スナーク号の航海 (35) - ジャック・ロンドン著

ハンセン病には弱い接触感染性があるが、どうやって伝染するのだろうか? あるオーストリアの医師は自分と助手たちにハンセン菌を植えつけてみた。が、失敗した。だが、断定するにはいたらない。有名なハワイの殺人者の例があるからだ。こいつはハンセン菌を植えつけることに同意したため死刑判決が終身刑に減刑されている。菌を植えつけてまもなく症状が出て、ハンセン病者としてモロカイ島で死んだ。とはいえ、これで結論がでたわけではない。というのも、植菌された当時、彼の家族の何人かがこの病気でモロカイ島に収容されていたためだ。この家族から感染した可能性もあり、この殺人犯は、正式に植菌された頃にはすでに罹患していて潜伏期間だったとも考えられるのだ。患者の体を清めるためモロカイ島に行ったダミエン神父という教会の偉人のケースもある。神父がどうやって罹患したのかについては諸説あるが、本当のところは誰にもわからない。本人も知らなかった。だが、彼が島を訪れるたびに、現在も居住地に住んでいるある女性がたずねてきていたことは確かだ。その女性は長くそこに住んでいて、五度結婚しているが、夫はいずれの場合もハンセン病患者で、彼らの子も産んでいた。そして、その女性は現在にいたるまで病気になってはいないのだ。

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モロカイ島。ダミエン神父の墓。

ハンセン病の謎はまだ解明されていない。この病気についての知識が深まれば治癒する可能性も大きくなる。ハンセン病の感染性は弱いため、有効な血清が発見されれば、この病気は地球上から消えることになるだろう。そうなれば、この病気との闘いは長くはかからず急展開を見せるだろう。とはいえ、その一方で、どうすれば血清やそれ以外の思いもよらない治療法が発見されるのだろうか。それが急務の問題なのだ。現在、インドだけで、隔離されていないハンセン病患者が五十万人いると推定されている。図書館や大学など、カーネギーやロックフェラーの寄付金の恩恵を受けている研究は多いが、そうした寄付金はどこに行っているのだろうか。たとえばモロカイ島のハンセン病患者の居住地には届いているのだろうか。まったくわからない。居住地の住民は運命に翻弄されている。彼らはこの不可解な自然の法則の身代わりとされ、ほかの人々がこのおぞましい病気にかからないよう隔離されいるのだが、なぜ彼らがこの病気にかかったのか、どうようにしてかかったのかについては皆目わからないのだ。単に患者のためだけでなく、将来の世代のために、ハンセン病治療や血清研究のため、あるいは医学界がハンセン菌を根絶させることができるような思いもよらない発見のために、そうした寄付金はハンセン病治療のまともで科学的な研究にも投入されてもらいたいものだ。お金を寄付したり思いやりで手を差し伸べるのにふさわしい場所というものがあるのだ。

スナーク号の航海 (34) - ジャック・ロンドン著

ひとつ確かなのは、居住地の患者は、ここ以外の場所で隠れて生活している患者よりはるかに恵まれているということだ。そういう患者は他人と交わることもなく、病気が露見しないか、少しずつ確実に悪くなっているのではないかと不安を抱えて生きている。ハンセン病の進行は一定していない。この病気になると体がむしばまれるが、潜伏期間はさまざまだ。五年や十年、四十年も症状が悪化せず、元気に生活できることもある。とはいえ、まれに最初の兆候で死に至る場合もある。腕のいい外科医が必要だが、隠れている患者には医者も呼びようがない。たとえば、最初の兆候として足の甲に穿孔性潰瘍ができる場合がある。それが骨にまで達すると壊死が起きる。患者が隠れていれば手術を受けられない。壊死は足の骨まで広がってしまい、短時間に壊疽や他の合併症で死亡することもある。一方、そんな患者がモロカイ島にいたとすれば、外科医が足の手術を行って潰瘍を切除し、骨を消毒し、病気の進行を完全にとめてしまう。手術後ひと月もすれば、患者は馬にも乗れるようになるし、徒競走したり波打ち際で泳いだり、マウンテンアップルを探して谷間の急な坂も歩けるようになる。すでに述べたように、この病気は潜伏しているときは五年、十年あるいは四十年も症状が出ないこともあるのだ。

かつてハンセン病の恐怖とされていたものは、手術で消毒をしなかった時代、グッドヒュー博士やホルマン博士のような医師たちがこの居住地に住みこむようになるより前にまでさかのぼることになる。ゴッドヒュー博士はこの地で先駆的な役割を果たした外科医で、彼の気高い功績はいくら賞賛しても賞賛しすぎることはない。ある日の午前、ぼくは手術室で彼の執刀する三件の手術に立ち会ったのだが、そのうちの二人は新しくつれてこられた男性で、ぼくと同じ蒸気船で到着したのだ。いずれの場合も、病気にやられたのは一か所だけだった。一人はくるぶしにかなり進行した潰瘍ができ、もう一人は脇の下に似たような進行した症状が出ていた。二人とも居住地外にいたので治療を受けておらず、かなり進行していた。どちらの患者の場合も、グッドヒュー博士はすぐに症状の進行を完全にとめ、この二人は四週間もすると元気になり、病気にかかる前のように丈夫になった。この二人が君やぼくと違う唯一の点は、彼らの病気は潜伏し、将来のいつか再発する可能性があるということだけだ。

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モロカイ島。ダミエン神父の教会。

ハンセン病は人類の歴史と同じくらい古い。文字による最古の記録にも出てくる。そして、病気の解明ということになると、現在でもなお当時と比べてあまり進歩していない。昔からとくに接触伝染性があることはよく知られていて、患者は隔離すべきとされてきた。昔と今との違いは、患者はもっと厳格に隔離され、人間らしく扱われて治療されているということだ。しかし、ハンセン病自体はやはり大変な病気だし、まだ解明されていないことも多い。あらゆる国の医師や専門家の報告を読むと、この病気の不可解な特徴が明らかになってくる。こうしたハンセン病の専門家たちは病気のどの段階についても、わからない、という点で口をそろえている。かつては軽々しく独断的に一般化されていたこともあるが、現在ではもう一般化して言われることはない。実施されたすべての調査から引き出しうる唯一可能な一般化は、ハンセン病は接触伝染性があるということだけだ。だが、この伝染性は弱いということは、ほとんど知られていない。ハンセン菌そのものは専門家により分離されている。ハンセン病か否かは細菌検査で判定できる。だが、この病原菌が患者でない人間の体にどうやって入りこむのかは、まだわかっていない。潜伏している期間の長さもわかっていない。あらゆる種類の動物にハンセン菌を植菌しようとした試みも失敗つづきだ。

この病気と闘うための血清を発見しようという努力も成功していない。専門家のあらゆる努力にもかかららず、まだ手がかりも治療法も見つかっていない。ときどき原因が解明され治療法が見つかったと希望の炎が燃えさかることもあるが、そのたびに失敗という闇に吹き消されてしまう。ある医者は、ハンセン病の原因は長期にわたって魚を食べたためだと主張し、自説を大々的にふりかざしたが、それも、インドの高地の医師が、自分の地域の住民にもハンセン病にかかっている者がいるのだが、それはなぜか、と問うまでだった。インド高地に住む住人は先祖代々魚を食べたことがなかったからだ。患者を一種の油や薬物で治療し、治癒したと発表した人もいたが、五年後、十年後、四十年後に再発した。治癒したという主張は、この潜伏した状態を治癒したと勘違いしていたことになる。確かなのは、本当に治ったという事例はまだない、ということだ。

スナーク号の航海 (33) - ジャック・ロンドン著

この原稿を書いている時点で、ホノルルに知っている靴磨きが一人いる。アフリカ系アメリカ人だ。マクベイ氏がぼくに語ってくれたところによれば、まだ細菌検査が行われるようになるずっと前に、彼はハンセン病患者としてモロカイ島に送られてきたのだった。彼は病室でも血気盛んで、悪さばかりしていた。長い間、そういうちょっとしたいたずらが繰り返されていたのだが、ある日、彼は検査でハンセン病ではないと宣告されたのだ。

「なんとまあ!」 マクベイ氏は笑いだした。「ということは、君を厄介払いできるってことだ! 次の蒸気船で島を出してやろう。君は自由の身だ!」

しかし、この黒人は行きたがらなかった。すぐにハンセン病の末期段階にある老婦人と結婚し、衛生局に、病気の妻を介護するため引き続き滞在する許可を与えてくれるよう嘆願した。自分ほど妻の世話をやける者は他にいない、と泣きついたのだ。だが、衛生局の連中にとって、彼の魂胆はお見通しというわけで、彼は蒸気船に乗せられて自由の身となった。しかし、彼はモロカイ島に舞い戻った。モロカイ島の風下側に上陸すると、夜にまぎれてパリに入りこみ、居住地にある自宅にもぐりこんだのだ。彼は逮捕され、裁判で不法侵入のかどで有罪を宣告され、少額だが罰金も科せられ、蒸気船で退去させられた。こんど不法侵入したら罰金百ドルに加えて、ホノルルの刑務所行きだと警告された。というわけで、このたびマクベイ氏がホノルルにやってくると、この靴磨きは氏の靴を磨きながらこう言った。

「ねえ、旦那。オレにはあの楽しかった家がなくなっちまいましたよ。ああ、なつかしいなあ」 それから内緒話でもするように声を潜めて、こう言った。「ねえ、旦那。また戻れませんかね? 戻れるように手配してもらえませんか?」

彼はモロカイ島に九年も住んでいたのだが、それ以前もそれ以後も、島での暮らしほど楽しい時はなかったのだ。

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モロカイ島のカラウパパ村。背後のパリの断崖は標高二千フィートから四千フィート。

ハンセン病自体に対する不安については、ハンセン病患者も患者以外の人々も、居住地ではそういう気配は見せなかった。ハンセン病に対する激しい恐怖は、ハンセン病患者を見たことがない人々や、この病気について何も知らない人々の心の中にあるのだ。ワイキキのホテルで、ぼくが居住地を訪問する料金の支払をしていると、ある女性が心底驚いていた。話をすると、彼女は生まれも育ちもホノルルで、ハンセン病患者を自分の目で見たことがないのだ。アメリカ本土にいたぼくは、そうじゃない。米本土ではハンセン病患者の隔離はゆるくて、ぼくは大都市の通りで何度も患者を見たことがある。

ハンセン病は恐ろしいもので、それから逃れることはできないが、この病気や伝染性について、ぼくには多少なりとも知識があった。ハワイに滞在する残りの日々をどうすごそうかと考えていて、結核療養所を訪問するよりはモロカイ島ですごしてみようかと思ったのだ。米本土の都会や田舎の貧しい人々のための病院や外国の似たような施設では、モロカイ島で目撃するような光景を目にすることができるが、もっとひどい状態だ。残りの人生をモロカイ島で暮らすか、ロンドンのイーストエンドや、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤード*で暮らすかを選択しなければならないとしたら、ぼくはちゅうちょせずモロカイ島を選ぶだろう。イーストエンドやイーストサイドのような堕落と貧困に満ちた土地で五年もすごすくらいなら、モロカイ島で一年をすごすほうがいい。

モロカイ島では、人々は楽しそうだ。そこで目撃した七月四日の祝日の様子を、ぼくは決して忘れない。朝六時、「身の毛もよだつ」人々が外に出てくる。着飾って(自分の所有する)馬やラバ、ロバにまたがり、居住地中を跳ねまわるのだ。二組のブラスバンドも出ていた。三、四十人ものパウを着た者たちもいた。すべてハワイ人の女性で、民族衣装を着こなしている。馬に乗るのもうまく、二、三馬ずつだったり集団だったりで駆けまわっている。午後、チャーミアンとぼくは審判席に立ち、乗馬の技術やパウを着た衣装に賞を贈呈した。周囲にいるのはすべてハンセン病患者で、頭や首や肩に花冠や花のリースをつけて楽しそうだ。丘の上や草原には派手に着飾った男女が見え隠れし、飾り立てた馬を走らせたり、着飾った騎手たちが歌ったり笑ったりしている。ぼくは審判台に立ち、こうした様子をすべて目撃したが、そのとき思い出したのはハバナのハンセン病の病院だ。そこには二百人ほどのハンセン病患者や囚人がいて、四方を壁に囲まれた場所で死ぬまで閉じこめられているのだ。ぼくは何千という土地を知っているが、ずっと住む場所を選ぶとなったら、モロカイ島にするだろう。夕方、ぼくらは患者の集会所の一つに行った。集まった聴衆を前にして、合唱団のコンテストがあった。夜になり、最後はダンスになった。ぼくはホノルルのスラム街に住むハワイ人を見たことがあるのだが、再検査のため居住地から連れてこられた患者たちが口をそろえて「モロカイ島に戻りたい!」と叫ぶ理由がよくわかる。

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モロカイ島のダミエンロード

 

[訳注*]
ロンドンのイーストエンド、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤードには、現在と異なり、一部にスラム化した集落が集中し、犯罪や貧困の温床/代名詞とされていた。

ジャック・ロンドンの意図は、実態が知られず恐怖ばかりが先走り、先入観に満ちた扇情的な報道で世間からは地獄のように思われているハンセン病患者の隔離された居住地に実際に住んでみて、ありのままを伝えようというところにある。

現在では、ハンセン病をめぐる状況も大きく変化し、隔離政策についても問題のあることが知られているが、後出しじゃんけんのように現代の基準で断罪したりはせず、執筆当時の著者の意図を尊重し、できるだけ忠実に訳出している。

 

スナーク号の航海(32) - ジャック・ロンドン著

モロカイ島では、宣告されたハンセン病患者は再検査を受ける権利があり、患者はそのために継続的にホノルルに戻っている。ぼくがモロカイ島に渡るときに乗った蒸気船には、そうやって戻った患者が二人乗っていた。どちらも若い女性で、一人は自分の所有する財産を整理するためにホノルルに行っていて、もう一人は病気の母親に会うためだった。二人ともカリヒに一カ月滞在していた。

モロカイ島の居住地は新鮮な北東貿易風が吹き抜ける島の風上側にあるため、気候はホノルルよりずっと快適だ。景色もすばらしい。一方には青い海があり、他方にはパリの断崖がそびえていて、そこここに美しい渓谷がある。いたるところ緑の牧場が広がり、患者たちが所有する何百頭もの馬が放牧されている。馬車や荷馬車、二輪の軽量馬車を持つ患者もいる。カラウパパの小さな港には何艘かの漁船と小型蒸気船が係留されている。どれも患者が所有し操船している。むろん、海上にも境界が決められていて、船で行ける範囲は限定されているが、それ以外に制限はない。獲れた魚は衛生局に売り、代金は自分の稼ぎになる。ぼくが滞在していた間、一晩の稼ぎは四千ポンドだった。

漁をする者がいるように、農業をする者もいる。あらゆる事業が行われている。生っ粋のハワイ人の患者は塗装業の親方だ。八人を雇い、衛生局から建物の塗装を請け負っている。カラウパパ・ライフル・クラブに入会していて、ぼくも会ったことがあるが、ぼくなんかよりずっと立派な身なりをしていた。同じような境遇の男がもう一人いて、こっちは大工の棟梁だ。衛生局が運営している店の他にも民間の小さな店があり、商売っ気のある者が経営している。監督補佐のワイアマン氏は立派な教育を受けた有能な人物だが、生っ粋のハワイっ子で患者でもある。バートレット氏はいまは店主をやっているが、この病気にかかる前はホノルルで商売をしていたアメリカ人だ。この人たちの稼ぎはすべて自分のものになる。働けない者は地域で面倒を見てくれる。食べ物や住むところ、衣服が与えられ、治療も受けられる。衛生局は農業経営も行っていた。地元向けの畜産や酪農で、働きたい者には全員、適正賃金の雇用が与えられる。とはいえ、隔離された地域で、労働を強制されているわけではない。子供や老人、肢体不自由者には住むところも病院も確保されている。

リー少佐はインターアイランド汽船会社の造船技師を長く務めたアメリカ人で、ぼくが会ったときは蒸気を使う新しいタイプのクリーニング屋で働いていた。機械の据え付けで忙しそうだった。その後も彼とはよく会ったが、ある日、ぼくにこう言った。
「おれたちがここでどうやって生きているのか、ちゃんと伝えてくれよ。頼むから、ありのまま書いてくれよな。あんたは、みんながおぞましい腐った地獄と思いこんでいるところに足を踏み入れちまったんだ。おれたちだって誤解されたままでいるのはいやだし、感情を持った人間なんだ。ここでどう暮らしているのか、本当のことを世の中の連中に伝えてくれ」

ぼくがこの居住地で会った連中は、男も女も、口をそろえて同じような感情を吐露した。これまで事実に反する嘘をまじえて誇張して伝えられていることに憤慨しているのは、患者自身だった。

彼らが病気にかかっているのは事実だが、ハンセン病患者たちは自分の置かれた境遇で生活を楽しんでいる。居住地は二つの村に別れ、多くの田舎風の家や海沿いの家に、ほぼ千人が暮らしている。教会は六つあり、キリスト教青年会の建物や集会場もあれば、演奏会場や競技場、野球場、射撃場、スポーツジムもある。多くのグリークラブが活動し、吹奏楽団も二つある。

「ここではみんな満足しているので」と、ピンカム氏がぼくに言った。「ショットガンでも追い払うことはできないでしょうな」

そのことは、後でぼく自身が確認した。この年の一月、病気の再検査のためホノルルに行くことになった十一名の患者が、それを拒否してひどく抵抗したのだ。彼らは行くのを嫌がった。検査で菌陰性化がわかれば自由にどこでも行けるようになるのだが、自由になりたくないのかと聞かれると、全員が「モロカイ島に戻りたい」と答えたのだ。

かつてハンセン菌が発見される前、さまざまな、まったく異なる病気で苦しんでいる男女が小数ではあったがハンセン病と判断されて、モロカイ島に送られてきた。それから何年も経て、細菌学者が、彼らはもはやハンセン病にかかっていないし、そもそもその病気ではなかったと宣言したとき、彼らは逆に狼狽した。モロカイ島から外に出されるのを嫌がり、衛生局から仕事をもらって、そのまま居住地にとどまったのだ。現在、看守を務めているのはそのうちの一人である。ハンセン病ではないと宣言された彼は、島外に送られないように、有給で看守の仕事を引き受けたのだった。

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モロカイ島、患者の漁師たちと船着き場

スナーク号の航海(31) - ジャック・ロンドン著

ハンセン病の接触による伝染性は想像されているほどではない。ぼくは妻同伴でこの居住地に一週間滞在したが、感染するという不安はまったくなかった。ぼくらは長手袋もはめなかったし、患者から離れていようともしなかった。逆に、何も考えず自由に一緒にいたし、ここを去るときには、顔と名前で病歴もわかるようになっていた。単に清潔にしていれば、予防措置としては十分のようだ。医師や監督官など患者以外の者が患者と別れて自分の家に戻るときに、消毒用の石鹸で顔と手を洗い、上着を着替えるだけだ。

とはいえ、ハンセン病患者は不潔だという声も根強い。この病気についてほとんど知られていないため、ハンセン病患者の隔離措置が厳守されている。過去にはハンセン病患者は恐ろしいものとされ、ぞっとするような治療が行われたが、そういったものは不要であるし残酷でもある。ハンセン病をめぐって人口に膾炙した誤解のいくつかを一掃するため、ぼくはハンセン病患者と患者以外の者との関係について、自分がモロカイ島で観察したことを述べておきたい。到着した朝、チャーミアンとぼくはカラウパパ・ライフル・クラブの大会に参加した。そしてそこで、この疾病にまつわる苦痛と、それが緩和されていく民主主義的兆候を目撃することになった。このクラブは、マクベイ氏が寄付したカップをめぐる賞品つきの大会を開始したばかりだった。マクベイ氏や研修医のグッドヒュー医師、ホールマン医師もクラブの会員だった(両医師とも奥さんと一緒に居住地に住んでいる)。射撃用ブースでぼくらのまわりにいる者は、全員が患者だ。患者も患者以外の者も同じ銃を使用し、限られた空間で肩を並べていた。患者の多くはハワイの原住民だった。ベンチでぼくの隣に座っているのはノルウェー人だった。真正面の砂の上に立っているのは南北戦争で南部連合国軍側で戦ったアメリカ人で、いまはもう退役していた。彼は六十五歳だが、腕はまだ鈍っていなかった。大柄なハワイの警察官、患者、カーキ色の軍服姿の連中が射撃をした。ポルトガル人もいれば中国人もいた。居住地で働いている患者以外の現地人もまじっていた。午後、チャーミアンとぼくはパリの二千フィートある崖に登って居住地を眺めたのだが、監督官や医師も、病人も病人じゃないのも入り混じって野球の試合に興じていた。

中世のヨーロッパでは、ハンセン病はおそろしい病気とされ、患者はひどく誤解された扱いを受けた。当時、ハンセン病患者は法的にも政治的にも死んだものとみなされた。患者は葬式行列で教会へと連れていかれ、そこで礼拝をつかさどる聖職者が患者のために模擬葬儀を挙行するのだ。読経のあとで土をすくって患者の胸に落とす。生きたまま死者となるのだ。この厳しい処置の大半は不要なものであったが、それによって一つのことがわかる。ハンセン病は十字軍の兵士たちが帰還してくるまで、ヨーロッパでは知られていなかった。そしてそこから少しずつ広がって、ある時点で一気に拡大したのだ。これは明らかに接触で罹患する病だった。接触伝染病だ。と同時に、隔離すれば根絶できるということも明らかだった。当時のハンセン病患者の扱いはひどく、醜悪なものであったが、隔離効果が知られるようになり、それを手段として用いることでハンセン病は撲滅されるようになった。

ハワイ諸島では現在、こうした隔離政策によりハンセン病は減少している。が、モロカイ島に患者を隔離することは、イエロージャーナリズムが扇情的に書きまくっているような、恐ろしい悪夢なのではない。そもそも、ハンセン病患者は家族から無慈悲に引き裂かれてはいないのだ。病気が疑われた者は、衛生局からホノルルのカリヒにある施設に来るよう呼ばれる。料金や経費はすべて支払われる。まず衛生局の細菌学の専門家による顕微鏡検査を受ける。ハンセン菌が見つかると、患者は五名の検査医からなる審査会による審査を受ける。ここでハンセン病と判明すれば、病名が告げられ、衛生局が正式に確認し、患者はモロカイ島に送られる。状況に応じて徹底した検査が行われるが、患者には、自分を担当する医師を選ぶ権利がある。ハンセン病と宣告された後でも、すぐにモロカイ島に送り込まれるわけではない。何週間か何カ月かの猶予が与えられ、カリヒに滞在している間に、自分の商売などすべてを清算したり話をつけたりすることになる。モロカイ島では、親戚や商売の代理人などの面会も認められるが、患者の家で食べたり寝たりすることは認められない。そのため、訪問者用の「清潔」な住宅が確保されている。

衛生局のピンカム局長とカリヒを訪れたとき、ぼくは罹患した疑いのある人に対する徹底した検査について説明を受けた。このときの疑いのある人は七十歳になるハワイの原住民で、三十四年間、ホノルルで印刷会社の印刷工として働いていた。専門家がハンセン病だと診断したが、審査会は判断に迷っていて、その日に全員がカリヒに集合して別の検査をしたというわけだった。

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モロカイ島、七月四日朝、パウを着た騎手

スナーク号の航海(30) - ジャック・ロンドン著

第7章

モロカイ島のハンセン病患者

 スナーク号がモロカイ島の風上側の沿岸をホノルルに向かって帆走していたとき、ぼくは海図を見て、低く横たわった半島とその向こうに見えている高さが二千フィートから四千フィートはありそうな一連の断崖を指さして、こう言った。「あそこが地獄だ。地球上で最も呪われた地だ」と。その一カ月後に自分自身が地上で最も呪われたその地の海岸に立ち、八百人ものハンセン病患者と一緒になってってはしゃいでいると知ったら衝撃を受けたはずだ。楽しむのは不謹慎だ、というのは間違っている。とはいえ、自分にとって、あの人たちの中に自分がいるというのは、少し前までだったら考えられなかったことだ。それまでと今とでは、感じ方がまったく違っているし、実際に楽しかったのだ。

たとえば、独立記念日の七月四日の午後、ハンセン病患者たちは皆、競技場に集まっていた。ぼくはレースの様子を写真に撮るため、監督官や医者たちから離れていた。面白いレースだった。ひいきをめぐって対抗心がめらめらとわいてくるのだ。三頭の馬が入場した。それぞれ中国人、ハワイの原住民とポルトガルの少年が乗っていた。三人の騎手はハンセン病患者だった。ジャッジも観客も同様だ。レースはトラックを二周する。中国人とハワイの原住民がまず抜け出した。二人は首の差だ。ポルトガルの少年は二百フィートも後方に置いていかれている。一周しても、ほぼそのままだ。二週目の半分あたりで、中国人の騎手が一馬身ほど原住民の騎手より前に出た。同時に、ポルトガルの少年も差を詰めてきた。が、追いつけそうにはなかった。観客の応援に熱が入る。ハンセン病患者たちは誰もが競馬が大好きなのだ。ポルトガルの少年が追い上げる。ぼくも声を張り上げた。ホームストレッチにさしかかった。ポルトガルの少年がハワイの原住民を抜いた。雷鳴のようなひづめの音、三頭の馬の競り合い、ムチをふるう騎手。観客は一人残らず声を張り上げ叫んでいる。差はじりじり縮まってくる。ポルトガルの少年が追いつき、追いこした。そう、追いこして、中国人を頭一つリードして勝ったのだ。ぼくはハンセン病患者の中に飛びこんだ。彼らは歓声をあげ、帽子を投げ飛ばし、つかれたようにおどりまわった。ぼくも同じだ。帽子を振りまわし、有頂天になって叫んでいた。「なんてこった、あの子が勝ったぜ! あの子が勝ったんだぜ!」

客観的に分析してみよう。ぼくはいわゆる「モロカイの恐怖」なるものの一つを確かに目撃していたのだ。そしてそれは、世間に広まっているような状況が本当であるとすれば、ぼくの行為は屈託がないというか、無邪気すぎて、恥ずかしいことでもあっただろう。それを否定はしない。次の競技はロバのレースだった。こいつも、とても面白かった。ビリだったロバが優勝したのだ。話を複雑にしているのは、騎手は自分の持ち馬ならぬ持ちロバに乗っているわけではないということだ。どういうことかというと、騎手たちは互いに別の騎手のロバに乗っていて、他人のロバに乗りながら、他の騎手が乗っている自分のロバと競争するのだ。当然のことながら、ロバを所有している者たちは、レース用に提供するロバについては、とても遅いのを選んだり、極端に御しがたいのを参加させたりするのだ。あるロバは騎手がかかとで腹をけると脚をすぼめてる座りこむよう訓練されていた。その場でぐるぐるまわろうとするロバもいれば、コースを外れたがるロバもいる。柵ごしに頭を外に突き出して足をとめてしまうのもいた。参加したロバ全頭がそんな具合だった。トラックを半周したところで、一頭のロバが騎手に抵抗しはじめた。残りのロバすべてに追いこされても、まだもめていた。結局、そのロバは騎手を振り落とし、なんと一着になった。千人ほどのハンセン病患者全員が腹をかかえて笑っ。ぼくと同じ場所にいた者たちは誰もがそれを楽しんでいたのだ。

というような出来事はすべて、巷間うわさされているモロカイ島の恐怖なるものが存在しないことを述べるための前振りだ。この居住地については、センセーショナルにあおりたがる連中、事実を見ようとしない扇動主義者たちがて繰り返し書きたてている。むろん、ハンセン病はハンセン病であるし、おそろしい病気ではある。だが、モロカイ島について書かれた話は誇張されすぎていて、ハンセン病患者たちも、治療に身をささげている人たちも、正しく扱われてはいないのだ。具体的な例を述べよう。ある新聞記者がいた。この居住区に足を踏み入れたこともないのに、監督官のマクベイについて、自分の目で見てきたように、こう描写した。草ぶきの小屋で床についたマクベイを飢えたハンセン病患者たちが取り囲み、夜ごと、飯をくれと責め立てている、と。この身の毛のよだつような記事は全米に報道され、それを読んで憤然として抗議し改善を求める多くの社説が書かれたものだ。ところで、今ぼくはこのマクベイ氏の草ぶきの小屋なるところに五日間寝泊まりしているのだが、まず小屋は草ぶきではなく木造家屋だし、だいたいこの居住地のどこにも草ぶきの家などないのだ。ハンセン病患者の声は聞こえているが、それは飯をくれというより、合唱のようにリズムに乗っていて、バイオリンやギター、ウクレレ、バンジョーのような弦楽器の伴奏もついている。他にもハンセン病患者のブラスバンドや二つある合唱団の歌声など、いろんな音が聞こえてくる。五人のすばらしい歌声も聞こえたが、記事や本に書かれているのとは違って、その歌声は、ホノルルへの出張から戻ったマクベイ氏のために、患者のグリークラブが歌っているセレナーデなのだ。

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モロカイ島、七月四日朝 全員ハンセン病患者だ

スナーク号の航海 (29) - ジャック・ロンドン著

波に乗ったり波と闘ったりすることでぼくが学んだ方法の一つは、抵抗しないということだ。なぐりかかってくる相手は、こちらからよけてしまうに限る。顔面をひっぱたこうとする波があれば、その下にもぐりこんでしまえばいい。足から先に海に飛びこみ、波には頭上を通過させるのだ。決して身構えたりしない。リラックスしよう。体を引きちぎられようとしたら、一歩譲ればいい。引き波につかまって、海の底で沖に持っていかれようとしたら、それに逆らってはいけない。逆らったところで、引き波の方が強いに決まってるのだから、おぼれてしまう。逆らわず、流れにそって泳いでいけば、体にかかる力が弱くなったように感じられる。そうやって流れに乗っていれば体を押さえつけられることもないし、海面に向かって少しずつ浮上していくこともできる。そうやって海面に出てしまえば、おぼれる心配はなくなるわけだ。

波乗りをおぼえたければ泳ぎが達者でなければならないし、海にもぐるのにもなれていなければならない。それができたとして、あと必要になるのは頑丈さと常識だけだ。大波のパワーは想像を絶する。めちゃくちゃにかきまわされるし、人間とボードは何百フィートも引き離されてしまう。サーファーは自分の身は自分で守らなければならない。救助に駆けつけてくれるサーファーがどんなに大勢いたとしても、それには頼れない。フォードやフリースがいてくれるという安心感のためか、大波にもまれたら、まず自分で泳いで脱出しなければならないということを、ぼくはつい忘れてしまった。そのときのことを思い出してみると、大波がやってきて、この二人はそれに乗ってずっと遠くまで行ってしまったのだ。彼らが戻ってくるまでの間、ぼくは何十回となくおぼれかけた。

サーフィンではサーフボードに乗って波の前面をすべりおりることになるが、そのためにはまず自分から滑りださなければならない。ボードとサーファーは、波が追いついてくるまで、陸に向かってかなりの速さで自分から進んでいかなければならない。波がやってくるのが見えたら、ボードに乗って向きを変えて波に尻を向け、全力で海岸にむかって漕ぐ。いわゆる風車みたいに腕をぐるぐるまわして漕ぐのだ。波の直前でスパートする。ボードに十分なスピードがついていれば、波がそれを加速してくれて、四分の一マイルもの長さの滑走が始まることになる。

沖ではじめて大波に乗れたときのことは決して忘れない。波が来るのが見えた。向きを変え、必死でパドリングした。腕がちぎれるかと思えるほどだ。ボードのスピードはどんどん増していく。自分の背後で何が起きているのか、わからない。風車みたいに漕いでいるときに振り返ったりはできないのだ。波が盛り上がり、シューシューという音や波がくずれる音が聞こえた。ボードが持ち上がり、放り投げられるように突進した。はじめのうちは何が起きたのか、さっぱりわからなかった。目を開けても何も見えない。白い波しぶきに埋もれていたのだ。だが、そんなことは気にならなかった。波をとらえたときの至福ともいえる喜びだけを感じていた。三十秒ほどで、物が見えるようになり、息もできるようになった。ボードの鼻先三フィートほどが空中に突き出しているのが見えた。体重を前にかけるようにしてボードの先端を下げた。そのとき、ぼくは荒々しく動いている波のど真ん中で静止していたのだった。海岸が見えた。ビーチの海水浴客たちもはっきり見えた。とはいえ、その波で四分の一マイルもサーフィンできたわけではない。ボードが波に突き刺さらないよう重心を後ろに移動させようとしたのだが、体重を戻しすぎて波の背面に落っこちてしまったのだ。

サーフィンをはじめて二日目だったし、自分がとても誇らしかった。四時間もサーフィンをして、終わったときには、明日もまた来よう、ボードに立って見せるぞと思っていた。だが、その思いは先延ばしになってしまった。翌日にはベッドに寝ていたのだ。病気ではない。どうにも動けなくて寝たきりだったのだ。ハワイの海のすばらしさを語ろうとして、ハワイの素晴らしい太陽のことを言いそびれてしまった。熱帯の太陽である。六月初旬なので、頭上に太陽がある。狡猾で二枚舌なやつだ。ぼくは人生で初めて、自分が日焼けしたことに気がつかなかった。両腕、両肩、背中は以前にも何度も日焼けしていて、いわば免疫はできていた。だが、下半身はそうじゃなかった。そして、サーフィンに熱中していた四時間というもの、足裏をハワイの太陽にまともにさらしてしまっていたのだ。裏側が太陽にさらされていたことは、サーフィンを終えてビーチに戻るまで気がつかなかった。日焼けすると、はじめのうちは熱を感じるだけだが、それがひどくなると水ぶくれができてくる。それに、皮膚にしわがよると関節も曲がらなくなる。それが翌日ずっと寝ていた理由だ。歩けなかったのだ。今日こうして原稿をベッドで書いているのはそのためだ。こうやってサーフィンができない状態におかれるより、サーフィンしてる方がずっと楽だ。明日になれば、そう、明日になれば、またあのすばらしい海に入って、フォードやフリースと一緒にサーフボードの上に立ってみせるさ。明日がだめなら、その翌日か、またその翌日に。ぼくは一つだけ決心した。自分が足に翼をつけて海の上を飛ぶようにサーフィンできるようになるまで、日焼けして皮のむけたマーキュリーになるまで、スナーク号でホノルルを出帆することはない、と。

スナーク号の航海(28) - ジャック・ロンドン著

ぼくは知識を前にすると、いつも謙虚になる。フォードには知識があった。彼はぼくにボードの正しい乗り方の手本を見せてくれた。それから、いい波が来るまで待ち、いまだというときに、ぼくを押し出してくれた。波に乗って宙を飛んでいるように感じるのは、すばらしい瞬間だった。そう、ぼくは百五十フィート(約三十メートル)も突っ走って浜辺にまで達したのだ。ボードを持って、フォードのところに戻る。このサーフボードは大きくて、厚さ数インチ、重さは七十五ポンド(三十四キロ)もあった。彼はいろいろ教えてくれた。彼自身は誰にも教わっていなかった。数週間かけて自分で苦労しながら学んだことを、ぼくに一時間足らずで教えてくれたのだ。ぼくの代わりに練習してくれていたようなものだ。そして、この半時間ほどの間に、ぼくも波に乗ることができるようになった。何度も何度もやってみたが、フォードはそのたびに褒めてくれ、助言してくれた。たとえば、ボードのもっと前の方に乗れ、ただし、あまり前すぎないようにしろ、といったことだ。だが、ぼくはそれよりずっと前の方まで行ってしまった。というのは、陸に近づいたとき、ボードが海底に突き刺さって急停止してしまってトンボ返りしたのだが、と同時に自分の体も投げ出されてしまった。ぼくの体は木くずのように宙に舞い、あわれにも崩れ落ちてくる波の下敷きになってしまったのだ。フォードがいなかったら、脳天をたたきわられていただろう。こういう危険も、このスポーツの一部なんだと、フォードは言った。ワイキキを去るまでに彼自身もそういう目に会うかもしれないし、そうなれば、スリルを追い求めている彼の思いも満たされることになる。

人殺しは自殺より悪いと、ぼくは固く信じているのだが、相手が女性の場合は特にそうだ。ぼくはあやうく人を殺しかけたが、フォードが救ってくれた。「自分の足を舵だと思ってみろよ」と、彼は言った。「両足をよせて、それで方向を決めるんだ」 数分後、ぼくは砕け波に突っこんでいった。そのまま波に乗ってビーチの方へ接近していくと、いきなり真正面に、仰向けになって浮かんでいる女性が出現した。乗っている波をどうやって止めろというのか? その女性はじっと動かなかった。サーフボードの重さは七十五ポンドあるし、ぼくの体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)だ。両方を合計した重量の物体が時速十五マイルで突進していくのだ。ボードとぼくはミサイルのように突っこんでいく。この気の毒な女性の柔らかい肉体に加わる衝撃の大きさを計算するのは物理学にまかせるしかない。そのとき、ぼくは保護者たるフォードの「足で舵を切れ」という言葉を思い出した。足で向きを変えてみようと思った。両足を踏ん張って全力で向きを変えようとした。ボードは波の頂点で横向きになると同時に切り立った崖のように垂直にもなった。いろんなことが同時に起きた。波はぼくをひっくり返すと、軽くポンポンとたたくようにして行ってしまったが、その軽くたたかれただけで、ぼくはボードからはじき落とされ、波でもみくちゃになり、海に引きづりこまれて海底に激突し、何度も横転した。やっとのことで海面に顔を突き出して息をし、なんとか歩けるようになったのだが、目の前にその女性が立っていた。ぼくは自分がヒーローになったような気がした。彼女の命を救ったのだ。すると、彼女はぼくを見てげらげら笑った。恐怖にかられたヒステリックな笑いというのではなかった。自分が危機一髪だったなどとは、夢にも思っていないのだ。ともかく、彼女を救ったのは自分ではなくフォードだし、ヒーローのような気になる必要はないと、ぼくは自分で自分をなぐさめた。それに、なによりも足でボードをあやつれるというのに感激した。ぼくはさらに練習し、自分でコースを選び、泳いでいる人を避けながら進めるようになっていった。くずれる波の下ではなくて、波の上に乗り続けることができるようになったのだ。

「明日」と、フォードが言った。「もっと大きな波が立つところに連れてってやるよ」

ぼくは彼が指さした沖に目をやった。さっきまで乗っていた波がさざ波にしかみえないような、水けむりをあげている大波が見えた。この最高のスポーツをやる資格が自分にもあると思っていなかったら、どう返事をしていたのかわからないが、ぼくはさりげなくこう答えた。「いいぜ、明日、挑戦してみよう」

ワイキキビーチに押し寄せる波は、ハワイ諸島すべての岸辺を洗っている波と同じだ。とくに水泳には最高だ。寒さで歯をがちがちいわせることもなく、一日中でも泳いでいられるほど暖かいし、適度な冷たさもある。太陽や星々の下で、つまり、昼でも夜でも、真冬でも真夏でも、暖かすぎず冷たすぎず、常に一定のちょうどいい温度なのだ。すばらしい太古の海そのものであり、けがれもなく水晶のように澄みきっている。こういう海だということを思えば、カナカの人々が水泳競技で優秀なのも当然だ。

翌朝、やってきたフォードと一緒に、ぼくはこのすばらしい海に飛びこんだ。サーフボードにまたがるか、その上に腹ばいになり、カナカの年少の子たちが遊んでいるサーフィンの幼稚園を抜けて、さらに沖へと漕ぎだした。まもなく、大きな波しぶきがあがっている沖に出た。次々と押し寄せる波と格闘し、沖に向けて漕いでいくだけでも一苦労だ。波のパワーは強烈だし、それに負けないためには自分をよく知っている必要がある。つまり、押しつぶそうとする波との闘いで、相手のスキをつく狡猾さも必要になるということだ ── つまり、冷酷で無慈悲なパワーと知性との闘いでもある。少しだがコツはつかめた。波が頭上におおいかぶさってくる瞬間、エメラルド色の波の膜を通して日光が見える。そこで、頭を下げてボードを全力でつかむ。と、波の一撃がくる。浜辺にいる見物人には、ぼくが消えたように見えるだろう。実際には、ボードとぼくは巻き波のなかをくぐって反対側の波の谷間に出るのだ。体の弱い人や気が小さな人には、ちょっと勧められない。波は重くて、押し寄せてくる波の衝撃は砂あらしに巻きこまれたようだ。ときには次々と間をおかずに襲ってくる半ダースもの大波に四苦八苦することもある。じっとおとなしく陸にいたらよかったなと思えたり、新たに陸にとどまっているべき理由が身にしみてわかることにもなる。

沖で水しぶきとともに波が襲ってくるところで、第三の男、フリースがぼくらに加わった。一つの波をやりすごして海面に出て、頭をふって海水を振り払い、次にどんな波が来るかと前方に目を凝らすと、フリースが波に乗り、ボード上に立ったのが見えた。この若者はさりげなくバランスをとっていたが、たくましく日焼けしていた。ぼくらは彼の乗った波をやりすごした。フォードが彼に声をかけた。彼は乗っていた波から降りて、ボードが波にのみこまれないようにして、ぼくらの方に漕いできた。フォードと一緒になって、ぼくに手本を示してくれた。ぼくがとくにフリースから学んだことの一つは、たまにやってくる例外的に大きな波への対処の仕方だ。そういう波は本当に強烈なので、ボードの上にいてぶつかったら無事ではすまない。だが、フリースはぼくに手本を示してくれた。そういう波が自分の方にやってくるのが見えたときはいつでも、ボードの後ろから海中にすべりおり、両手を頭上にあげてボードをつかむのだ。こういう波ではよくあることだが、波は手からボードをもぎとってサーファーをぶんなぐろうとする。ところが、こうしておくと、波の一撃と自分の頭の間には一フィートの水のクッションができる。波をやりすごしたら、ボードによじのぼってまた漕ぐのだ。ぼくは、ボードが当たってひどいケガをした人を何人も知っている。

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波に乗る

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沖でのサーフィン

スナーク号の航海(27) - ジャック・ロンドン著

というわけで、実際の波乗りの原理についての話になるが、まず長さ六フィート、幅二フィートの細長い楕円のような形をした平らな板(ボード)を手に入れよう。そこにソリに乗った小さな子供のように腹ばいになり、両手でこいで海に出ていく。波が盛り上がりはじめているあたりまで行き、そのままボードの上で静かに待つ。次から次へと波がやってきては、自分の前後左右のいたるところで崩れながら、君を置き去りにしたまま陸へと押し寄せていく。波は立ち上がるにつれて勾配が急になってくる。その急激に立ち上がった波の前面で、自分がボードに乗っていると想像してみよう。じっとしていれば、坂を滑り落ちるソリに乗っているように、その斜面を滑り落ちていくだろう。「待てよ」と、君は異議を唱える。「波は動いているじゃないか」。その通り。だが、波を構成している水は動かないのだ。そして、そこに秘密がある。もし君が波の前面を滑りはじめれば、君はそのままその滑り落ち続けていくが、決して海底にぶつかることはない。冗談じゃないぜ。波の高さはたかだか六フィートしかないとしても、君はその分の高さを落下する間に四分の一マイルか半マイルも滑っていくことができるんだ。海底にぶつかることなく、ね。というのも、波は水の動揺や運動の力が次々に伝達されているにすぎないからだ。波を構成する水はたえず入れ替わり、新しい水が波と同じ速さで持ち上げられては波になっていく。君は波における元の位置を保ったまま、次々に盛り上がっては波に加わってくる水の上を滑り降りていくことになるわけさ。きっかり波の速さと同じスピードでね。波の速さが時速十五マイルなら、君も時速十五マイルで滑っていくんだ。君と浜辺までの間には四分の一マイルほどの海面がある。波が進むにつれて、この海の水が積み重なって波となり、後は重力の作用で下降していく。滑っていく間も、水が自分と共にずっと動いていると思うんだったら、もし滑りながら腕を水に突っこんでこいでみればいいさ。君は驚くほどの早く水をかかなければならなくなるだろうよ。というのも、そこにある水は君が前進するのと同じ速さで後方に落ちていくからだ。

お次は波乗りだ。規則には常に例外がある。波を構成する水自体が前へ進むのではないというのは本当だ。だが、いわゆる海に送られるという現象は存在する。走っていてつまづくと体が前に投げだされるように、立ち上がって勢いあまって巻き波になりかけた水は、なおも前進しようとする。崩れ落ちる波の下敷きになってしまったら、ものすごい力で打ち倒されて海中にしずめられ、息をしようと三十秒ほども口をぱくぱくやるはめにもなる。波の頂点にある水は下の方にある水の上に乗っかっている。が、下の方の波が海底にぶつかり動きが止まってしまっても、上の方の水はそのまま前進しようとする。下の波はもう支えることができない。そうなれば、上の方の波の下には空気しかないことになり、水は重力の力で落下していく。と同時に下の方の遅れた波とは離れて前方へ投げだされてしまう。この点が、サーフボードに乗るのとソリで斜面をおとなしく滑り降りるのとの違いだ。実際に、巨人のタイタンの手でつかまれて、浜辺に投げ飛ばされるような感じなのだ。

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腹ばいになったり、立ち上がったり

ぼくは涼しい木陰を出た。海水パンツをはき、サーフボートをかかえた。ぼくには小さすぎたのだが、だれも何も言わないし、気がつかなかった。ぼくは、浅いところで、カナカの少年たちに加わった。そのあたりは波も小さくて、いわば波乗り幼稚園といったところか。少年たちをじっと観察する。よさそうな波が来ると、彼らはさっとボードに腹ばいになり、足を必死にばたばたさせ、そのくだけ波に乗って岸までいく。ぼくも真似をしてやってみた。観察し、同じようにやってみたが、まったくうまくいかない。波はあっというまに通り過ぎてしまい、ぼくだけとりり残されてしまう。何度も何度もやってみた。連中の倍ほども足をばたばたさせたが失敗した。周囲には半ダースほどの子供がいた。みんな、いい波がくるとボードに飛び乗り、川を行き来する蒸気船のように足を動かして行ってしまい、ぼくだけみっともなく残される。

ぼくは丸一時間もやってみたが、波に乗って岸に向かうことはできなかった。そうこうするうちに、一人の友人がやってきた。何かわくわくするようなものを求めて、仕事で世界各地を旅行しているアレクサンダー・ヒューム・フォードという男だ。そして、ワイキキでそれを見つけたのだ。オーストラリアに行く途中で、波乗りがどんなものか体験しようと一週間ほど立ち寄るつもりが、そのとりこになってしまったのだ。彼はひと月のあいだ、毎日波乗りをしていたが、飽きた様子はなかった。その彼が厳かにこう言った。「そのボードから降りなよ」と。

「すぐに捨てろ。自分が何に乗ろうとしているかわかってんのか。そのボードの鼻先が海底にでも刺さったら、脳天かちわられるぜ。ほら俺のボードを使えよ。これが大人用のサイズってやつだ」

スナーク号の航海 (26) - ジャック・ロンドン著

第VI章

最高のスポーツ

それが、いわゆるロイヤル・スポーツ、地球上で生来の王たちが行っている最高のスポーツだ。ワイキキビーチでは、はてしなく広がる海から五十フィート足らずのところまで草が生え、木々も潮の気配が感じられるところまで枝を伸ばしている。ぼくはその木陰に腰を下ろし、海の方に顔を向け、波が音をとどろかせて浜辺に打ち寄せては足元にまで来るのを見つめている。半マイルも沖の岩礁では、波が砕けて白い水煙をあげ、ゆっくりとした青緑色のうねりは空に向かって隆起し、巻き波となって寄せてくる。一マイルもの長さの波が無限の海の軍隊のように次から次へとやってきては飛沫をとばす。ぼくは座ったまま、いつまでも続く咆哮(ほうこう)に耳を傾け、終わりのない光景を眺めているが、激しさは泡や音でも十分に伝わってくる。この途方もなく強大な力を前にして、ぼくは自分がちっぽけでもろい存在だと感じる。自分はとても小さいと感じるし、この海に立ち向かうと思っただけで、背筋がぞくっとするような不安、ほとんど畏怖に近いものを感じた。というのも、長さ一マイルもの雄牛のような口を持つこの怪物は何千トンもの重みがあり、それが人が走るより速く海岸まで突進してくるのだ。どんな生き残るチャンスがあるというのだろう? そんな機会はありはしない。委縮させられてしまう。腰をおろし、そうした光景を眺めながら、耳をすましている。そうするには草地や木陰はとてもよい場所だ。

遠くで大きな波しぶきが宙に舞い、白い泡まじりの波頭が大きく盛り上がる。そのままオーバーハングしつつ巨大な巻き波となり、と、そこに、ふいに海神のごときものが出現した。黒っぽい人間の頭だ。その人は押し寄せてくる白濁した波頭の前でさっと立ち上がった。よく日に焼けた肩、胸、腰、手足──そのすべてがいきなり視野に飛びこんでくる。ついさっきまでずっと遠くまで広がりをみせて轟音をとどろかせていた海に、いまはもう人間がいて立ち上がったのだ。混沌の極みのような海面で必死に戦っている風ではない。波にのみこまれることもなく、このパワフルな怪物にもみくちゃにもされず、その上に立ち、さりげなくバランスをとっている。足元は泡立つ波に埋もれているが、水しぶきで見えない足をのぞけば身体の他の部分はすべて空中に出ている。陽光をあびて輝きながら、波とともに飛ぶように滑っていく。いわば、ローマ神話の守護神メルクリウス、つまりマーキュリー、褐色のマーキュリーだ。かかとに翼がはえたように、海上をすばやく駆け抜けていく。本当のところは、海に浮かんでいて、波にあわせて乗ったのだ。轟音をとどろかせながら押し寄せてくる波は、しかし、その人間を自分の背から振り落とすことはできない。その人はあわてて手を伸ばしたりはせず、落ち着いてバランスをとっている。表には感情を出さず、何らかの奇跡によって深海からいきなり彫りだされた彫刻のように、立ち上がったまま微動だにしない。そうして、押し寄せてくる大波に乗ると、かかとに翼でもついているように、そのまま陸の方に向けて飛ぶように滑っていく。波は嵐のような音を立てて激しく泡立ちながら崩れ、浜辺まで寄せては消えていく。するとそこには、熱帯の太陽で見事に日焼けした一人のカナカが立っているのだ。数分前には四分の一マイル離れたところにいたはずだったが、「牛の口のような砕け波にかみつき」それに乗ってやってきたのだった。岸辺の木陰に座ったぼくと目が合う。すばらしい肉体を波に運ばせてきた腕前に誇りを持っているのが見てとれた。カナカ、この地の先住民だ──だが、それ以上に人間だ。波乗りを会得した、生物の長たる人間の一人なのだ。

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迫りくる波

ぼくは座ったまま、あの運命の日におけるトリストラムと海との最後の対決に思いをはせる。さらに、カナカはトリストラムがやったことのないことをやってのけたという事実、トリストラムが知らなかった海の喜びを知っているということも思う。思いはさらに続く。ビーチの涼しい木陰にこうして座っているのはとても気持ちのよいものだが、しかし、自分も生物の王たる人間の一人であり、カナカにできるのであれば、自分にもできるはずだ、と。さあ、行こう。この温暖な地では厄介物でしかない衣服は脱ぎ捨てよう。海に入り、海と格闘するのだ。技を身につけ、かかとに翼をはやし、自分のうちなるパワーで砕け波にいどんで勝利するため、王たる者がすべきこととして波に乗るのだ。

というわけで、ぼくはサーフィンを始めるようになった。そして挑戦し、最高のスポーツとして続けている。とはいえ、まずはこの現象を物理的視点から説明させてもらいたい。波とは動きが伝播されていくものである。波を構成している水そのものが動いて流れているわけではない。もし水自体が移動しているとすれば、小石を池に投げこむと波紋が円を描いて大きく広がっていく際に、その中心には移動した水の分だけ穴ができ、それが大きくなっていくはずだ。そうならないのは、波を構成する水自体は静止しているからだ。海の表面を微視的に見ることができれば、何千もの連続した波として伝達されてくる動揺に対して同じ水が何千回も上下動を繰り返しているのが見えるだろう。この動きが伝播されて陸の方へ向かうと想像してみよう。水深が浅くなるにつれて、波の下部の方がまず海底にぶつかり止められる。ところが、水は液体であり、波の上部は何にもぶつからず、そのまま動き続けて前へ進もうとする。波の上部は進み続けるのに、波の下方の海底に近い部分はそれより遅れるようになるが、そこで何かが起きるかというと、波の下部が前進する軍隊から脱落し、波の上部は落伍者を乗りこえて前へ進もうとして隆起し、巻き波となって轟音をとどろかせながら崩れ落ちていく。それがサーフだ。

とはいえ、スムーズな波のうねりから砕け波への変容は、海底が急激に浅くなっている場合を除き、いきなり発生するのではない。四分の一マイルから一マイルの間で徐々に浅くなっているとすると、この変容もそれに等しい距離をかけてなされることになる。そんな海底がワイキキビーチの沖にあって、それがサーフィンに適したすばらしい波を作り出しているのだ。サーファーはその崩れかけた波に乗り、そのまま陸の方へずっと、波が崩れてしまうまで乗り続けていく。

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リバイアサン号とスナーク号(左)