ジョン・マクレガー著
現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第69回)
左手を上ったところは巡礼者が集まる聖地になっている。毎年何千人もの人々がやってきては、新鮮な空気を吸い、山を歩いていい汗をかいている。フランス人たちは、運動や娯楽のためというより、信仰心にかられて、こんなところまで登ってきているようだ4。
原注4: 有名なフランスの「聖地」としては、他にもグルノーブル近郊のラ・サレットの山がある。ここでは一日に一万六千人もの巡礼者が登ってきて、聖母マリアが時代を超えて出現し、羊飼いたちに語りかけたとされる場所を訪ねるのだそうだ。ぼくも実際に訪ねたことがあるのだが、そのときは聖なる水をレモネードのビンに詰め、それを荷かごに載せて運んでいる何頭かのロバと出会った。山のふもとに住んでいた僧侶が自家用ポンプを設置するまで、この聖水はヨーロッパ中でビン一本につき一シリングで販売されていた。現地で読んだ報告書によれば、聖人のふりをするために雇われた女がその手口を告白したので裁判沙汰にまでなったそうだ。イギリスでも、ローマカトリック教会の新聞は、この言語道断な詐欺行為を立証するための興味をそそる記事を掲載したりしていた。とはいえ、聖母マリア出現の目撃談における真実性と善良性については、バーミンガムのローマカトリックの司教がローマ教皇の承認を得て書いた本でも熱心に支持されている。
ぼくが思うに、ごく普通の人生という道の上を丈夫な靴をはいて真実かつ正直な生活を送るより、鋭い石の上をはだしで百マイル行進する方がやさしいのではあるまいか。
イギリス人の友人が合流し、ぼくの馬車に乗ってきた。モーゼル川の様子を調べるため、ぼくらは本通りを離れて、ビュッサンの町の方へ少し進んだ。この美しい川は、山頂の傾斜がゆるく丸みを帯びたバロン・ダルザス山(1247m)から流れ出しているのだが、四、五本の細かなちょろちょろした水の流れはバスタブほどの大きさの泉に流れこみ、そこで合流していた。その泉からあふれた水は山道に流れ出て、指を広げれば橋がかけられるほど小さな川の赤ちゃんとなっていた。このぶくぶくと涌き出している流れこそは、ぼくの興味をそそるものなのだった。というのも、今はまだ、かわいらしい小さな音をたてて草むらをちょろちょろと流れているだけだが、ぼくはこの冷たく透き通った流れがカヌーを浮かべられるほど力強い川になるまで追いかけていくつもりだからだ。
こうした大河の源流を実際に目撃すると、ロマンティックな空想癖のある者が興奮しないわけはないし、詩人は感情が高まり心がゆり動かされるはずだ。偉大な思想というものにはすべて、その源流というか萌芽というものが存在するに違いない。後世に大きな影響を与えるような偉大な考えというものが、一人の天才や戦士や賢者や政治家の頭の中でどのように誕生し、どのように脳を刺激したのかを知ることは興味深いだろう。源流の存在に加えて、思想というものにも、それぞれさざ波や深い淀(よど)みや周囲の美しい景観というものを伴った流れが存在している。気高い考えの者もいれば、視野の広い考えを持つ者もいるし、まっすぐ直接的なものもあれば、遠まわしなものもある。急流もあれば、静かで円滑な流れもある。すみきっていて、しかも深い、という流れは、ごくわずかしかないが。
とはいえ夢見心地で現実を見ずに出発するわけにはいかない。といって、ボージュの居心地のよい集落でいつまでもぐずぐずしているわけにもいかない。カヌーを浮かべられる本物の川があるところまで、冷静に状況判断しながらとにかく進むしかない。ぼくらは、川を浮かべられる川を探しながら峠を下った。うっそうと茂った木立のあちこちに、星のようにきらきらする光が見えている。湧き水がたまって陽光を反射しているのだ。そうした水たまりはから本物の川が流れ出しているはずだ。薄暗いなかで、カヌーが浮かべられるか否か、ぼくは小さな沼の一つ一つをチェックした。
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