第十章
タイピー
東の方にあるウアフカ島は、あっという間にスナーク号に追いついてきた夕方の豪雨でまったく見えなくなった。だが、ぼくらの小さな船はスピンネーカーに南東の貿易風を一杯にはらませて快適に進んだ。ヌクヒバ島の南東端にあるマーチン岬を真横に見るところまで来ると、その先には、コンプトローラ湾が大きく口を開けていた。広い入口には、コロンビア川の鮭釣り船のスプリットスル*1のように、セイル・ロックという岩礁が南東のたたきつけるようなうねりや風に抗して立っていた。
「ありゃ何だ?」と、ぼくは舵を握っているハーマンに聞いた。
「漁船」と、彼はじっくり眺めて答えた。
だが、海図にははっきりと「セイル・ロック」と印がつけてあるのだ。
とはいえ、ぼくらが気にしていたのは、その岩ではなく、陸側に入りこんでいるコンプトローラー湾の方だ。陸に三箇所あるはずの湾曲部を必死で探す。夜明けの薄明りを通して、中央の入江に、内陸に深く入りこんでいる谷の斜面がぼんやり見えた。ぼくらは何度も海図と見比べ、中央の湾曲部の谷こそ、奥まで開けているタイピー渓谷だと判断した。海図には「Taipi(タイピ)」と記入され、それが正しいのだが、ぼくは「Typee(タイピー)」を使いたいし、ずっとタイピーを使うつもりだ。というのも、子供のころにハーマン・メルヴィルの『タイピー(Typee)』を読んで、そこに描かれている世界にずっとあこがれていたからだ*2。いや単なる夢ではなく、そのとき、成長して強くなったら自分もタイピーに行くと思ったのだ。世界には不思議なものがあるという思いは、ぼくの小さな心にしみついていた。そうした不思議に導かれるようにして、ぼくは多くの土地を訪れてきたが、それが色あせてしまうことは決してなかった。長い年月が経過したが、タイピーを忘れてはいなかった。北太平洋での七ヶ月の巡航後にサンフランシスコに戻ってくると、ぼくは機が熟したと思った。ブリッグ型帆船のガリラヤ号がマルケサス諸島に向かうことになっていることを知ったぼくは、この帆船の乗組員に欠員はなかったが、タイピーに行きたい一心で、謙遜しつつも給仕として雇ってもらえませんかと申しこんでみた。マストの前で作業する甲板員としての経験はあるものの、正式な資格は持っていなかったし、といって経歴を誇張するほど世慣れてもいなかったのだ。むろん、ガリラヤ号はマルケサス諸島から先はぼくを乗せないで出帆することになるのだ。というのも、ぼくは島で作品に出てくるファーヤウェイやコリコリの現代版の人間を探すつもりでいたからだ。ぼくがマルケサス諸島で職務を放棄するつもりだと船長は気づいたのではないかと、ぼくは疑っている。給仕の職も満席だったのだろう。いずれにしても、雇ってはもらえなかった。
それから、怒涛のような日々が到来し、いろんな計画を立て、結果も残したし失敗もした。だが、タイピーを忘れたことはなかった。だから今、ここにこうしているのだ。ぼくは靄(もや)に包まれた島の輪郭をじっと眺めていたが、雨が激しくなり、スナーク号はどしゃぶりの中を入江に向かって突っこんでいく。前方の視界が一瞬開けたとき、ちらっと見えたセンティネル・ロックの磁針方位を確認した。長い海岸線に打ち寄せている波も見えたが、それも雨と夜の闇にかき消されてしまった。波が砕けている音を頼りに、すぐに舵をきれるようにして、ぼくらはそのまま前進した。コンパスだけを頼りに進むほかなかったのだ。センティネル・ロックを見落とせば、タイオハエ湾も見落とすことになる。そうなったら、スナーク号を風上に向けた状態で一晩ずっと漂白するしかなくない。広大な太平洋を六十日もかけて航海してきて疲れきっている船乗りにとって、陸地に飢え、果物に飢え、長年のあこがれであるタイピー渓谷を見てみたいと切望している船乗りにとって、もう一晩、船にいなければならないというのは、あまり歓迎すべきことではない。
と、いきなり、怒号のような音とともに、雨の中から真正面にセンティネル・ロックが出現した。ぼくらは進路を変えた。メインセイルとスピンネーカーが風をはらみ、速度があがった。この岩礁の風下までくると風が落ち、無風になり、うねりだけが残った。それからまた、風がタイオハエ湾の方から吹いてきた。スピンネーカーを取りこみ、ミズンセイルを上げたが、ほぼ正面からの風で、詰め開きで少しずつ前進していった。測深鉛を投げて水深を測りながら、いまは廃墟となった砦に設置されている赤い灯火が見えないか探した。それが泊地への道しるべになるのだ。風は弱く、気まぐれだった。東風かと思えば西風になり、北から吹いたと思えば南から吹いたりした。どっちの舷側からも、目には見えないが海岸の岩に打ちつける波の音が聞こえた。ぼんやりと崖が見えるようになり、野生の山羊の鳴く声も聞こえてきた。おんぼろ汽車が通過するようにスコールが通り過ぎてしまうころには、ぼんやりと星も見えはじめた。二時間後、さらに一海里ほど湾に入ったところで、ぼくらは投錨した。水深は十一尋(ひろ、約二十メートル)*3。ついにタイオハエに到着したのだ。
草ぶきの家々
[訳注]
*1: スプリットスル=スプリット(斜檣)+スル(セイル、帆)。スナーク号では船首から突き出したバウスプリットから張っている帆。
*2: ハーマン・メルヴィルは海洋文学の傑作『白鯨』の作者。近年は海洋物以外の多彩な作品群でも再評価がなされている。捕鯨船に乗り組んだことがあり、船乗り時代の体験を元にマルケサス諸島を舞台にした『タイピー』を出版したのは白鯨を発表する前年で、これが処女作になった。時代は異なるが、ジャック・ロンドンとは共通点が多く、彼の愛読書だった。
*3: 尋(ひろ、fathom)は水深を測る単位。一尋は6フィート(約1.8メートル)。11尋は約二十メートル。