スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (28)

オリニーで相席になった三人目は宿の女将の亭主だった。といっても、昼間は工場で働き、夕方に自分の家である宿に客としてやってくるので、厳密には宿屋の主人というわけではなかった。たえず興奮していて、ひどくやせた、頭のはげた男で、目鼻立ちははっきりしていて、よく動くいきいきした目をしていた。土曜日に、カモ猟でのちょっとした冒険について話をしているとき、彼は皿を割ってしまった。何かいうたびに必ずあごをしゃくってテーブル全体を見まわし、目に緑色の光をたたえて同意を求めるのだ。宿の女主人は部屋の出入口にいて食事の様子を監視しながら、「アンリ、そう興奮しないで」とか「アンリ、そんなにそうぞうしくしなくても話できるでしょ」といっていた。正直な男で、実際にそうすることはできなかった。つまらないことにも目を輝かせ、拳でテーブルをたたき、大きな声が雷鳴のようにひびきわたった。こんな爆弾のような男は見たことがない。悪魔がとりついていたのではなかろうか。彼にはお気に入りの表現が二つあった。状況によって「それは論理的だ」か「論理的じゃない」というのと、もう一つは、長い話を朗々と語りはじる前に横断幕を広げるようにちょっと虚勢をはって「俺はプロレタリアなんだ、諸君」という。実際に、彼は労働者そのものだった。パリの街で彼が銃を構えるなんてことがなければよいと切に思う! 人々にとってろくなことにはならないだろうからだ。

この二つの言いまわしは、彼の階級の長所と短所を、そして、ある程度はフランスの長所と短所を表している。自分が何者なのかを公言し、それを恥ずかしく思わないのはよいことだ。とはいえ、それを一晩に何度も口にするのはよい趣味とはいえない。同じことを公爵なんて立場の人がやったとしたらひんしゅくものだが、こういう時代に、労働者がそうすることは尊敬に値すると思う。その一方で、論理を信頼しすぎるのはほめられたことではない。とくに自己流の論理をふりかざすのは一般的にいっても間違っているからだ。言葉や学のある人を信頼するようになると、どこで終わりにすべきかがわからなくなってしまう。人間の心には公正な何ものかが存在していて、それはどんな三段論法より信頼できる。人間の目や共感や欲望は、論争では決して語られることのないものを知っている。根拠なんてものはブラックベリーほどにもたくさん存在し、げんこつを一発くらわせるのと同じように、どっちの側の正義にもなりうる。教義はそれが証明されることによって真偽が明らかになるのではなく、賢明に用いられている限りにおいて論理的であるにすぎない。有能な論争家が自分の根拠が正しいことを有能な将軍以上に証明することはない。フランスは一つか二つの立派な言葉に振りまわされているが、どんなにすばらしいものであっても、それは単なる言葉にすぎないと得心するには多少時間がかかるだろう。そのことに気づけば、論理というものはそれほどおもしろいものではないとわかるだろう。

ぼくらの会話はまず、その日の狩猟についての話からはじまった。村の狩猟者たち全員が村の共有地で勝手に鉄砲を撃ちまくれば、礼儀作法とかと優先権といった多くの問題が起きるのはいうまでもない。

「ここがその場所だ」と宿の主人が皿を振りまわして叫んだ。「ここがビート畑で、それから、俺はここにいて、前に進んだってわけ。で、諸君」 さらに説明が続く。大きな声で修飾語や言葉を重ねる。話し手は共感を求めて目をきらめかせ、聞き手は皆、騒ぎを起したくないので、うなづいてみせた。

北部から来た血色のよい男は自分の言い分を通した武勇伝をいくつか披露した。その相手の一人は侯爵だった。

「侯爵」と、私はいったのさ。「一歩でも動いたら、あなたを撃ちますよ。あなたは間違ったことをしたんです、侯爵」

すると、すぐに反応があった。侯爵は帽子に手でふれると、そのまま引き下がったのだ。

宿の主人はやんやと拍手喝采した。「よくやった」と彼はいった。「あんたはできることを全部やった。やつは自分が間違っていたのを認めたんだ」 さらに罵詈雑言が続く。宿の主人も侯爵なんてものが好きではなかったのだ。こんな調子だったが、ぼくらのプロレタリアたる宿の主人には正義感があった。

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