スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (41)

時間の移り変わり

それからの航海では、こうした霧は、ある意味で、晴れることはなかった。ぼくのノートにも霧が濃く立ちこめている。オアーズ川が田舎を流れる小さな川だったときは民家の近くを通っていたし、川沿いに住む土地の人々とおしゃべりすることもできた。しかし、今では川幅も広くなり、川岸に住む人々も遠くからぼくらを眺めているだけになった。立派な幹線道路と、集落を縫うように続いている田舎道の違いのようなものだ。このあたりまで来ると宿も市街地になるし、地元の人々から質問攻めにあうこともなくなった。いわば文明化された社会までやってきたわけだが、こういうところでは行きかう人々と挨拶することはない。田舎では人と出会うためにいろんなことをやったが、都会では他人と距離を保ち、人の足を踏んづけでもしない限り声をかけることもない。都会では、ぼくらはもう妙な渡り鳥のような存在ではなく、違う村からはるばる旅をしてきたのだと想像されることもなくなった。たとえば、リラダンにやってきた日の午後には、何十隻というプレジャーボートが走りまわっていて、ぼくらのくたびれた帆を別にすれば、本物の旅をしてきた者とちょっと近場で遊んでいるだけの者とを区別するものは何もない。実際に、あるボートに乗った連中はぼくを近所の誰かと思いこんでいたりした。これほどの屈辱は他にないのでは? とはいえ、旅というものはすべて、そうやって終わりを迎えるのだ。オアーズ川の上流域では、魚以外に川を航行している者などいないので、ぼくらのようなカヌーに乗った人間は、地元の者のふりをして人目を避けることはできない。すぐに風変わりな見慣れないよそ者だとばれてしまうし、逆に相手も好奇心にかられたりするので親しくなったりもした。この世界はそうした相手との相互関係で出来上がっているようなところがあり、そうした絆をどこまでもさかのぼっていけるわけではないが、ぼくらの前からずっと続いていることなので、こうした状態に決着がつくということもないのだ。自分が相手に興味を持てば、それに比例して相手もこっちに興味を持ってくれる。ぼくらが一種の奇妙な放浪者でいる限り、じろじろ見つめられたり、ほら吹きやサーカスの一団のように、ぼくらの後ろから地元の人がぞろぞろついてきたりして、それがぼくらにとって面白かったりもした。ところが、ぼくらが一般の人々と区別がつかなくなってしまうと、ぼくらが出会う人々も同じように魔法が解けてしまい、ぼくらへの関心を失ってしまう。平凡な人間にとって世の中が退屈な理由は山ほどあるが、これはその理由の一つである。

冒険航海に出た最初のころは決まって何かすべきことがあり、それに急かされるように行動していた。にわか雨が降ってくるだけで、そうした気持ちが復活し、脳が刺激されて退屈することはなかった。だが、ここまでやって来ると、川はもはや急流ではなくなったし、海に向かって滑るように、しかし、ゆっくりと流れていて、天気は相変わらず好天続きで、ぼくらは野外で激しい運動をした後の満足感にひたっているときのような、ある種の倦怠を感じ始めていた。一度ならず、こんな風な感覚にとらわれたことがあるし、そういう状態になるのも嫌いではなかったが、スリル満点でオアーズ川を漕ぎ下っていたときの快感はもうなかった。虚脱感が頂点に達したような感じだ。

ぼくらは何かを読んだりすることもなくなった。新しい新聞を見つけると、連載小説の一回分を読んで楽しむこともあったが、三回を超えると、もう耐えられなくなり、その二回目には失望していた。話の筋が見えてくると、ぼくにとって、その価値がすべて失われてしまうのだ。一つの場面だけ、あるいは連載の場合は一つの場面の半分だけが、その前後の脈絡もわからないまま夢の一部のように、ぼくの興味を引いたりした。小説全体の筋がわからないほど、その小説が好きになった。これは示唆に富んでいる。すでに述べたように、ぼくらはたいていの場合、何も読まずにすごした。夕食をすませると寝るまでの短い間は何も読まず地図を眺めてすごした。ぼくはずっと地図が見るのが好きだったし、地図上で極上の旅を想像して楽しむことができる。地名はそれだけで訪れてみたい気になるし、海岸線や川の輪郭には心を奪われてしまうものがある。そして、それまで耳にしていた場所を地図で見つけると、その歴史に新しい意味が見えてくる。とはいえ、航海もこのころになると、無関心なまま地図をめくっていくだけだ。どんな場所か、気にすることはなくなった。ぼくらは子供がオモチャのガラガラに耳をすますように、地図をじっと見つめ、町や村の名前を目にしてはいるが、すぐに忘れてしまう。ぼくらは地図の情報自体に思いを寄せているのではなかった。無我の境地、というか虚脱状態だろうか。ぼくらが地図を熱心に眺めているときに誰かがその地図を持ち去ったとしても、ぼくらは同じ熱心さでテーブルをそのまま眺めていたかもしれない。

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