ヨーロッパをカヌーで旅する 64:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第64回)
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しばらくすると、運河はイル川に流れこんだ。この川はフランスのボージュを通ってライン川に続いている。長さはあるが、流れはひどく遅い。というか、いたるところによどみがあって、単なる水たまりが延々と連なっているみたいで、水面も煮汁のあくのような膜でおおわれていた。となると、この川に長居はしたくない。で、また運河に入り直した。そこで、一人の若者と知り合いになった。本を片手に散歩していたのだ。彼は偶然にもアメリカのカヌーの冒険の本を読んでいたようで、ぼくたちは話をしながら川と岸辺を並んで進んだ。ロックでは、手を貸してくれた。ぼくは、こうやって実際にカヌーで旅をしているのと、本で読む冒険に満ちた物語とはえらい違いだろうと言ったりした! 彼は自分の世界を広げようとしていた。外国を旅したい、特にイギリスを見てみたいと語っていた。それで連れだってレストランまで行き、彼にワインをおごった。料金は二ペンス半だった。若者と別れたときにはもう暗かったので、ぼくはカヌーを水門管理人の家に預けた。そこの息子がイルフュートの村まで連れて行ってくれた。近くに鉄道の駅もあるのだが、背後の丘にはブドウ園が広がり、なんとも牧歌的なところだった。暗闇のなかでも、最高の宿とされた家を見まちがうことはなかった。白い馬という名の宿で、泊まれますかときくと、「個室は無理だけど、三人の相部屋でよければ」という返事だった。

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現代語訳『海のロマンス』50:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第50回)

二カ月近く滞在したサンディエゴを出帆。いよいよ最大の難関の一つ、南米ホーン岬へ向かう航海がはじまります。

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さらば麗しきポイント・ローマ

沿岸風より貿易風帯へ ── 上 再び「痛快味」を感ず

さっそく最初の夜、当直に立つ。サンディエゴを出帆した十月十七日の夜である。南カリフォルニアの沿岸風は、都合よくも北から吹いている。

一年余も航海しなかったような気がする。なんとなく新しい心持(こころもち)で、ハッチの周囲(まわり)に集まった当直員の胸には、不思議なほどこんがらがった思いがそれからそれへと走馬灯のように伝わる。

船長の不祥事、三等航海士の客死(かくし)など、考えてみても嫌になるほど、暗い、いたましい、情けない回想は、軽い華やかな明るいカリフォルニアの大気の下でただ享楽と若き生の躍動にのみ生きている美しい人と共に遊んだ追憶と、何の躊躇(ちゅうちょ)することもなく同居している。

今朝、桟橋でホラハン奥さんに泣かれたときは、さすがに悲しかった。ポイントローマの下で「金色のベスト」を来た同胞に別離(わか)れたときも、さすがに悲しかった。しかし、それからわずか十時間とたたぬ現在(いま)では、「胸中なんの不安もなし」である。何らのわだかまりも何らの未練も何らの心残りもない……といったら、さすがに跳ねっ返りのアメリカ女も「ずいぶんだわね」とか「薄情な方ね」とかなんとか驚くであろうが……

船乗りのせわしない稼業では仕方がない。五十余日の悲しい回想も、楽しい追憶も、一切のことすべてがぼんやりとして、夢を見ていたような気がする。

すべての過去を、すべて夢のごとく忘れ去ったとき、人々の心には、ただ心細い前途が残った。さびしく長く苦しきものと想像する、青い海の旅が残った。

「いよいよ今日から四カ月の重禁固かなあ……」と、娑婆(しゃば)に未練を残す者。

    白帆(しらほ)の翼高く展(か)け
         われ行かんかな広き海洋(うみ)

と、非人情、無刺激な大自然の懐(ふところ)にいだかれて、新しい世界に飛び出したことを喜ぶ者。

強い北の順風を受けて、船は景気よく南へ南へと走るせいか、さかんに縦振動(ピッチング)をやる。横振動(ローリング)をやる。波に持ち上げられること(ヒービング)もある。五十余日のサンディエゴ停泊にすっかり気を許して、やれやれ安心と、どっしり尻をおろした神経中枢が突然グラグラと不意打ちをくらう。不意打ちをくった神経中枢は、これはというタイミングで、すべての意識と慣習と性格と心頼みとに、狼狽(ろうばい)と同士討ちを持ちこんでくる。さかんに酔っぱらって、さかんに苦しい「痛快味(つうかいみ)」を感じる。

しっかと甲板を直角に踏みしめたつもりでいるのは、ただ本人だけである。両足を踏ん張る直線運動が上下に働いているうちに、メタセンター*1を中心として、船の動揺(ローリング)が孤形運動をなしつつあることを知らぬとは、ずいぶん甘い、虫のいい話である。

*1: メタセンターは船が傾く前の浮力の作用線と、傾いた後の浮力の作用線の交点。
つまり、傾きの中心で、船の安定性の目安になる。

力強くおろした踵(かかと)が、揺れる甲板にスポッと斜めに当たるとき、腰から腹へかけて胃の腑(ふ)のあたりにはびこる底力(そこじから)が意気地なくスーッスーッと頭のてっぺんから蒸発していく。腰がふらつき、目がくらみ、こめかみがズキンズキンと痛む。いよいよ本物になりそうである。

「船暈学(せんうんがく)」、つまり船酔いに造詣(ぞうけい)が深い長谷川如是閑(なせがわにょぜかん)先生は「胸がムカムカして気持ちの悪いのは、周囲の動揺が神経中枢の統一作用を攪乱(かくらん)して、それを不安定な平衡状態に置くからだ」と言われた。

ところが、ぼくの眩暈(めまい)ときては、ずいぶんずうずうしい横着な種類(たち)で、いかに胸がむかつこうが、いかに統一作用が攪乱(かくらん)されようが、ないしは周囲の景色がケンケンで踊りを踊ろうが、食卓のごちそうは一通りは必ず平らげる。食卓に向かうときに限って神経中枢は巧みに統一され、動揺せる不安定な物象を超絶した立命の地が平然と出現するように思える。

こういう神経中枢の狼狽(ろうばい)と、前夜の夜更かしによる睡眠不足とがもたらす不自然なる神経系統の緊張から、さすがに海洋(うみ)に慣れたるぼくといえども、今度という今度は「頭ズキズキ」「胸ムカムカ」となった。船乗りとして恥ずかしい次第である。

こういう気分に襲われたのを「大成丸語」では、「痛快を感じる」という。悲痛壮快なる情緒の攪乱(かくらん)が立て続けに頭痛として沸き起こるからだという。ところが、始末におえないのは、この「痛快味」がマストの上でタールや塗料を塗っているときに、ヤッコラサと奇襲してくることである。尾籠(びろう)な話だが、あるときはメイン・マストのバックステイに飯粒のまじったタールが塗りつけられてあったり、百尺(約三十メートトル)の空から麦飯やみそ汁の雨がときならず降ってきたりしたという笑い話が残っている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 64:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第64回)
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翌朝、例によってカヌーを鉄道の駅舎まで運び、トランクや手荷物と一緒にカウンターに置いた。駅員たちは、カヌーを汽車に載せることを拒否した。カヌーを汽車で運ぶのを断られたのは、これが初めてだ。あの手この手で説得を試みたものの駄目だった。フランスで汽車へのカヌー積みこみの申請したのはこれが最初だ。これが前例となってしまっては、今後に尾を引いてしまう。

これまで他の七、八か国ではすべて受け入れてもらったんですよとも言ってみたが、このときばかりは、フランスの鉄道は頑としてカヌーを荷物としては受け入れようとはしなかった。後日談になるが、その後(つまり、この原稿を執筆している時点では)、フランスを旅した他のカヌーイストによれば、現在はフランスでもカヌーの運搬は受け入れられているようだ。

汽車で運ぼうとしたのは数マイルほどだ。それができれば、運河で遭遇するであろう五十ほどのロック(水位調整のための水門)を通過するのに必要な手間がはぶけるので、単調できつい運河でのロック通過に要する日数を二日は短縮できるはずだった。だが、カヌーを汽車で運べないとなると、また運河に戻すしかない。ま、運河のロックが不可避なのであれば、こっちの忍耐力をきたえる筋トレだと思って身体を目いっぱい使うしかあるまい。

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現代語訳『海のロマンス』 49:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第49回)
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さらば、うるわしきポイントローマ

サンディエゴ出帆

十月十七日。悲しき別離(わかれ)の日はついに来た。
いざや別離(わか)れん、心に深く、また会うときの喜こびを胸に描いて。
捨てよ、リキュールの瓶! 離(はな)せよ、膝(ひざ)に乗せた乙女を!! ブレース*1引けと、風はささやく。
海洋(うみ)の妖女(ようじょ)マザーカレーは、
シーチャイルドの来たるを待つ*2

*1: ブレース - 帆船の横帆で帆桁(ヤード)につけたロープ。これで帆の向きを調整する。
*2: マザーカレー - カリフォルニア州のヨセミテ公園を訪れる観光客を相手にしたキャンプ型リゾート施設の当時の女主人の通称(本名はジェニー・エッタ・フォスター)。シーチャイルドは文字通り、海の子、つまり、自分たちを指す。

さらば別離(わか)れん、わが享楽の民よ、「アンクルサム」の子孫よ、「カテドラル(大聖堂)の児(こ)」ミス・ヘレンよ、「カリフォルニアの母」ホラハン夫人よ。

サンディエゴ停泊は五十余日におよび、いろいろと多くの印象と感興と啓示(ヒント)と憧憬とを与えられた船乗りであった。異国(とつくに)の船人(ふなびと)に向かってわけ隔てのないその抱擁は、強い親しみを示しただけ、楽しみと安らぎとが思う存分に享受せられただけ、握手と接吻と抱擁とが華やかな享楽的な色彩の強く輝いた大気の中に与えられただけ、それだけ、十月十七日の別離は悲しく、心惜(くちお)しく、恨(うら)めしく感じる。

船は早朝に錨地を離れ、サンタフィー桟橋に横付けにして、忙しく清水(みず)を積みこむ。

練習船を見送りに来た日米両国の人々は、電車で、または自動車を連ねて、黒山のように桟橋に集まる。こんなに多くの外国人から見送られたことは練習船の記録(レコード)にかつてない、と士官の一人は感嘆する。

黒絹(くろぎぬ)に身を包んだホラハン夫人は、手紙と書籍と花束とをたずさえて、悲し気に来船する。ヘレンとアールからは悲しい手紙が来る。

いよいよ出港用意のラッパが鳴って、見送り人は否応なしに下船させられる。ホラハン夫人は美しい眼に一杯の涙をためて、きっともう一度来いという。その時に汝(なんじ)の指揮する船の上で再会しようという。いよいよ最後のかたい握手をかわしたとき、夫人は口ごもりながら小声で “Good bye, Be blessed by God.”(さようなら、神のご加護がありますように) と言った。急に胸に迫って、変な気持ちとなる。

舫(もや)い綱(づな)(ホーサー)を外し、二千四百トンの大船が徐々に桟橋を離れたとき、「ボンボヤージュ」という太い男らしい紳士の声と、「グットバイ」という甲高い淑女の泣き声とが混じりあった別辞(フェアウェル)が桟橋に一杯になった群衆から発せられる。船はようやく加速度を増して、桟橋の人混みはようやく小さく、ヒラヒラと舞う白いハンケチも風に吹かれる紙片のように見えるようになったとき、最後の悲しい別辞(わかれ)が遠く大波のように、豆のごとくかすむ群衆から流れ出た。船は汽船や工場で鳴らす別辞(わかれ)の汽笛に応えて、三発の長笛(ホイッスル)を吹く。

ノース島を左にまわって、区画整理されたサンディエゴの町を縦に見渡すとき、ゴールドン・ウェストという小さな蒸気船がついてくるのに気がつく。在留日本人が、悲しい別離を遠くローマランドの下で惜しもうと特に艇をしたてて追ってきたのである。

例の「シャム公使」が赤いネクタイをつけ、一人で艇の屋根の上で騒いでいる。練習船の船足が速くなって、ようやくローマランドに近づくに従い、l「シャム公使」以下五十人余の同胞の顔はようやく暗く悲しい感情が激しい言葉となってほとばしりでる。

「おーい、今度来るときは天洋*3の船長となって来いよ」とか、「日本への土産に……かまうもんか……そこの砲台の写真を撮っていけ……」とか、乱暴なことをいう。

*3: 天洋丸(13,454トン)は、大成丸と相前後して進水した大型貨客船で、日本の船として初めて一万トンを超えた。エンジンには最新のタービン機関を採用していた。

やがて艇は三回の「万歳」を唱えて、名残惜し気に艇首をめぐらせて帰っていった。かくして五十余日の長い碇泊の間に、最も複雑な交渉と、最も有人情の生活と、最も軌範的な折衝とを続けてきた二百の「海の民」は、再び四カ月一万二千海里(マイル)の非人情な無刺激な旅にのぼった。マザーカレーの静かな広い懐(ふところ)にいだかれるべく……

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ヨーロッパをカヌーで旅する 63 :マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第63回)
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うれしい驚きだったが、この運河には、はっきりした流れがあった。右手の方に一時間ほど、距離にして二マイルくらい漕いでみた。水路の幅はわずか十二フィート(約3.6メートル)そこそこだったが、水は透明だし水深もあったので楽といえば楽だった。数マイル進んだところに、跳ね橋があった。この橋の高さは水面から一フィートもない。機械式になっていて、橋の跳ね上げ操作のために係の男がやってきた。どうやって通過させようか思案している様子だった。ぼくはカヌーを降りて橋を超えた。彼が橋の下を通してカヌーを押し出してくれたので、橋の反対側でまた乗りこんだ。この橋の下をくぐった舟は、疑いもなくぼくのカヌーが最初だろう。とはいえ、これまでドナウ川では何度か非常に低い橋をくぐったことはある。なかには、水面から二インチもないところもあった。そういうときはカヌーを引っ張り上げて橋を超えてきた。橋がそんなに低いのなら洪水のときはどうするのだろうと疑問に思うかもしれない。なに、増水した水は橋を乗りこえて流れていくだけだ。状況によっては、水位の上昇に応じて橋の踏み板を取り外してしまうこともある。そういうときに徒歩で旅行している者が川を渡ろうとやってきたとしても、肝心の橋がなくなっているので立往生してしまうことになる。

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現代語訳『海のロマンス』48:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第48回)


船長の失踪など、思わぬトラブルで長期滞在するはめになったサンディエゴから、いよいよ出帆するときがやってきます。
再び世界一周航海が再開されますが、今回は最後のサンディエゴ滞在記です。

世界一のテントシティー

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写真 上)世界一のテントシティー 
(写真 中)カリフォルニアの母と大成丸ボーイ 
(写真 下)ラモナの家とその「結婚の鐘」

同県の友、瀬黒(せぐろ)氏と、いわゆる世界一のテントシティー見物に出かける。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 62:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第62回)
今回から第十一章になります。
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第十一章

ライン川はスイスのバーゼルを過ぎると、あらゆる意味で、川の様相を一変させる。ここからは急激に西向きから北へと流れる方向を変え、川沿いの風景も、高い土手のある斜面から、数多くの川が流れこむ幅の広い水系となり、無数の中洲が入り組んだ状態で、両側に果てしなく続く屏風(びょうぶ)のような二つの山脈にはさまれた広大な谷を、前方へ、北へ、海へと流れていく。ここからは、どの方向にも新しくスタートを切ることができる。ぼくはこの段階ではまだどのコースを進むか決めていなかった。ソーヌ川やドゥー川経由でローヌ川まで行って、そこからマルセイユまで南下し、さらに地中海沿岸の街道にそって進み、ジェノアでカヌーを売ってしまうか、あるいは──今となっては愛着が湧いて別れがたいロブ・ロイ・カヌーを売却せずにすむ、もっとましな代替案はないか──となれば、フランスを通って元のコースを引き返すしかあるまいが。

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現代語訳『海のロマンス』47:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第47回)

「ラモーナ」の話

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練習船がサンディエゴの静かで美しく長大な湾に投錨した夜、ぼくはサンディエゴ市とコロナドビーチとの間を、粘液質の湾の水に赤や青や色とりどりの美しいイルミネーションの影を落としながら往来する「ラモーナ」というフェリーを見た。この「ラモーナ」という名前が不思議にぼくの好奇心をあおった。

二、三日後の上陸のときであった。市中を歩いていると、クラブや商会の名前に「ラモーナ」というのがたくさんある。一つの電車に「オールドタウン&ラモーナの家」行とあるのを見て、ぼくの好奇心は極度にあおられた。グランドホテル前のプラザの脇で、まさにその電車に乗った。

三十分ばかりの後、電車はなんだか古くさい家の前で停車(とま)る。壁は縦横に訪問者の記念の跡をとどめ、屋根には乱暴にもぺんぺん草がはびこっている。

これが「ラモーナ」の家である。ラモーナという英国系白人と黒人との間にできた娘がその恋人アレッサンドロという、卑下と屈辱と羊のような従順さとの間に生の意義を見いだす少数民族の男と自由結婚の式を挙げたところだという。昔は古いスペイン系の一教会だったという。中へ入ると、得体のしれない多くの男が出てきて、結婚のときの縁起帳はこれだとか、そのときの儀式はこうであったとか、スペイン人は甘き恋に酔える彼らに辛き冷笑を与えたとか、情けを知らぬ米国人は面白半分に彼らを迫害したとか、そのときついた結婚の鐘はこれだとか、ラモーナをうまいこと商売に利用している。

あわれなる女「ラモーナ」の話は、虚栄の女、驕(おご)れる女ラモーナに始まる。

その昔、ジュニベロ神父やスペインの探検家カブリヨによって啓発され開拓された南カリフォルニアの地に羽振りをきかしたスペイン人の勢力もようやく失墜しかかったとき……

ときのスペイン将軍モレノには、ゴンザガとラモーナという二人の娘があった。美しい娘であったラモーナは、妙齢のころから相思相愛の間柄であった一人の英人を嫌って、途中でスペインの若い士官のところへ嫁入ってしまう。

失望し自棄したその英人はやけ半分に、黒人奴隷の娘をめとって一人の娘をもうける。

これが女主人公ラモーナである。妻に死なれた男は、ラモーナを連れて古い恋人ラモーナのもとを訪れて昔の罪を責め、すっかり後悔し懺悔(ざんげ)の涙にくれた女の手に、同名の幼児ラモーナを渡して去る。この浮世の波風にもまれて、生まれながらに数奇の運命を持ったラモーナは、第一の養母ラモーナの死後、第二の養母ゴンザガの膝下に育てられることとなる。

かくして一方は黒人の母から純情で芸術的な「無知なる趣味の遺伝」を受けたラモーナは、他方、失恋に泣いた英人の父から、復讐的、呪詛(じゅそ)的、因果的の性質を授かっている。

生まれながらにしてこうした運命におかれた彼女が、他年、許嫁(いいなづけ)たるゴンザガの息子を嫌って卑(いや)しい黒人奴隷のアレッサンドロに身と心をささげたのは、実に興味深い因果律である。恨みを飲んで終生の希望と歓楽とを捨てた英人の呪詛(じゅそ)を、二十年後に、全能全知の厳粛なる神の手を借りて、当の敵の甥を同じ失望と自棄と悲嘆との濁流に巻きこませたことによって、復讐の効果(エフェクト)を生じさせている。

「十九歳の青春(はる)を迎えたラモーナは、世にも愛(め)でたき乙女であった。彼女の顔は常に晴れ晴れと輝き、彼女の静粛(しとや)かなる風姿(ふうし)とほがらかなる声音とは、見る人の、聞く人の心の中にのどかに溶け入らねばならぬようであった」と、『ラモーナの話』に記されている。

「この美しきラモーナを、彼女の許嫁(いいなずけ)フュリップは愛し、下男は尊び、下女は親しみ、草も木も石も、みな等しく愛を尊び親しむのとき、わが若きインディアンのアレッサンドロのみ何ぞ愛せざるべき、何ぞ尊ばざるべき、何ぞ親しまざるべき……」と、再び記されている。

ラモーナをして、ついにかの、豊かなる情操と音楽の天才とを有するアレッサンドロと恋に陥らしめたのには、内的と外的の二つの原因がある。

弥生の春に萌え出る若草のように青春(わか)き胸に、黒人にふさわしからぬアレッサンドロの高雅な性格と温かい情操とが恋しく映じたのはその一つである。人種的偏見から常にラモーナを邪険にした養母の冷酷は他の一つである。

かくて、この二個の情操の子らは、うるさい世間の絆(きずな)と情実と約束から逃れ出て、「屋根にぺんぺん草の教会」で結婚し、ついにインディアン保留地に去った。

ここまでは、単にあわれなる女主人公およびその恋人がスペインの一家庭に対する紛糾せる交渉にすぎない。

それ以降、アレッサンドロに対する米人の迫害のあらゆる種類、あらゆる手段を事実に即して特有な細かい艶麗な筆致でもれなく描写している。

アレッサンドロがちょっとした間違いから米人に殺されてラモーナが再び養家に帰るあたりは、いわゆる「白鬼(はくき)」の横暴を巧みに描いている。「ことわざに、いったん泥棒をやってしまえば、ずっと泥棒でいなかればならない、とあるように、アメリカの法律に照らして自分は潔白だと言い切れる者は誰もいない」という一節のごときは、痛快骨をえぐるの感がある。

「ラモーナの話」を書いたのは、ヘレン女史*1というアメリカ人で、この本で最もひどく痛罵(つうば)されているのはアメリカ人で、この書を最も多く読み最も深く同情するのもまたアメリカ人だという。

こうこなければ面白くない。ヤンキーの偉いところは実にここにあると、ぼくはつくづく感じた。

ちなみに、この話はすべて事実に基づく話で、いまではサンディエゴ市に欠くべからざる一名物となっている。

*1: ヘレン女史 - ヘレン・ハント・ジャクソン(1830年~1885年)はアメリカの女流作家。
練習帆船・大成丸のサンディエゴ寄港から30年ほど前の1884年、彼女は綿密に取材した事実にもとづく小説『ラモーナ』を発表し、当時のベストセラーとなった。
大陸横断鉄道の開通とほぼときを同じくしたため、日本のアニメでいう「聖地巡礼」のように、サンディエゴ周辺には全米から読者が殺到した。
黒人奴隷の数奇な運命をたどったストウ夫人の『アンクル・トムズ・キャビン』は、奴隷解放をめぐって大論争の対象となったが、その系譜につらなる作品。

Cover--Ramona

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ヨーロッパをカヌーで旅する 61:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第61回)
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スイスのバーゼルまでは近いので、朝は遅くまで寝て休養をとった。起きると、カヌーを橋の向こうまで運んだ。景色のよい中洲はテラス付きの庭園に作り替えられている。ここでカヌーを水面に浮かべた。この数日というもの、激流を漕ぎくだってきたので、あちこち無数にぶつけたりしている。そういうときの音はとても大きかったので結構な力がかかったと思われるのだが、愛艇はまだ堅牢なままで、とくに大きな問題はなさそうだった。自設計なのでそういう専門家の目で見ても、報告すべき損傷はどこにもなかった。この後の航海でカヌーの船体や板材を酷使し、さらにひどい目に会うことになるのだが、それはまだ先の話だ。

この日の出発では、大勢の女性たちが見送りにきてくれた。女たちは日傘を振り、男たちは万歳と叫んだり喝采したりしてくれた! カヌーは滑るように川を下っていく。「別れの会釈」代わりに、カヌーからは黄色のパドルを頭のまわりで振った。空いている手がないので、友人に対する感謝の意を示すために思いついてやってみた。

レインフェルデンについて、旅行ガイドブックのベデカー誌には「この町を過ぎた下流側で、ライン川はまた急流となり、ホーレン・ハーケン(曲がりくねった急流)と呼ばれる渦ができる」と記載されている。こわい情報で名前もおどろおどろしいが、ここに書いてある「渦」はそう気にするほどのものではなかった。

川に沿って鉄道の線路があった。汽車の音が聞こえる。「ここはまったく未知の荒野で予測もつかない土地」というわけではないことを思い出させてくれる。陸より一段低い位置にある川に浮かんでいると、両側にある土手の向こうが実際にどうなっているかを忘れてしまうことがある。道路から見る風景はよく知られているが、低くなった水面から見上げる景色はまた様子が違っている。どんな景色でも、陸から見た場合、視界は水平線までの距離を直径とする半円になっていて、周囲の空はアーチ状だ。だが、カヌーに座って眺めると、そうした風景は巨大な扇形に姿を変えてしまう。前方の澄みきった水面を視点として、そこから広がりながら両側の岩や木々や苔むした堤防などの土手が斜めに高くのびていく。これはテムズ川のようなふだんから見慣れた川でも同じだ。とくにオックスフォードとロンドンとの間の陸の風景はよく知られていて、旅行者も感嘆したりしているが、同じ場所の光景でも、川を漕ぎ下りながら眺めるとまた違って新鮮に見えてくる。テムズ川のように、曲がりくねって流れながらすばらしい景色を展開している川は少ない。

とはいうものの、ぼくのカヌー旅も、今では文明世界に戻ってきつつあった。よそ者には街並みや宿で体験するすべてのことが物珍しいという、心地よくもシンプルな生活は終わりかけていた。これまでとは対照的に、この文明世界では、天然ではなく合成したロウソクを使っていて芯切りバサミが不要だったり、英語が話せると自称するウェイターが横に座ってぼくの腕をつかんで自信満々に「ビーン・グリーン」(「インゲン豆のような緑色」を指しているらしい)と言ったりしている。彼の英語でぼくが気に入ったのは「花野菜」で、ぼくらが「カリフラワー」と呼んでいるものだ。

あなたがドイツを旅していて、内陸にある村でウェイトレスが大声のドイツ語で話しかけてきたとしよう。彼女の早口のドイツ語は、あなたにはちんぷんかんぷんだ。彼女は自分の言うことがまるで理解できない客を新しい動物でも見たように眺めている。が、やがて客もウェイトレスもどっちも笑いだすことになる。そういう世界を旅してきたわけだ。

だが、ぼくはいま、ライン川で一隻のボートがロープで引かれれているのを見た。舟を引くための道が確保されているのではなく、男たちは草むらを歩きながら舟を引っ張ったり浅瀬を渡ったりしているだけで、ごく素朴な形ではあるのだが、ボートについてこうした光景を目撃するということは、いつでもどこでも上陸できる、自由きわまりないすばらしい森林地帯を抜けてしまったということを改めて悟らされたのだった。

何度か西に向かって曲がった後で、バーゼルの街にある二つの塔が見えてきた。沈みかけている夕日がまぶしくて、正確に見分けることはできなかった。それで、そのまま漕ぎ続けた。九月十四日、川辺にあるホテルにカヌーを引き上げた。バーゼルの街にかかっている橋はすぐに物見高い通行人や野次馬であふれた。ここは、例のずぶぬれになった四つの漕ぎ座がある五人組のボートが数週間前に到着したところだ。建物の所有者は、また別のイギリスのボートが来たというので喜んでいた。今度はずっと小さなボートで、乗っているのも一人きりだったが、こっちは先を急ぐ風でもなく服も濡れてもいない。ぼくは街を散歩した。とある教会に入ってみた(スイスのバーゼルだから、むろんプロテスタントの教会だ)*1。ちょうど洗礼式が行われているところで、大勢の人が集まっていた。赤ん坊は母親から父親へ、教会の聖職者(クラークからミニスター)へと手渡しやすいように枠付きの台に寝かされていた。ぼくは赤ん坊という存在には畏敬(いけい)の念さえ抱いているので、こういう風に、どこか機械的に赤ちゃんを取り扱うことには強い違和感を感じてしまう。

*1: ドイツのマルティン・ルターと並ぶ宗教改革の主導者だったツヴィングリやカルバンはスイスの出身で、当時のスイスにはプロテスタントが多かった。
現在のスイスでは、イタリアやスペインなど南欧系の労働者の移住により、宗派統計上はローマ・カトリックがプロテスタントを上回っている。

洗礼式が終了するとすぐに、幸福そうなカップルが前に進み出た。これから結婚するのだ。新郎はぱっとしない風采だったが、新婦は美しかった。とはいえ、もう若くはなく、五十五歳くらいに見えた。花嫁の付き添い人や七面倒くさそうな関係者の姿は他になかった。式がすむと、このカップルは、女たちがクスクス笑うなかを歩いて出て行った。花婿は次にどうしたらよいのか、よくわかっていないらしく、新婦の前後を歩いたり横に並んだりしていたが、どこか居心地悪そうで、結局は彼女のそばからつかず離れずの斜めの位置を確保して歩いていき、二人とも別の建物に姿を消した。これから結婚生活をはじめる儀式として、これほどロマンティックの対局にあるものは見たことがない。とはいえ、こういう式にも取り柄はある。うっとうしい「両家の顔合わせの食事会」で、新しく親戚になる二組の人々が相手を探りあうという、うんざりするような儀式がないのだから。そういう食事会では、腹もへっていないのに一緒に食事をし、相手のしょうもない話に耳を傾けているふりをすることで、互いに親密になることを期待されているのだ。とはいえ、ぼくとしては、旅先で出会った人々の不可解な風習なんかを批判したいわけではないので、宿の話に戻そう。喫茶室で、あるフランス人と出会った。その人はロンドンで生活していたことがあり、これからロンドンに行くという二人のメキシコ人に現地のホテルについて説明しているところだった。ロンドンの「コーヒーハウス」や「レスター・スクエア」にあるホテルについての彼の説明は笑えた。「スクエアはイギリスではスクアと発音されるんだ」などと言っていた。

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現代語訳『海のロマンス』46:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第46回)
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グラスカッター

十月十二日(土曜)。大掃除と洗濯がすんで「日曜」という楽しい期待を明日に控えた、平和なすがすがしい「土曜らしい雰囲気」が人々の顔に浮かぶ。

午後、カッターを艤装して、楽しい半日を静かなサンディエゴの内海に遊んで、遊びくたびれた十余人は、ボートをコロナド半島の先端にあるノースアイランドに寄せる。

このノース島には、かの有名なカーチス氏の経営にかかる「カーチス飛行機学校」なるものがある。

練習船(ふね)が八月三十一日に、この静かにして絵のような泊(とまり)に入港して以来、日に何度となく船のまわりを滑走したり飛翔したりする幾組かの水上飛行機があった。はじめのうちは、あのすさまじいエンジン音の爆音も、あざやかで見事な着水や飛行の技量も珍しかったが、しまいにはすっかり馬鹿にしてしまって、自習室で本でも読んでいるときは、またかとばかりうるさがられた。

しかし、それでもときどきは、金髪緑眼(きんぱつりょくがん)の佳人(ひと)を乗せて鋭く水を切って滑走するときや、巧みに練習船(ふね)の帆桁(ヤード)とすれすれに飛んで、きわどい離れ技を演ずるときは、惜しげもなく拍手と歓声が全船から流れ出ることもあった。こんなときには、操縦者はきっと片手を上げて挨拶したものだ。

その学校の桟橋へ船をつけて、白いジャンパー姿の男がドヤドヤと上陸する。見ると、桟橋の根元の方に一人の老人が腰をかがめて、箱のような変な格好の船型と、奇怪なる設計図(プラン)とを並べて、深い瞑想にふけっている。通りすがりに言葉をかけても、振り向きもせぬ。しないのも道理、この老人こそ、この学校の師範代で、二週間に一遍ずつまわってくるカーチスの代教授をしているほどに技量抜群な人だというが、多年の飛行ですっかり鼓膜を破ってしまったのだと……

イッシャー君というのが出てきて、いろいろと案内もし、説明もしてくれる。学校(ここ)には「水上」と「陸上」の二種類あることや、キムピー嬢、近藤氏、武石浩波(たけいしこうは)氏の三人はみなこの学校で練習を受けたこと、自分はパリの飛行機学校で、ドイという日本学生と友達であったなどと話す。

「カーチス飛行機学校」といえば、いかにも立派なようであるが、実は五十エーカー(約二十万平米、東京ドーム四個半)ばかりのだだっ広い草原(くさはら)に、破れかかった汚い家が二、三軒と、修繕工場一棟と、「水上」「陸上」の飛行機格納庫各一棟ずつとモーター試験場とがあちこちにたたずんでおった。

ちょっとでいいから乗せてくれと頼んだら、おそまつな滑走用の一台の「カーチス」式複葉機(バイプレーン)を出してきた。彼らはこれを「草なぎ機(グラスカッター)」と呼んでいる。誰だったか、スイッチをつなごうとしたら、やれ大変とばかり、差し止められた。その代わりに写真をとってもよいと許可された。写真を撮りにわざわざ頼みにくる連中も多いらしい。

「水上」の方は例のイッシャー君が、この「フロート」がどうで、この「翼(プレーン)」の浮揚力がどれくらいで、支柱(ステイ)の受ける力が最小となるよう応力が計算されていて、発動機(モーター)の爆発周期は何分の一だとか、むずかしいことを詳しく説明してくれたが、ひどいなまりのあるアメリカン英語でペラペラときた講義の大部分はとうとう「理解」できないままだった。

ローマランドの一日

船長艇(キャプテン・ガレー)を艤装して、音に聞こえしローマランドに一日の清遊を試みる。同舟の友は五人。

    この山に仙人おわす水仙花

月が似合うローマランド、日没が似合うローマランドは、また花も似合う。

しめやかな春雨の軽いうきうきした足音が、野に響き、水に響いて、けぶるような紗をすかしたような情趣を生み出すとき、美しき水仙花やクローバーは今を盛りと咲かせた花からしずくがしたたり落ちている。

方形係数(ブロック・コエフィーシェント)*1がわずかに〇・六の船長艇は、少しキールを水につけただけの軽い姿で、鏡のように静かな入江の水を、朝の八時頃の下げ潮に押されながらすべるように走っていく。

*1: 方形係数(肥せき係数とも呼ぶ)は、船の太り具合を指す指標。
水線下の容積の太さ(やせ)具合を示し、この値が小さいと細身でスピードも速いイメージになる。
具体的には 「船の排水容積」と「水線長×水線幅×喫水」の比で、船型が完全な直方体だとすれば方形係数は「1.0」になる。
大量の荷を運ぶよう設計される貨物船は、旅客船に比べて、この値が大きくなる傾向がある。

セントラル教会の招待会(イブニング・ソサエティ)で、晴れやかな三日月眉と、すずしい張りのある目と、黒いビロウドの帯飾りとをつけた、世にも美しいサンディエゴの娘と歓談笑語(かんだんしょうご)したその翌日(あくるひ)の朝である。

光輝ある初秋の光線(ひかり)は透き通った水に落ち、帆をかすめる小鳥の影が、水底の細石(こいし)や藻の葉にさっと黒く落ちては、また元のように明るくなる。この快適な朝の景観と、ブドウ、オレンジなどのカリフォルニアの美果を積みこんだ心丈夫とは、今日の行楽をして、期待あるものたらしめ、意義あるものたらしめる。

パビリオン・ハウスの検疫所を右に見て、おそろしく長い海藻(ケルプ)の中を流れ下った艇は、十時にローマランドの砲兵隊連隊合宿所の下へと漕ぎ寄せる。

カーキ色の兵隊さんが往来する合宿舎(カンティーン)には青いツタが見事にはいまとわって、その二階からは音色もゆかしいピアノが漏れ聞こえてくる。一軒の将校宿舎のベランダには五、六人の奥さん連中が集まって、紅茶を飲みながら静かに世間話にふけっている。

こんな俗世間を離れたような生活を眺めながら、船乗りの間に有名な例のローマランドの灯台(ライトハウス)に着いたのは十時ごろであったろう。

青いサボテンの花が目もはるかに連なる先に、太平洋の波打ち際に沿って白い建物と海抜百フィートの灯台とが見える。

キャピテン・ビーマンという、七十ばかりの好々爺(おやじ)の灯台長や、その細君や、一等灯台員など、家族総出で歓迎してくれる。

話によると、この灯台は今から二十三年前に建てられた回転灯で、四百三十二面の反射鏡と、四分の回転周期と、五秒間の照射期間を持っているという。到達距離は二十海里で、光力は十二万燭光*2を数える。

*2: 燭光(しょっこう)は光度の単位で、現在のカンデラとほぼ等しい。カンデラは、照度の単位である「ルクス×距離の二乗」で計算される。

ここのローマ岬(ポイント)は音に聞く海上の難所で、三年前には鉄船が、七年前にはスクーナー型の帆船が相次いで同じような場所で座礁し、粉々に破壊されたという。現に、灯台の下には、いたましくも赤く錆びた鉄片が、世を呪うもの、海神の権威をないがしろにする不届きものの末路を見よやとばかり、敗残の跡をさらしている。

快く軽い汗を感じながら小さな多くの小山を北に越したぼくらは、スペイン人がこの地の覇者であった時代の旧灯台(オールド・ライトハウス)に行く。一八五四年に建てられたもので、荒廃した壁の中には、古いカビくさい、一種いやなにおいがしみじみと人の追憶に迫るように漂っていた。

この旧館と同じ背の山には、日本のコックが埋葬されている墓地(セメタリー)があるという。何でも十何年前に米国の一砲艦がここで爆破したとき、一緒に乗りこんでいた志願兵であるという。

なつかしさと、あわれさとのまじった気分で、山の頂上にあるその墓地(セメタリー)に行く。墓地というよりは遊山地といったほうが適当なほどに明るい華やかな空気が、敷物のように青くきれいな芝地の上に広がっていた。

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