象徴(シンボル)だね」などと、今日は柄にもなく褒(ほ)め立てる。末が恐ろしい。
三、享楽主義者の悪戯(いたずら)
かく理不尽(りふじん)に中途で自分を抑留した連中(モッブ)は徒然(つれずれ)なるままによい暇つぶしの対象物を捕まえたと考えたのか、大喜びで、ヤレ、中甲板のある室(へや)の寝床(ボング)に失敬したとか、士官のサルーンに粗相(そそう)したとか、英語教官の室(へや)でカミソリ用のレザーストラップを食ったとか、さかんに自分の旧悪をあばきにかかる。
とかくするうち、さすがにだじゃれや人笑わせの種もなくなったのか、多くの練習生たちはさもしゃべりくたびれたというように、今度は仰視せる青年の姿勢に戻って、ゆったりとして青い空と品よく前方にふくれだした鼠色(ねずみいろ)の帆とを見上げている。
座が分れて無駄話が種切れとなり、座興の材料の供給が不十分となると、先天的に幇間(ほうかん)の才能を多少とも持っているおっちょこちょいは、必死になって尻すぼみの状況を元に戻すため少しでも挽回(ばんかい)しようとつとめ、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。
かかる輩(てあい)こそ「歓楽の盃(さかづき)を飲んでは幻想に行きつ戻りつする」人種である。「一挙手(いっきょしゅ)も一投足(いっとうそく)も中途半端な」輩(てあい)である。「日々の雀躍(じゃくやく)をもって生の歓喜(よろこび)となし、生の充実となし、意義ある現実の生活となす」輩(てあい)である。自分が楽しければいいという主義を貫徹(かんてつ)するため、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。
ここまで推理してきたとき、はたして享楽主義者をもって自(みずか)ら任じる一人がむんづと自分の尾をつかんだ。
誰でも知っている通り、たいがいの人間は腰のあたりをさすられると非常にこそばゆく嫌な感じがするものである。我輩(わがはい)の尾は、まさにその腰に相当する。そこで自分は余儀なく嫌悪の念をこめた第二低音(テノール)を発声して、そんなことをされるのは不愉快だという意志を十分表明したつもりであった。
しかるに、意外にも、驚きと落胆とに陥(おちい)った余の面前で、不思議にも思わぬ歓声のどよめきが起こった。
「これは面白い。まるで猫と山羊とをかけあわしたような声だ」
「あの波動(リズム)は音階の何調になるのだろう?」
「あんな奇声が表象する心理状態とは、どんな種類だろう、や、実に珍奇だ」
などと、二十五の今日までまだ鹿を見たことのなかった連中が手を打って嬉しがる。
尾をつかんだ享楽主義者は、思わぬ手柄に呆然(ぼうぜん)と本来の悪戯(いたずら)の目的を忘れた。
それは糸くずを小生(それがし)の小さな尾の先に結(ゆ)いつけ、小生が気味わるがって後足でピョンピョンと蹴上(けあ)ぐる様子を、ヤレ面白い、やれ神経過敏な動物だ、とかいって手をたたこうとする下心であった。でなければ、二、三日前のように汚いシャツを頭からかぶせて士官のサルーンに追い込む考えであったに違いない。
しかし、このとんでもない災難も、おりから大声で整列一分前と怒鳴った風下当番(リーサイド)君の声で運よく免(まぬが)れたのは幸福の至りであった。