スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (20)

同じことをイギリスでやってみれば、すぐに反駁されるだろう。とんでもない、自分の生活はひどいもので、あなたの方が恵まれてますよ、と。フランスのよいところは、だれもが自分は恵まれているとはっきり認めることだ。彼らは皆、自分の恵まれている点について承知していて、それを他人にも示すことに喜びを感じている。これは信条として確かによいことだ。自分の境遇をなげくことをいさぎよしとしない国民だが、ぼくに言わせれば、それも雄々しいと思う。ぼくは、イギリスで立派な立場で裕福でもある女性が、自分の子供について「貧乏人の子」と卑下するのを聞いたことがある。相手がウェストミンスター公で、自分のことを卑下したとしても、ぼくならそんな風にはとても言えない。フランス人はこうした独立の精神に富んでいる。おそらくそれは彼らが共和制と呼んでいる制度によるものだろう。というか、本当に貧しい人がとても少ないので、卑下して泣き言をいっても誰にも相手にされないからなのかもしれない。

荷船の夫婦は、ぼくが彼らの生活ぶりをほめるのを聞いて喜んでくれた。あなたが私たちの生活をうらやましいというのは、よくわかります、あなたは間違いなくお金持ちでしょうから、お城のような船を作って運河を旅することができますよ、と。そうして、ぼくを自分たちの住宅でもある荷船に招待してくれた。狭いところですがと謙遜しながら船室に招き入れたが、そういうところまで飾り立てるほどの金持ちではないということなのだろう。

「ここに暖炉がほしいんですよね、こっち側に」と、夫が説明した。「そうすれば、中央に机と本などすべてが置けるんです。そうなれば言うことなし――そうすれば、すっかりよくなるはずです」 それから、もうそうした改築を実際に行ったように彼は部屋を見まわした。想像の中で船室を美しく飾ったりするのは、これが初めてじゃないことは明らかだった。またお金ができたときには船室の中央に机が置かれることになるのだろう。

妻はカゴで三羽の小鳥を飼っていた。たいした鳥じゃない、と彼女は説明した。立派な鳥は高価だからだ。彼らは去年の冬にルーアンでオランダ産の小鳥を探したそうだ。(ルーアンだって? とぼくは思った。犬や小鳥を飼い、煮炊きをする煙突のついた住居でもあるこの船で、そんなところまで行ったのだろうか? そして、サンブル運河の緑の平原のときと同じように、セーヌ河畔の断崖や果樹園の間に船をとめて過ごしたのだろうか?) この夫婦は去年の冬はルーアンでオランダ産の鳥を探したそうだが――それは一羽十五フランもしたらしい――なんと、十五フランとは!

「こんな小さな鳥が、ですよ」と、夫はつけ加えた。

ぼくがずっと褒め続けていたので、この人のよい夫婦は卑下することはやめて、インドの皇帝と皇后のように、荷船や快適な生活について誇りをもって語り出した。こういうのをスコットランドでは聞いていて心地よいと言うが、聞いている方も、世の中も捨てたものじゃないという気になってくる。もし人の自慢話が、架空のものではなく実際にその人が持っているものについてであれば、それを聞いている側もどんなに元気づけられるかを知っていれば、人はもっと自由にもっと優雅に自慢するようになるのではないだろうか。

それから、夫婦はぼくらの航海についてあれこれ質問した。彼らはとても共感したようで、自分たちの荷船を捨てて、ぼくらと同行したいと言わんばかりだった。こうした運河を航行する船で暮らしている人々は、定住する気持ちもまだ固まりきっていない放浪の民だからだろう。とはいえ、定住したいという気持ちもあることは、かなりかわいらしい形で露呈した。妻の方がふいに眉をひそめたのだ。「でもね」と彼女は言いかけて口をつぐみ、それからまた、ぼくに独身かと聞いた。

「そうです」と、ぼくは言った。
「連れのお友達は?」

彼も結婚していなかった。

それが――幸いだった。彼女は、妻を家に残して夫だけが旅に出るというのにはがまんできなかったのだ。だが、妻帯者でなければ、ぼくらのやっていることは何も問題ないわけだった。

「世の中を見て歩くことほど」と、夫が言った。「価値のあることは他にないですよ。熊のように自分の生まれた村にしがみついている人は」と、さらに語を継ぐ。「何も見ていないんです。そうやって死を迎えるわけです。何も見ないまま、ね」

この運河に蒸気船でやってきたあるイギリス人のことを、妻が夫に思い出させた。

「イテネ号のモーンスさんかな」と、ぼくは口にしてみた。

「その人です」と、夫が同意した。「奥さんと家族、それに召使いも一緒でした。水門では必ず陸に上がって村の名前を聞いていました。船に乗っている者や水門の管理人にね。そうしてメモをとるんです。何でもかんでもメモってましたっけ! 私が思うに、賭けでもしてたんでしょうね」

ぼくらの航海については賭けだと説明すれば納得してもらえる。だが、メモをとるというのは、別の理由があるような気もした。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (19)

サンブル運河とオアーズ運河: 運河を航行する船

翌日、ぼくらは遅くなってから雨の中を出発した。判事は傘をさして水門の端まで見送ってくれた。スコットランド高地をのぞけば、めったにこうなることはないのだが、ぼくらは今は天候についてはおそろしく謙虚になっている。ちらっとでも青空が見えたり日が差したりすると、それだけで鼻歌を歌いたい気分になった。ぼくらにとって、豪雨でなければ、その日はほぼ晴天とみなされるのだ。

運河では次から次にやってくる荷船が長い列をなしていた。その多くは、タールで固めた上に白や緑の塗料を塗ってあり、こぎれいで整頓されていた。鉄製の手すりがついていたり植木鉢が花壇のように並べてあったりもしている。スコットランドのキャロン湖付近で育った子供と同じように、船の子供たちも雨が小降りになると甲板で遊びまわっていた。男たちは船べりごしに釣り糸を垂れ、傘をさして釣っている者もいた。女たちは洗い物をしていた。すべての船で雑種の犬が番犬として飼われていた。そうした犬はぼくらのカヌーを見ると吠えまくり、船上を端まで追ってきて、次の船にいる犬に知らせて交代するのだった。その日は漕いでいる間ずっと、通りに立ち並ぶ家のように続いている百隻からの荷船とすれ違ったはずだが、そのうちのどれ一つとして、ぼくらを楽しませないものはなかった。ちょっとした動物園のようだなと、シガレット号の相棒が言った。

こうした運河に並んでいる船でできた、ささやかな村のようなものは、なんとも奇妙な印象をもたらした。植木鉢や煙の出ている煙突、洗濯物や食事の様子など、その土地の景色として根づいているように思えるのだが、その先にある水門が開くと、次々に帆を揚げるか馬に引かれて、てんでにフランス各地に散っていくのだ。一時的に形成されていた集落は家ごとに切り離されて、また散っていく。今日サンブレ運河やオアーズ運河で一緒に遊んでいた子供たちは、それぞれの家族と共に散り散りになり、次はまたいつどこで出会うことになるのだろうか?

しばらく前から、こうした荷船がぼくと相棒の話題の中心を占めていて、ぼくらも年をとったらヨーロッパの運河に船を浮かべて生活しようというような話をしていた。とてものんびりした旅になるはずだ。蒸気船に引かれて駆け抜けるように進んだり、小さな分岐合流地点で引いてくれる馬が到着するまで何日も待ったりするのだ。ぼくらは膝まで届く白いひげをはやし、年齢を重ねた者に伴う威厳をたたえて甲板を行ったり来たりしていることだろう。どこの運河でも、ぼくらの船ほど白いものはなく、ぼくらの船ほど鮮やかなエメラルドの色をしているものがないというように、ぼくらは絶えずペンキを塗ったりして忙しくしているはずだ。船室には本やたばこ入れや、十一月の日没ほどにも赤く四月のスミレほどにも香り高いブルゴーニュ産のワインが置かれている。リコーダーのようなフラジオレットもあるずだ。シガレット号の相棒は星空の下でそれを手に陶然とするような音楽を奏したり、それを脇に置いて――昔ほどの美声ではなく、ところどころ声をふるわせながら、あるいは自然な装飾音と感じられるものを織り交ぜながら――豊かで厳粛な賛美歌を歌ったりする。

こうしたことはすべてぼくの想像だが、こうした理想の家の一つに乗って外国を旅してみたいと思った。船は次から次へと通るので、選ぶのに不自由はない。また、そうした船では、きまって犬がぼくのような放浪者に吠えかかってくる。とはいえ、やがて感じのよい老人とその妻がぼくの方を興味深そうに眺めているのが目に入った。それで彼らに挨拶をし、カヌーをそばに寄せた。まず彼らの犬について、猟犬のポインターのようですねといった話をした。それから奥さんが育てている花を褒め、彼らの送っている生活がうらやましいと言ってみた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (18)

広く知られていることだが、ロバの尻をたたいて急がせることほど無駄なことはない。ロバの尻をたたいて効果があるかというと、どんなにムチをふるったところで、鈍重なロバという生物がそれに応じて歩を早めることはないと、ぼくらは知っている。しかし、こういう皮をはがれたミイラという、なんとももの悲しい状態では、肉体のない皮は鼓手のバチさばきに応じて鳴り響き、ドンドンという太鼓の音の一つ一つが人の心に、さらには心の奥底にある狂気をゆさぶって、大きく言えば英雄的行為への意欲がかきたてられることになる。それには、生きているときに尻をひっぱたき、こき使ってきた人間に対するロバの復讐といった意味合いもあるのではないだろうか? ロバはこう言うかもしれない。昔から人間は山道や谷間の道でロバを叱咤し酷使したが、ロバとしてはそれに耐えるしかなかった。死んでしまって太鼓の皮になると、そうした田舎道ではほとんど聞こえなかった尻をたたく音が、軍隊の旅団の先頭に立ち、戦意を高揚させる音楽を奏でることになる。ロバの皮でできた太鼓をたたくたびに、人間は自分の仲間が戦闘でよろめき倒れていくのを見ることになるだろう、と。

太鼓の音がカフェを通り過ぎると、ぼくの連れもぼくも眠くなってきたので、ホテルに戻った。ホテルはすぐ近くだった。ぼくらはこのランドルシーという土地にはあまり関心がなかったが、ランドルシーの町の方はぼくらに無関心というわけではなかった。この土地の人々は朝から晩まで雨や風がやむたびに、ぼくらの二隻のボートを見にやってきていたそうだ。町の印象からすると多すぎる気もするが、何百人もの人々が石炭小屋に置いてあったぼくらのボートを熱心に見物していたらしい。ポンにいたとき行商人だったぼくらは、ランドルシーに着くと一晩で勇敢な若者に祭り上げられていた。

カフェを出ると、治安判事だという人物がホテルの前まで追いかけてきた。この役職はスコットランドでいう地方裁判所判事といったところらしい。氏は名刺を差し出し、いかにもフランス人らしく、スマートかつ優雅に食事に誘ってくれた。わが町ランドルシーの名誉のためですと、判事は言った。ぼくらが来たからといって町の名誉になるわけはないと知ってはいたが、これほど丁重な招待を断るのは不作法というものだろう。

判事の家は近くにあった。設備の整った独身者向けの住宅で、壁には古い真鍮の奇妙な暖房用のあんかがたくさんかけてあった。入念に彫刻細工が施されたものもあった。壁の装飾にするとは収集家らしい魅力にあふれた発想だ。これまでにどれほどの数の人が寝るときにこのあんかのお世話になったのだろうと思わずにはいられなかった。どんないたずらがなされ、キスがかわされたりしたのだろう。さらに、死の床でどれくらい無駄に使われてきたのだろう、と。こうしたあんかが口をきけるとすれば、どれほど滑稽で、どれほど不作法で、どれほど悲劇的な場面が繰り広げられたかを語ってくれるに違いない。

ワインはおいしかった。ワインを褒めると、判事は「まあまあですかね」と言った。イギリス人はいつになったら、こういう洗練されたもてなしができるようになるのだろうか。こうしたもてなしの心が日々の生活を豊かにし、なんでもない瞬間に彩りをそえるのだから、学ぶ価値がある。

その場所には判事の他にランドルシーの住人が二人いた。一人は忘れてしまったが何かの徴収官で、もう一人はこの土地の公証人会の会長だそうだ。だから、ぼくら五人は多かれ少なかれ法律に関係する立場だということになる*1。となれば話が専門的になっていくのは避けられない。ぼくの相棒は救貧法について偉そうに論じた。その少し後で、ぼく自身は私生児についてスコットランドの法律の話をするはめになった。自慢じゃないが、それについては知識がまるでないのだ。徴収官と公証人はどちらも既婚だったので、そんな話題をもちこんだことで独身の判事を非難した。フランス人もイギリス人も男は皆そうなのだが、判事はそれについて、いかにもうれしそうに自分のことじゃないよと言った。男という者はすべからく、気を許している仲間と一緒のときに、ちょっと女にだらしないと思われたがるというのは、なんとも不思議なことだ!

夜がふけるにつれて、ワインはますますうまく感じられてきたし、蒸留酒はワインよりもっとよかった。この人々は親切だったし、ぼくらのカヌーの旅全体を通しても最高の瞬間でもあった。結局のところ、判事の家に招待されるということは、それなりに公的なものではないだろうか? 加えて、フランスがなんとも偉大な国であるということに思いをいたせば、遠慮なく飲み食いさせてもらってもかまわないというものだ。ぼくらがホテルに戻ったのは、ランドルシーの町が眠りに落ちてからずいぶん経ってからで、城壁の番兵はすでに夜明けに備えている時刻だった。

脚注
*1: スティーヴンソンはエジンバラ大学で土木工学を学んだが、途中で専攻を法律に変えて弁護士となった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (17)

ランドルシーにて

ランドルシーでは、雨はまだ降っていて、風も吹いていた。だが、ぼくらが見つけたホテルの部屋にはベッドが二つあり、たくさんの家具が備えつけてあった。水差しにはちゃんと水が入れてあったし、食事もきちんとしていて、ワインも本物だった。前の宿では行商人として扱われたし、翌日は一日ずっと悪天候にたたられた後だったので、こういう快適な環境では、心に暖かな日差しがふりそそいだように感じられた。夕食はイギリスの果実商と一緒になったが、ベルギーの同業者と旅をしていた。夕方のカフェでは、このイギリス人が惜しげもなく酒に金を使うのを見た。なぜだかわからないが、なんだかうれしくなった。

ランドルシーには当初予定していたより長く滞在した。というのも、翌日の天気が大荒れだったからだ。ここは、一日骨休みに選ぶような場所ではない。ほとんどの場所が要塞の一部となっているからだ。城壁の内側には数棟の住宅と長く続く兵舎があり、教会が一つあることで、ともかくも町としての体裁を整えていた。商売もほとんど行われていないらしく、ぼくが六ペンスの火打ち道具を買った店の主人は、よほどうれしかったのか予備の火打ち石をおまけでポケットに詰めてくれた。ぼくらが興味を持てる公共の建物といえば、ホテルとカフェだけだった。とはいえ、教会には行ってみた。ここにはクラーク元帥なる人物が埋葬されていた。しかし、ぼくらは二人ともその偉大な軍人のことを耳にしたことがなかったので、不屈の精神の持ち主が眠っている場所にいっても退屈なだけだった。

軍隊が駐屯している都市ではすべて、衛兵を招集したり起床ラッパを吹き鳴らすといったことが、ふだんの生活にロマンチックな彩りをそえることになる。ラッパや太鼓、横笛はそれ自体がすばらしいものだが、軍隊の行進や戦争に伴う苦難を想起させもするので、心をかきたてられるものがある。しかし、戦闘がほとんどないランドルシーのような町では、太鼓やラッパの音はそれだけ目立つし、実際にも、それしか記憶に残っていない。こういうところこそ、暗い夜に行進する軍隊と鳴り響く太鼓を聞くのにふさわしい場所といえるのかもしれない。ここは欧州にある軍隊駐屯地の一つであり、いつの日か大砲の煙と轟音が鳴り響き、戦闘で重要な場所になることがあるかもしれないと思ったりもした。

いずれにしても、太鼓は戦闘意欲をかき立てるし、生理的にも目を見張るような効果がある。扱いにくい形をして滑稽でもあるが、音をたてる道具としては際立っている。太鼓はロバの皮で覆われていると聞いたことがあるが、そうだとすれば、なんとも皮肉がきいているではいか。ロバという生き物は、生きている間は、現代ではリヨンの八百屋に、そしてかつての傲慢なヘブライ人の予言者に酷使されたりしているが、それだけでは十分ではないとでもいうように、ロバが死ぬと臀部から皮がはぎ取られ、なめされて太鼓に張られ、夜になると欧州の軍隊が駐屯しているあらゆる町の通りで連打されることになるのだ。アルマやスピシュラン*1の高地や、死というものが赤い旗をひるがえし大砲の音を轟かせて存在を誇示しているような場所では、鼓手は、この平和を好む従順なロバの腰からはぎとった皮を張った太鼓を激しく打ち鳴らしながら、青ざめた顔で、倒れた同志を乗り越えていかねばならないのだ。

 

脚注
*1: アルマやスピシュラン - アルマはクリミア戦争(1853年~1856年)の激戦地、スピシュランは普仏戦争(1870年~1871年)の激戦地。この紀行が出版されたのは1878年で、普仏戦争が終了から十年も経過していない。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (16)

ぼくらがたどっていく水路がずっと森の中にあったらよかったのにと思う。木々は人間の社会そのものだ。オークの老木は宗教改革の前からずっとそこに立っていて、多くの教会の尖塔よりも高いし、そこらの山々より堂々としている。しかも生きていて、ぼくらと同じように病気にもなれば死ぬこともある。これほど歴史を感じさせてくれるものは他にないのではないだろうか? そういうおびただしい数の巨木が何エーカーにもわたって根を張り、木々の頂の緑は風にそよぎ、その足下では力強い若木も伸びてきていて、森全体が健康的で美しく、光に色彩をもたらし、大気に芳香を漂わせている。これほど立派な自然というものが他にあるだろうか? ハイネは魔術師のマーリンのように、ブロセリアンデに生えているオークの木の下に埋葬してほしいと願った。ぼくはといえば、木が一本ではちょっとという感じだが、林のように生い茂り成長していく熱帯のバニヤン樹であれば、親木の根元に埋めてほしい。そうすれば、ぼくの体にあったものが木から木へと伝えられ、ぼくの意識は森全体に広がり、多くの緑の尖塔が共通した心を持つことになる。すると、森は自分のすばらしさと威厳に喜びを見いだすかもしれない。そうした広大な霊廟で、千匹ものリスが枝から枝へと飛び移り、起伏した緑の森を小鳥が飛び交い、風が吹き抜けていくのを、今から感じることができる気がする。

だが、悲しいかな! モルマルの森は小さくて、ぼくらがその周囲をめぐったのは短い間だった。そして、残りの時間は土砂降りの雨で、突風まじりの雨もたたきつけてきたので、こんな気まぐれでひどい天気にはうんざりだ。舟を抱えあげて水門を超えなければならず、ズボンの裾をまくり上げたようなときに限って雨が強くなるというのも不思議だった。ずっとそんな調子だった。こんなことが続くと、自然が嫌だという気持ちも生まれてくるというものだ。どうして五分前とか五分後に降ってくれないのか、わざといやがらせをしているとしか思えない。シガレット号の相棒はカッパを持っていたので、そういうことにも対応できたが、ぼくの方は濡れるにまかせるしかなかった。ぼくは自然は女だということを思いだした。相棒はぼくの愚痴にも鷹揚に耳を傾け、皮肉な調子で相槌をうった。相棒は、これを潮の満ち引きにたとえて、「月が不毛な虚栄心にかられて干満を起こしているのでなければ、カヌーに乗った者にいやがらせしているんだろう」と言った。

ランドルシーまでもう少しという最後の水門で、ぼくらは先へは行かず、土手にあがり、雨に打たれたまま座り、パイプで一息つこうとしていた。すると、威勢のいい老人がやってきて、ぼくらの旅についてたずねた。この人は悪魔だったんじゃないかと思う。同好の士だと感激したので、ぼくはぼくらの旅について、あらいざらい話した。すると、その老人は、こんな馬鹿な話は聞いたことがないと言った。どこまで行っても水門、水門、水門と水門ばかりだぞ、知らなかったのか? この季節には、オアーズ川は水量が少なくて干上がってもいるらしい。「汽車に乗りなよ、兄ちゃんたち」と彼は言った。「そうしてお父ちゃんお母ちゃんが待っている家に戻んなさい」 この男の言葉は悪意に満ちていたので、ぼくは呆然として黙ったまま見つめているしかなかった。樹木だったら、こんな風な話しかたをすることはないだろう。やっとのことで、ぼくは反論をしぼりだした。ぼくらはずっと遠くのアントワープから来ているし、あんたが何を言おうと、旅を続けるつもりだ、と。そうとも、他に理由がなかったとしても、あの爺さんができないと言ったからには、ぼくらは最後までやり遂げるしかない。すると、この元気な老紳士はぼくをあざ笑い、カヌーのことをあれこれ言い、頭を振りながら去っていった。

ぼくがまだむかっ腹を立てているときに、二人連れの若い男がやってきた。雨具を着ずにずぶぬれのセーター姿のぼくと、シガレット号でカッパを着た相棒を見比べ、ぼくをシガレット号の相棒の使用人だと思ったようで、ぼくの立場と主人はどういう人だということについて、たくさんの質問をしてきた。ぼくは言葉には出さなかったが、それにも腹を立てた。いい人だけど、こんな馬鹿げた航海をするなんてね、とぼくが言うと、「いや、そんなことないよ」と、一人が言った。「そんなこと言っちゃだめだよ。ばかげてなんかないし、とても勇敢だよ」 この二人はぼくを元気にするために送られてきた二人の天使だったんじゃないかと思う。主人に不満を抱いている使用人のふりをして、例の老人の嫌みをそのまま話し、この立派な若者たちに、それがハエかなにかを追っ払うように否定されるのを聞いていると、沈んだぼくの心もまた軽くなった。

ぼくがそのことをシガレット号の相棒に話すと、彼は「やつらはイギリスの使用人の振るまいを何か勘違いしたんだろうな」と、そっけなく言った。「だって、水門じゃ、お前は俺を動物みたいに扱ったじゃないか」

それは事実だ。それほど老人に言われたことが悔しかったのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (15)

サンブル運河 - ランドルシーへ

朝、ぼくらが屋根裏部屋から降りていくと、女主人は玄関の扉の裏側に置いてある水を入れた二つのバケツを示し、「それで顔を洗って」と言った。ぼくらはそれで顔を洗った。ジリヤール夫人は玄関前の石段で一家の靴を磨いていた。夫のエクトルさんは陽気に口笛を吹きながら、その日の売り物の商品を整理して携帯用の戸棚にしまっている。荷馬車にはこういう棚が積んである。夫婦の子供はイギリスでウォータールー・クラッカー*1と呼ぶかんしゃく玉を床に投げつけていた。

ウォータールーはフランス語でワーテルローのことだが、ちなみにフランス語ではかんしゃく玉を何と言うのだろう。アウステルリッツ・クラッカー*2だろうか。物事にはいろんな見方がある。サウサンプトン経由で汽車に乗ったフランス人が、ウォータールー駅で降り、馬車でウォータールー橋をわたる羽目になったそうだ*3。たぶん母国に帰りたくなっただろう。

ポン自体は川の上にあるが、陸を歩けばクアルトから十分で着く。ところが、水路を行くと延々と六キロもあった。ぼくらは荷物を宿屋に残したまま、カヌーを置いたところまで雨に濡れた果樹園を通って歩いて行った。子供たちが何人か見送りにきていたが、ぼくらは昨日のような不可思議な存在ではなくなっていた。金色の夕日をあびて登場したのに比べると、今朝の出発はずっと地味で味気なかった。ぼくらが到着したときは幽霊が出現したみたいなものだったのだろうが、そういう謎めいた雰囲気は消えていかざるをえない。

バッグを取りに宿屋までカヌーで戻ると、ポンの宿屋の人々はびっくり仰天した。二隻の瀟洒な小舟それぞれに英国国旗がひるがえり、ニスを塗り磨き上げられているのを見て、そうとは知らず高貴な人たちを泊めていたのかと気づいたようだった。女主人は橋の上に立って眺めていたが、宿代をもう少し高く請求すればよかったと残念に思っていることだろう。宿屋の息子はそこらを駆けまわって、近所の人たちに面白い見世物があるぞと呼び集めている。ぼくらはたくさんの見物人に見守られながら、カヌーを漕いだ。行商人だと思ったのに、こういう紳士だったのか、というわけだ。だが、もう手遅れだ。

一日中、雨が降ったりやんだりしていたが、土砂降りになることもあった。ぼくらは体の芯までずぶ濡れになり、日が差すと少し乾いて、また雨でずぶ濡れになるといった調子だった。その合間には穏やかなときもあった。特にモルマルの森沿いを進んでいたときがそうだった。モルマルという名前は不吉な印象を与えるが、風景も香りも心地よいところだ。川沿いに広がっているこの森は荘厳な感じがした。木々の枝が川面に垂れ下がり、また上の方にもずっと葉が壁のように重なっている。森は自然が作り出した都市そのもので、たくましく害のない生物に満ち、死んだものはなく、人間が作ったものも存在しない。森の生物そのものが家であり公共のモニュメントでもあるのだ。森ほど生に満ちたものはなく、森ほど静けさに満たされたところもない。そんな場所で、ぼくら二人は、自分をちっぽけでせわしげな存在だと痛感しながらカヌーを漕いでいった。

森はたしかにあらゆる匂いに満ちている。多くの木々の匂いは甘美で、元気づけてくれる。海の匂いは粗野で攻撃的だし、かぎたばこのように鼻孔を刺激し、広々とした大洋や帆船への憧憬を誘う。森の匂いは元気をださせるという意味ではそれに似ているが、いろんな意味で、もっとやさしさに満ちている。また、海の匂いはあまり変化しないが、森の匂いは無限の変化に満ちている。一日のうちでも時間帯によって、匂いの強さだけでなく性質も変化する。森のなかを移動し、木の種類が違ってくると、また別の空気を吸っているようだ。たいていはモミの木の樹脂の匂いが優位を占めているが、森の植生によっては、もっとなまめかしい場合もある。にわか雨が降った午後、モルマルの森の空気が漂ってきたが、スイートブライヤーというバラの甘い香りにも劣らない繊細な匂いがした。

[脚注]
*1: ウォータールー(フランス語でワーテルロー) - 現在のベルギーの地名。地中海のエルバ島を脱出したナポレオンが再起し、1815年にイギリスを含む連合軍やプロイセン軍と戦って決定的な敗北を喫した場所。
*2: アウステルリッツ - 現在のチェコの地名。1805年にナポレオンがオーストリアとロシアの連合軍を破った場所。
*3: ウォータールー駅/ウォータールー橋 - ワーテルローの戦いの戦勝記念に、イギリスではロンドンにある橋の名前がワーテルローにちなんでウォータールー橋に改称された。その後、その橋の近くにできた駅もウォータールー橋駅と命名された。なお、現在は路線も名称も当時と比べると変化している。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (14)

行商人と誤解されたことについて、そう傷ついたというわけではなかった。自分がそういう人たちより上品な食べ方をしたとか、フランス語の間違いだって、ちょっと種類が違うとか思ったとしても、その差が宿屋の女主人や二人の労働者にはまずわからないだろうからだ。ぼくらとジリヤール一家は、この宿屋の食堂では本質的に同じだった。エクトルさんは実際にはぼくらよりずっとくつろいでいたし、他の連中に対しても鷹揚だった。とはいえ、それは氏がロバに荷馬車を引かせていたのに対し、ぼくらはとぼとぼと歩いてやってきたということで説明がつく。たぶん、宿屋の残りの連中は、ぼくらが後からやってきた一家をとても羨望しているとでも思ったことだろう。

一つだけ確かなのは、この無邪気な一家がやってくると、誰もがすぐに打ちとけて、人間らしい交流が生まれ、会話もはずんだということだ。たとえば、この旅の商人にほいほいと大金を預けようという気にはならないが、この人はまっとうな人だとは思っている。善悪が入り混じったこの世界では、ある人に一つか二ついいところがあれば──特にその人の家族全体が快適に暮らしているのであれば──それに満足し、そうした長所以外のことについては目をつぶってもよいのではないか。さらに、もっとよいのは、長所以外のことは気にせず、うまくやっていこうと決めて、難点がたくさんあるとしても、だからといって、それがただ一つの長所を消しさるわけではないと思うようにすることだろう。

夜も更けてきた。エクトルさんは馬小屋で使うランタンをつけ、荷物を整理するために出て行った。息子は服のほとんどを脱ぎ、母親の膝の上で、それから床の上で飛び跳ね、皆の笑いを誘っていた。

「君、一人で寝るの?」と、宿屋で働いている娘がきいた。
「そんなことしないよ」と、ジリヤール氏の息子は答えた。
「でも学校では一人で寝るんでしょ」と、母親が異議をとなえる。「もう大きいんだし」

しかし、息子は、休みの間は学校じゃないと口をとがらせた。学校には寮があるんだから、と。そして、母親にキスの攻撃をして黙らせた。母親は笑っている。一緒に寝るのを一番喜んでいるのは母親なのだ。

この息子が言ったように、実際に一人で寝ることはなかった。というのも、家族三人にベッドが一つしかなかったからだ。ぼくらは二人で一台のベッドというのには頑強に抵抗し、ベッドが二つある屋根裏部屋に寝ることになった。ベッドの脇に家具があり、三つの帽子かけと一脚のテーブルがあった。コップ一杯の水すら用意されていなかったが、運のよいことに窓は開いた。

ぼくらが眠りに落ちる前に、屋根裏部屋に大きないびきが響き渡った。ジリヤール一家も二人の労働者も宿屋の人々もそろっていびきの大合唱をはじめていた。窓の外では、ポン=シュル=サンブルの上に三日月が明るく輝き、ぼくら行商人全員が眠る宿屋を照らしていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (13)

移動販売の商人

モリエールの喜劇で、召使たちが使用人部屋で上流階級の真似事をしているところに本物の高貴な人々が入ってきたときのように、ぼくらは本物の行商人と出くわすことになった。ぼくらにとって、これがつらい教訓となったのは、彼らがぼくらがそうだと思われた底辺に近い行商人ではなく、もっと立派な立場の商人だったということだ。その人たちはネズミの群れにまぎれこんだライオン、あるいは二隻の小舟の間に割りこんできた軍艦といった感じだった。もはや行商人という範疇にはおさまらなくて、荷馬車で移動販売をしている商人なのだった。

モーブージュの成功しているエクトル・ジリヤール氏がロバに荷馬車を引かせてぼくらの宿にやってきたのは八時半ごろで、威勢よく宿屋の連中に声をかけた。細身でせわしなく落ち着きのない人で、役者のようでもあり騎手のようでもあった。教育の成果は見られないものの商売に成功していることは明白だった。というのも、氏はフランス語の名詞や形容詞について頑固なまでに男性形しか使わず、夜がふけるにつれて、未来形も文法なんか無視したものになった。一緒に旅をしている妻の方は、髪を黄色いスカーフで包んだ、魅力的な若い女だった。息子はまだ四歳で、シャツを着て軍帽をかぶっていた。息子が両親より立派な服装をしているのは明らかだった。すでに寄宿制の学校に入学していたが、学校が休みに入ったので両親と一緒に旅をしているという話だった。たくさんの貴重な商品を満載した荷馬車で、お父さんやお母さんとずっと一緒に、道の両側に広がる田園風景をながめながら旅をし、村々の子供たちから羨望と驚きをもって見つめられるというのは、なんともすてきな休みのすごし方ではないだろうか? 休暇の間は、世界一の紡績業者の息子であり後継ぎであるより、移動販売する商人の息子でいる方が楽しいだろう。絶対的な王子ということについていえば、このジリヤール氏の息子ほどぴったりする子供に会ったことがない。

エクトルさんと宿屋の息子がロバを馬屋につなぎ、貴重品すべてに厳重に鍵をかけている間に、女主人はビーフステーキの残りを温め、冷たくなったじゃがいもを薄く切って揚げた。ジリヤール夫人は息子を起こした。長旅で疲れているのかぐずっていて、灯りをまぶしそうにしている。その子は目をさますと、夕食が出される前にガレット*1や熟していない梨、冷めたジャガイモをつまんで食べた。ぼくの見るところ、それでますます彼の食欲はましたようだった。

女主人は母親としての対抗心を発揮して自分の娘を起こし、二人の子供を対面させた。ジリヤール氏の息子は娘を一瞥したが、犬が鏡に映っている自分の姿をちらっとみて走り去るように、すぐによそを向いた。彼はガレットに興味を奪われていた。母親は息子が娘に興味を示さないことにがっかりしたようで、率直に失望した様子を見せたものの、まだ子供だからともっともな判断を下した。

この子が女の子にもっと関心を示すようになり、母親のことはそれほどかまわなくなるときがくるのは間違いないだろう。そのときに彼女がいま思っているのと同じくらいそれを受け入れてくれればよいのだがと思ったりした。とはいえ奇妙なことに、男への軽蔑を隠さない女でも、自分の息子については、男の最も醜い特質があらわれていても、それを元気がよいと誇らしく思うようだ。

一方、娘は男の子よりずっと長く彼をみつめていた。おそらく、彼女は自分の家にいて、男の子の方は旅をしていて珍しい光景に慣れていたからだろう。しかも、ガレットは彼女には与えられていなかった。

夕食の間ずっと、夫妻は息子のことばかり話していた。両親はどちらも自分の子供を溺愛していた。夫の方は息子がいかに賢いかを、この子は学校の子供全員の名前を知ってるんですよ、などと自慢し続けた。確かめてみるとそれが本当ではないとわかってしまったが、すると、この子はいかに慎重か、びっくりするくらい几帳面で、何か質問されると、じっくり考えて、もし知らなければ「本当になんにも言わないんですよ」と述べた。それが本当なら確かにとても慎重ではある。そうした会話の合間に、夫はビーフステーキを口にほうばったまま、息子が何か印象的なことを言ったりやったりしたときいくつだったかねと妻を証人にしながら、しゃべりまくった。夫人の方はそういう話はふんふんと聞き流していた。母親は息子自慢をするタイプではなかったが、息子の世話に没頭しつつも、その子が出あった幸運な出来事すべてを思いだしては静かに喜んでいる風だった。この子はまだはじまったばかりの休みのことばかり話し、後で必ずやってくる辛い学校生活のことはあまり考えなくてすんでいたが、こんな境遇にある子は他にはいないだろう。母親は息子が独楽や笛やヒモをポケットに詰めこんでいるのを、仕事柄もあってか、自慢そうに示した。彼女が訪問販売で家をたずねるときは息子も一緒についていき、売れるといつも、得られた利益から一スー*1をもらっていたようだ。実際に彼らはとてもよい人たちだったが、息子についてはひどく甘やかしていた。とはいえ、両親は息子の様子には目を配り、ちょっとやんちゃをするとたしなめた。こうしたことは、夕食の間、ときどきあった。

[脚注]
*1:ガレット - フランス北西部の粉を使った素朴な郷土料理/お菓子。生地をうすく丸く広げて焼き、これがクレープの元になったとされる。
*2: スー - フランスの通貨で、1フランの20分の1。十進法が導入されると、1スーは5サンチームに相当するとされた。サンチームは補助単位で1フラン=100サンチーム。現在は通貨としてユーロが導入されている。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (12)

ストーブの隙間や空気穴から見える赤い炎を別にすれば、部屋は真っ暗だった。女将が新しい客のためにランプをつけた。暗かったおかげで断られずにすんだのだと思う。というのも、彼女がぼくらの身なりをみて喜んだ風にはみえなかったからだ。ぼくらが入った部屋は広かったが殺風景で、音楽や絵画を寓意的に描いた二枚の版画と、公衆の面前で酩酊してはならないという法律の写しが貼ってあった。片側にバーカウンターがあり、ボトルが半ダースほど並んでいた。労働者が二人、疲れきった様子で夕食を待っていた。地味な格好の女が眠そうな二歳くらいの子供の世話をしていた。女将はストーブに載せた鍋をかきまぜ、ビーフステーキを焼きはじめた。

「行商してるのかい?」と、彼女がやさしくはない口調で聞いた。会話はそれで全部だった。ぼくらは本当は行商人になったのかもしれないと思うようにもなった。ポン=シュル=サンブルの宿屋の経営者ほど、相手がどういう人間か推測する幅の狭い人たちを見たことがない。しかし、その場所の流儀や作法はその地で使われている銀行紙幣が通用する範囲と似たり寄ったりだ。どんなに偉ぶっても、ちょっと遠くへ行けば通用しなくなる。このエノー州の人々は、ぼくらとごく普通の行商人の区別がつかなかった。ステーキが焼きあがるまで、ぼくらは、彼らがぼくらを彼ら自身の価値判断でどう受けとめるのか確かめようとした。つまり、できるだけ礼儀正しく振る舞って、場をなごませようとした。だが、そうしたこと自体、ますます行商人という彼らの確信を強めるだけになってしまい、考えこんでしまった。それだけ一生懸命やっても彼らの印象を変えることができなかったことからすると、フランス語圏では行商人というものがイギリスのそれとは違っているのかもしれない。

やっと食事の用意ができた。二人の労働者(そのうちの一人は過労と栄養不足で病気になったように蒼白だった)の夕食は、一枚の皿にパンと皮つきのじゃがいも、氷砂糖で甘くした小さなコーヒーカップ、タンブラーに注いだ自家製の酒だった。女将とその息子、それに子供連れの女も同じものを食べた。ぼくらの食事はそれに比べると豪華だった。見かけほどは柔らかくないビーフステーキにジャガイモ、チーズ、自家製の酒。コーヒーには白砂糖がついていた。

それが紳士──いや、行商人というものだ、ということだ。ぼくはそれまで行商人をたいした存在だと思ったことはなかったが、こういう労働者相手の宿ではたいした存在なのだと、自分がその立場におかれてはじめてわかった。ホテルでスイートルームに泊まるような一ランク上の存在だとみられているのだ。人生の経験を積むにつれてわかってきたが、人間には無限の段階があり、おそらくは神のご加護により、その最底辺にはだれも存在せず、だれもが他のだれかに対して何かしら優位性を感じ、ともかくプライドが保てるようになっているのだろう。

とはいえ料理はまずかった。とくにシガレット号の相棒はそう感じたようだ。ぼくはいろんな冒険や固すぎるビーフステーキも含めて、すべてが面白いと思いこもうとした。ルクレティウスの説によれば、ぼくらのステーキは他の人々の粗末なパンを見て自分のステーキがうまいと感じるはずだった。しかし、現実にはそうはならなかった。自分よりつましい暮らしをしている人々がいると頭で理解していても──同じテーブルで、実際にまわりの人より豪華な食事を出されると、あまり気持ちのよいものではないし、摂理にも反する。かつて食い意地の張った少年が自分の豪華なバースデーケーキを学校にこれ見よがしに持ってきたことがあるが、それ以来、そんな光景は見たことはなかった。なんとも鼻もちならないし、自分がそうする立場におかれると思ったこともなかった。だが、ここで行商人とみなされるというのは、そういうことなのだ。

イギリスでは、より貧しい階級の人々の方がより豊かな人々に比べて気前がよい傾向があることに疑いはない。そして同じような階級の人々の間では、気前のよい人々と気前のよくない人は区別しにくい、ということ大きく関係しているに違いない。労働者とか行商をする人々は、自分より苦しい立場の人々から自分をまったく切り離しておくことはできない。自分が贅沢するときは、そんな贅沢が許されない人々の面前で行わなければならない。となれば、目の前にそういう人がいれば、気前よくせざるをえないではないか……人は人生に仮住まいしているわけだが、そうやって食べ物を口に入れるたびに、それがもっと腹をすかせた人々の指からもぎとられたものであることを思い知らされるはめになる。

一方、それなりの段階にある富裕層では、気球が天に昇っていくように、そういう幸運な人々は雲を通り抜けてしまうので、地上の出来事は視界から隠されてしまう。見えるのは天体だけで、すべて賞賛に値する秩序に満ち輝いている。そういう人々は、自分が神意により感動するほど庇護されていることを知り、自分をふと百合やヒバリのように感じたりもする。むろん歌ったりはしないが、立派な馬車に乗って謙虚にふるまっているように見える! もし世界中の人々が一つのテーブルで食事したとすれば、そういう境地にある人々はひどい衝撃を受けるだろう。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (11)

ポン=シュル=サンブル

行商人

シガレット号が朗報を持って戻ってきた。ぼくらのいるところから歩いて十分ほどのポンと呼ばれるところに宿があるらしかった。穀物倉庫にカヌーを置かせてもらって、子供たちに道案内を頼んだ。子供たちはぱっとぼくらから離れ、ご褒美をあげるよという申し出にも返事をせず黙りこむ。子供たちにとって、ぼくらは明らかに二人連れのおそろしい青ひげ*1だったのだ。公共の場で話しかけたり数の優位を頼りにできるときはいいが、この穏やかな日の午後に自分たちの村に雲の上から舞い降りてきた、腰帯を締め、ナイフを差した二人連れ、遠いところから旅してきたらしい、物語にでも出てきそうな怪しい大人を一人で道案内するとなると話は別なのだろう。穀物倉庫の主人が出てきて、案内役として一人の子供を無理やり指名した。ぼくらは自分で道を探していくべきだったかもしれない。だが、その子はぼくらより穀物倉庫の主人の方を怖がっていた。前にどやされるようなことをしていたのかもしれない。この子の小さな心臓は激しく脈打っていたに違いない。というのも、彼はぼくらよりずっと前を小走りにどんどん進み、ぼくらを振り返るその目はおびえているようだったからだ。ジュピターやオリュンポスの神々*2をその冒険で案内したのも、こんな風な子供たちだったのかもしれない。

教会やくるくる回る風車のあるクアルトから、どろんこ道の上り坂が続いていた。農作業を終えた男たちが家路についている。元気のいい小柄な女性がぼくらを追いこしていった。彼女はロバに横向きに乗り、ロバの背にはきらきら輝く牛乳缶が左右に振り分けて吊るされていた。追いこしながら彼女はロバの腹を蹴り、徒歩の連中に声をかけていく。疲れ切った男たちはだれも返事をしなかった。まもなく道案内の子供は道を外れ、野原を進んだ。太陽は沈んだが、ぼくらは西に向かっていて、前方の空は金色に輝く湖がひろがっているようだった。開けた田園地帯がしばらく続き、やがて葉の生い茂った木々がアーチのように道におおいかぶさってくるようになった。道のどちら側も薄暗い果樹園で、木立ちの間に農家が低く点在し、煙が空に昇っていた。西の方角には、ちらちらと大きな金色に輝く空が見えた。

シガレット号の相棒は、これまで見たことがないほど、くつろいでいるようだった。この田園風景に感動し抒情的になっている。ぼくの方も少し気分が浮きたっていた。歩くにつれて、夕方の心地よい空気や木々の影、輝くような明るさや静寂も調和を乱さずついてくる。ぼくらは、これからは市街地を避けて農村に泊まろうと心に決めた。

道はしまいに二軒の建物の間を抜けて、広いがぬかるんだ幹線道路に出た。見渡す限り、どちらの側にも不格好な集落が並んでいる、家々は道路から離して建てられていて、道路の両側の空き地には積み上げた薪や荷馬車、手押し車、ゴミの山があり、草も生えていた。左手の離れたところには、不気味な塔が通りの真ん中に立っていた。かつてそれが何だったのかはわからないが、たぶん戦争があったころの陣地のようなものだろうか。今では文字盤の数字が読めなくなった時計が上の方に取りつけてあり、下には鉄製の郵便受けがあった。

クアルトで教えてもらった宿屋は満室だった。あるいは女将がぼくらの身なりを気に入らなかったのかもしれない。ぼくらは長くて濡れたゴム製のかばんを抱えていたので、いかにもうさんくさい格好──シガレット号の相棒によればゴミを集めて回っている業者も同然──だった。「あんたたち、行商してるの?」と女将が聞いた。そして、わかりきったことだと思ったのか、返事を待たず、街のはずれに旅行者を泊めてくれる肉屋があるので、そこに行って泊めてもらうようにといった。

ぼくらはそこへ行ってみた。だが、肉屋は忙しそうで、そこでも満室だと断られた。やはり、ぼくらの格好が気に入らなかったのかもしれない。別れ際に「あんたら行商人かね?」と聞いた。

暗くなってきた。よく聞きとれない夕方の挨拶をしていく通りすがりの人の顔を見ても区別がつかない。ポンの人々は油を倹約しているようだ。長く伸びた村で、窓に灯りがともっている家は一軒もなかった。ここは世界で一番長く村ではないかと思う。暗くなってきたのに宿が見つからないという困った状況で、一歩が三歩にも感じられた。最後の宿屋に来た時には体力も気力もなくなっていて、薄暗い扉ごしに、おずおずと今晩泊めてもらえますかと聞いた。まったく愛想のない女の声で、いいよという返事があった。ぼくらはかばんを投げ出し、手探りで椅子のところまで行った。
脚注]
*1: 青ひげ - グリム童話などに出てくる、何人もの妻を殺した殺人鬼。
*2: ジュピターやオリュンポスの神々 - ギリシャ神話でオリュンポス山(標高2919m)の神殿に住むとされた十二神。