現代語訳『海のロマンス』34:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第34回)


(前回までのあらすじ)太平洋横断中に明治天皇が崩御され、サンディエゴ到着後には上陸した船長が失踪するという前代未聞の出来事が相次いで起こりましたが、今度は航海士が急死します。

意気揚々たる世界一周航海の前途に、なにやら暗雲がただよってきた気配です。

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先帝をしのぶ

「本日午後二時ごろ、いま当地を視察されている竹越代議士が来船されてスピーチをされることになっている……」という一等航海士の説明が、九月六日の朝に与えられた。

母国においてならばいざ知らず、五千里も離れた異国において、しかも国内外の五千万の国民が等しくやるせない思いを抱いて暗く沈んだ心でいるときに、日本の政界の一方の論客として知られた知名の士を迎えるのは、少なからず心強く、またなつかしく思われる。

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現代語訳『海のロマンス』33:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第33回)


太平洋横断に成功し、無事に米国西海岸南部のサンディエゴに入港した大成丸ですが、あろうことか船長が行方不明になるという前代未聞の事件が発生します。
しかも、不幸はそれだけにとどまらず……

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船長、船に帰らず

船の乗組員一同の敬愛と期待との中心をなせる船長の上に何かの異変が生じたという風説が、誰いうとなく隼(はやぶさ)のごとく船の中に広まった。九月二日の午前(ひるまえ)である。船長が八月三十一日入港と同時に上陸したまま陸上にあって、杳(よう)として消息がわからないのは確かな事実である。

ある者はいう。船長は急性脳膜炎で入院したと。他の者はこれを修正して、船長は過労の結果、意識の混乱をきして自刃(じじん)したという。何にしても、おそるべき、悲しむべき、心痛すべき惨事(ざんじ)である。前途悠遠(ぜんとゆうえん)な大使命の端緒(たんちょ)において容易ならざる蹉跌(さてつ)である。悪運である。百二十五の子弟後輩はそのために困惑して、ただ次に来たるべき結果の範囲や程度の広狭深浅を忖度(そんたく)するとき、悄然(しょうぜん)として意地悪き運命の黒き手を呪(のろ)わないわけにはいかなくなった。

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現代語訳『海のロマンス』32:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第32回)
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サンディエゴの名物

クラゲとガラガラヘビと火事は、ここサンディエゴの名物である。しかし、『名物にろくなものはない」という諺(ことわざ)は茫漠(ぼうばく)たる北太平洋を超えて、五千里離れたアメリカにおいてもなお、少なからぬ権威を持っている。

(上)クラゲ

サンディエゴ湾はわずか四町ないし六町*1の幅をもって、十二海里*2も奥に突入しているところであるから、一日四回の満潮干潮の際は、非常な速力で潮が流れる。だから小舟やボートなどは、よほど気をつけていないと、思わぬところに流されることがある。このボートでの上陸のつど、美しいと感じるのは、速い潮流のまにまに漂い流れているクラゲの大群である。中秋の空のような瑠璃(るり)色に光った帽子くらいの大きさのやつが、鉄色に濁った水の中でヒレを伸縮させながら続々と流れ去っていく。壮大にして秀麗な天然の一大(いちだい)象嵌細工(ぞうがんざいく)である。

*1: 町 - 長さの単位で109.09m。四町~六町はほぼ436~654メートル。
*2: 海里 - 長さの単位で1852m。十二海里は約22キロメートル。

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現代語訳『海のロマンス』31:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第31回)
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お世辞しばり

墨絵の龍を壁間の軸にとばした狩野派の元祖はなかなかえらいと、印象派の画家は言う。サンディエゴ停泊の短時間に、いわゆる米人かたぎなるものを洞察した自分はさらに偉いかもしれぬ。

八月三十一日、練習船がパイロット(水先案内人)を乗せ、検疫(けんえき)を済ませて、コロナドビーチの砂嘴(さし)を右にまわったとき、大工小屋のような海務所から、あわてて飛び出た一人のアンクルサムが、例の星模様、青白だんだら縞の国旗を半分下げて丁重に挨拶をしてきた。思いがけないところで、思わぬ人から、予期せぬ温かい握手をうけたような印象を与えられて、思わず乗り組みの士官学生をして破顔せしめた。オヤと、張りつめた心のタガがゆるみはじめたような、キツネにつままれたような変な気持ちになる。片鱗(へんりん)はそろりそろりと出現する。

船がいよいよ進んでサンタフキーの埠頭(はとば)近く、例の五百四十貫の大錨(おおいかり)を投げこんだとき、かの有名なホテル、デル・コロナドの尖塔(タワー)からヒラヒラと、うれしい日の丸の旗が翻(ひるがえ)った。ここにも、人をそらさないアンクルサムかたぎがほの見える。墨はようやくその濃淡や光沢をおびてくる。

今日は九月一日である。停泊して最初の日曜である。日曜は祈祷(きとう)と遊山(ゆさん)とお饒舌(しゃべり)とに、なお長い常夏(とこなつ)の明るい時間を利用するのがヤンキーである。物好きな連中がたくさんやってくるだろうと、いささか心構えてしまう。

まもなく、他人が予期し、心構えをするとき、その心構えを現実にすることで生じる愉快と満足とを与えるのは二十世紀の紳士淑女の作法であるとばかりに、続々とやってくる。

午後の二時ごろともなれば美しく着飾った人々が、イヤというほどガソリンエンジンのボートを寄せてくる。来る奴も来る奴も、舷(げん)から降ろしたはしごを上るや否や、いきなりナイスシップという。「汝(なんじ)の親切なる案内によって美しき汝(なんじ)の船を見んことを望む」とかなんとかと言う。世に金縛(かなしば)りという語がある。拝(おが)み倒(たお)しという方法がある。が、世辞(せじ)しばりという外交的秘法はあまり聞いたことはない。

案内員というありがたい役目を頂戴(ちょうだい)し、これぞと思う一群を案内する。梯子段(はしごだん)を上るとき妙齢の一淑女が無言のままサッと白い手(て)をさしだし、遠慮会釈もない様子に、自分の判断力に少なからざる混乱が生じた。危うくも平素(へいそ)自慢の機知(ウイット)が本物かを問われそうになる。それで、黒いヴェールの奥の、まつげの長い涼しい眼を見つめる。青い練(ね)りようかんのような双眸(そうぼう)は静かに澄んで何らの冒険的の閃(ひらめき)を示さない。紅薔薇(ウインターローズ)のような頬には、何ら羞恥(はにかみ)の色が見えぬ。顔全体に何ら動揺したような様子もない。どうも女らしからぬ心理状態をのぞいたような気がする。

言問(こととい)に行って団子が出る以上は、江ノ島に行って貝細工を売りつけられる以上は、梯子段(はしごだん)を上るときは男の手にわが手を託(たく)すべきであるという論理で決意した手の出し方である。そういう顔をしている。「降るアメリカに……」とかなんとか、いきどおってなげいて自刃(じじん)した日本の娘に比べると、大変な差異(ちがい)である。このように腹の中で東西の婦人の心性比較論をしていると、すぐ耳元でグッドルームと言う。

見れば、一同は海図室の前に集(たか)っている。進んで士官のサルーンをのぞいては「プリティ」といい、無線電信室を見ては「フィックスドアップ(整理されている)」という。尻がむずむずして薄気味がわるい。

機関室(エンジンルーム)の前に来たとき、見るつもりかとたずねる。例の危なそうな鉄格子や、いかめしい鉄バシゴをみて、しきりにかかとの高い靴や白い長いスカートを気づかっているようだ。気をきかして、婦人(レディー)の入る場所ではないと言えば、しかしクリーンであると言う。眉をひそめながら、口で笑うという、ちょっと日本人には真似のできない矛盾した表情を巧みにやってのける。

連れのヒョロ長い大男が、金巻のハバナたばこを出して、吸えと言う。タバコはきらいだと答える。酒は飲むかと言う。頭(かしら)を横に振ってみせる。「よい習慣だ」と、くる。誠にもってやりきれない。何と言ってもほめる。どうやら世辞(せじ)しばりになりそうである。たぶらかされるものかと、ちょっと深刻な顔(グレイブ・フェイス)をしてみせる。が、そんなことではへこみそうもない。「君の制服(ユニフォーム)は具合よく(カンファタブル)見える」には参った。三等羅紗(らしゃ)十五円の冬服は、思わぬ知遇を感じたか、うららかな午後の日光に照らされて、ユラユラとのどかな陽炎(かげろう)を吐きながら、やや黒光りする。

最後に上甲板に出たとき、いきなり落花生の袋のようなダブダブしたズボンのポケットに毛むくじゃらの手を突っこみ、二十五セントの銀貨をとりだして、無造作に握らせようとする。少なからずシャクにさわる。「日本人は清廉(せいれん)の君子(くんし)である」とか、「お金は人心を俗化し、詩歌(しいか)の醇境(じゅんきょう)を蹂躙(じゅうりん)する厄介な物である」などと説明し納得させたいが、自分の腕前では、あいにくそんなむずかしいことは言えそうもない。しかたなく、簡単に「わが練習学生はこのような厚意を辞退すべき苦しい立場にいる」とやる。

「グッドボーイズ」と景気よく返事だけはするが、目に表れた疑問のひらめきは明らかに、おのが労力に対する報酬をこともなげに捨てて顧(かえ)みない、不思議な小人国の民の心理状態をいぶかしむような心の乱れを示している。

かくて、約半時間のお世辞しばりの後、この厄介きわまる連中は、惜しげもなく、完全なアメリカ人の考え方についての黙示(ヒント)を与えて、タラップを下りていった。ガソリンエンジンのボートに乗り移ったとおぼしきころ、グッドバイと、さらし飴(あめ)が南風に吹かれたような調子の甘ったるい別辞(フェアウェル)が聞こえた。

その晩、舷窓(スカットル)を通してはるかに水に映ずる黄や青のキネオラマ*1のような灯影(とうえい)をながめながら、温かいボンク(寝床)に横たわったとき、次のようなことを考えて、今日の西洋人の所作と、新聞や雑誌に現れたヤンキーの性格と、前回のサンピドロ航海の際における観察とを総合して、想像力と理解力と、牽強(こじつけ)学との濾器(フィルター)を通して、アメリカ人(アンクルサム)の観念は、おおよそ次のように五つに分けることができると思った。

*1: キネオラマ - 明治時代に流行した、小さな人工物の風景などに巧みに光を当てて楽しませた興行物。

第一は、表情と愛嬌が豊かで卓抜した人と人との交際についての観念である。これは今までの説明でほぼ説明できたつもりである。

第二は、各個人の権利義務を重視する自己中心主義によって、容易にその権威を無視する国家というものについての観念である。

第三は、ミス時代とミセス時代とによって、社会道徳が豹変(ひょうへん)するその家庭的観念である。

第四は、殊勝にも、世界はみな同胞(どうほう)、人種平等をモットーとする、その宗教的観念である。

第五は、夫婦間においてさえも出納会計を区別するという、その商業的観念である。

この厄介な五つの、それぞれ独立し、ときとして矛盾したもろもろの観念を包含(ほうがん)し、巧みに時と場合に応じて、それぞれに使い分けるヤンキーは、たしかにジャグラー操一(そういち)*2くらいの技量はあるとほめてやるべきである。

*2: ジャグラー操一 - 明治期に縄抜けなどの演目が人気を博した奇術師(1858年~1924年)で、欧米にも巡業した。

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現代語訳『海のロマンス』30:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第30回)


手紙とみかん

オイスター湾の牡蠣(かき)の味と船乗り生活とは一生涯忘れられない、という説がある。さもありなん。乞食(こじき)も三日すればやめられないということがあるからなあ、などと茶化すものは、一度でも永い永い空と海しかない長距離航海の後の手紙と漬物との味を知るがよかろう。

もうあと二、三日でポイント・ロマの灯台が見られるという頃から、室(へや)の空気はにわかに色めきたって、朝晩の話という話の中心はみな、上記二つのものに帰着してしまう。

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現代語訳『海のロマンス』29:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第29回)


(前回までのあらすじ)大成丸はついに最初の関門である太平洋横断をなしとげて、米国西海岸のサンディエゴに到着しました。
実は、ここサンディエゴで、船長が失踪するという前代未聞の事件が起きるのですが、それまでは太平洋横断の余韻がしばらく続きます。


サンディエゴ入港

ある者は、寒すずめのふくらんだ毛のようだという。ある者は、病み上がりの定九郎*1みたいだという。なんにせよ、すころぶ物騒な頭である。見る人の視覚に、混乱と恐慌とを生ぜしめる代物(しろもの)である。なぜ在留日本人がそろいもそろって、ほかに選びようもあろうに、こんな危険な頭髪(あたま)の刈り方をするのか? それはわからぬ。わかっても、断りもなく、他人の心理状態に立ち入ってこれを是非するのは、温和主義・非人情主義の船乗りにはだいそれた企(くわだ)てである。人の頭髪(あたま)の心配どころか、こちらは、自分の頭の上のハエにさえてこずって、つい先だって、貴重な時間と有限のエネルギーとを、あわれ一本のサイダービンと交換したような体たらくである。しかし、角刈り、フランス刈り、クラーク式などいう恐ろしい刈り方が世にときめくこの頃、ことさらにお椀形のアメリカ刈りだけにするのはちと理(もの)がわからぬと言わねばならぬ。

美しき花の丘として、月涼しき海沿いの山として、長き年月、吾人の耳に親しかりしロマランド*2を巡(めぐ)って、くの字なりに深く潜入したる、風軟(やわ)らかに波静かなるサンディエゴの良港に入りかけたとき、熊谷(くまがい)*3もどきにオーイオーイと帽子を振りながら練習船に近づいてくる、日章旗を立てた一隻の小型船(ランチ)があった。

一時間十ノットの全速力で入ってきた練習船は、ここに至ってようやく船足を緩め、水先案内船(パイロットボート)が来るのを待つ。小型船(ランチ)は十年ぶりに生き別れした子供が、偶然(ヒョイッ)と親にめぐり合ったように、懐かし気にすり寄ってくる。

想(おも)いは同じである。館山(たてやま)を出てから水と空とのほか、帆の影一つ見なかった乗組員が、四十五日ぶりに五千海里離れた異国で黄色い顔を見、大和言葉(やまとことば)を聞くのはちょっと他の人には想像できない嬉しさである。この嬉しさと、わざわざ出迎えてくれたありがたさとに、船が(水先案内船や検疫船などに比べて)汚く見すぼらしいことを忘れた。黄色い、光沢(つや)のない顔を忘れた。見るからに小柄で不格好な風体(ふうてい)を忘れた。例の物騒な頭の髪(け)などはもちろん気づかなかった。

すべてを忘れつくし、すべてを度外視したときに、明確にただ一つ自分らの目に入ってきたものがある。出迎えの日本人の右腕にまいた黒い腕章である。国家的哀傷(あいしょう)の悲しき唯一のシンボルである。このしめやかにして、おとなしく、陰気なる印象(インプレッション)を与える喪章をまとった人は、同じく真剣で敬虔(けいけん)な眼(まなこ)をあげて船尾の半旗を見上げている。やがて、太平洋の潮を超えてやって来た海の人と、ポピーの花が咲き乱れる異国の地で祖国のために奮闘している陸(おか)の人とは、この二度となき荘粛(そうしゅく)にして悲痛なる雰囲気の下に、なつかしさを抱いて握手する。

例の越後獅子(えちごじし)の頭を朝風に振りたてながら、日本人の長を先頭に順次、まじめな敬意と軽快(ブライト)な歓意(かんい)とで複雑な表情を浮かべた十二、三の顔がタラップを登ってくる。長髪といがぐり頭とが、三尺の間隔をおいて対面し、互いの発する一語一語に心ゆくばかり慰められる。

白地に赤く鮮血をほとばしらせたような、鮮やかに輝く、なつかしい日章旗が港内の水に映(はえ)るとき、また、それに前後して、かの有名なコロナドホテルの尖塔(タワー)に同じ国旗が翻(ひるがえ)ったとき、五百人の在留同胞は。歓喜の潮(うしお)と軽い誇り(プライド)の念とで胸が一杯になった、心強く感じたとのことである。

もっともである。しかし、あの頭髪(かみのけ)だけは、すこぶるもっともではない。

聞くところによれば、西洋ではいがぐり頭は囚人の典型だということである。囚人と同列視されるのは迷惑ではある。しかし、あのお椀のような髪型は身体のためにもよくあるまい、よく逆上(のぼせ)ないことだ、よくうっとうしくないことだと思う。自分は心の中で盛んに同情を寄せているが、本人たちは一向に平気のようである。

で、自分はここに「なるほど外国だな」という最初の印象(インプレッション)を、丘からではなく、港からではなく、いろいろさまざまな多稜形(たりょうけい)の市街から得たのではなく、この偉大なる髪の刈り方から得たことに多大の敬意を表するのである。



脚注
*1: 定九郎 - 歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の斧定九郎を指すか。
定九郎は敵討ちという忠臣蔵の本筋には関係のない端役にすぎないが、中村仲蔵が演じたことにより一躍存在感のある役となった。


*2: ロマランド - ポイント・ロマ(サンディエゴ港を太平洋の荒波から守る形になっている岬)には、当時、神智学協会のコミュニティが作られていた(1900年~1942年)。ポイント・ロマ・ナザレン大学(ナザレ派キリスト教系私立大学)がその一環で創立され、現在は郊外の緑豊かな文教地区になっている。


*3: 熊谷 - 歌舞伎の熊谷陣屋(くまがいじんや)に出てくる源義経(みなもとのよしつね)の家来の熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)。

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現代語訳『海のロマンス』28:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第28回)


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有人情と非人情

ふっくらとして、風の音をさまざまに響かせ、なんとも心をなごませる、美しい湾曲率(カーバチュア)を持つ薄鼠(うすねずみ)色の三十二枚の大きい小さい四角三角、もろものの帆がいきなり練習船の空から消え去ったときの心持ちは、なかなか簡単には言い表せない。

今日まで狭く限られて見えた青い空が、今や何の遠慮もなくドーム形に重く頭上におおいかぶさり、大きな青い眼にヤッと睨(にら)まれたように感じた。今までにぎやかに帆や索具(ギア)に飾られていた黄色いマストは、青い蒼空(そら)に向かって心細く細り、一時にありとあらゆる葉を振るい落とした冬枯れの銀杏(いちょう)のように、寒いという感じをしみじみと味わわせる。

愛宕山(あたごやま)の石階(きざはし)のような険(けわ)しい鉄バシゴを降りて、蒸籠(せいろ)の底を渡るように、鉄棒を編んだ床を踏み、地獄の底のような機関室(エンジンルーム)を訪問する。汗と脂(あぶら)で菜っ葉服(なっぱふく)をぐっしょり濡らした機関士がセッセと気圧計(プレッシュアゲイジ)を測り、シャフトの回転度数を計算している。ピストンロッドの直線運動(ライナーモーション)、がっつりシャフトを包み込んだ連接棒(コネクティングロッド)の単弦運動(シンプルハーモニックモーション)、バルブギアの偏心作用(エキセントリックモーション)、すべての方向と、すべての性質と、すべての目的と、すべての効果とを有する地球上のすべての運動が、このせまい脂くさい暑苦しい一室に集められたかと思うほど、目まぐるしく、しかし音もなく滑り動く様子は、天下の奇観である。

自分──この古くさい前世紀の遺物と思われる帆前船(ほまえせん)に乗っている自分──は、文明の刺激とか圧迫というものが恐ろしく、嫌いである。しかし、こうやってフラフラと上甲板から五十尺下のエンジンルームにやってきた自分を自ら見出したときには、気まぐれなそのムードを詮索する暇もなく、なぜかある自覚が胸に湧いた。馬の尿(いばり)が俳趣ありとみられ、牛の尿がのどかなる古都の春を叙する詩材となるというのであれば、せわしく、せちがらく動く現代文明の権化の中から、ゆったりした平安(のどか)な、人事を超越した思情(しじょう)や情緒などが浮かんできたとしても、さほど突飛ではないと思う。なんとなく見ている目に、耳に、胸に、調和した平滑で新鮮な感じを与えられたようで、喜び勇んでボイラールームに向かう。

ガチャンと地獄の窯(かま)の蓋(ふた)を開くように、扉(ドア)をはね上げたとたんに、サーッと蒸し暑いほこりが横ざまになびいて、眼といわず鼻といわず、口や耳の区別なく、あらゆる顔面上の出入り口を封鎖して、顔が熱風に包まれたような気がする。見よ、今や煌々(こうこうと)と燃えるような火の光に射られ、赤鬼のように彩られた顔をもたげ、まさにショベルをふるわんとする一火夫(かふ)のその姿勢! その筋肉美!

ここにも男性美、奮闘し精力の限りをつくしている姿を目撃し、狐にだまされたようにポカンとしてデッキに出ると、ロッキーおろしの涼風が面(おもて)をなでて、大成丸はすまして脇目もふらず波を切って進んでいる。

館山(たてやま)を出発し、波を友とし、雲を仲間としてから、ここまでちょうど四十五日、またもや、ちょっと変わった娑婆(しゃば)くさい風に吹かれる運命(さだめ)となった。

その四十五日間の波の上の生活(ライフ)! すべての人は異なっている。すべての顔と、異なっているすべての性格と、異なっているすべての経歴とを有するごとく、異なれるすべての生活の意義と状態とを有しなければならない。しかしそれは、毎日、真水で入浴でき、料理屋に行って食事ができ、新聞という文明の利器によって座(い)ながらにして天下の大事を知りうる陸上(おか)の人の間にのみ用いられる約束である。解決である。

地獄の沙汰(さた)も金次第とは、今までどこに行っても通用した権威(オーソリティ)を持っていると思ったが、それは大間違いであった。ここに一つ銀(しろがね)のネコをもてあました西行(さいぎょう)のような一民族が水の上に暮らしている。この百二十五名の人々は、それぞれ異なる運命と、使命と、心性とをもって、十把(じっぱ)ひとからげに積みこまれた。一個の口をきく貨物(カーゴ―)としていったん積みこまれた以上は、いくら泣いても追いつかない。

海上の大成丸という、絆(きずな)、人情、義理、社交など一切(いっさい)娑婆(しゃば)との交際(いきさつ)を断絶した一つの大きな円に内接して──しかし、自分は運命論者ではない、隠棲(いんせい)論者でもなく、議論はきらいで、しごく内気なおとなしい質(たち)である──百二十五もの多くの人間の小さな円が互いに切りあって抱き合って、しかも合理的(ラショナル)に、共同的に、非個人的に、グルングルンと同一速度で、同一方向に回転している。

金のないものもあるものも、ヘラクレスのような屈強な男も小男も、天才も凡庸(ぼんよう)も、みな同じ供給と待遇とを受ける。すこぶる公平である。同じ扱いを受け平等である。客観的である。非人情である。抜け駆けの功名はしたくても海を相手ではたかが知れている。のれんに腕押しである。勢い、共同的、普遍的、客観的、十把(じっぱ)ひとからげ的になる。勢い、のんきに、無競争に、無刺激に、無敵がいに、非人情になる。ありがたい。

しかし、ようやく人くさい匂いや、娑婆(しゃば)くさい匂いがしだすと、もう駄目だ。たちまちムラムラと謀反(むほん)気が起こる。野心が起こる。競争が起こる。大伴黒主(おおとものくろぬし)的になる。佐々木高綱(ささきたかつな)式になる。なまいきに言えば主観的になる。有人情になる。百二十五の小さい因果円は自らその連鎖をほどいて、てんで勝手に気ままな方向に運動しはじめる。やがては大成丸という大きな外接円を突き破ろう、はね切ろうと飛び上がる。いよいよ船が港に着いたときは、きわめて主観的になる。きわめて人間くさい「有人情」になる。大接円のタガがハチ裂けるのはこのときである。

百二十五もの多くの小さな円は、これ幸いとばかり、どっと主観的に、有人情に、みなそれぞれに、いろいろの方向に飛び去る。どこへ行くかわからない。自分もまたこの飛び上がったアメーバーの一小円である。サンディエゴ停泊中は、いきおい主観的にならざるをえない。

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現代語訳『海のロマンス』27:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第27回)

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けたたましい警鐘

三日間にわたる真無風(デッドカーム)と、二日間続いた時化(しけ)とで、十分に海の持つ両局面を体験した練習帆船・大成丸は、二十八日の午後からまたまた北西のカリフォルニアの沿岸からの順風をうけて、一時間に九海里半という快速力で、怒れる牡牛のように疾駆(しっく)した。

二十八、二十九と三百三十海里を二日で走破し、カリフォルニアのケープホーンとして有名な、コンセプション岬は二十九日の真夜中に走りすぎた。空に雲はなく、水平線の波は低いが、三十日の朝は少し朦朧(もうろう)とした天候(ミスチー)であった。イルカの眠り静かなるサンタバーバラ海峡に、絵のように横たわるサンタロサの青い島影が見えないかと、右舷船首(ポートバウ)は時ならぬ賑わしさを呈する。

「島がッ!」という、鋭い声が、ついに六時に見張り(ルックアウト)の口からほとばしり出た。心をこめた人の思いはさすがさすが。そこにあるのかと思って眺めれば見えるような気がするし、なに、まだ島なんか見えるものかと否定すれば、眼もまた否定することになる。とはいえ、かすかに薄く、夢のように島らしい幻影(まぼろし)がほのかに見える。やがて、七時、八時となれば、レースのカーテンをすかして人を見るような影像(かげ)が、ようやく眼前に迫ってきて、「島よ」という思いがひしひしと人々の胸に通う。遠望することが役目の見張り(ルックアウト)の頬には、少し得意そうな表情が浮かんでいる。

二重底(ダブルボトム)を持ち、水密隔壁(バルクヘッド)を備え、高い復元性(スタビリティ)を有する練習船は、このごろ盛んに物騒になった海のお化けの氷山を除いては、公海(オープンシー)においては、おそれるものはない。衝突は岸の近くで起きることで、男らしい生業こそ船乗りだと、とっくに承知している。

ただし、ここに船火事という赤いテンペスト(嵐)のあることを、ときどき承認しなければならないのは、すこぶる苦しいムードである。中国神話の火の神である祝融(しゅくゆう)が火を使って煮炊きすることを教えて以来、プロメテウスが天界の火を盗んで人間に教えて以来、東西古今を通じて火宅の災変(さいへん)は、人間くさい、娑婆くさい陸上(おか)のことと限られていたが、油断は大敵である。高級なヴェールやオペラバッグなどが盛んに幅を利かす二十世紀の世の中である。祝融(しゅくゆう)氏といえども、また海上に出店をこしらえざるをえないのでないか。従って本船でも毎週一回ずつ火災訓練が行われる。

軽佻(けいちょう)にして茶目っけのある、若々しく元気な夏の朝の大気をふるわせて、乱調子なけたたましい警鐘(アラーム)が、できるだけあわてろ、ふためけ、とばかりに鋭く響く。練習とは知っているものの、心臓のやつが火事だ火事だとそそのかすように鼓動する。足は自然に急げ急げとばかりに宙におどる。始末に負えない。それとばかりにハチの巣をつついたように、十六の船室(キャビン)から練習生がブンブンと飛び出す。長バシゴをかつぎ、かけ声も勇ましく、それぞれ決められた部署(パート)へ定(き)められた品物をとってかけつける。手斧を持ち長靴をはいて火災場に駆けつける者、水に漬けたモップを降りまわす者、火災用ポンプや甲板洗い用のポンプ、一号および二号の大型ポンプを操作しようとする者、ホースを引っ張ってくる者、バタバタとしているものの統率をとって直ちに想定された火災現場に数本の筒先を向けてしまう。

たくましい百二十五名の身体から送り出される精気(エネルギー)の放散、飛び交う号令、力こぶの発現。

眼に入るすべては興奮していて、男性的葛藤の表現でないものはない一大修羅場の空気が伝わってくる。そこに、「待て──」という凛とした声が響いた。すべての極限まで発せられていた活力はすぐに消え、静寂が支配する。「火災は前部洋灯(ランプ)部屋ぁ──」という甲高(かんだか)い一等航海士の声が響いて、再び元の騒々しさが戻ってくる。かくして「打ち方はじめ」の号令で、すさまじい水柱がほとばしり出る。

今日はいよいよロマ岬を望むという頃、この訓練は何の予告もなく行われた。訓練後、船長は全員を前部船橋の下に集めて、重々しい声の調子で講評をされた。十点法で採点すると、火災用ポンプが五点、一号ポンプは故障で問題外、二号ポンプは九点という成績であった。

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現代語訳『海のロマンス』26:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第26回)


海洋の変化

雲行けば船も従い、船行けば雲もまた追って、紫紺(しこん)の海に銀(しらがね)と咲く潮(うしお)の花を眺めくらしつつ、今日ははや三十八日の汐路(しおじ)を重ねた。

弓を引いては発し、引いては射るといったように、風は絶え間なく変化する。あるときはごうごうと音を立てる猛烈な台風となり、あるときはすね毛の根本にまつわりつく気流のくすぐりほども感じさせない。はるかな海底からこんこんと湧き出てくる潮(うしお)の脈拍。あるときは渦を巻き、みなぎるように沸き上がり、その堂々たる響きは赤き血潮(ちしお)の色も濃い船乗りの血管にも強く共鳴し、あるときは腕達者で繊細な、さざ波のように途切れずに続く音(ピアノ)となって、その何とも言えない妙なる音は、空想にふけるマドロスの胸に奥ゆかしい海の琴の音を伝える。

朝になると明けの明星も姿を隠し、夕べには月の光に照らされる。海の変化は秒を削り、分を割りて、なお一瞬時のいとまを与えない。

今や練習船大成丸は静かに太平洋のうねり(スウェル)に揺られながら、二度目の真無風(デッドカーム)を味わっている。四本のマスト、十八本のヤードは再びスウェーデン式体操やスパニッシュダンスを強いられる苦しい羽目にあるのである。

つい昨日までリギンは風に鳴り、バウは波に吠(ほ)え、弓を離れた矢のように、一時間八海里も走ったのを思えば、うそのようである。

帆船にとって、風がなくなり船が進まなくなったことほど、心細く、また哀傷(みじめ)なことはないだろう。見渡す限り空は一面の瑠璃(るり)色に染められ、水平線のかなたには干からびたような雲が不機嫌そうな面(つら)をさらしている。海の面(おもて)は、ありとあらゆる波の起伏的行動(モーション)を封じ去って、大小高低さまざまな波浪はネプチューンの巨砲に削られたようになめらかで、少しの変化もない。風といえばアホウドリの胸毛をゆるがすほどの力もなく、速度を調べる側程儀は引き上げられ、大小三十四枚の帆(セイル)は一斉に意気地なくマストにへばりついて、天地の間に見えるものは、ことごとく倦怠(アンニュイ)と退屈(ダル)との象徴(シンボル)でないものはない。油を流したような海とはこのことであろう。なだめられ、すかされ、だまされて泣き寝入りになったように……。おとなしいと言うより、むしろ無気力の沙汰(さた)である。

海はこのように恭順(きょうじゅん)の体を示しているのに、ここにうねりというつむじ曲がりの彰義隊(しょうぎたい)が控えている。風がへこたれ、海は変わってしまった、そっちがそうなら、……と静かに収まっている水の層を、その平らになろうとしている水の重さに逆らって、むりやりに上下に揺すりはじめる。そのたえざる微動が薄い水の表面を破らない範囲内において、はるか遠くから伝わってくる力を強く感じられる帆船は、汽船や軍艦に比べて、一層安定(ステイブル)である。さらに大なるスタビリティ―を持っている。本船のGM値*1は実に三フィート二インチ余もある。うねりが来ると、二千四百トンの大船も、くすぐられるように竜骨(キール)の下からユラリユラリと持ち上げられる。

見渡せば、船の横動(ローリング)に応じて、マストやヤードは皆それぞれに勝手気ままな方向(むき)にダンスをやっている。前檣(フォア)のやつは盛んにポルカをやっている。負けるものかと中檣(メイン)のヤードは浮いた浮いたとカドリーヌをやる。後檣(ミズン)のやつはと見ると、皆さん陽気に騒ぎましょうとばかりに、コチロンをやっている。御大喪(ごたいそう)中であるぞ、控え! とどなっても、帆柱(マスト)とうねり(スウェル)との妥協である。いっかな聞きそうにない。とにかく、波長の長いうねり(スウェル)は船乗りにとって鬼門である。

無風(カーム)で相当に苦しめられた船乗りは、またさらに苦しむべく、ここに時化(しけ)なるものを迎えなければならない。なんとも因果なことである。

一番上に展開するロイヤルはもう前の初夜当直(ナイトワッチ)に絞られた。風力七*2となる西方の疾風(ゲール)はヤードリギンに当たってビュービュー悲鳴を発し、海は夜目(よめ)にも目立つ雪のような波頭をいただいて震え走るのである。

怒り、狂い、焦(じ)れ、騒ぐ、北太平洋の広大な海域を伝わってきた波浪(なみ)は、相手ほしさのその矢先で、恐れる気配もなく乗り入れた二千余トンの帆船の鋭い船首(ステム)で、むざと二つに切り破(わ)けられた腹立たしさに、憤然としてガンネルを噛む勢いものすごく、ドシンと舷(ふなばた)に当たりざま、たちまち三千尺の高さに跳ね上がる。それを待ち構えたように、意地の悪い烈風がそれとばかりにけしかける。

軽佻(けいちょう)な波は、この尻押しのおだてにたやすく乗せられて、何の容赦もなく大きな煙突のような藍青色(エメラルドグリーン)の長い大きい水柱が水煙をたてて踊りこむ。リギンに時ならぬしぶきが散り、甲板はたちまち泡立つ海となり、洪水のような海水が滝のように風下の方へ流れ走る。こういうとき、中夜(ミッドナイト)の夜話は例の怪談話をするのに最もふさわしい。今も左舷二部の当直員は二番船倉口(ハッチ)の周りに円座して、N氏の大阪川口の綿問屋木ノ吉の所有にかかる新造スクーナーの進水当夜の奇談に心を奪われていた。と、たちまち頭上の船橋(ブリッジ)から「ゲルン絞れ!」*3という士官の号令が凛(りん)として夜の沈静(しず)んだ空気を震わせつつ、高く響いた。

ハリヤードを延ばし、シートをやり、クリュ―ラインを引き、囚われた大鷲のようにバタつく帆を巧みにヤードにまで縛りつける。やがて「絞帆(こうはん)たため!」の号令が下る。

すわと、はやりきった心を沈めて猿(ましら)のごとくスラスラとリギンを伝う後ろから、海洋(うみ)の男性的素質(ネイチャー)の両極を見よとばかりに、礫(つぶて)のような獰猛(どうもう)な驟雨(スコール)が激しく洗い落すようにやってくる。驟雨(スコール)の過ぎ去った後のヤードを見上げれば、蒼穹(そうきゅう)を燦然(さんぜん)と散りばめている無数の星くずを、今にも払い落すように横動(ローリング)するマストの上で、雨に濡れてパンパンの板のようになった帆をたたみ上げるその速さ、その手練(てだ)れ。

陸にしがみついている人、セイラーを軽視する人にぜひ見せたい見事な光景である。



脚注
*1: GM値 - 船舶で、G(重心位置)とM(横揺中心)間の距離を指し、この値が大きいほど復元力が大きくなる。「(横)メタセンタ高さ」ともいう。

*2: 風力七 - 風の強さは一般に「ビューフォート風力階級」で示される。風力七は風速13.9m~17.1mで、風力階級表によると、海上では「波頭が砕け、白い泡が風に吹き流される」状態。
ちなみに、太平洋では風速が17.2mを超えた熱帯低気圧が台風と呼ばれる。


*3: ゲルン - トップギャランと呼ばれる横帆のこと。
横帆式の帆船では、帆(セイル)は、マストの下から順に「コース」「トップスル」「トップギャラン」「ロイヤル」と呼ばれる。数が多い場合はさらに細分化され、「アッパー(上)**」「ロワー(下)**」が付く。
強風で縮帆する場合、上の帆からたたんでいく。

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現代語訳『海のロマンス』25:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第25回)


人食い魚の来襲

船は昨日から暑気(しょき)にあてられた中風病みのように、ブラリブラリと二度目の無風(デッドカーム)を味わっている。

わが練習船も帆前船(ほまえせん)である。先年ドーバー海峡で不慮の災厄にかかった一万二千トン五本マストのバーク型*1のプロイセン号もまた帆船である。ホワイトスター社やキューナードや北ドイツハンブルグ汽船会社等の大会社の練習船もまた帆船である。何故であるか、帆船は石炭を食わぬから……と、世の一般の人々は即答するだろう。それも一つである。因数(ファクター)の一つである。しかし、必須の要点(エレメント)ではない。

わが練習船は大小三十二枚の帆の他に、わざわざ多くの不便と──純帆船に比べると高い──費用とを犠牲にして、立派な補助機関を持っている。時と場合とによってはドンドンと機走をする。氷を作る、電灯をともす。しかし、事情の許す限りは風の慈悲(マーシ―・オブ・ウインド)を頼りに帆走する。風の慈悲にすがるとは、風を受けて進むのを喜ぶだけではなく、風に置いてけぼりを食らわせられるのを喜ぶという気持ちである。真無風(デッドカーム)を楽しむの心である。

青い蒼空(そら)と赤い星(ほし)とを朝に夕にながめ暮らし、しかも単調(モノトニー)を感じないとき、数日にわたる真無風(デッドカーム)を味わって、しかも倦怠(ダル)を知らないとき、われわれは海に慣れたという。最もよく海に慣れたとき、最も長く真無風(デッドカーム)を経験したとき、六十万円の巨額*2を投じて建造された練習船の本来の使命はいかんなく遂げられるのである。このようにしてはじめて、練習船を帆前(ほまえ)にした意味があるというものである。

今本船は、この高貴で偉大な使命の一部を遂行するため、甘んじて無風のうちに逍遥(しょうよう)している。

無風になって、フカが来ないのは、フランス料理にカタツムリが出ないようなもので、コーランを読んでメッカに詣(もう)でないようなものである。物足りないこと、おびただしい。鉛色に悪光(わるびかり)した海は鷹揚(おうよう)にゆらりゆらりとうねって、これでも太平洋かと思わせる。笹舟(ささぶね)を浮かべて吹いたらツイツイと行きそうである。そろそろおいでなさるころだがと思う耳元で、「ホラ、来た」という喜びの声が響いた。

すわ敵が接近したかとばかりに身構える。指さす方(かた)にと眼をこらせば、さても面(つら)憎きまでおさまりかえった敵の振る舞いかな。鋸(のこぎり)の目のような鋭い背びれと、静かに極めて静かに平らに重い水面を破って進み来る様子といったら。美人がにやりと笑うのには不気味なものがあるし、暴君ネロの親切は薄気味が悪い。人食い魚(フカ)*3が静かにふるまう様子は……やはり、すごく恐ろしく薄気味が悪く感じる。船尾の舵で分けられた水が一面に白い軽い泡を吹き、その下に、海の怪物(モンスター)が悠々と長くしなる尾をヘビのようにくねらせている。薄茶の背は直下に見る海の透徹(とうてつ)した色に彩られて、美しい褐色がかって見え、その輪郭(アウトライン)に近づくにしたがって腹の一部分は目も覚めるような深緑色をしている。口とおぼしきあたりは、ただ銀色に光っている。あれで一口にパクリとくるかと思ったら、少なからず興が覚めた。

カツオ釣りの名人にして、アホウドリをとらえるのも巧みだった水夫長(ボースン)は、またこの怪魚の征服者として有名である。フカと聞いて、とるものもとりあえず駆けつけてくる。知己(ちかづき)になろうぐらいの勢いで、さっそく牛肉(にく)の一片を投げてやる。獰猛(どうもう)に寄ってきた怪物は、ユラリとその巨大な腹をひるがえす。その速さ! その軽さ! アッという間に、キラキラと青白く光って落ちていった肉はその巨大な口におさめられた

どうしても針にかからない。「外国のフカは利口だ」と、水夫長(ボースン)が嘆(なげ)く。このとき、一人が「あれ、きれいな小さい魚が──」という。船上から眺める多くの乗員の影法師がはっきりと海面に写っている。多くの眼が一瞬ひかる。ブリモドキとも呼ばれる水先魚(パイロットフィッシュ)である。萌黄(もえぎ)色の細長い体に、暗緑色のシマが見事に列をなしている、二尺ぐらいの小さな魚が四匹。ちょうどフカの案内をするように、鼻先をヒラヒラと喜遊している。どんなに腹が減ってもフカはとって食わないそうだ。それもそのはず、フカはこの魚をダシとして獲物を釣りよせ、水先魚(パイロットフィッシュ)はまた頭部の吸盤でフカに密着して旅行する*4とは水夫長(ボースン)の話(レクチャー)である。「それでは水先魚(パイロットフィッシュ)はちょっと、タバコ屋の看板娘という恰好(かっこう)だね」といって、一同を笑わせたものがいた。



脚注
*1: バーク型 - マストが三本以上あり、一番後ろのマストだけに縦帆を持つ帆船(前側のマストは横帆)。


*2: 六十万の巨額 -物価変動データに基づいて百年前の金額を現在の金額に換算すると、ほぼ二十億円ほど。が、この金額で同規模の帆船を新規建造するのは、現代ではむずかしいかもしれません。
ちなみに、大阪市が二十世紀末(1993年)に竣工させた三本マストの練習帆船「あこがれ」(現「みらいへ」)は、大成丸に比べると二回りほど小さいのですが、建造費は十四億円だったとされています。


*3: フカ -鮫(サメ)と同じ。一般にフカは西日本でよく使われ、古事記に出てくる因幡(いなば)のシロウサギの神話ではワニ(ワニザメ)とも呼ばれている。


*4: 吸盤で - サメとブリモドキが共生しているのは、本文にある通り。しかし、ブリモドキには吸盤はないため、この部分は同じように共生しているコバンザメとの混同があるようです。

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