スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (42)

ぼくらが強い関心を持っていた一つは、食べることだった。ぼくは食事に重きをおきすぎたかもしれない。料理のことをあれこれ考えていると、口のなかによだれがたまってきたのを覚えている。そうして夜になるずっと前から、それを食べたくてたまらなくなり、そうした食欲を抑えることが悩みの種になった。ぼくらはときどき並んで漕いだりもしたが、そうやって川を下っていきながら食事の話で互いを刺激しあった。ケーキとシェリー酒なんかは故国ではありきたりすぎるのだが、オアーズ川近辺では手に入らないので、そのことばかり考えながら何マイルも漕ぎ下ったりしたし、ヴェルブリーに近づいたころに、シガレット号の相棒が「牡蠣のパテにちょっと甘い白ワイン」なんてのを口にしたものだから、頭の中はそれを食べたいという思いばかりになったりした。

人生を楽しむうえで飲み食いがいかに重要かということを、誰もきちんと認識していなさすぎるのではないだろうか。ぼくらは食欲旺盛だったので、どんなひどい食事にも我慢できたし、パンと水だけの食事でもうれしかった。何も読むものがなればガイドブックの時刻表でも嬉々として読みふけっている活字中毒の人たちと同じだ。しかし、食べるということは、それだけにとどまらない。食事が大事だという人は、たぶん恋愛が大事だという人より多いだろうから、一般論として食べ物は景色などよりずっと関心をそそるものだと思う。ウォルト・ホイットマンだったらこう言うだろう──だからといって人間としての価値が減るとでもいうのかね? 物質主義を突き詰めていけば、自分の存在自体を恥ずかしいと思うようになる。人間の素晴らしさという点では、料理の隠し味にオリーブが使用されていると見極めることは、決して夕景の空の色に美を感じることに劣るものではない。

カヌーを漕いで川下りすること自体はむずかしくない。適切な傾きを保ってパドルを右、左と交互に川に突っこみ、スプレースカートの膝まわりにたまった水を捨て、水面にきらめく陽光から目を細めて守り、コンデのデオ・グラシアス号やエイモンの四人の息子号などの係留されているロープの下をくぐったりするのだが──それにはたいした技術は必要なくて、川に浮かんでいるときは筋肉が機械的に作業をやってくれるので、その間は脳のほうはお休みしている。ぼくらは周辺の景色をざっと見て把握し、半ば寝ぼけた状態で、岸辺の作業着姿の釣り人や洗濯をしている女たちを目でとらえたりした。ときどき、教会の尖塔や飛び跳ねる魚、あるいはパドルにからみついた川草を引っ張って投げ捨てたりするときに、寝ぼけ状態を脱したりした。とはいえ、それでも完全に目がさめるわけではなかった。無意識の状態から目をさましはするが、体全体が覚醒して反応するというのではない。神経の中枢、ぼくらが自我と呼ぶものは、巨大な政府の一省庁のように、そうしたことに煩わされず休んでいて、知性の大きな車輪はフライホイールのように、何も役に立つ仕事はせず、頭の中でゆっくりまわっている。ぼくは漕ぐ回数を数えつつ、何百になったかを忘れたりしながら、半時間も漕ぎ進んだことがある。獣でもこれだけ無意識の状態になることはあるまいと思うほどだ。なんとも気持ちのよいひとときだった! 無心に漕ぎ進むことで、心が寛大になってくる! この境地に達すれば、人のあら探しをすることもなく、人生において可能な神格化とでもいうか、いわば愚かさの頂点に達してしまい、威厳を感じさせる樹木のように長く生きた気がしてくる。

この没我の状態について、強さと呼んではいけないのであれば、ぼくは深さと呼びたいが、これには現実に奇妙な形而上学が伴っていた。精神が否応なく、哲学者が自我と非我、自己と客体と呼ぶものに向いてしまうのだ。この放心状態では自我が少なくなり、ふだん思っているよりも非我が多くなる。ぼくの心は、自分以外の誰かがカヌーを漕いでいるのを眺めている。自分以外の者が足を踏ん張っていて、自分の体についても、カヌーや川や川の土手以上に自分の心と親密な関係を持っているようには思えないのだった。それだけではない。ぼくの心の中にある何か、自分の脳の一部、自分の正しい部分の一部がぼくから抜け出て、それ自身のため、あるいはカヌーを漕いでいるぼくではない他者のために働いているのだ。ぼくは自分自身の内部で、隅っこの方に縮こまっている。ぼくは自分の頭蓋骨の中で孤立している。勝手に考えが浮かんでくるが、それはぼく自身の考えではなく、明らかに誰か他者の考えだったし、ぼくはそれを風景の一部のようにみなしている。要するに、ぼくは実際の生活に支障がでない範囲で、ちょっと解脱したような状態になっている感じだった。解脱というものがこういう状態なのであれば、ぼくは仏教徒を心から称賛したい。目から鼻に抜けるような利口さではなく、金儲けにもつながらないとはいえ、心穏やかで高貴であり、邪念がなく、物事に右往左往しない、なんとも気持ちのよい状態である。べろべろに酔ってはいるが精神はしらふで、その状態を楽しんでいるとでも説明しようか。屋外で仕事をする人々は日々の多くをこうした没我の状態ですごしているに違いない。彼らの落着きと忍耐力はそれで説明がつく。こういう風に、何も特別なことをしなくても至福の状態になれるのだから、ドラッグに金を使ったりする人の気が知れない。

こういう心の状態が今回の航海での大きな収穫だったし、それがすべてでもあった。ありきたりの言葉による表現とはかけ離れているので、ぼくの、この楽しく自己満足した状態を読者に共感してもらうのはむずかしいかもしれない。太陽光線の中で浮かんでいるほこりのように、いろんな考えが浮かんでは消え、たえず形を変えていく雲を通して、土手沿いの木々や教会の尖塔がときどき確固とした物のように立ち上がって注意を引いたり、水面に浮かぶボートとパドルのたてるリズミカルな音が眠りを誘う子守歌になったりした。デッキについた泥ですら、ときには耐えられなくなったり、逆に気にならなくなったり、考えを集中させる対象になったりした──その間も、川は常に流れていて、川岸も変化していき、ぼくはパドルを漕ぐ数をかぞえ、何百回だったか忘れたりしながら、フランスで最も幸福な動物になっているのだった。

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