スティーヴン・クレインの手記 1

この手記は、スティーヴン・クレインが自分の乗った船が沈没したときの経験を記事にまとめたノンフィクションで、後にこれを下敷きにした短編『オープン・ボート』を執筆しました。

一連の手記とあわせて出版され、クレインの出世作となりました。

『オープン・ボート』は、アーネスト・ヘミングウェイが若い作家志望者に必読書として示した16作品の一つです。

先週まで連載していた『オープン・ボート』と読み比べると、作家が実体験をもとに手記をまとめ、さらにそれをどのように小説へと昇華していったかがわかる興味深い作品といえるでしょう。

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スティーヴン・クレイン自身の物語

明瀬和弘訳

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コモドア号はいかにして難破し、彼はいかに脱出したか
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恐怖にかられた黒人がボートを水浸しにする
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若い作家は、火災が起きたエンジンルームで部屋で息をつまらせながら苦闘する
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マーフィー船長とヒギンズの勇気
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救命筏の仲間を曳航しようと試みる――打ち寄せる波をかいくぐって浜へ向かう
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フロリダ州ジャクソンビル、一月六日     元旦の午後。コモドア号はジャクソンビルの埠頭に係留され、黒人の港湾作業員たちが列をなして箱詰めされた弾薬やライフルを大量に積み込んでいた。船のハッチは怪物の口のようにそれを飲みこんでいく。伝説の海洋生物に餌が与えられているようでもあった。白昼公然と行われており、埠頭で気分を高揚させたキューバ人たちは、祖国の、ぼくらには耳なれない愛国歌をうたいだした。

すべては公然と行われていた。コモドア号にはキューバ向けの武器や軍需物資が積まれていた。以前のように秘密裏にことを運ぶといった配慮はどこにもなかった。レミントンからキューバへ物資を運ぶのではなく、コモドア号はニューヨークまでオレンジを運ぶだけだという感じで、平然と荷を積み込んでいるのだった。さらに川の下流には、セントジョンで合衆国の利益を保護する二等辺三角形の形をした古い密輸監視艇のバウトウェル号が錨泊していたが、船上にあわただしさのようなものはなかった。

別れの挨拶

コモドア号の甲板では、二カ国語で別れの挨拶がかわされた。この船で出発しようという男たちの多くは南部の町に多くの友人がいたし、遠くはなれた北部の友人たちと別れていくぼくらの方は、この激しくも真剣な別れの光景を目にし、もの悲しさを感じていた。

とはいえ、税関はそう単純ではなさそうだった。船の航海士やキューバ人のリーダーたちは、夕闇が迫り、濃い霧を通してジャクソンビルの町の灯がちらほら見えるようになるまで拘束されていた。それから、別れの挨拶が盛んに飛びかうなかで、コモドア号はやっと離岸した。船首をはるか沖合に向けると、陸に残ったキューバ人たちは何度も喝采した。コモドア号はそれに答えて汽笛を三度、長く鳴らしたが、そのときも彼らの悲しみにぼくは胸をうたれた。ともかく、彼らは声をあげて泣いていた。

それから、やっと他国の反乱を扇動する者になったような気がしてくるようになった。そういう行為における危険が小さいとは、とても思えなかった。ジャクソンビルの町の灯が遠ざかっていき、船のエンジンのドンドンといういつもの音を聞きながら、ぼくらは物思いにふけった。

だが、遠ざかっていく陸地をながめている乗客の顔に激しい感情はなかったように思う。実際、厨房の下働きをしているボーイから船長にいたるまで、ぼくらは全員、穏やかに満ち足りた気分で上機嫌だった。しかし、ジャクソンビルから二海里と進まないうちに、性悪の霧のために水先案内人が判断を誤り、コモドア号は激しく座礁してしまった。この恥ずかしい状態で、ぼくらは夜が明けるのをじっと待たざるをえなかった。

ボウトウェル号からの助け

これは単に物理的な災難に遭遇しただけではなかった。他国の争いに口をはさむどころか、ぼくらは座礁した船の搭乗者にすぎないのだった。気持ちの上で一度ならず落ち込むことになった。

ジャクソンビルに連絡がいき、そこからさらに略奪監視船ボウトウェル号の船長に連絡が送られて、監視船のキルゴア船長はポンコツの三角の形をした船のエンジンを始動させ、全速力で助けに駆けつけてきた。ボウトウェル号がコモドア号を海底の泥から引っ張りだしてくれたので、ぼくらはまた河口へと向かった。略奪監視船は、コモドア号がキューバ軍の志願兵を川沿いで拾い上げないよう監視するため、コモドア号の半マイルほど後方をついてきた。

一月一日の早朝のことだ。美しく金色に輝く南からの陽光が川にふりそそいでいる。それが古びたボウトウェル号の上空で輝やき、真珠のような白い船体をきらりと光らせ、さらに船の索具を金の糸のようにきらきらさせた。

すれ違う船や陸上から、ポンコツのコモドア号に対して喝采が送られた。出港したときと同じような陽気な歓迎だった。メイポートで川の水先案内人が公海までの資格を持つ人に代わったのだが、コモドア号はまたしても座礁してしまった。ボウトウェル号は堂々と伴走していた。ぼくらの苦境を知るとまた支援してくれたが、コモドア号はこんどはエンジンを逆回転させて自力で脱出し、また外洋をめざした。

略奪監視船の船長はだんだん好奇心をそそられてきたようだった。コモドア号に挨拶し、「このまま海に出るのかね?」と聞いた。

コモドア号のマーフィー船長は「そうです」とこたえた。

それからコモドア号が彼に敬意を示して汽笛を鳴らすと、キルゴア船長は帽子をとり「諸君、楽しい航海を」といった。これが沿岸で受けた最後の言葉となった。

コモドア号が砂州を超えて巨大な巻き波が打ち寄せているところまでくると、楽しい雰囲気は船の乗組員から消えてしまった。

訳注

 

背景となる状況について

 

この海難事故が起きたのは1897年1月2日です。


当時、スペインからのキューバ独立の機運が高まっており、背後から支援していた米国とスペインとの間で、この海難事故の翌年に米西戦争が勃発します。

 

そうした戦争前夜の緊迫した状態で、スティーヴン・クレインはキューバ情勢を探る特派員として派遣され、コモドア号に乗船したのでした。

 

貨物の積載が大晦日までかかったコモドア号は、予定より遅れて1月1日に出港し、霧のため二度も座礁したことが原因で、翌2日午前7時に沈没しました。

 

脱出したスティーヴン・クレインたちが乗ったボートは、1月3日午前7時30分から午前10時ごろに陸に到着したとされています。

 

この手記は、スティーヴン・クレインが救助されてからわずか三日後の1月7日に、ニューヨーク・プレス紙に発表されました。

 

フィクションの短編小説『オープン・ボート』は、それから数週間後の二月中旬には書き上げられていたといわれています。発表されたのはスクリブナーズ・マガジンの同年6月号でした。

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