米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第111回)
五、怪物は風のごとく
日となく夜となく百尺(約三十メートル)の高きに登って風に吹かれ雨にたたかれ、南蛮(なんばん)鉄のごとき抵抗力を充溢(じゅういつ)せしめている彼らの体躯(からだ)は、かねて音に聞いた不死身(ふじみ)とやらを想像させるほどで、彼らにとっては些々(ささ)たる石炭粉ぐらい、どうということはないのだろう。一向に平気であるに違いない。
だれか、この際(さい)、外部から刺激し交渉してくれる者がなければ、そのまま粘液質的*に納まり返っているだろう。彼ら自身では積極的に面白い場面(シーン)の展開を呼んで来そうもない。ここにおいて、ぼくは心の底から外部に向かって何らかの低気圧が起こってくれとひたすら願った。
* 粘液質的: 医学の父と呼ばれる古代ギリシャのヒポクラテスの体液説に基づく気質の分類で、感情の起伏が少なく粘り強い気質を指す。
ところが、至誠(しせい)はこれ天に通ずとかで、それからわずか三十分も経たないうちに、ぼくの注文通りにうまく事件が寄り集まってきたのには、自分ながらその真摯(しんし)な思いがこれほど早く効果を生じたのには感服した次第である。
一時間の英語学習も今は残り少なになって、教科書の主人公の生まれ故郷たるデボンシャーの絵のごとき風景を描写するキングスレイの、いわゆる言葉の絵画が今やようやく佳境(かきょう)に入らんとするころ、ふと食堂兼教室の扉(ドア)の隙間(すきま)から外をのぞいたぼくの目に、ピカリと光るものが二つ見えた。 続きを読む