スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (12)

ストーブの隙間や空気穴から見える赤い炎を別にすれば、部屋は真っ暗だった。女将が新しい客のためにランプをつけた。暗かったおかげで断られずにすんだのだと思う。というのも、彼女がぼくらの身なりをみて喜んだ風にはみえなかったからだ。ぼくらが入った部屋は広かったが殺風景で、音楽や絵画を寓意的に描いた二枚の版画と、公衆の面前で酩酊してはならないという法律の写しが貼ってあった。片側にバーカウンターがあり、ボトルが半ダースほど並んでいた。労働者が二人、疲れきった様子で夕食を待っていた。地味な格好の女が眠そうな二歳くらいの子供の世話をしていた。女将はストーブに載せた鍋をかきまぜ、ビーフステーキを焼きはじめた。

「行商してるのかい?」と、彼女がやさしくはない口調で聞いた。会話はそれで全部だった。ぼくらは本当は行商人になったのかもしれないと思うようにもなった。ポン=シュル=サンブルの宿屋の経営者ほど、相手がどういう人間か推測する幅の狭い人たちを見たことがない。しかし、その場所の流儀や作法はその地で使われている銀行紙幣が通用する範囲と似たり寄ったりだ。どんなに偉ぶっても、ちょっと遠くへ行けば通用しなくなる。このエノー州の人々は、ぼくらとごく普通の行商人の区別がつかなかった。ステーキが焼きあがるまで、ぼくらは、彼らがぼくらを彼ら自身の価値判断でどう受けとめるのか確かめようとした。つまり、できるだけ礼儀正しく振る舞って、場をなごませようとした。だが、そうしたこと自体、ますます行商人という彼らの確信を強めるだけになってしまい、考えこんでしまった。それだけ一生懸命やっても彼らの印象を変えることができなかったことからすると、フランス語圏では行商人というものがイギリスのそれとは違っているのかもしれない。

やっと食事の用意ができた。二人の労働者(そのうちの一人は過労と栄養不足で病気になったように蒼白だった)の夕食は、一枚の皿にパンと皮つきのじゃがいも、氷砂糖で甘くした小さなコーヒーカップ、タンブラーに注いだ自家製の酒だった。女将とその息子、それに子供連れの女も同じものを食べた。ぼくらの食事はそれに比べると豪華だった。見かけほどは柔らかくないビーフステーキにジャガイモ、チーズ、自家製の酒。コーヒーには白砂糖がついていた。

それが紳士──いや、行商人というものだ、ということだ。ぼくはそれまで行商人をたいした存在だと思ったことはなかったが、こういう労働者相手の宿ではたいした存在なのだと、自分がその立場におかれてはじめてわかった。ホテルでスイートルームに泊まるような一ランク上の存在だとみられているのだ。人生の経験を積むにつれてわかってきたが、人間には無限の段階があり、おそらくは神のご加護により、その最底辺にはだれも存在せず、だれもが他のだれかに対して何かしら優位性を感じ、ともかくプライドが保てるようになっているのだろう。

とはいえ料理はまずかった。とくにシガレット号の相棒はそう感じたようだ。ぼくはいろんな冒険や固すぎるビーフステーキも含めて、すべてが面白いと思いこもうとした。ルクレティウスの説によれば、ぼくらのステーキは他の人々の粗末なパンを見て自分のステーキがうまいと感じるはずだった。しかし、現実にはそうはならなかった。自分よりつましい暮らしをしている人々がいると頭で理解していても──同じテーブルで、実際にまわりの人より豪華な食事を出されると、あまり気持ちのよいものではないし、摂理にも反する。かつて食い意地の張った少年が自分の豪華なバースデーケーキを学校にこれ見よがしに持ってきたことがあるが、それ以来、そんな光景は見たことはなかった。なんとも鼻もちならないし、自分がそうする立場におかれると思ったこともなかった。だが、ここで行商人とみなされるというのは、そういうことなのだ。

イギリスでは、より貧しい階級の人々の方がより豊かな人々に比べて気前がよい傾向があることに疑いはない。そして同じような階級の人々の間では、気前のよい人々と気前のよくない人は区別しにくい、ということ大きく関係しているに違いない。労働者とか行商をする人々は、自分より苦しい立場の人々から自分をまったく切り離しておくことはできない。自分が贅沢するときは、そんな贅沢が許されない人々の面前で行わなければならない。となれば、目の前にそういう人がいれば、気前よくせざるをえないではないか……人は人生に仮住まいしているわけだが、そうやって食べ物を口に入れるたびに、それがもっと腹をすかせた人々の指からもぎとられたものであることを思い知らされるはめになる。

一方、それなりの段階にある富裕層では、気球が天に昇っていくように、そういう幸運な人々は雲を通り抜けてしまうので、地上の出来事は視界から隠されてしまう。見えるのは天体だけで、すべて賞賛に値する秩序に満ち輝いている。そういう人々は、自分が神意により感動するほど庇護されていることを知り、自分をふと百合やヒバリのように感じたりもする。むろん歌ったりはしないが、立派な馬車に乗って謙虚にふるまっているように見える! もし世界中の人々が一つのテーブルで食事したとすれば、そういう境地にある人々はひどい衝撃を受けるだろう。

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