ヨーロッパをカヌーで旅する 16: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第16回)


黒い森を進んだマクレガーは、いよいよドナウ川源流のドナウエッシンゲンに到着します。


やっと雨があがって、夏の太陽が顔をだした。路上の水たまりに陽光がきらきら反射している。濡れたカヌーをスポンジでふき、歩いていくうちに、びしょぬれだった体も暖かくなってきた。馬も元気をとり戻し、興奮して実際に駆けだした。道は下り坂になり、太陽は明るく輝いている。森のなかで雷雨に襲われて滅入っていた気分も、ほんの十分ほどですっかり明るくなった。

どんなに厳格な禁酒主義者でも(禁酒といっても、ぼく自身は節度のある飲み方を心がけているだけだが)、こんなときはドイツの蒸留酒であるキルシュヴァッサーを軽く一杯引っかけても許せる気になるのではあるまいか。というわけで、「禁酒している者」はぼくの他にはいなかったので、ぼくは御者とその使用人にたしなむ程度に酒をふるまい、馬には飼料のブランマッシュを与えてブラシをかけた。これで、ぼくらはお互いに満足し、また元気に歩を進めた。

薄暗くなる前に、ドナウエッシンゲンに入った。小さな橋を渡っているとき、ドナウ川については、この水源からそのままカヌーで下ることができるとわかった。というのも、源流域の流れの中央では水深が三インチ(7.5センチ)以上あったからだ。五分もすると、カヌーを荷馬車から下ろす前から周囲には人だかりができた3。

まず、ぶらぶらしている暇な連中がやってきた。それから、もう少し人見知りする町の人たち。さらに、素性のわからない大勢の野次馬たち。この連中がどういう人たちなのか、最初はよくわからなかったが、この町で翌日にこの地方を対象とする合唱の大会が開催されるのだという説明を聞いてやっと合点がいった。六百人もの人々がやっていてきているのだが、全員がそれなりの身なりと立場の男性で国の広範囲から集まっている。この合唱大会のために、町はお祭り状態だった。宿はどこも満室だった。が、橋の近くにある「ポスト」という宿の人のいいご亭主が立派な部屋を提供してくれた。カヌーの方は、馬車置き場の天上から吊り下げさせてもらった。合唱団のテノールやバスの連中が食事中にしゃべる声はすさまじい音量だった。ぼくのロブ・ロイ・カヌーについて、いろんなことが何度も繰り返し話題になっていた。ぼくらの御者氏は別の部屋に聞き手を集め、カヌー旅の何たるかを講義したほどだ。

翌日、この町を見物して歩いたが、それだけの価値はあった。どこもきれいに飾りたてられていたのだ。家という家はきちんと片付けられ、どの通りにもゴミ一つなかった。質素な窓からは木の枝や花飾り、肩掛けやキルトの布や毛布が吊るされているのが見えたが、裕福な家々には、いろんな旗や飾りリボン、アーチに紋章、花輪などが飾られていた。おのぼりさんのような大勢の人々が通りをぞろぞろ歩き、太鼓やトロンボーンの楽隊と押し合いへし合いしながら、でこぼこの舗道をてんでんばらばらな様子で行進している。ときどき、四頭立ての馬車がガタガタ音を立てて遠くの合唱団の人々を運んでくるたびに大歓声が巻き起こった。合唱団の人々は、座席の代わりに並べた袋と袋のすき間に四本の松の木を柱として立てて草花でおおった屋根をつけた長い四輪馬車に乗っているのだが、座席には座らず立ち上がっていて、大きな声で叫び、歌い、掲げた旗を振っている。何百人もの見物人たちは一本調子の大声で「ドイツ万歳」と叫んだりしている。

原注
3: でこぼこした山道を進む長旅で、カヌーをバネのない荷車に固定するため、ぼくはさまざまな方法を試みたが、最善の方法は、長い荷車の上に二本のロープを張り、その上にカヌーを載せることだと確信するにいたった。ロープが緩衝材の役割を果たし、振動をやわらげてくれるのだ。カヌーが前後に動かないように、船首につけた牽引用のロープは前後方向にしっかり固縛しておく。ワラ束を下に敷いても、砂利道や車輪の跡の轍(わだち)が残ったでこぼこ道を数マイルも進むうちに外れてしまう。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 15:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第15回)

 

ライン川源流域の川がカヌーには適していないと知ったマクレガーは、山間部にあるティティゼー湖にカヌーを浮かべることにした。その湖にはイエス・キリストを処刑したピラトの亡霊が潜んでいるという言い伝えが残っていて、生きて戻れないぞと地元民に脅されるが、それを尻目に湖へと漕ぎ出す。


もちろん、そのおかげで決心がついた。さわやかな朝で、霧がかかってはいたが、ぼくは小石まじりの岸辺からカヌーを漕ぎ出した。ざっと数えて少なくとも八人の地元民がかたずを飲んで見守っていた。数マイルを漕いだが、とても快適だった。カヌーは水面からの高さがないので、遠く離れるにつれてカヌーそのものは見えなくなる。「水面に浮いた状態で座った人間が、顔のあたりでパドルを振りまわしているように見えた」だろう。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 3:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第3回)


長い間ずっと観光地から観光地へという団体旅行を繰り返していても十分に楽しいという人はいる。もう一歩踏みこんだ旅がしたいと思う人々は、ブラッドショー版のこみいった鉄道時刻表を眺めながら旅のプランを練り、大型スーツケースやバッグに帽子を入れる箱やステッキ持参で、お仕着せではない旅を楽しむわけだが、夜汽車で海外に到着するときには、あれこれ手配する必要があるし、知らない町でどのバスに乗るかも決めなければならない。ほっとできるのはホテルの寝室にたどり着いたときで、ため息まじりに「やれやれ、どうやら無事に着いたぞ!」と叫ぶわけだ。

だが、山々や洞窟、教会や美術館、廃墟や戦場をたっぷり見てまわり、経験を重ね、いろんなことを学んでくると、旅では楽しみよりも心配が先に立つようになり、以前に駆け足でながめてまわった国々での自然の景観やその地の人々の生活をもっと知りたいと思ったりするようになる。

ヨーロッパ大陸の大小の河川はイギリスの旅行者にはほとんど知られていないし、その美しさや流域の生活すべてをきちんと見てまわった人もいない。

ガイドブックをなぞって町から町へと移動する旅で、旅行者はこうした河川を渡ってはいるし、水辺の景色に感嘆もいるのだが、それきり忘れてしまう。また蒸気船に乗って夕方まで堂々とした大河を下ったり、川沿いに走っている鉄道に揺られて汽笛を聴きながらトンネルとトンネルの間で愛らしい川をちらっと眺めたりすることもあるが、そういうものはすぐに通りすぎてしまう。

だが、豊かで美しい風景は、旅行者には関係なくそこに存在していて、新鮮で宝石のような生活や人々が、訪れてくれる人を待っているのだ。そういうところは地図に描かれていないし、ラベルもなく、どんなハンドブックにも掲載されていない。そういう宝に遭遇する喜びは、そのためにエネルギーをついやす勇気を持つ旅行者のみに与えられるのだ。

ぼくらはカヌーに荷物を積みこみ、この川という新しい世界の旅に出ることにした。こうしたことすべてがそろってはじめて「人間とその苦闘の物語」*1になる。

ところで、服装はどうだったか、説明しておこう。

今回の旅でのぼくの服装といえば、カヌーに乗っているときは、灰色のフランネル地のスーツを着ていた。また別に買い物や日曜に着て出かけるような普通の軽装の服も持っていた。

「ノーフォーク・ジャケット」は、ブラウスのようなゆったりとしたフロックコートで、肩にトレンチコートのようなヨーク、腰にベルトがついていて、ポケットが六個もある(原注3)。このすばらしい新流行のコートのポケットそれぞれに何か品物を入れ、ケンブリッジの麦わら帽子、キャンバス生地の渡渉靴、青い眼鏡、防水のオーバーコートを用意し、加えて、日よけ代わりにも使える予備の前帆(ジブ)があれば、雨でも晴れでも、深みでも浅瀬でも、空腹でも退屈していても、きっと旅の一日を存分に楽しむことができる。

まず四時間ほど漕ぎ、休憩したり流れにまかせて漂ったり、本を読んだり帆走したりする。その後でまた三時間まじめに漕ぐ。それから、川で泳いだり宿屋で入浴して着替えたり、散歩を楽しむ。そうやって夕方にはまた気分を一新し、うまい食事に舌鼓をうちながらバカ話で盛り上がったり、本を読んだり、絵を描いたり、手紙を書いたりしてから寝るというわけだ。

イギリスが選挙で盛り上がり、国会議員が座席を奪い合い、弁護士が忙しそうに駆けずりまわり、ウインブルドンで最後の議席が決まる七月末には、旅の用意はすべて整い、気温も十分に暑くなっていた。さあ、ロブ・ロイ・カヌーで旅に出るときだ。


原注3
二度目、三度目、四度目の航海にも、これと同じ服装で出かけたが、ボタン一個欠けることはなかった。

 

訳注
*1:人間とその苦闘の物語 - ローマ時代のラテン語の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』の一節をもじったもの

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