スナーク号の航海(76) - ジャック・ロンドン著

最初に入港したのはマライタ島の西岸にあるスウーだった。ソロモン諸島は縁海(えんかい)*1で、島々や環礁に囲まれた閉ざされた海域にある。暗い夜には灯火もなく、暗礁が牙をむく。潮流も複雑に変化する海峡を航海していくのは非常にむずかしい。ソロモン諸島の北西端から南東端までの海岸線は一千マイルもあるのに、灯台が一つもない。その上、海図に描かれている陸地が正確ではないのだ。スウーがその例だ。マライタ島の海図では、この地点の海岸はまっすぐの連続した線として描かれている。だが、ミノタ号はこの連続した直線を超えて進み、深さ二十尋(ひろ)の湾に浮かんでいる。陸地があるとされたところは深い入り江になっていた。ここまで帆走してきて、丸い鏡のような湾に投錨したのだった。マングローブが近くまで迫っている。ヤンセン船長はこの泊地が好きではなかった。彼が初めてここに来たころ、スウーは危険な場所として悪名をはせていた。攻撃されて逃げようとしても、風がなければどうしようもないし、上陸用のボートで沖に漕ぎ出そうとしても奇襲されてしまう。ひと悶着あれば、罠(わな)にかかったも同然だ。

この地図でマライタ島の下(南西)側中央の幅が広くなっているところのすぐ下(南)がスウーの港。

「ミノタ号で上陸するとして──どうしますか」と、ぼくは聞いてみた。
「上陸なんかしないよ」というのが、ヤンセン船長の答えだった。
「だけど、万一そうなったら?」と、ぼくも簡単にはあきらめない。
彼はしばらく考えてから、視線を拳銃を腰につけようとしている航海士から上陸用ボートに乗りこもうとしているクルーに移した。それぞれライフルを所持している。
「ボートに乗り移って、とっとと逃げ出すさ」と、船長はたっぷり時間をかけてから答えた。
しまいに、いざというときにマライタ島出身のクルーは信用しきれないのだと説明した。ここの連中は船が難破でもしたら自分の財産になると思ってるし、連中はスナイダーのライフルも持っている。おまけに、ミノタ号にはスウーに「帰省する」一ダースもの少年たちが乗っているのだ。攻撃を受けたら、彼らが故郷の友人や親戚に味方するのは間違いない、と。

上陸用ボートの最初の仕事は、帰省客と交易品を詰めた箱を海岸まで運ぶことだった。これで危険要素の一つが取りのぞかれるはずだ。この作業中に一隻のカヌーがやってきた。三人の裸の男が乗っている。裸と言ったが、事実そのままだ。服らしきものは何も身に着けていない。鼻の輪や耳飾り、貝殻の腕輪を服として数えなければ、だが。カヌーに乗っているボスは高齢の村長(むらおさ)で隻眼(せきがん)だった。友好的という噂だが、とても汚くて、船底の付着物を落とすために使うスクレーパーでこすっても、その垢(あか)を削り落とすことはできないだろう。彼が何をしに来たかというと、船長に対し、誰も上陸させるなと警告するためだった。この老人は夜にもまた同じ警告を繰り返した。

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ソロモン諸島のイケメン二人

働き手を募集するため、ボートが浜との間を往復したが、成果はなかった。森には武装した現地人がたくさんいて、求人担当の者と話をしたそうにしていたが、年俸六ポンドでプランテーションの三年間の労働に応じる者はいなかった。島の連中はぼくらが上陸するのではないかということを懸念していた。二日目には、湾の先端の浜で火をたいて煙を立ちのぼらせた。これは慣例となった求人の合図で、そのためにボートが派遣された。だが、徒労に終わった。浜には誰もやってこなかったし、こっちの船の者も誰も上陸しなかった。その少し後で、ぼくらは大勢の現地人が浜辺をうろついているのを目撃した。

こうやって姿を見せている連中の他に、森の中にどれだけの人間が隠れているのかはわからない。原始の姿をとどめている密林の奥まで見通すことはできないからだ。午後になると、ヤンセン船長、チャーミアンとぼくは、ダイナマイトを使う漁*2に出かけた。ボートに乗った者はそれぞれリー・エンフィールド銃*3を持っていた。求人担当の現地人の「ジョニー」は一斉攻撃に備えてウィンチェスターライフルも所持していた。ぼくらはボートを漕ぎ、無人に見える海岸に向かった。手前で向きを変え、船尾を先にして近づく。万一の攻撃に備えて、すぐに陸から遠ざかれるようにするためだ。マライタ島に滞在している間、ぼくはボートが船首から上陸するのを一度も見なかった。実際問題として、求人で寄港する船の場合、ボートを二隻積載し、上陸するのはそのうちの一隻だけだ。むろん武装して、だ。もう一隻は数十メートル離れたところにいて、一隻目を「援護」するのだ。とはいえ、ミノタ号は小さかったので、上陸用ボートは一隻しかなかった。

ぼくらは浜に近づいた。さらに船尾から接近したとき、魚の群れが見えた。ダイナマイトに火をつけて投げ入れる。爆発が起き、大量の魚が海面から飛び出してきた。同時に、森も方もさわがしくなった。現地の裸の連中が二十人ほども、弓矢や槍(やり)、スナイドル銃*4を抱えて飛び出してきた。同時に、ぼくらのボートの乗組員もライフルを構えた。こうして両者がにらみあった状態で対峙し、ぼくらの側の手のすいた少年たちが魚を取ろうと海に飛びこんだ。

脚注
*1:縁海(えんかい):大陸の周辺にあり、島などで不完全に閉ざされた海域。日本海などもそれにあたる。ちなみに大陸だけに囲まれている海域は地中海と呼ばれる。固有名詞化しているヨーロッパとアフリカにはさまれた海以外に、カリブ海や北極海も「地中海」に分類される。地球の海は、地理学的には、太平洋/大西洋/インド洋の三大洋と、縁海と地中海を合わせた付属海からなる。

*2:ダイナマイトを使う漁 - かつて日本を含む世界各地で実際に行われていた。現在は環境保護、生態系破壊防止のため、日本はもちろん世界のほとんどの地域で禁止されている。

*3:リー・エンフィールド銃 - 十九世紀末に英国で開発された軍用小銃。

*4:スナイドル銃 - 十九世紀後半に英国軍で採用された銃で、リー・エンフィールド銃より古いタイプ。明治時代の日本陸軍でも使用されていた時期がある。

スナーク号の航海(75) - ジャック・ロンドン著

第十五章

ソロモン諸島の航海

「一緒に来ないか」と、ヤンセン船長がガダルカナル島*1のペンドュフリンで、ぼくらを誘ってくれた。

チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせ、三十秒ほど無言で話し合った。それから二人同時にうなづいた。これが、ぼくらが物事を決めるやり方だ。最後のコンデンスミルクの缶をひっくり返したときに泣かずにすむ、うまい方法だと思っている(ぼくらはこのところ缶詰ばかり食べている。心は物質に左右されるというが、ぼくらは当然いろんな缶詰に左右されている。

「拳銃一丁とライフル二丁も持ってきたほうがいいぜ」とヤンセン船長が言った。「俺は船に五丁のライフルを積んでいる。モーゼル銃一丁には弾が入れてないけどな。予備はあるかい?」

ぼくらも船にはライフルを積んでいた。モーゼル銃の薬包もだ。スナーク号でコックと給仕をしてくれているワダとナカタもそれぞれ持っている。ワダとナカタはちょっとおじけづいている。控えめに言っても乗り気ではなく、ナカタは臆病風に吹かれているのが顔色にも見てとれた。ソロモン諸島で彼らはきつい洗礼を受けていたのだった。最初の地ではソロモン病とでもいうべき痛みに苦しめられた。ぼくらも苦しんだのだが、この二人の日本人の場合はとくにひどかった。二人には昇汞(しょうこう)*2で手当てをしたが、この痛みはやっかいだった。ひどい潰瘍になってしまうのだ。蚊に刺されただけだが、傷口や掻(か)いたところに毒がたまり、ふくれてくる。この潰瘍はすぐに拡大する。すごい早さで皮膚や筋肉をむしばんでいく。一日目は針の先ほどだった傷が二日目には十セント硬貨ほどになり、一週間後には一ドル硬貨でも隠せないほどの大きさになった。

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ソロモン諸島でよく見かける海岸風景

この痛みよりひどいのは、この二人の日本人が熱帯性マラリアにかかったことだ。それぞれ何度も倒れたし、身体も衰弱した。多少は回復してくると、スナーク号の端の方で身を寄せ合い、はるかかなたの日本の方角を望郷の念をこめて眺めていた。

とはいえ、最悪なのは、彼らが今は、マライタ島の原始の海岸沿いに人を運ぶミノタ号の船上にいるということだった。二人のうちでもワダの方がおじけづいていたが、自分は二度と日本を見ることはできないと思いこみ、暗く希望のない目をして、ぼくらのライフルと弾薬がミノタ号に積みこまれるのを見ていた。彼はミノタ号とマライタ島への航海がどんなものなのか知っていたのだ。この船が六ヵ月前にマライタ島の海岸で捕らえられたこと、船長が斧で切り殺されたこと、を。そのすてきな未開の島では、それ以前にも二人の船長が犠牲になったこと、ペンデュフリン農園で働いていたマライタ島の少年が赤痢で死んだこと、さらにペンドュフリンでは別の船長もマライタ島で犠牲になったことについても、彼は知っていた。しかも、ぼくらの荷物は狭い船長室にしまいこんであったのだが、意気揚々と乗りこんできた野蛮な連中が武器の斧でドアにつけた傷跡も彼は見てしまった。最後につけ加えると、調理室のコンロには配管すらなかった。略奪されたのだ。

ミノタ号はチーク材で作られたオーストラリアのヨットだった。二本マストの後ろのマストが低いケッチで、長く細身で、深いフィンキールを持ち、未開の地を航海するというよりは港内でレースをするのに適した設計だった。チャーミアンとぼくが乗船すると、船には人があふれていた。船の乗組員は代理を含めて十五人。それに二十人以上の「帰省する」少年たちがいた。農園で働いていて自分の村に戻るのだ。見た目からすると、連中は確かに首狩り族だった。鉛筆ほどの大きさの骨と木製の千枚通しのようなもので鼻に穴を開けていた。多くは鼻柱に穴を開け、亀の甲羅や固い針金に通したビーズを吊していた。さらに唇から鼻にかけての曲線に沿って穴をいくつも開けた者までいた。連中の耳には、それぞれ二つから一ダースほどの穴が開いていた。直径三インチの木栓でも通るくらいの大きさがあり、土で作ったパイプやそれに類するものをつけている。実際に穴が多すぎて、飾りの数が不足していた。翌日、マライタ島に接近すると、ぼくらはライフルを取り出し、ちゃんと使えるか確かめたのだが、空になった薬莢(やっきょう)をめぐる争奪戦が展開され、こうした乗客の耳の穴の飾りになった。

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ガダルカナル島マラボボの海岸

ライフルを実際に使うような場面に備えて、ぼくらは有刺鉄線の柵を設置した。ミノタ号は甲板はドッグハウス*3がなく平らで、外周を六インチの高さの手すりで囲ってあるので、乗りこみにくくなっている。その手すりの上に真鍮製の支柱をねじ止めし、二列の鉄条網を船尾からぐるっと一周させて船尾まで張り巡らせた。野蛮な連中から保護するという点では非常にうまくいったが、船に乗っている側の立場としては、およそ快適とはいえなかった。航海中にミノタ号が波の上下に合わせて大きく揺れるからだ。有刺鉄線を張った風下側の手すりまで滑り落ちるのは好きになれないし、滑り落ちたくないと風上側の手すりにつかまろうとしても、そっちにも有刺鉄線があるのだ。どっちも嫌だし、船の傾きもさまざまで、滑りやすい平らな甲板上にいるときに船が四十五度傾いたりするのだ。ソロモン諸島の航海の楽しさがわかってもらえるだろうか。おまけに、有刺鉄線まですべり落ちることで受ける罰は、単なるひっかき傷ではすまないということも忘れてはならない。そうした傷は必ずやひどい潰瘍になってしまう。注意していても有刺鉄線からは逃れられないということの証拠がある。ある晴れた朝、ぼくらは斜め後ろからの風を受けてマライタ島の海岸沿いに進んでいた。風はやや強く、海は安定していたが波が立ちはじめた。一人の黒人の少年が舵をとっていた。ヤンセン船長とヤコブセン航海士、チャーミアンとぼくは甲板で朝食をとっていた。三つの異常に大きい波がおそってきた。舵を握っていた少年は頭が真っ白になってしまった。その三度とも、ミノタ号の甲板は波に洗われた。ぼくらの朝食は風下側の手すりを乗りこえて流れ去った。ナイフやフォークも排水口に消えた。船尾にいた少年の一人が落水し、引き上げられた。ぼくらの勇猛な艇長は有刺鉄線にはさまれ、体の半分が船外に落ちかけていた。その後の航海では、ぼくらは原始共産制よろしく、残っていた食器を使いまわした。ユージニー号ではもっとひどい目にあった。というのも、ぼくら四人にスプーンが一つしかなかったからだ──とはいえ、ユージニー号については別の機会に譲ろう。

脚注
*1: ガダルカナル島はソロモン諸島で最大の島。第二次大戦中に日本軍と連合国軍の激戦の舞台だったことでも知られる。

*2: 昇汞(しょうこう)は、塩化第二水銀ともいう。かつては消毒液などとしても使用されたが、毒性が強いので、現在は治療には使用されていない。

*3: ドッグハウスは、甲板下の船室の高さを確保するため甲板に突き出た部分。犬小屋に見立ててこう呼ぶ。

スナーク号の航海(74) - ジャック・ロンドン著

それから、南にはアトナム島が海から突き出し、北にはアニワ島、正面にはタンナ島があった。タンナ島を見誤る可能性はなかった。火山の煙が空高く立ち上っていたからだ。四十海里離れていたが、ずっと六ノットの速度を維持していたので、午後にはさらに接近した。山ばかりで、もやもかかっていたし、海岸線に進入できそうな開口部があるとは思えなかった。ぼくはポート・レゾリューションを探した。港として機能しなくなったとは聞いていたが、泊地にできればと準備をしていたのだ。火山性の地震のため、過去四十年間で海底が隆起し、かつて大型船が錨泊していたあたりは、最近の報告では、スナーク号くらいの船でやっと停泊できるくらいの広さと水深しかないという。最後の報告以降に、港が完全に封鎖されてしまうような天変地異でもあったのだろうか。

海岸に切れ目はない。接近してみると、貿易風を受けて押し寄せた波が岩場に砕け散っていた。双眼鏡で遠くまで調べてみたが、進入口は見つからない。ぼくはフトゥナ島とアニワ島の方位をとって海図に記入した。二本の方位を示す線の交わるところがスナーク号の位置になる。そこから、平行定規*1を使い、スナーク号の位置からポート・レゾリューションまでを結ぶ線を引いてみた。この線の方位角を偏差と自差で補正して甲板へ出た。が、その針路が示す方向に目をやっても、海岸に打ち寄せる波はどこまでも続いていて、切れ目は見えなかった。船を海岸から二百メートルまで近づけたので、ラパ島出身のクルーが不安がっている。

「ここに港はないよ」と、彼は頭を振りながら言った。

しかし、ぼくはコースを変え、海岸と平行に走らせた。舵はチャーミアンが握っている。マーティンはエンジンのところで、いつでも始動できるよう待機していた。いきなり狭い開口部が見えた。双眼鏡で調べると、そこにだけ波が入りこんでいる。ラパ島出身のヘンリーは当惑しているようだった。タハア出身のタイヘイイも同様だ。

「通路なんてないよ」と、ヘンリーが言った。「あそこまで行ったら座礁するよ、必ず」

白状すると、ぼくもそう思った。だが、進入口のところで白波が切れていないか探しながら、そのまま走らせた。すると、そこにあった。狭いが、そこだけ海面が平らだった。チャーミアンは舵を切り、進入口に向けた。マーティンはエンジンを始動させた。他の全員で帆をとりこんだ。

湾曲部に一軒の交易商人の家が見えた。百ヤードほど離れた海岸では間欠泉が海水を噴き出している。小さな岬をまわると、左手に伝道所が見えてきた。

「三尋(ひろ)」*3と、測鉛線で水深を測っていたワダが言った。

「三尋」「二尋」と、すぐに続いた。

チャーミアンが舵を切り、マーチンはエンジンを止め、スナーク号は投錨した。錨はがらがら音を立てて三尋の海底に落ちた。ほっとするまもなく、大勢の黒人が姿を見せ、船に乗りこんできた。ニコニコした野性味丸出しの連中で、髪は縮れ、困惑したような目をし、切り込みを入れた耳にはピンや粘土の輪をつけている。それ以外は素っ裸だ。その夜、全員が寝ているときに、ぼくはそっと甲板に出た。そして静かな風景を満足して眺めた──そう、満足して、だ──自分の航海術に。

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大挙して乗りこんできた連中
脚注
*1:平行定規は海図に引いた線を、角度を維持したまま平行移動させるためのもの。日本では大きな三角定規を二枚使って平行線を引くことが多い。
parallel-ruler

*2:尋は水深の測定単位で六フィート(大人が両手を広げた長さ)。尋は英語のfathomの訳として使われるが、どちらも人体の部位に基づく単位なので、語源は違うのに結果として長さがほぼ等しくなるのが面白いところ。似た例として、船の大きさ(長さ)を示す単位の尺とフィート、さらに寸とインチも手指や足の大きさに由来し、洋の東西を問わず、ほぼ同じ長さになっている(国や時代によって正確な長さは変化してはいる)。

*3:測鉛線は長いヒモの先端に錘をつけたもので、長さの目印として途中に色をつけたり布片を結んだりしてある。これを海中に投じて水深を測る。錘の先端に凹みがつけてあり、ラードなどの獣脂を詰めておくと、海底の様子(砂か泥かなど)がわかる。
hand-lead-line

 

スナーク号の航海 (73) - ジャック・ロンドン著

しかし、まだ問題はある。六月十日水曜日の夕方、正午に観測した位置と、その後の実際の速度と針路から午後八時の位置を推定した。その上で、スナーク号をニューヘブリディーズ諸島の最東端にあるフトゥナ島に向けた。この島は円錐型の火山で深海から標高二千フィートまで隆起している。この島から十キロほど北を通過するよう針路を変更したのだ。それから毎朝四時から六時まで操舵を担当するコックのワダに声をかけた。

「ワダさん、明朝のワッチは、しっかり見張っててよ。風上側に陸が見えるはずだから」

それからぼくは寝床に入った。賽(さい)は投げられたのだ。ぼくの航海士としての信用は危険にさらされていた。想像してほしい、夜明けに陸なんか見えなかったときのことを。そのとき、航海士としてのぼくの立場はどうなる? ぼくらはどこにいることになるのだろう? どうやって自分の位置を見つければいい? どうやって島を見つければいい? スナーク号が幽霊のような姿で、島を探して何もない大海原を何ヶ月も放浪している様子が目に浮かんだ。食料は食いつくし、ぼくらはげっそりとやせ衰え、その顔には互いに相手を食いたいという願望が浮かんでいるのだ。

ぼくは自分の眠りが「…ひばりの鳴き声が聞こえてくる、夏の空のように」と、詩にうたわれているようなものではなかったことを告白しておく。

というより「無言の闇に目を覚まし」て、バルクヘッドがきしむ音やスナーク号が時速六ノットで着実に進んでいく波きり音を聞いていた。ぼくはミスをしなかったか計算を何度もやり直したが、しまいには頭がぼうっとしてきて、なにもかもミスだらけに思えてきた。自分の天文観測がすべて間違っていて、フトゥナ島まで六十海里ではなく、わずか六海里しかなかったらどうなるだろう? どっちの場合でも針路が違っているかもしれないし、スナーク号はまっすぐフトゥナ島そのものに向かっているかもしれない。スナーク号はいまにもフトゥナ島に激突するんじゃなかろうか。そう思うと、いてもたってもいられず飛び起きたい衝動にかられる。が、かろうじて我慢した。いまにもぶつかるんじゃないかと、その瞬間を、今か今かとどきどきしながら待つしかなかった。

ひどい悪夢で目がさめた。地震の方がよほどましなくらいで、請求書を持った男が一晩中ぼくを追いかけまわすのだ。しかも相手は攻撃的で、チャーミアンは相手にするなと絶えずぼくを抑えていた。しかし、仕舞いには、しつこい借金取りの夢からチャーミアンの姿がなくなった。チャンスだ。堂々と立ち向かおう。歩道や通りを勇んで歩いていると、相手はもう結構と叫んだ。ぼくは「あの請求書はどうなったんだ?」と聞いた。自信を取り戻し、全額を払ってやるつもりだった。すると、その男はぼくを見て「ぜんぶ間違いだった」と、うめくように言ったのだ。「請求書は隣の家のだった」と。

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サモアの警官

借金取りの問題はそれで解決した。もう夢には現れなかった。ぼくの方はといえば、目がさめて寝床に座ったまま、この夢を思い返し、心底ほっとした。午前三時だった。甲板に出てみた。ラパ島出身のヘンリーが舵を持っていた。航海日誌に目を通した。四十二海里走破していた。スナーク号の六ノットという速度は落ちていなかったし、フトゥナ島に衝突してもいなかった。五時半すぎに、また甲板に出てみた。舵を握っていたのはワダで、まだ島影は見えないと言った。ぼくはコクピットの縁に腰かけて、十五分ほど疑心暗鬼にかられていた。そのうちに陸が見えてきた。小さな山頂だけだったが、予測した場所に予測した時間通りに舳先(へさき)の風上方向の海面に出現したのだ。六時には、フトゥナ島の美しい円錐形をした火山がはっきり見えてきた。八時、島は正横にきた。六分儀で距離を測った*1。九・三海里離れていた。どうやら十海里という試験には合格したようだ!
脚注
*1: 六分儀は水平線からの天体の高度を測るものだが、測量でも用いられているように、標高のわかっている島(山)の高さを測定すると、簡単な三角関数の計算でそこまでの距離もわかる。

島までの距離を x 、測定した角度をθ、島の高さをhとすると
Tanθ= h / x  だから x = h / tanθ

また、その応用として、灯台の光がどこまで届くか(どれくらい近づいたら灯台の光が見えるようになるか)を示す光達距離という概念がある。

これも覚えておくと便利。

地球は球形で海面は平面ではないため、光の屈折率など自然条件に左右されるので、光学的光達距離、名目的光達距離、地理的光達距離とあるが、現実には地理的光達距離を用いる。

灯台(あるいは島)の高さをH(m)、観測する者の眼高をh(m)とすると、
距離は、それぞれの平方の和に係数 2.083をかけたものになる。

灯台(あるいは島)までの距離(海里)= 2.083(√h + √H)

(高さの単位はメートル、距離の単位は海里)

スナーク号の航海 (72) - ジャック・ロンドン著

それ以外にもトラブルや疑問がぼくを待ち構えていた。たとえば、こういう問題だ。南半球で、太陽が北の方向にあるとき、クロノメーターを使った天測を早朝に行うことができる。ぼくは午前八時に観測した。この観測で必要な要素の一つは緯度だ。正午に子午線南中時を観測すれば緯度がわかるのだが、午前八時に観測で位置を出すには午前八時の緯度が必要になるのは言うまでもない。むろん、スナーク号が時速六ノットで真西に進んでいるのであれば、四時間後も緯度は変化しない。真南に進んでいれば、緯度は二十四海里の距離分だけ変化する。この場合は十二時の緯度から簡単な足し算か引き算で午前八時の緯度が得られる。だが、スナーク号が南西に航海しているとしたらどうだろう。そこでトラバース表の出番になる*1。

具体的な話をしよう。午前八時、ぼくは観測を行った。同時に、航海記録に書いてある帆走距離もメモした。正午の十二時に太陽を観測して緯度を求めた。ここでも航海記録のデータをメモした。それによれば、スナーク号は八時の地点からは二十四海里進んでいた。針路は西四分の三南である。ぼくは四分の三ポイントのコースを記載したページの距離欄の表Iで、航海距離を示す二十四のところを見た。表の反対側の二つの欄では、スナーク号が南に三・五海里進み、西には二十三・七海里進んだことになっている。これがわかれば、午前八時の自分の居場所を知るのは簡単だ。緯度については正午の緯度から三・五海里を引けばよい。要素はすべて出そろったので、ぼくは経度にとりかかった。

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黒いダイアモンド:サモア諸島サバイイ島の娘たち(上の中央はロンドン夫人のチャーミアン)

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求めるのは午前八時の経度だ。八時から正午まで二十三・七海里西に進んだことになっている。とすれば、正午の経度はどうなるのか? ぼくは所定の手順に従ってトラバース表のIIを見た。手順に従って表を見ていくと、四時間の経度の差を距離に換算すると二十五海里になるとわかった。またもやがく然となってしまう。机に向かって決められた手順で何度調べても測定した経度の差は二十五海里になってしまうのだ。お手上げだ。後は寛容なる読者の手にゆだねよう。もし君が二十四海里の距離を航海し、緯度の計算で(南北に)三・五海里進んだとする。そのとき、どうすれば経度で(東西に)二十五海里も進むことができるのだろうか? 仮に緯度は変化させずに真西に二十四海里進んだとしても、いったいどうすれば東西方向に二十五海里も進めるというのだろうか? 人間が論理的に考える存在である限り、帆走した総距離プラス一海里もの経度を進むことが、どうすれば可能になるのだろう?

使ったトラバース表は定評のあるもので、ほかならぬバウディッチの本だ。(航海術の規則がそうであるように)計算に使うルールは単純だった。ぼくが間違ったということではない。この問題で一時間も悩んでしまった。進んだ距離は二十四海里のはずなのに、どうしても緯度で三・五海里、経度で二十五海里も進んだ計算になるのだ。最悪なのは、誰も助けてくれる者がいないということだ。チャーミアンもマーティンも、航海術の知識はぼくとどっこいどっこいだ。しかも、その間もスナーク号はずっとニューへブリディーズ諸島のタナ島に向かって進んでいるのだ。何とかしなければならなかった。

その思いつきがどうやって浮かんできたのかわからないのだが、インスピレーションとでもいうのだろうか。ふとひらめいた。南に向かうことが緯度をかせぐことになるのであれば、西に向かうことは経度をかせぐことになるはずではないか? 西に進むのをいちいち経度に変換しなければならない理由は何だろう? すると、ぐっと視界が開けてきた。赤道では経度一度は距離にして六十海里である。極地では一点に集まっている。とすれば、ぼくが北極に到達するまでに経度百八十度を航海する必要があり、グリニッジの天文学者が経度ゼロを北極点までそのまま北上したとすれば、ぼくらが数千海里離れていたとしても互いに北極に向かって出発し握手をすることができるはずだ。話を元に戻すと、経度一度の幅は赤道で六十海里の距離になるのだが、同じ経度一度でも、北極ではそんな幅は存在しない。となれば、北極と赤道の間のどこかに幅が半海里のところや一海里のところがあるだろうし、十海里や三十海里、六十海里のところもあるはずだ。

[写真]
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村の娘たち(サモア諸島のサバイイ島)

すべてがまた明白になった。スナーク号は南緯十九度にいた。この場所の地球は赤道ほど大きくないのだ。だから、南緯十九度で西進すると、一海里ごとに経度で一分を超えてしまう。経度一度は六十海里で、一度は六十分だが、この六十分は赤道付近においてのみ六十海里の距離になる。ジョージ・フランシス・トレイン*2はジュール・ベルヌの記録を破った。しかし、ジョージ・フランシス・トレインの記録を破りたい者がいれば、誰にでも可能だ。高速蒸気船に乗ってホーン岬と同じ緯度をそのまま真東に進むだけでいい。高緯度では地球の経線間の距離はぐっと縮まっているし、避けなければならない陸地もない。その蒸気船が十六ノットを維持していれば、わずか四十日で地球一周できるだろう。

 

[脚注]
*1: トラバース表 - 航海で針路と緯度がわかれば目的地までの距離がわかるようにした表。二点間の距離は簡単な三角関数で計算できるが、その計算結果を一覧表形式にまとめたもの。

*2: ジョージ・フランシス・トレイン(1829年~1904年) - 高速のクリッパー型帆船による外洋航路や大陸横断鉄道の開発を行ったアメリカの実業家。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は彼の世界旅行にヒントを得て、主人公のフィリアス・フォッグのモデルはトレインだとされる。なお、時系列で整理すると、ベルヌの本の出版はトレインの旅行が話題になった数年後なので、ジョージ・フランシス・トレインが八十日間世界一周という本の記録を破ったというのは、航海記の執筆から四十年ほど前の話で著者の記憶違いかもしれない。

スナーク号の航海(71) - ジャック・ロンドン著

こうした激しい自問自答が続いて頭はくらくらするし、ぼくは今日がいつなのかもわからなくなった。

スバのハーバーマスターが別れ際に言った忠告を思い出した。「東経では航海暦*1から前日の値をとるんだよ」

新しい考えが浮かんだ。ぼくは日曜と土曜の均時差を修正した。二つを別々に計算して結果を比べると、なんと○・四秒の差しかなかった。ぼくは生まれ変わった。堂々巡りの袋小路から抜け出す道を見つけたのだ。スナーク号はぼくの体や経験をかろうじて支えるほどの大きさしかない。〇・四秒を距離に換算すると一海里の十分の一にすぎず、わずか二百メートルほどではないか!*2

それから十分間ほどは幸せだった。偶然に航海士のための次のような箴言を知るまでは。

グリニッジ時の方が遅ければ
東経
グリニッジ時の方が早ければ
西経*3

ふむふむ! スナーク号の時間はグリニッジ時より遅くなっている。グリニッジで八時二十五分のとき、スナーク号の船上ではまだ八時九分だった。「グリニッジ時の方が早ければ西経」なのだ。西経にいることは間違いない。

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サモア諸島のサバイイ島の村娘

「ばっかじゃねえの!」と、ぼくの頭の固い方が叫んだ。「あんたは午前八時九分で、グリニッジは午後八時二十五分だろ」

「むろんそうだ」と、ぼくの理性が答える。「正確に言うと、午後八時二十五分は二十時二十五分だ。つまり、八時九分よりは確かに早い。議論の余地はない。西経にいるんだ」

すると、ぼくの頭の固い方が勝ち誇る。

「ぼくらはフィジーのスバから出帆したんじゃなかったっけ?」と。理性が同意する。「スバは東経だったろ?」 またも理性がうなづく。「そこからぼくらは西に向かったんだろ(つまり東経側の半球を進んだ)? とすれば、東経から出ているはずがない。ぼくらは東経にいるんだ」

「グリニッジ時の方が早ければ西経」と、ぼくの理性が繰り返す。「二十時二十五分は八時九分より進んでるわけだ」

「わかったわかった」と、ぼくは口論に割り込む。「まず太陽を観測しよう。話はそれからだ」

それから作業をすませ、割り出した経度は西経一八四度だった。

「ほらね」と、理性が鼻で笑う。

ぼくはあぜんとした。頭の固い方も同じで、しばらくは呆然としていた。そうしてやっと宣言した。

「西経一八四度なんてありえない、そんなの東経にもない。経度は一八〇度までだって知ってるだろ」

こうなると、頭の固い方は緊張に耐えきれずに倒れ、理性は間抜け同然に沈黙した。ぼくはといえば、希望を失い、目はうつろで、中国の海岸に向かって航海しているのか、それともパナマのダリエン湾に向かっているのだろうかと思い惑って歩きまわるしかなかった。

やがて自分の意識のどこからともなく、こう言うかすかな声が聞こえた。

「経度はぐるっとまわって三六〇度だ。三六〇度から西経一八四度を引くと、東経一七六度になるんじゃないか」

「単純すぎるだろ」と、頭が固く融通のきかない方が異議をとなえる。論理にたけた理性も抗議する。「そんなルールはない」

「ルールなんてくそ食らえだ!」と、ぼくは叫ぶ。「ぼくはここにいるじゃないか」

「自明のことさ」と、ぼくは後を継いだ。「西経一八四度は東経と四度だけ重複してるってことなんだ。それにぼくらはずっと東経にいたんだ。フィジーから出発したが、フィジーは東経だ。海図に現在位置を入れて、推測航法で証明してみせるさ」

脚注
*1: 航海暦(Nautical Almanac)については、日本では天文暦と呼ぶことが多い。天文略歴は日本近海用の簡略版。

*2: 一海里は1852メートル。ただし、○・四秒が1/10海里というのは、いろんな計算をしても合わないので、計算違いの可能性はある。ちなみに、子午線(経度)間の距離は赤道上が最大で、緯度が高くなるほど短くなるので、単に時差だけで距離は計算できない。

*3: 今はこういう言い方はあまりせず、西経か東経かは、グリニッジ時に対して単純にプラスかマイナスか(足すか引くか)と考えるのが一般的。規準は、自分のいるところではなく、あくまでもグリニッジにあるということを大前提にして計算すると迷わない。
日付の問題や東経か西経かということで悩むのは、経度がグリニッジを〇度にして東回りに東経、西回りに西経として目盛りをつけ、地球の反対側で東経一八〇度=西経一八〇度=日付変更線になっているため。
これが一方向に○度から三六○度とし、日付変更線=○度としておけば、話はぐっと簡単になる。

スナーク号の航海(70) - ジャック・ロンドン著

方位磁石は油断がならない。北以外のあらゆる方向を指して船乗りをだまそうとするのだ。だから空の方角や太陽の方向を知ろうとしても、所定の時間に所定の場所にあるべきものがなかったりする。これが太陽となると大問題で――少なくとも、ぼくの場合は問題になってしまった。自分が地球上のどこにいるのかを知ろうとすると、まず、きっかり同じ時間に太陽がどこにあるのかを知らなければならない。いわば太陽は人間にとってのタイムキーパーなのだが、これが時間通りに動いてくれないのだ。それを知ったとき、ぼくは呆然となり、宇宙は疑問だらけになってしまった。万有引力やエネルギー保存のような不変の法則すら信用できなくなり、妙ちくりんなことを目撃しても驚かないよう心づもりまでした。たとえば、方位磁石が間違った方向を指すと、太陽の軌道も定まらなくなってしまい、互いの関係が失われて意味がなくなってしまう。永久運動だって可能になるし、ぼくははじめてスナーク号に乗船したやり手の代理人から永久機関と評判のキーリーという発明家のモーターを買おうかなという気になったくらいだ。日の出と日の入りは年に三百六十五回ずつだが、地球は本当は一年に三百六十六回自転していると知ったときには、ぼくは自分が何者であるかすら疑ってかかるようになってしまった。

これが太陽の流儀なのだ。とても不規則で、人間が太陽の時間を記録する時計を考案するなど無理な話だ。太陽は加速したり減速したりするので、それに応じた時計を作ることはできない。太陽の運行は予定より早くなることもあれば遅くなることもある。天空を移動するときに、あるはずの位置にいようとして加速して速度制限を破ることもある。早くなりすぎても速度を落として調整したりはしないので、その結果として、やはり位置がずれてしまう。実際、太陽が偶然にも所定の位置にあるというのは、一年のうち四日だけだ。残りの三百六十一日は予定より早かったり遅かったりしている。太陽にくらべれば人間はきちんとしていて、正確な時を刻むための時計を作った。さらに、太陽が予定よりもどれくらい早いのか、あるいは遅れているのかまで計算した。誇り高い太陽の実際の位置と、控えめに言っても太陽が本来あるべき位置との差については、均時差*1と呼ばれている。海上で自船の位置を割り出そうとする航海士は、まずクロノメーターを見て太陽があるはずの場所をグリニッジ標準時に基づいて確認する。それから、その場所に均時差を適用し、太陽があるべきだがない場所を割り出す。この後者の位置を、他のいくつかの位置と合わせれば、海のないカンザス州出身の男でも現在地を知ることは可能になる。

スナーク号は六月六日土曜日にフィジーを出帆し、翌日の日曜には大海原に出て陸は見えなくなった。ぼくはクロノメーターで時間を調べて経度を計算し、子午線観測で太陽の高度から緯度を求めた。午前中にクロノメーターで時間を調べて太陽の位置を確認したが、この午前の天測では、太陽の高度は水平線から二十一度だった。天測暦を見て六月七日当日の太陽が一分二十六秒遅れていることと、一時間に十四・六七秒の割で遅れを取り戻しつつあるのを知った。つまり、クロノメーターでは、太陽の高度を測定した正確な時間はグリニッジで八時二十五分過ぎだったのだが、この日付から均時差を補正するのは小学生でもできる計算だ。だが、残念ながら、ぼくは小学生ですらなかった。正午にグリニッジで太陽が一分二十六秒遅れているのは明白だ。測定時間が午前十一時だったとすれば、太陽はそれから一分二十六秒プラス十四・六七秒遅れだったことになる。午前十時だとすれば、十四・六七秒の二倍を加えればよい。で、実際には午前八時二十五分だったので、三と二分の一かける十四・六七秒を加えなければならない。これははっきりしているのだが、仮に午前八時二十五分ではなく午後八時二十五分だったとすると、八と二分の一かける十四・六七秒を、今度は足すのではなく引かなければならない。また、正午であれば、太陽は予定の時間より一分二十六秒遅れていて、一時間に十四・六七秒ずつ挽回していくのであれば、午後八時二十五分には正午のときよりも本来の時間に近くなってくる。

ここまでは問題ない。が、クロノメーターの八時二十五分というのは午前なのか、それとも午後なのか? ぼくはスナーク号の時計を見た。八時九分を指していた。朝食を終えたばかりで午前のはずだ。だからスナーク号の船上では午前八時だった。クロノメーターの八時はグリニッジの時間に設定してあるので、スナーク号の八時とは別の八時のはずである。となると、どういう八時なのだろう? 今朝の八時ではありえないと、ぼくは論理的に考えた。となれば今日の夕方の八時か昨夜の八時にちがいない。

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スナーク号のボートに乗った南太平洋の美女たち

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南太平洋の住民
自分の頭が底なし沼に入りこんで混乱するのはこの時だ。ぼくらは東経にいる、とぼくは理性的に考える。だからグリニッジより時間は進んでいるはずだ。もしぼくらがグリニッジより遅れているのであれば、今日は昨日ということになる。グリニッジより早いのであれば、昨日が今日であり、昨日が今日ならば、いまの昼間は今日なのだろうか! ──それとも明日なのだろうか? そんなバカな! だが、これで正確なはずだ。ぼくは午前八時二十五分に太陽高度を測定した。グリニッジにいれば昨夜の夕食を終えたところのはずだ。

「では昨日に対して均時差を補正しよう」と、ぼくの論理脳が言った。
「だけど、今日は今日だぜ」と、ぼくの融通のきかない頭が主張する。「昨日じゃなくて今日に対して太陽を補正しなきゃ」
「だけど、今日は昨日なんだ」と、ぼくの論理脳が言い張る。
「わかってるさ、そんなこと」と、ぼくの固い頭が語を継ぐ。「もしぼくがグリニッジにいるのであれば、ぼくは昨日にいる。グリニッジでは奇妙なことが起こるんだ。だが、ぼくは自分が今ここにいるということを知っている。で、今日は六月七日だし、ぼくはここで太陽を補正しなければならない。今、今日、六月七日でね」
「ばかなことを!」と、ぼくの論理脳が反論した。「レッキーによれば──」
「レッキーの言うことなんか気にするなよ」と、ぼくの現実的な頭がさえぎる。「天測暦になんて書いてあるか見てみよう。天測暦は、今日六月七日には、太陽は一分二十六秒遅れており、一時間に十四・六七秒の割で追いついてくる。昨日の六月六日には太陽は一分三十六秒遅れで、一時間に十五・六六秒の割で追いあげていく。わかっただろ、今日の太陽を昨日の時間表で補正しようとするのはバカのすることだって」
「愚か者め!」
「間抜けめ!」
[脚注]

*1: 均時差-真太陽時(目に見える実際の太陽)と平均した計算上の太陽の時間との差。

スナーク号の航海(69) - ジャック・ロンドン著

クロノメーターの誤差については、時間を三十一秒プラスして読みとることで妥協し、ニューへブリデス諸島のタンナ島へ向かった。闇夜で陸地を探しながら進むので、ウーレイ船長のクロノメーターに基づいてスナーク号の位置が七海里ずれていることを念頭においておくことにした。タンナ島はフィジーから西南西に約六百海里のところにあり、これくらいの距離だったら、ぼく程度の航海術でも正確に到着できると思っていたし、実際にも無事に着いたのだが、まず出くわしたトラブルについて話を聞いてほしい。航海術といっても、そうむずかしいわけではない。ぼくはいつも自分の航海術には満足していた。とはいえ、ガソリンエンジン三台と妻一人を抱えて世界一周するとなると、エンジンにはガソリンを補給し続けなければならないし、女房には真珠や火山を見せたりしなければならず、とにかく忙しいので、航海術を勉強する時間などない。しかも、そうした科学の勉強を緯度や経度が変わらない陸上の動かない家でするのならともかく、昼も夜も陸を探しながら動いている船上でやるとなると、まったく予想もしていない悪条件下で陸地を見つけだすはめになったりするのだ。

まず羅針盤で進路を設定する必要がある。ぼくらは一九〇八年六月六日土曜の午後にスバを出たのだが、ヴィティ・レヴ島とムベンガ島の間の狭くて岩礁だらけの航路を通過するころには暗くなった。前方には外洋が広がっている。ちょうど行きたい方向の西南西二十海里ほどのところに突き出ている小さなヴァツ・レイル島を別にすれば、通り道で邪魔になるものはなかった。むろん、その島の八海里から十海里ほど北を通過するよう進路をとれば楽にかわせそうだった。闇夜で、追い風を受けて帆走していた。当直で舵を持つ者には、ヴァツ・レイル島をかわす進路をとるよう命じなければならないのだが、どの角度にすればいいのか? ぼくは航海術の本のページをめくった。「真航路」という記載があった。これだ! 真航路にすればいいんだ。本にはこう書いてあった。

真航路とは、海図上で、船の位置と目的地を結んだ直線と子午線(経
線)のなす角(真方位)である。

知りたかったのはこれだ。スナーク号の現在地は、ヴィティ・レヴ島とムベンガ島の間にある航路の西側の入口だ。とりあえず目指す場所は、海図上でヴァツ・レイル島から北に十海里の地点である。ぼくは海図上のその場所にディバイダ*1の針を突き刺し、そこから平行定規を使って真航路が南西になると割り出した。で、その方位を舵の担当者に告げれば、スナーク号は外洋で問題なく進んでいけるわけだ。
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パウモタンの人々

しかし、そう簡単にはいかなかった。ぼくは続きを読み、航海者にとって永遠の友となるべき信頼できる羅針儀が常に真北を指すとは限らないことを知ってしまったのだ。北の位置が変わるのである。方位磁石は真北より東側を指すこともあれば西を指すこともある。場合によっては北に背を向けて南を指すこともある。これを偏差と呼ぶが、地球上でスナーク号のいる場所では、それは羅針盤の針が示している方角からさらに東に九度四十分の方向になる。つまり、舵をとる者には、それを考慮した方位を進路として伝えなければならないのだ。こう書いてある。

補正した磁針航路(方位)は、真航路に偏差を加減して得られる。

というわけで、羅針盤が真北より九度四十分も東の方を指すのであれば、仮に真南に行きたいとすれば、羅針盤が示す方向から九度四十分ずらした方向に船を向けるべきなのだが、そうなると方位磁石の北は北でなくなってしまう。というわけで、いまは南西に向かうべきなので、羅針盤のその方角から進行方向に向かって左に九度四十分を加えて補正した磁針方位を割り出した。これで外洋に出ても道に迷わないはずである。

とはいえ、まだ問題があった! 補正した磁針方位がコンパスコースになるわけではないのだ。別の小さな悪魔が船の針路を誤らせてヴァツ・レイル島の岩礁にぶつけさせようと手ぐすねを引いて待っているのだ。この小さな悪魔の名を自差という。こう書いてある。

コンパスコースとは舵をとる針路のことで、これは補正した磁針方位   に自差を加減して得られる。

自差とは、船に搭載している羅針盤の針の指す方向が船上の鉄の配置に影響されてずれてしまうことだ。これは船ごとに癖があって違っている。スナーク号では、標準として使用する方位磁石の自差を示したカードが用意されていて、それを見ながら補正した磁針航路に自差の分を加減して進むべき方位を導き出す。が、それだけではすまなかった。スナーク号で標準として使用する方位磁石は、コンパニオンウェイ*2の中央に設置されていた。操舵用の方位磁石は船尾のコクピットで舵輪のそばにあった。操舵用の方位磁石が西微南四分の三南*2を指しているとき、標準の方位磁石の方は、そこから西二分の一北にずれた方向を指していた。標準の方位磁石の指す方向が操舵用方位磁石の角度とは違っているのだ。ぼくはスナーク号の向かう方向を標準の方位磁石の指す方向から西微南四分の三南に向かうようにした。そうすると、操舵用方位磁石では南西微西になる*3。

進路を決めるための針路の設定とは、こうした一連の単純な操作でできている。面倒なのは、そうした正しい手順をずっと続けていかなければならないということなのだ。でないと、快適な夜間航海中に「前方に岩!」と誰かが叫ぶのを聞いたり、サメがうようよしている海に飛びこんで海岸まで泳いでいくはめになったりするわけだ。

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フィジー諸島のスバに停泊しているスナーク号

訳注
*1:ディバイダ - 海図で距離を測る道具。製図用のコンパスのような形をしているが両先端とも針がついている。

*2:コンパニオンウェイ-甲板から船室に降りていく出入口。

*3:方位(方角)を示す場合、東西南北の360度を十六分割して、北から時計回りに北北東、北東、東北東、東と22.5度ずつに区切っていくのが普通だが、それをさらに細かくしたものを微で示し、さらにそれを四分割して四分の一南といった表現を加える。現代では北を0度、東を90度、南を180度、西を270度というふうに度で示すのが一般的。

目標が見えない大海原では、羅針盤(=方位磁石、コンパス)の示す磁針方位を参考にして方角を判断するが、やっかいなのは、本文にもあるように、方位磁石の針の示す北が実際の北とは限らないこと。
理論的には、地球上のあらゆる地点で北に向かう線はすべて北極点(真方位の北、地球の自転軸の延長上)に集まるはずだが、実際には、磁石が示す北は北極点から少し離れたところにある。これを磁北という。
だから船で方角を示すときは、真方位なのか磁針方位なのかをはっきりさせておく必要がある。磁北が真北からどれくらいずれているかを偏差といい、これは地球上の地域によって、東にずれたり西にずれたりする。
現在の海図には、その海域の真方位と磁針方位の両方を示したコンパスローズ(羅針図)が印刷されているが、同じ場所の偏差といっても年ごとに少しずつ変化しているため、その分の計算も必要になる。
方位角の問題では、偏差だけではなく、自差も考慮しなければならない。
船に鉄などの金属が使ってあれば、方位磁石はその磁力の影響を受けるため、そのズレについても、あらかじめ調べておかなければならない。
細かいことをいうと、同じ船が同じ場所にあっても、船首がどの方角を向いているかで自差は変化する。さらに、船内に方位磁石が二個あれば、その置かれた場所でも自差は違ってくる。
そうしたことをすべてわきまえた上で進むべき方向を指示するのが航海士というわけで、GPSのない時代に航海士として一人前とみなされるまでには高いハードルがあった。

スナーク号の航海 (68) - ジャック・ロンドン著

第十四章

アマチュア航海士

世の中にはたくさんの船長がいるし、信頼できる立派なキャプテンがいるのも承知している。が、スナーク号の船長となると話は別だ。ぼくの経験では、小型船で一人の船長の面倒をみるのは、赤ん坊二人の世話をするより手がかかる。むろん、これは想定の範囲だ。優秀な人材にはそれに応じた立場というものがあるし、一万五千トンの船を操船できるのに、スナーク号のような十トンそこそこの小舟の船長の仕事を選ぶなんて人がいるはずもない。スナーク号では海辺で航海士を募集したのだが、そんなことで集められる人材が役立たずなのは当たり前だ。二週間も大海原にある島をめがけて航海したあげく見つけられず、そのまま戻ってきて、目当ての島は住民もろとも沈んでしまったと報告したり、海の仕事につきたいという渇望だけが先走って仕事にありつく前にお払い箱になるような連中ばかりだ。

スナーク号では、これまでに三名の船長を雇った。神のご加護か、四人目はもういらない。最初の船長は年をとりすぎて、ブームジョー*1の寸法を船大工に伝えることもできなかった。もうろくしていて、まったく使いものにならず、バケツで海水をくんでスナーク号の甲板に流すよう乗組員に命じることもできなかった。錨泊していた十二日間というもの、熱帯の太陽の下でほったらかしになった甲板はかわききってしまい、新調したばかりの甲板をコーキングし直すのに百三十五ドルもかかった。二人目の船長は怒ってばかりいた。生まれながらの怒りん坊なのだ。「パパはいつも怒っている」とは、血のつながっていない息子の言だ。三人目の船長は意地が悪く、性格がねじ曲がっていた。真実は言わず正直でもなかった。フェアプレーや公平な扱いというものにはほど遠く、あやうくスナーク号をリングゴールド島で座礁させかけた。

この三人目で最後の船長を放逐したぼくは、また自分でやることにした。またもや素人ながら航海士に復帰したのだが、それはフィジー諸島のスバでだった。そのことについては、前に最初の船長の指揮下でサンフランシスコを出たときの話として書いたことがある。そのとき、スナーク号は海図上でのこととはいえ、いきなり大跳躍をしてしまったのだ。何が起きたのか理解できるまで大変だった。要するに、船長が現在位置を正確に測定できず、海図上で船を二千百海里も先に進めてしまっていたのだ。ぼくは航海術については何も知らなかったが、何時間かかけて本を読み、六分儀を三十分ほど使って練習しただけで、太陽の南中高度の観測でスナーク号の緯度と経度を知ることができた。等高度法*2という簡単な方法を使ったのだが、これは精度が落ちるし、安全な方法とも言えないのだが、ぼくの雇った船長はそれで航海しようとしていたのだ。その方法は避けるべきだとぼくに教えてくれる人がいるとすれば、それは彼しかいなかったのだが、そう教えてはくれなかった。ぼくはなんとかスナーク号でハワイまでたどりついたが、これは条件に恵まれていたのだ。太陽は北よりだが、ほぼ真上にあった。経度を確かめるためにクロノメーター*3を使う観測方法について、ぼくはそれまで聞いたことがなかった。いや、聞いたことはあったが、一番目の船長はそれについてはあいまいにしか語らなかったし、練習で一、二度やってみて、その後はやらなかったのだ。

フィジーで、自分のクロノメーターを別の二つのクロノメーターと比べる機会があった。二週間ほど前、サモアのパゴパゴで、ぼくはスナーク号のクロノメーターとアメリカの巡洋艦アナポリス号のクロノメーターを比べてみるよう船長に頼んだ。船長はやったと言ったが、むろんやってはいなかった。しかも、差はコンマ数秒にすぎなかったと抜かしたのだ。この時計はすばらしいと大げさに絶賛までした。また繰り返しになるが、船長がすばらしいと言ったのは、恥知らずの嘘っぱちだったのだ。その十四日後、ぼくはスバでオーストラリアの蒸気船アトゥア号のクロノメーターと比較したのだが、ぼくらの時計の方が三十一秒も進んでいた。三十一秒を地球の表面を円弧にみたてて距離に換算すると七と四分の一海里(約十三・五キロ)にもになる。つまり、もし夜中に西に向けて航海していたとして、夕方にクロノメーターを使って位置を確認してから、水平線の見えない夜間は船の進行方向と速度で推測するデッドレコニング法で現在位置を推定し、陸地から七マイル沖にいると思ったら、なぜかまさにその瞬間に岩礁にぶつかりそうになってしまった、ということなのだ。その後、ぼくは自分のクロノメーターをウーレイ船長のクロノメータと比べてみた。ウーレイ船長はスバの港長で、週に三度、正午に銃を撃って知らせてくれる。それによれば、ぼくのクロノメーターは五十九秒も進んでいた。つまり、西に航海していて岩礁から十五マイルも沖にいると思っていたら当の岩礁にぶつかってしまったという事態になるわけだ。

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タヒチの有名な「ブルームロード」

翻訳メモ
*1:ブームジョー-帆の下縁を張るための帆桁(ブーム)がマストと当たる受け部。
*2: 等高度法(Equal Altitudes)-GPSがない時代に六分儀を使用して太陽の南中高度を知るための簡易位置測定法の一つ。
*3: クロノメーターは、航海で位置を確認するために必要なきわめて正確な時計のこと。

————————————————————— 補足 ——-—————————————————
ヨットのような小型船では、太陽が真南にきたとき(その場所での正午)に太陽の水平線からの高さ(角度)と時間を測って緯度経度を割り出すことが多い(子午線高度緯度法)。

太陽が真南(子午線上)にきた瞬間を正確に知るのはむずかしいので、その少し前に太陽の高さを測っておき、真南を通過してまた同じ高さ(等高度)になった時間がわかれば、ちょうどその中間が正午ということになる(等高度法)。

太陽が子午線上(真南)に来たときがその場所での正午ということになるので、航海用の正確な時計(クロノメーター)でグリニッジ標準時(経度0度)との時間差がわかれば経度が計算できる(1時間=15度)。

緯度については太陽が赤道上にある春分と秋分の日は「緯度=90度-正午の太陽高度」になるが、太陽は季節により北や南に移動するのでその分を補正しなければならない。そのための暦や計算表もある。

六分儀と天文暦などを使って位置を計算する天測術については、帆船時代までさかのぼらなくても、ほんの少し前までヨットの航海では必須の知識だった(日本では漁船用の簡易的な方法が用意されていたし、一級小型船舶操縦士の実技試験にも六分儀を使って位置を出す課題が含まれていた)。この知識があるかないかで、航海記のおもしろさが違ってくるので、こちらでも、いずれ整理して紹介する予定。

スナーク号の航海 (67) - ジャック・ロンドン著

現地人の牧師が釣りがうまくいくよう祈りをはじめると、皆、かぶりものをとった。次に漁労長とでもいう立場のリーダーがカヌーを割り当てて場所を指示する。皆、カヌーに乗りこんで出発した。とはいえ、女たちは、ビハウラとチャーミアンを除けば、誰もカヌーには乗らなかった。かつて女たちも刺青を入れていたものだったが、この漁では女たちは後に残り、水中に並んで足で魚をとめる柵になる役割だ。

浜には大型のダブルカヌーが残されていた。ぼくらは自分たちの舟に乗った。カヌーの半分は風下の方へ漕いでいった。ぼくらは残りの半分と共に一マイルほど風上へ向かい、そこで岩礁に達した。両者の中央にリーダーのカヌーがあった。リーダーが立ち上がる。体格のいい老人で、手に旗を持っている。カヌーの位置を指示し、ホラ貝が吹きならされ、その合図で、二手に分かれたカヌーが整列した。準備が整うと、彼は旗を右に振った。そっち側のカヌーすべてで石が投げられ、一斉に水しぶきがあがった。投げた石をたぐりよせる。石が水面下に沈むか沈まないかのうちに、間髪を入れず、旗が左に振られた。すると左側の海面で、すべての石が一斉に海面を打った。それが繰り返される。投げては引き上げ、右で投げては左で投げる。旗が振られるたびに、礁湖の海面に長く白いしぶきの線が描かれていく。同時にパドルを漕いでカヌーを前へ進める。こっちでやっているのと同じことが、一マイル以上離れた反対側でも行われていた。

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漁師の一人

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囚人たちに漕がせているボラボラ島の憲兵

ぼくの乗った舟の舳先では、タイハイイがリーダーを凝視しつつ他の連中と調子をあわせて石を操っていた。一度、石がロープから外れて落ちた。その瞬間、タイハイイはそれを追って海に飛びこんだ。石が海底に達するかしないかのうちに拾い上げ、舟の横の海面に浮き上がった。近くのカヌーでも同じようなことが何度か起きるのを目撃したが、いずれも投げ手自身が石を追いかけて飛びこみ、すぐに回収して戻ってきた。

岩礁の端に近いラインの両側でカヌーのスピードが増した。それに対して、浜に近い方では速度を出していない。二手に分かれていたカヌーの列は少しずつ円形になっていく。すべては、油断なく目を光らせているリーダーの監督下で行われていた。そうしてできたカヌーの輪が縮まりはじめる。かわいそうに、驚いた魚たちは海面をざわつかせながら猛スピードで浜の方へ向かった。ゾウだって、同じような方法で、丈の高い草むらにしゃがんだり木の背後に隠れたりしているちっぽけな人間がたてる奇妙な物音に驚かされてジャングルから駆りてられるのだ。人が並んでつくった足の柵はすでにできあがっていた。礁湖の穏やかな海面に、女たちの頭が長い線を描いているのが見えた。浜辺の近くに残っている者もいたが、それは例外で、背の高い女ほど沖側に出る形で、ほとんど全員が首まで海中につかっていた。

カヌーの輪はさらに狭められ、カヌー同士が触れあうほどになった。そこで一呼吸あった。長いカヌーが浜から飛び出してきて、輪に沿って進んだ。懸命に漕いでいる。船尾で、一人の男がココナツの葉を編んだ長く連続した幕のようなものを投げ入れていく。カヌーはもう不要になったので、男たちも海に飛びこみ、魚が逃げないように足で柵をつくった。幕は幕であって網ではないので、魚は逃げようとすれば逃げられるはずだ。だからこそ足で幕を激しく動かし、両手では海面をたたいて白濁させ、奇声を上げる必要がある。輪が縮められていくにつれて、魚は大混乱に陥るのだ。

とはいえ、今回は海面上に飛び出したり足にぶつかってくる魚はいなかった。しまいに漁労長自身が輪の内側に飛びこみ、あちこちを探って歩いた。が、一匹の魚も浮いてはこず、飛び上がって砂浜に落ちるのもいなかった。一匹のイワシもいないし、小魚もいなければ、オタマジャクシのようなものすらいなかった。あの大漁祈願に何か不都合があったに違いない。あるいは誰かがぶつぶつ文句を言っていたように、風がいつものように斜め後ろから吹いてなかったので、魚はどこか別のところにいたのだろう。いずれにしても、追い立てるべき魚の姿がまったくないのだ。

「こんな失敗も五回に一回はあるよ」と、アリコットがぼくらをなぐさめた。

そう、ぼくらがボラボラ島までやってきたのは、この石の漁のためだったし、その五回のうちの一回に遭遇したというのが、ぼくらの運だったわけだ。事前福引のようなものだったら逆になっていたはずだ。悲観論を言っているのではないし、世の中はこうしたものだという開き直りでもない。これは、ただ単に一日努力して徒労に終わったときに多くの漁師が抱く感情にすぎない。

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ぼくらには、こういう魚は捕らえられなかった