スナーク号の航海 (57) - ジャック・ロンドン著

ハワイでは長期にわたり優良な移住者を必要としていた。多くの時間やアイディア、資金を投入して適した人材を移住させているが、まだ十分ではない。にもかかわらず、ハワイはこの自然人を追放した。チャンスを与えなかったのだ。というわけで、ハワイの誇り高き精神とやらに対抗し、ぼくとしては、この機会にハワイがこの自然人を追放したことで失ったものについて書いてみようと思う。彼はタヒチに到着すると、自分が食べる食い物を栽培するための土地を探した。しかし、そういう土地、つまり安く手に入る土地を見つけだすのはむずかしかった。金持ちというわけではなかったからだ。急峻な山岳地帯を何週間も歩きまわり、小さな谷がいくつか点在する山を見つけた。八十エーカー(約三十二ヘクタール)ほどの密林で、誰かの財産として登記されているのではないようだった。政府の役人は、土地について、彼が所有すると宣言して誰からも異議がなく三十年たてば、彼の所有物になると教えてくれた。

彼はすぐに作業に取りかかった。その場所は耕作に適してはいなかった。そんな高地で農業をしようという者などはいなかったのだ。密林で、野生化したブタや無数のネズミが走りまわっていた。パペーテや海の眺めはすばらしかったが、だからといって、それが何かの役に立つというわけでもない。まず、農園にする土地までの道を作るだけで何週間もかかった。植えた作物は、芽が出たとたんに、かたっぱしからブタやネズミに食われた。彼はブタを撃ち、ネズミには罠(わな)をしかけた。つかまえたネズミは二週間で千五百匹にもなった。必要な物資は何でも自分の背中にかついで運んだ。荷馬のように荷物を担ぎ上げる作業は、たいてい夜にやった。

徐々に成果がでてきた。草壁の家も建てた。火山性の肥沃な土壌でジャングルやジャングルの動物と闘い、五百本のココナツの木、五百本のパパイヤの木、三百本のマンゴーの木を植えた。野菜も作った。ツタや灌木もあれば、のパンノキやアボカドの木もたくさんあった。谷の源流から水を引き、効率のいい灌漑設備を考案した。谷から谷へとさまざまな高低差のある場所に水路を掘った。こうして細長い谷間は植物園になった。かつて灼熱の太陽が密林を干上がらせ裸の土がむき出しとなっていた尾根筋の不毛な峠には、樹木や灌木や生い茂り、花が咲き乱れた。この自然人は自給自足した上に、今ではパペーテの都市部の住民に作物を売る裕福な農業者となっていた。

その後、政府の役人が所有者はいないとしていた土地に、実際には所有者がいて証書類や登記も存在することが判明した。となれば、苦労して得たものを失うことになりかねない。入植したとき、その土地は価値がなかったし、大地主の所有者は、この自然人が開拓したことは知らなかった。適正価格で合意が成立し、ダーリングは正式に登記された権利証書を手にしたというわけだった。

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額に汗して働く

その後も痛烈な打撃があった。市場に出入りする道が封鎖されたのだ。彼がこしらえた道には三重の有刺鉄線の柵が張られて通れなくなった。これは社会制度の不条理としてよくある人間社会の混乱の一つだ。こうした背景には、ロサンゼルスの精神障害に関する委員会がこの自然人を引きずりだし、ハワイがこの自然人を追放したのと同じ、伝統を重んじる人々の意向が働いていた。自己満足している者たちが、自分とまったく違う価値観を持った男を理解するのは無理だった。役人連中が、こうした伝統主義者たちの行為を黙認していたことは明らかなようだ。というのは、今にいたるまで、この自然人が作った道は閉ざされたままだからだ。何も講じられていない。それについては何もしないという暗黙の、断固たる意思があちらこちらに存在している。だが、この自然人は踊ったり歌ったりして自分流を貫いている。夜も寝ずにどうしようかと悩んだりはせず、そういうことは邪魔したい者の好きにさせておいた。そんなことを恨んだりするほど暇ではないのだ。自分がこの世に存在するのは幸せになるためだと信じていた彼には、他人を訴えたりして無駄にする時間は一秒もなかった。

農園に向かう道は封鎖されている。地面に余裕がないため、新しい道を作ることもできない。政府は、彼が通ることができる道を、野生化したブタが山に登るための急峻な獣道(けものみち)に限定した。ぼくは彼と一緒にその獣道を登った。よじ登るために足だけでなく両手も使わなければならなかった。野生化したブタの獣道は、エンジニアが蒸気機関や鉄製ワイヤーで作る道ほど立派ではなかった。だが、この自然人は何も気にかけてはいなかった。この穏やかな男の道徳では、誰かに悪さをされたら、自分の方は善行でお返しするのだ。となれば、どっちが幸福なのか論じるまでもあるまい。

「うっとうしい連中の道のことなんか気にするな」と、彼はぼくに言った。岩棚によじ登ったところで息を切らし、休憩しようと腰をおろしていたときだ。「そのうち飛行機*1を手にいれて黙らせてやるよ。飛行場用に平らな場所を作ってるんだが、あんたが次に来るときには飛行機で俺の家のドアまで来れるぜ」

そう、この自然人は、アフリカのジャングルで胸をたたいているゴリラの真似をするだけじゃなくて、奇抜な発想もするのだ。この自然人は空中飛行についても一家言持っていた。「だからさ」と、彼は語を継ぐ。「空を飛ぶのは不可能じゃない。それができたとしたら、と想像して見ろよ。意思の力で地面から離れるんだ。考えても見ろよ。天文学者は俺たちの太陽系は死につつあると言っているだろ。とんでもないことが起きない限り、地球の温度はどんどん下がっていって生物は生きられなくなるんだ。でも、かまわないぜ。そうなる頃には人類すべてが空を飛べるようになっていて、この滅びゆく惑星を捨てて、どこか住みやすい世界を探しに行くんだ。どうすれば空中飛行できるのかって? 進歩は早いぜ。そうさ。俺は何度も跳び上がっているが、実際に自分が少しずつ身軽になってきている気がするよ」

狂ってるのか、こいつ、とぼくは思った。

「むろん」と、彼は続けた。「これは俺の理論にすぎなくて、人類の輝かしい未来をあれこれ考えるのが好きなんだ。空を飛ぶことはできないかもしれないが、できるかもしれないと思いたいんだよ」
訳注
*1 ライト兄弟が自作の飛行機で初めて空を飛んだのは一九〇三年。ジャック・ロンドンがスナーク号を建造して航海に出たのはそのわずか四年後の一九〇七年で、「機械が空を飛ぶはずがない」と主張する専門家も多くいた時代である。
 そうした時代に南太平洋の孤島の密林に住みながら自家用飛行機や宇宙旅行を論じているのだから、周囲から頭のおかしな変人扱いされるのも無理はない。
 それにしても、ジャック・ロンドンの行くところ、ユニークな人間に遭遇することが多い。これは単なる偶然ではなく、常にそういうアンテナを張りめぐらせていて、捉えたものを自分の色メガネで見ないようにしているためだろう。

スナーク号の航海 (56) - ジャック・ロンドン著

精神疾患の専門家の一人が、彼をターボル山の療養所に運んだ。彼が無害だとわかると、そこでは好きにさせてくれた。何を食べろとか指示されなかったので、彼は果物と木の実――それにオリーブオイルやピーナツバター、バナナを中心にした食事を再開した。体力が回復するにれて、自分の望む生活をしようと心に決めた。他の連中と同じように社会の慣習に従って暮らしていたら死んでしまうと思ったのだ。まだ死にたくはなかった。この自然人が誕生するにあたって、死の恐怖はもっとも強い要素の一つだった。生きるために、自然の産物と屋外と日光が必要だった。

オレゴン州の冬は自然に戻りたいと願う者には魅力的ではなかった。それで、ダーリングは適した地域を探した。自転車に乗り、太陽のふりそそぐ南をめざした。スタンフォード大学に一年在学した。ここで、裸に近い格好での受講を大学当局に認めてもらい、リスのいた森で学んだ、生きるための原則をできるだけ適用しながら勉強し、苦労しつつ自分の道を切り開いていった。好きな勉強方法は、大学の裏山に登り、服を脱いで草の上に寝そべり、日光浴しながら健康になると同時に知識の海に没入することだった。

しかし、カリフォルニア中部にも冬があり、自然人の適地探求はさらに進められた。彼はロサンゼルスや南カリフォルニアもためしてみたが、何度か逮捕され、精神鑑定を受けさせられた。というのも、彼の生き方は同時代の人々の暮らし方とはまったく違っていたからだ。彼はハワイにも行ってみたが、そこでは精神異常扱いはされなかったものの、強制退去させられた。正確には強制退去ではなかった。刑務所に一年もぶちこまれる可能性もあったのだ。彼らは彼に自分で選択するようにと言った。刑務所に入るというのは、野外で日光をあびたいと願っているこの自然人にとっては死ぬも同然だったので退去を選んだのだ。ハワイの当局を責めることはできない。ダーリングは好ましからざる国民だった。協調性のない者は好ましくない、というわけだ。異議を唱えるべきは、ダーリングが素朴な生活という自分の哲学で行った範囲で、好ましからざる人物というハワイ当局の彼に対する裁定の正当性だ。

というわけで、ダーリングは自然な生活にふさわしいだけでなく、自分が好ましからざる人物とされないような土地を探し求めた。そしてそれをタヒチに見つけた。楽園中の楽園。噂通りの楽園で、そこで自分の思うとおりに暮らしたのだった。身につけるものといえば腰巻と袖のない漁網でこしらえたシャツだけだ。裸になった体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)。健康状態は申し分ない。一時は駄目になったと思われた視力もすばらしくなっている。現実に三度の肺炎で痛めつけられた肺が回復しただけでなく、以前よりも強靱になった。

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自然人の農園。左がジャック・ロンドン

ぼくは、彼と話をしているときに彼が蚊を殺したときのことは決して忘れないだろう。この血を吸う虫が彼の背中で両肩の間にとまったのだ。彼は会話の流れを切らず、よどみなく話をしながら、握り締めた拳を背中の方にまわして肩の間にいた蚊をたたきつぶした。彼の体はバスドラムのような音をたてた。馬が厩舎の材木を蹴っているような音だった。

「アフリカのジャングルにいるゴリラは、一マイル先からでも聞こえるように胸をたたくんだ」と、彼はふいに言った。ぞっとするような音をさせて胸に入れた悪魔の入墨をたたいた。

ある日、彼はスナーク号の船室の壁にボクシングのグローブが吊るされているのに気づき、すぐに目を輝かせた。
「ボクシングやるのか?」と、ぼくは訊いた。
「スタンフォード時代はボクシングを教えてたんだぜ」という返事だった。

ぼくらはすぐに裸になって、グローブをはめた。バン! ゴリラのような長い腕が一閃し、グローブがぼくの鼻に当たった。ドス! 彼が姿勢を低くして、ぼくの側頭部にパンチを当てたので、あやうく横だおしになるところだった。その一発でできた腫れは一週間もひかなかった。ぼくは左のパンチをしゃがんでかわすと、彼の胃袋に右を一発お見舞いした。ものすごく効いた。ぼくの全体重をのせたパンチで、彼の上体は前かがみになった。ぼくはパンチをあびせながら、彼が倒れるだろうと思った。彼は破顔して言った。「いいパンチだ」 と、次の瞬間、ぼくは嵐のように繰り出されるフック、ジョルト、アッパーカット*1をあびせられ、防戦一方になった。が、チャンスとみるや、こっちもみぞおちめがけてパンチを繰り出した。当たった。自然人は両腕をだらんと下げて、あえぎながら、ふいに座りこんだ。

「大丈夫だと思うが」と、彼は言った。「ちょっと待った」
彼は三十秒もしないうちに立ち上がると、お返しとばかり、こっちのみぞおちにもフックをぶちこんでくれた。息がつまり、ぼくは両手をだらりと下げたまま、彼のときよりも少し早く崩れ落ちた。

こうして述べていることはすべて、ぼくがボクシングをした相手が八年前には九十ポンド(約四十キロ)そこそこの体重しかなく、医者や精神鑑定の専門家にオレゴン州ポートランドの部屋に閉じこめられたあわれなやつではなくなっていたということの証拠だ。アーネスト・ダーリングはここでの生活で見違えるように元気になり、その体験を経た体そのものが彼が書いた本というわけだった。

訳注
*1: ジャック・ロンドンはボクシングをテーマにした小説も何作か書いている。
フック=相手に対し、自分の体の外側から内側に向かうように打つパンチ。
ジョルト=ステップを踏んで体を動かしながら、踏み込んで打つパンチの総称。
アッパーカット=肘を曲げたまま突き上げるように打つパンチ。

スナーク号の航海 (55) - ジャック・ロンドン著

「じゃあ、あんたも本を書いてるわけだ」と、彼は言った。ぼくは苦心して朝の分の執筆を終えたところだった。
「俺も本を書いてんだよ」と、彼は告げた。
おいおい、こいつの書いた物の面倒までみなきゃなんないわけかよ、とぼくは思った。イラッとした。文壇ごっこをするためにはるばる南太平洋まできたわけじゃないのだ。
「これが俺の書いてる本なのさ」と、握ったこぶしで大きな音をたてて胸をたたきながら、彼は言った。「アフリカのジャングルのゴリラは、音が一マイルも離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだってよ」
「分厚い胸だ」と、ぼくはほめた。「ゴリラもうらやましがるだろうよ」

それからまもなく、ぼくはアーネスト・ダーリングの書いたすばらしい本の詳細を知った。十二年前、彼は死に瀕していた。体重は九十ポンド(約四十キロ)しかなく、衰弱して話すこともできなかった。医者たちもさじを投げていた。開業医だった父親もあきらめていた。他の医師の意見も求めた。望みはなかった。教師として、そして大学生として、勉強のしすぎで二度も続けて肺炎になって衰弱してしまったのだった。日ごとに体力が失われていった。与えられた固形物からは栄養を吸収できず、粒や粉状にしても胃が受けつけなくなった。体が衰えただけでなく、精神的にもまいってしまい、神経も張りつめていた。病気なのだが、薬はうんざりだった。人間もそうだ。人の話し声もかんに障った。注目されると、ひどく興奮した。どうせ死ぬのだから、悩んだりいらいらしたりしないで屋外で死にたいと思った。胃にもたれる固形物や薬をやめ、いらいらさせるおせっかいな連中がいなければ、死ぬことはないのではないかという思いが、ふと忍び寄ってきていた。

やせて骨と皮だけになったアーネスト・ダーリングは、生気もなく死にかけたままよろよろ歩いた。人や住宅地には背を向け、オレゴン州ポートランドの市街地から雑木林を通り抜けて五マイルも足を引きづって歩いた。むろん、頭がおかしくなっていた。狂気が彼を死の床から引きずり出したのだ。

とはいえ、森では、ダーリングは自分が求めていたものが休息だと知った。もうビフテキや豚肉で悩ませる者はいない。脈をとって疲れ切った神経をさかなでしたり、弱った胃に錠剤や粉末を飲ませて苦しめようとする医者もいなかった。症状は改善した。輝く太陽が、あたたかく降り注いでいた。太陽の光こそ万能の薬だ、と彼は感じた。疲弊した体全体が太陽を求めているように思えた。彼は服を脱ぎ捨て、日光浴をした。気分がよくなった。たしかに効果があった――苦痛にさいなまれたこの数ヶ月間ではじめて安息を得た。

症状がよくなると、起き上がれるようになったが、そうして、彼は気がついたのだ。自分という存在は、はばたいたり、さえずったりしている小鳥や、鳴き交わしたり遊んだりしているリスのようなものなのだ、と。健康で元気があり、幸福そうで、心配事もなさそうな存在をうらやましく思った。自分の置かれた条件と小鳥やリスの置かれた条件を比較すると、自分が病気になるのは必然でもあったのだ。となれば、自分は病弱で死にかけているのに、小鳥やリスはなぜあれほどにも元気なのだろうと疑問を呈せずにはいられなかった。小鳥やリスは自然のままに生きているが、自分は自然に反して生きている。生きようと思えば、自然に帰らなければならないという結論が導かれるのは自明だった。

森の中にただ一人いて、彼は自分の問題にけりをつけ、実地に応用しはじめた。服を脱ぎ捨て、跳んだり、はねたり、四つんばいになって走ったり、木に登ったりした。要するに、めちゃくちゃに体を動かしたのだ――そして、いつも太陽を浴びていた。彼は動物たちをまねた。乾いた葉や草で夜寝るための巣を作り、早秋の雨をしのぐため樹皮をかぶせた。「これはいい運動になるぜ」と、彼は両腕で体側を強くたたきながら言ったことがある。「おんどりを見てやってみたんだ」 また別の機会に、彼がココナツミルクを音をたてて飲んだので、ぼくが注意すると、彼は雌牛だってこんな風に水を飲むし、そこには何か意味があるはずだ、と説明した。実際にやってみて、体にいいとわかったので、何か飲むときはそういう流儀でしかやらないのだ。

リスは果物と木の実を食べて生きているとも言った。果物と木の実にパンだけの食事をはじめて健康を取りもどし、体重も増えた。三ヶ月間、彼は森の中で原始の生活を続け、それからオレゴンの激しい雨でそうした生活を断念し、人間の住むところに戻ってきた。三ヶ月と経たないうちに、二度の肺炎から生き延びた九十ポンドの生存者は、野外でオレゴンの冬をすごす十分な体力を回復させていた。

彼は多くのことをやりとげたが、意に沿わないこともあった。父親の家に戻らざるを得なかったのだ。そこで野外の大気を胸一杯に吸いこんでいた体で、また閉ざされた部屋の中で暮らすようになり、彼は三度目の肺炎にかかった。前にもまして衰弱した。死者のように横たわり、立つことも話すこともできず、いらいらして疲れ切っていたので、他の者の言うことにも耳を傾ける余裕はなかった。自分の意思でできる唯一の行為は指を耳に突っこんで、話しかけられる言葉を一つも聞きたくはないと示すことだった。精神疾患の専門家が呼ばれた。頭がおかしいと診断され、余命一ヶ月はあるまいと宣告されたのだった。

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漁網でこしらえたシャツ

スナーク号の航海 (54) - ジャック・ロンドン著

第十一章

自然人

ぼくがはじめて彼に会ったのはサンフランシスコのマーケット・ストリートだった。霧雨の降る午後、彼は膝までしかない丈の短いズボンをはき、シャツの袖をまくって、ぬかるんだ歩道を裸足ですたすた大股で歩いていた。足元は二十人もの浮浪児が興奮して飛び跳ねているようだった。この男が通ると、何千人もの人が好奇の目で振り返った。ぼくもその一人だった。これほど見事に日焼けした男は見たことがない。皮がむけていなければブロンドぽかったろうが、全身くまなく日焼けしていた。長く黄色い髪も日に焼けていたし、ヒゲもそうだ。カミソリをあてたこともないようだった。黄褐色、金色がかった黄褐色の肌が陽光をあびて輝いている。もう一人の予言者が世界を救うというメッセージをたずさえて街にやってきたのかと、ぼくは思った。

数週間後、ぼくは友人数人とサンフランシスコ湾を展望するパイドモントの丘にあるバンガローにいた。「あいつを見つけたぜ、あいつをさ」と連中が大声で言った。「木の上にいたんだ。ケガはしていない。手づかみで食うんだぜ。会いに来いよ」 それで、ぼくは一緒に丘の上まで行って、ユーカリの林の中にある掘っ立て小屋で、街で見かけた例の日焼けした予言者に会ったのだ。

彼はすぐにぼくらの方にやって来た。ぐるぐるまわったりトンボ返りしたりしながらだ。握手はしなかった。挨拶がわりに曲芸をやってのけた。さらに宙返りもやってみせてくれた。準備運動がわりに体がやわらかくなるまでヘビのように体をしなやかにひねらせてから、腰を折り、ひざはそろえたまま、足はまっすぐ伸ばし、両掌で刺青をたたく。体を回転させ、つま先立ちしてくるくるまわりながら踊り、酔っぱらったサルのように跳ねまわった。生きている喜びがあふれ、顔を輝かせていた。彼のうたう歌には歌詞がなかったが、ぼくはとても幸福な気分になった。

彼は体をずっと動かしながら、いろいろ変化をつけて一晩中歌っていた。「あきれたね! バカだよ! 森で変なやつに会っちまった!」と、ぼくは思った。とはいえ、尊敬すべきバカであることは、彼みずからが証明してみせた。トンボ返りしたりぐるぐる回転している間、彼は世界を救うことになるであろうメッセージを届けていたのだ。それは二つの意味があり、まず、苦しんでいる人々は、衣服を脱いで山や谷で自由気ままに振る舞わせよう。第二に、この救いようのない世界では表音式つづり*1を採用させよう、というのである。ぼくは、都会の人々が大挙して裸足で自然の中に入っていくことで大きな社会問題が解決されるのが見えるような気がした。散弾銃の音や牧場の犬たちの吠える声がひびき、怒った農夫が熊手をふりかざして威嚇する様子が目に浮かぶ。

それから何年か経ったある天気のよい朝、スナーク号は貿易風によるうねりが押し寄せて波しぶきがあがっている岩礁にできた狭い開口部からゆっくりとタヒチのパペーテ港に入っていった。一隻のボートがぼくらの方にやってくる。黄色い旗*2を掲げていた。医者が乗っているのだろう。しかし、そのボートの後方には小さなアウトリガーカヌーもいて、ぼくらを当惑させた。それは赤い旗*3を揚げていたのだ。何か船にとって危険なものが海中に隠れているのではないかと不安になったので、最近難破した船が沈んでいないか、航路を示すブイや標識が流されてしまってはいないかと、ぼくは双眼鏡片手に探したものだ。まもなく医者がスナーク号に乗りこんできた。ぼくらの健康状態を調べた後で、スナーク号に生きたネズミは一匹もいないことを保証してくれた*4。赤い旗についてたずねると、「ああ、あれはダーリングですよ」という答えだった。

ダーリングとは、アーネスト・ダーリングのことだ。赤い旗は兄弟の印で、ぼくらを歓迎してくれたのだった。「よお、ジャック」と、彼が叫んだ。「ようこそ、チャーミアン!」 すばやくカヌーで近づいてくる。あのパイドモントの丘で会った黄褐色の予言者がそこにいた。彼はスナーク号の舷側にカヌーを寄せた。この赤い腰巻き姿の太陽神は、桃源郷の贈り物を持ってきてくれたのだ。金色のハチミツの瓶、太陽と土壌のめぐみをたっぷり受けて黄金色に輝く大きなマンゴーやバナナ、パイナップルやライム、果汁たっぷりのオレンジを一杯詰めたカゴを両手に抱えていた。南太平洋の空の下で、ぼくはのこの自然人たるダーリングとこうして再会したのだった。

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スナーク号に乗った自然人

タヒチは世界で最も美しい地域の一つである。正直で信頼できる男女もいるが、泥棒も強盗も嘘つきも住んでいる。人間の闇の部分は感染力があって、タヒチのすばらしい美しさが台なしにされてしまうので、ぼくは、タヒチについてではなく、この自然人について書こうと思う。彼は少なくとも楽しませてくれるし健全だ。彼から発せられる生気はとても穏やかで甘美なものだし何も害はない。搾取する大金持ちの資本家を除けば、誰の気持ちも傷つけることはない。
「この赤い旗はどんな意味があるんだ?」と、ぼくは聞いた。
「社会主義さ、もちろん」
「そんなことは知ってる」と、ぼくは続けた。「それをお前が持っているということに、どんな意味があるんだ?」
「なぜって、ここにメッセージがあるとわかったからさ」
「アメリカからわざわざタヒチまで持ってきたのか?」と、ぼくはあきれながら言った。
「そうとも」と、彼は簡単に答えた。後でわかったことだが、彼の性格もその答えと同じように単純なのだった。
ぼくらは投錨し、足舟を海面に下ろして海岸に向かった。自然人も同行した。やれやれ、とぼくは思った。これから、こいつに死ぬほど質問攻めにあうのかな、と。
だが、それはぼくのとんでもない勘違いだった。ぼくは馬を手に入れ、あちこち乗りまわしたが、この自然人はぼくのそばに近寄っては来なかった。招待されるまでおとなしく待っていたのだ。その一方で、彼はスナーク号の書斎にある大量の科学の本に喜び、後で知ったことだが、大量の小説もあることにショックを受けていた。この自然人は小説を読んだりして時間を浪費したりはしないのだ。

一週間かそこら経ってから、気が引けたぼくは彼をダウンタウンのホテルでのディナーに招待した。不慣れなコットンの上着を窮屈そうに着てきたので、服を脱げよと言うと、にっこり笑い、喜び勇んで脱いだ。目の粗い漁網の切れ端をまとっているだけで、腰から肩にかけて黄金色の皮膚が露わになった。衣装といえば、赤い腰巻きだけだ。その夜とタヒチ滞在中に、彼がどういう人間かがわかって、ぼくらは友人になった。

訳注
*1: 表音式つづり(phonetic spelling)とは、発音と表記をできるだけ一致させようという英語表記の改革運動に伴うもので、長い歴史があり、主張も過激なものから穏やかなものまでさまざま存在する。米国の辞書の代名詞にもなっている辞書編纂家の(ノア・)ウェブスターもそうした英語改革を唱えた一人。

*2: 黄色い旗(国際信号旗のQ旗)は、検疫要請を意味している。通常は検疫を受ける船の方が指定された検疫錨地で所定の旗を掲揚する。船舶間での旗を使った通信は古くから用いられているが、十九世紀半ば(1857年)に国際信号旗としてまとめられ(国際信号書)、世界共通のものとして認められるようになった。

*3: 赤い旗は社会主義・共産主義のシンボルであると同時に、船舶では国際信号旗のB旗でもあり、危険物運搬中などの意味がある。この場面では思想的な意味はなく、旧知の仲間を歓迎するつもりで掲げてあった。
なお、B旗は通常の旗のように長方形ではなく独特の形状をしている。flag B

*4: 現在でも、ヨットなどの船舶で出入国する場合、ねずみ族駆除証明が必要になる。

スナーク号の航海 (53) - ジャック・ロンドン著

ホオウミは小さな谷で、タイピー渓谷とは低い尾根で分けられている。ぼくらは言うことをきかない馬にさんざん手こずった末に、尾根のこちら側から出発した。一マイルほど進んだところで、ウォレンの馬がよりによってこの細い道で一番危険なところを選んだものだから、ぼくらは五分ほどはらはらさせられた。タイピー渓谷の入口あたりまで行くと、かつてメルヴィルが逃げだした浜辺が下の方に見えた。その当時、そこには捕鯨船のキャッチャーボートが停泊していたのだ。タブー視されたカナカ人のカラコエエがその海辺に立ち、とらわれた水夫たるメルヴィルを引き取るべく交渉していたのだ。メルヴィルはその場所でファヤウェイと別れの抱擁をし、ボートに向かって突進したのだった。その先の方には、モウモウをはじめとする追っ手たちがメルヴィルを乗せて逃げるボートを阻止しようと泳ぎだした場所があった。追っ手の連中は船縁をつかんだが、その手首にボートをこいでいた連中のナイフが振り下ろされた。親玉のモウモウはといえば、メルヴィルの手にしたボートフックの一撃をのどにくらったのだ。

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強かった民族の末裔の一人

ぼくらはホオウミまで馬に乗って行った。ここもタイピーに属するので、メルヴィルはここの住人にはしょっちゅう会っていたのだが、あまりに近いので、彼はここにこんな谷が存在するとは思ってもいなかった。ぼくらはそのときと同じ放棄されたパエパエを通った。海に近づくにつれて、たくさんのココヤシやパンノキやタロ芋畑、それに一ダースほどの草ぶきの家が見えてきた。そうした家の一つで、夜をすごすことになった。すぐに宴が始まった。子豚を殺して熱した石にのせて焼き、鶏はココナツミルクのシチューの具になった。ぼくは料理をしていた一人に頼んで特に高いココヤシの木に登ってもらった。実がなっている木のてっぺんは地上からゆうに百二十五フィート*1はあった。頼んだ男はすたすた登っていく。両手で木を抱え、足裏を幹にぴたりとつけ、腰にはジャックナイフを差した格好で、上まですいすいと登っていった。この木には足がかりになるようなものはないし、ロープも使わなかった。百二十五フィートもの高さの木にさっと登って、てっぺんから実を落とす。こんな芸当は誰もができるわけじゃない。というか、ここにいる大半の連中は今にも死にそうに咳をしていた。たえずぐちを言ったりうめき声をあげている女もいた。ひどく肺をやられているのだ。男女どちらにも完全に純粋なマルケサス人はほとんどいなかった。大半がフランス人やイギリス人、オランダ人、中国人などとのハーフやクォーターだ。新鮮な血の注入はせいぜい種としての滅亡を遅らせただけだったが、こうした状況を目にすると、はたしてその甲斐があったのか疑問にも思えてくる。

宴会は広いパエパエで開かれた。パエパエは石組みの祭壇のようなものだ。その奥に、ぼくらが眠る予定の住居があった。料理では最初に生魚とポイポイが出てきた。これはタロ芋でつくるハワイのポイより酸味が強かった。マルケサス諸島のポイポイはパンノキの実で作られる。熟した果実の芯をとりのぞいてヒョウタンの器に入れ、石棒ですりつぶす。この段階で葉で包んで地中に埋めておくこともできる。何年も持つ*2。とはいえ、食べるには、さらに処理が必要だ。葉で包んだものを、豚と同じように、熱した石の上に並べて焼くのだ。それから水をまぜて薄くのばす。とけ出すほど柔らかくはせず、人差し指と中指の間にはさんで食べられるくらいにする。知れば知るほど、これはうまくて健康的な食べ物だということがわかってくる。熟したパンノキの実は煮るか焼く! うまい。パンノキとタロ芋という組み合わせは食用野菜の王様だ。パンノキという呼称は明らかに誤りで、食感はどちらかといえばサツマイモに近いが、サツマイモほど粉っぽくもなく甘くもない。
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ココヤシの木陰

宴は終わった。タイピー渓谷に月が昇るのが見えた。大気には香油のような、かすかに花の香りが漂っている。魔法のような夜だった。葉を揺らすそよ風すらなく、死んだように静かだ。ひと休みすると、あまりの美しさに痛いほど悲しい気がした。はるか遠く、浜辺に寄せる波音がかすかに聞こえてくる。ベッドなどはなかった。ぼくらは眠くなると地面の柔らかいところに横になって寝た。近くに一人の女性が寝ていた。苦しそうにうめいている。ぼくらのまわりでは、死にかけた島人たちの咳が一晩中とぎれることなく聞こえていた。

訳注
*1: 百二十五フィートは約三十八メートル。一般にココヤシの樹高は高いもので三十メートルとされるが原文のまま訳出。ココヤシの実がココナツ。
*2: 地中で発酵させることで長期保存が可能になる。

スナーク号の航海 (51) - ジャック・ロンドン著

南太平洋の島々の住民すべてのうちで、マルケサス諸島の人々が最強で、最も美しいとみなされていた。メルヴィルは彼らについて「とくに体の強さと美しさに強い印象を受けた…。姿態の美という点では、これまでに見たどの民族よりもすぐれている。体に自然にできた傷のようなものはないか探してみたが、酒宴に参加している群衆の誰一人として美形でないものはなかった。完全さをそこなうシミ一つないように見えた。彼らが肉体的にすぐれているという意味は、単に異形なところがないというだけではなく、ほとんどすべてが彫刻家のモデルにもなれそうなくらいだった」 マルケサス諸島を発見したメンダーニャ*1も先住民は驚くほど美しいと形容している。メンダーニャの航海を記録したフィゲロアは彼らについて「肌の色はほとんど白く、均整のとれた美しい体をしていた」と述べている。キャプテン・クックは、マルケサス人を南太平洋でひかり輝いている島民と呼んだ。彼らは「ほぼ全員が長身で、六フィート(約百八十センチ)以下の者はまずいない」と。

ところが、今では、この強さと美しさは消えてしまっていた。タイピー渓谷は、ハンセン病や象皮病、結核に苦しめられている何十人もの悲惨な境遇にある人々の住む地となっていた。メルヴィルは、近くにある小さなホオウミの谷をのぞいて、人口を二千人と推定した。気候は申し分なく、健康的なことでは世界のどこにも引けをとらない、このすばらしい楽園で、生命は腐りはてようとしていた。肉体的にすばらしいだけでなく、タイピーの人々は純血だった。この島の大気には、ぼくらの住む世界に充満している病原菌や細菌など病気をもたらす微生物が含まれていなかったのだ。そして、やがて白人たちが船でやってきて、さまざまな病原菌が持ちこまれたため、タイピーの人々はめちゃめちゃにされて倒れていったのだ。

こうした状況について考えていくと、白人は不純物と腐敗の上に繁栄しているのだという結論をだしたくなる。とはいえ、これを自然淘汰で説明することは可能だ。ぼくら白人は、微生物との戦いで何千世代にもわたり生き残ってきた人々の子孫なのだ、と。つまり、こうした病原菌という敵に弱い体で生まれてきた者はすぐに死んでしまい、耐性を持った者だけが生き残っているのだ。いま生きている僕らは、たちの悪い病原菌が蔓延した世界に最もよく適応し免疫ができているというわけだ。かわいそうなマルケサス人は、そういう自然淘汰の洗礼を受けていなかった。彼らには免疫がなかった。そして敵を食べるという風習を持っていた者たちが、今は顕微鏡でしか見えないほど微細な敵にむしばまれているということになる。この戦いでは、勇猛果敢に突進してヤリを投げるといったことはできないのだ。一方で、かつて数十万人いたとされるマルケサス人で現在までに生き残った人々は、有機毒の煮えたぎるような風呂に飛びこむことを再生と呼べるのであれば、生まれ変わり再生した新しい種としての生存の土台を築いていく可能性もある。

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波をさえぎってくれる珊瑚礁

ぼくらは昼食のため馬をおりた。いがみあう馬同士を離すのも一苦労だった。ぼくの馬は背中を何カ所か新たにかまれていた。サンドフライというブユみたいなやつに悩まされたあげく、ぼくらはバナナと缶詰の肉を口に押しこみ、ココナツミルクで勢いよく流しこんだ。見るべきものはほとんど何もなかった。かつて人間が切り開いたところは再生した密林に浸食され飲みこまれつつあった。あちこちに建物の土台が見えたが、碑などはなく、文字が彫られているわけでもなく、過去の証(あかし)となる手がかりはなかった。あるのは、かつて手作業で造られるか削られるかした、ありふれた石ころだけで、それにもほこりが積もっていた。土台内部から、大きな木が育ってきていた。人間の痕跡を消そうとして、かつては土台となっていた石を割り、散逸させて、原始の混沌が出現しかけているのだった。

ぼくらは密林での探索を放棄し、サンドフライを避けようと小川を探した。だが無駄だった! 泳ごうとすれば、まず服を脱がなければならない。サンドフライはちゃんとそのことを知っていて、とんでもない数のサンドフライが土手で待ち伏せしていたのだ。島の言葉ではナウナウと呼ぶ。英語では今ということだが、その名前の通り、過去や未来の話ではなく、今この瞬間に自分の肌の上にいるというのが問題なのだ。賭けてもいいが、ウマル・ハイヤームだって、このタイピー渓谷にいて『ルバイヤート』を書くなんてことは絶対にできなかったはずだ。心理的に不可能だ。ぼくは、川岸が崖になっているところで服を脱ぐという戦略的な誤りをおかしてしまった。川には飛びこめるが、そこからすぐには岸に戻れない。川から上がって服を着ようとして、服を脱ぎすてたところまで百ヤードほど歩いて行かなければならなかった。一歩踏み出したとたん、何万というナウナウが飛びかかってきた。二歩目には、空が暗転した。その後どうなったか覚えていない。脱いだ服のところまで戻ったときには、頭がおかしくなっていたし、ここでも戦術的な誤りをおかしてしまった。ナウナウに対処する鉄則は一つしかない。やつらをたたいてはだめなのだ。他にどんなことをしてもいいが、絶対にたたきつぶしてはだめだ。たちが悪くて、たたきつぶされる瞬間に、やつらは毒を獲物の体に注入してしまうのだ。親指と人差し指でそっとつまみ取り、皮膚から吻(くちさき)を引きはがすようにする。歯を抜くような感じだが、むずかしいのは、引きはがされる前にすばやく突き刺してしまうのだ。だから、たたきつぶしてしたとしても、体にはすでに毒が入りこんでしまっている。この体験は一週間前の出来事だ。ぼくはいまも、あわれにも放置されたあげく回復しつつある天然痘患者みたいになっている。

南太平洋の島々の住民すべてのうちで、マルケサス諸島の人々が最強で、最も美しいとみなされていた。メルヴィルは彼らについて「とくに体の強さと美しさに強い印象を受けた…。姿態の美という点では、これまでに見たどの民族よりもすぐれている。体に自然にできた傷のようなものはないか探してみたが、酒宴に参加している群衆の誰一人として美形でないものはなかった。完全さをそこなうシミ一つないように見えた。彼らが肉体的にすぐれているという意味は、単に異形なところがないというだけではなく、ほとんどすべてが彫刻家のモデルにもなれそうなくらいだった」 マルケサス諸島を発見したメンダーニャ*1も先住民は驚くほど美しいと形容している。メンダーニャの航海を記録したフィゲロアは彼らについて「肌の色はほとんど白く、均整のとれた美しい体をしていた」と述べている。キャプテン・クックは、マルケサス人を南太平洋でひかり輝いている島民と呼んだ。彼らは「ほぼ全員が長身で、六フィート(約百八十センチ)以下の者はまずいない」と。

ところが、今では、この強さと美しさは消えてしまっていた。タイピー渓谷は、ハンセン病や象皮病、結核に苦しめられている何十人もの悲惨な境遇にある人々の住む地となっていた。メルヴィルは、近くにある小さなホオウミの谷をのぞいて、人口を二千人と推定した。気候は申し分なく、健康的なことでは世界のどこにも引けをとらない、このすばらしい楽園で、生命は腐りはてようとしていた。肉体的にすばらしいだけでなく、タイピーの人々は純血だった。この島の大気には、ぼくらの住む世界に充満している病原菌や細菌など病気をもたらす微生物が含まれていなかったのだ。そして、やがて白人たちが船でやってきて、さまざまな病原菌が持ちこまれたため、タイピーの人々はめちゃめちゃにされて倒れていったのだ。

こうした状況について考えていくと、白人は不純物と腐敗の上に繁栄しているのだという結論をだしたくなる。とはいえ、これを自然淘汰で説明することは可能だ。ぼくら白人は、微生物との戦いで何千世代にもわたり生き残ってきた人々の子孫なのだ、と。つまり、こうした病原菌という敵に弱い体で生まれてきた者はすぐに死んでしまい、耐性を持った者だけが生き残っているのだ。いま生きている僕らは、たちの悪い病原菌が蔓延した世界に最もよく適応し免疫ができているというわけだ。かわいそうなマルケサス人は、そういう自然淘汰の洗礼を受けていなかった。彼らには免疫がなかった。そして敵を食べるという風習を持っていた者たちが、今は顕微鏡でしか見えないほど微細な敵にむしばまれているということになる。この戦いでは、勇猛果敢に突進してヤリを投げるといったことはできないのだ。一方で、かつて数十万人いたとされるマルケサス人で現在までに生き残った人々は、有機毒の煮えたぎるような風呂に飛びこむことを再生と呼べるのであれば、生まれ変わり再生した新しい種としての生存の土台を築いていく可能性もある。

[写真P.171]
波をさえぎってくれる珊瑚礁

ぼくらは昼食のため馬をおりた。いがみあう馬同士を離すのも一苦労だった。ぼくの馬は背中を何カ所か新たにかまれていた。サンドフライというブユみたいなやつに悩まされたあげく、ぼくらはバナナと缶詰の肉を口に押しこみ、ココナツミルクで勢いよく流しこんだ。見るべきものはほとんど何もなかった。かつて人間が切り開いたところは再生した密林に浸食され飲みこまれつつあった。あちこちに建物の土台が見えたが、碑などはなく、文字が彫られているわけでもなく、過去の証(あかし)となる手がかりはなかった。あるのは、かつて手作業で造られるか削られるかした、ありふれた石ころだけで、それにもほこりが積もっていた。土台内部から、大きな木が育ってきていた。人間の痕跡を消そうとして、かつては土台となっていた石を割り、散逸させて、原始の混沌が出現しかけているのだった。

ぼくらは密林での探索を放棄し、サンドフライを避けようと小川を探した。だが無駄だった! 泳ごうとすれば、まず服を脱がなければならない。サンドフライはちゃんとそのことを知っていて、とんでもない数のサンドフライが土手で待ち伏せしていたのだ。島の言葉ではナウナウと呼ぶ。英語では今ということだが、その名前の通り、過去や未来の話ではなく、今この瞬間に自分の肌の上にいるというのが問題なのだ。賭けてもいいが、ウマル・ハイヤームだって、このタイピー渓谷にいて『ルバイヤート』を書くなんてことは絶対にできなかったはずだ。心理的に不可能だ。ぼくは、川岸が崖になっているところで服を脱ぐという戦略的な誤りをおかしてしまった。川には飛びこめるが、そこからすぐには岸に戻れない。川から上がって服を着ようとして、服を脱ぎすてたところまで百ヤードほど歩いて行かなければならなかった。一歩踏み出したとたん、何万というナウナウが飛びかかってきた。二歩目には、空が暗転した。その後どうなったか覚えていない。脱いだ服のところまで戻ったときには、頭がおかしくなっていたし、ここでも戦術的な誤りをおかしてしまった。ナウナウに対処する鉄則は一つしかない。やつらをたたいてはだめなのだ。他にどんなことをしてもいいが、絶対にたたきつぶしてはだめだ。たちが悪くて、たたきつぶされる瞬間に、やつらは毒を獲物の体に注入してしまうのだ。親指と人差し指でそっとつまみ取り、皮膚から吻(くちさき)を引きはがすようにする。歯を抜くような感じだが、むずかしいのは、引きはがされる前にすばやく突き刺してしまうのだ。だから、たたきつぶしてしたとしても、体にはすでに毒が入りこんでしまっている。この体験は一週間前の出来事だ。ぼくはいまも、あわれにも放置されたあげく回復しつつある天然痘患者みたいになっている。

[訳注]
*1: アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ(1542年~1595年)。スペイン出身の南米ペルーを拠点にした探検家。インディオに伝わる黄金伝説を信じて南太平洋を探検する途中で、マルケサス諸島にも上陸している。ソロモン諸島への入植などを試みたが失敗。同諸島の一部ともなっているサンタクルーズ諸島で死亡。先住民との戦いで殺されたともマラリアで病死したとも言われている。

 

スナーク号の航海 (51) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは馬に乗り、黄色い花粉をつけた桂皮が繁茂している、無限にも思えるやぶの海を進んでいった。ともかくも馬の背中にしがみついてはいるのだから、馬に乗っていると呼べるだろう。この茂みは香りが強くて、ススメバチが住み着いていた。なんというハチだ! 黄色い巨大なやつで、小さなカナリアの倍くらいの大きさはあった。二インチもの長さの脚を後方に流した状態で、矢のように飛んでいく。雄馬がいきなり前脚で立つ格好で、後ろ脚を空に向けて蹴りあげた。つきだした脚を引っこめると、乱暴に前方にジャンプし、それから元の位置にもどった。なんのことはない。馬の皮膚は分厚いのだが、スズメバチの針に刺されたのだ。と、二頭目、三頭目の馬も、さらにはすべての馬が急峻な崖の上で前脚立ちになって跳ねまわった。ビシャ! 猛烈なやつがぼくのほほに突き刺さった。また来た! 首を刺された。ぼくは最後尾にいたので、他の連中よりたくさん刺された。退却することはできない。馬たちは前方に突進し、危険で安全も約束されていない道を駆けた。ぼくの乗った馬がチャーミアンの馬を追いこすとき、この繊細な生物は絶好のタイミングでまた刺されたものだから、後脚のひずめでぼくの馬とぼくを蹴った。ぼくは馬が鋼鉄の靴をはいていなかった幸運に感謝した。さらに刺されたときは、サドルから半分立ち上がった。ぼくはたしかに他の連中より多く刺されたし、それは馬の方も同じだったが、痛みと恐怖はぼくの方が大きかっただろう。
「あっちいけ、じゃまするな!」と、ぼくは自分のまわりにいる羽をつけた毒蛇を帽子ではたきおとしながら叫んだ。
道の片側はほぼ垂直の壁になっていた。反対側は崖で、下の方まで落ちこんでいる。いまの状態から逃れる唯一の方法は、この道をそのまま進むしかなかった。馬の脚が丈夫なことは奇跡だった。前方に向かって突進し、抜きつ抜かれつで全速力で走り、駆け、つまづき、飛び上がり、よじ登り、スズメバチがとまるたびに空に向かって脚を蹴り上げた。やがて、ぼくらはひと息つけるようになり、何カ所刺されたか数えあった。こんなことは一度や二度じゃなかった。何度も何度もあった。妙な言い方になるが、だからといって慣れるということはなかった。ぼく個人としては、ヤブにさしかかるたびに死にものぐるいで暴れまくって走り抜けたのだ。そうとも、タイオハエからタイピーまでの巡礼では、退屈で途中であくびをかみ殺すということはない。

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マルケサス島でカメラ撮影

やっとの思いでスズメバチに悩まされないところまで登った。ぼくらの不屈の精神が勝ったのではなく、単に生息域より高い場所にきたというだけだ。周囲は、見渡す限り脊梁山脈の荒々しい峰々が貿易風の雲に向かってつきだしていた。はるか下の方に見える穏やかなタイオハエ湾には、スナーク号が小さなオモチャのように浮かんでいた。正面には内陸まで入りこんでいるコントローラー湾が見えた。タイピーは、ぼくらがいまいるところから千フィートも下にある。「天国の庭園が眼前に広がっているようだ。これほどうっとりする光景を見たことがない」と、この渓谷をはじめて見たメルヴィルは言った。彼は庭園を見たのだ。ぼくらが見たのは荒野だった。彼が見た百列ものパンの木など、どこにある? 見えるのはジャングルだけだ。密林以外に何もない。例外は二軒の草ぶき小屋と、原始からの緑の絨毯を破って育っているココナッツ林だ。メヒヴィのティはどこにあるんだろう? 若い男だけの、女人禁制の宮殿――メルヴィルが若い将来の村長(むらおさ)候補たちとたむろしていたあの建物――はどこにあるのだろう? ほこりをかぶったまま眠っている、勇ましかった昔を思い出すために保管されていた半ダースの聖なる盾はどこにあるのか? 流れの急な小川から未婚や既婚の女たちがタパ布をたたく音が聞こえくることもなかった。老ナルヘヨが造っていた小屋はどこにあるんだ? 丈の高いココナツの木に登って地面から九十フィートのところでたばこを吸っている案内人に聞いてみたが無駄だった。

ぼくらは密林の中を通っている曲がりくねった道をくだっていった。頭上には樹木がアーチ状に枝を伸ばしている。巨大な蝶が音もなく漂うように飛んでいた。こん棒やヤリを手にし、入れ墨を入れた野蛮人が道を守っているというわけでもなかった。ぼくらは小川を渡るときだけ、好きなところを歩くことができた。タブーもなければ、聖なるものも無慈悲なものも、このすばらしい渓谷にはなかった。いや、タブーはまだ存在していた。ぼくらが何人かの気の毒な現地の女に近づきすぎると、ぼくらは警告を受け阻止された。無理もない。彼女たちはハンセン病患者だったからだ。ぼくらに警告した男はといえば、象皮病に苦しんでいた。全員が肺の病気に苦しんでいた。タイピーの谷には死が充満し、部族で生き残った連中は、この部族で最後となる苦痛に満ちた息をしているのだった。

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バナナの木の下で

たしかに、この戦いでは強者が勝利したのではなかった。というのも、かつてタイピーの人々はとても強かったのだ。ハッパーの連中より強く、タイオハエの連中より強く、ヌクヒヴァのすべての部族より強かった。「タイピー」や「タイピ」という言葉は本来は人肉を食う人を意味した。マルケサスの人々は他の部族も含めてすべて人肉を食べていたのだが、そのなかでも、タイピーの連中は並外れて人肉を食うということを指しているのだ。ヌクヒヴァだけでなく、タイピーの連中は勇敢で残忍だという評判は広がっていた。マルケサス諸島のすべてで、タイピーという呼び名は恐怖につながる。だれもタイピーを征服することはできなかった。マルケサスを領有したフランスの艦隊でも、タイピーだけはそのままにしておいた。フリゲート艦エセックスの船長ポーターがかつてこの谷に侵攻してきたことがある。配下の水兵や海軍兵士に加えてハッパーとタイオハエの戦士二千人がかり出された。彼らはこの谷に攻めこんだが、猛烈な抵抗に遭って退却し、ボートや戦闘用カヌーに乗って逃げかえったのだ。

スナーク号の航海 (50) - ジャック・ロンドン著

それから長い年月を経ているし、のびたブタを食するというようなことを目撃する機会はないだろうと思っていたのだが、少なくともぼくはすでに、形状は楕円で、奇妙な彫りこみがなされた、百年も前に二人の船長の血を飲むのに使われていた、マルケサス諸島の正真正銘本物のヒョウタンで作った椀を持っているのだ。この船長のうちの一人は卑劣なやつだった。ポンコツの捕鯨船を白いペンキで塗り直して、マルケサスの村長(むらおさ)に新艇として売りつけたのだ。その船長が船に乗って逃げてしまうと、その捕鯨船はすぐにばらばらになった。と、しばらくして、逃げた船長の船が、こともあろうに、その島で難破したのだ。マルケサスの村長は金の払い戻しとか値引きという概念は知らなかったが、本能的に正当な要求を行った。つまり、自然界における収支決算ともいうべき根源的な概念を持っていた。そのだました男を食って帳尻をあわせたのだ。

タイピーの夜明けは涼しい。ぼくらは、なりは小さいが言うことをきこうとしない雄馬にまたがって出発した。が、馬たちは背に乗せた弱々しい人間やすべりやすい大きな石、ぐらぐらする岩、大きく口をあけている渓谷には無関心で、前足で地面をかき、おたけびをあげ、互いにかみつきあって喧嘩しあった。道はバウの木が密生しているジャングルを抜けている古道につながっていた。道のどちら側にも、かつての集落跡があった。こんもり茂った草木ごしに、高さ六フィートから八フィート、幅と奥行きは何ヤードもありそうな頑丈に作られた石壁と石を積み上げた土台部分が見えた。大きな石を積み上げた土台の上に、かつて家が存在していたのだ。しかし、家も人間もいまはなくなってしまい、その石組みの土台には巨木が根を張ってジャングルを上から睥睨(へいげい)していた。こうした土台部分はパエパエと呼ばれている。メルヴィルは耳で聞いた通りにピーピスと書いている。

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熱帯――道徳というものが持ちこまれた後の世界

マルケサスに現在住んでいる世代には、こんなに大きな石を持ち上げて積み重ねていくエネルギーはない。そうしようという気もない。歩いてまわると、たくさんのパエパエがあったが、どれも使われていなかった。一度か二度、ぼくらが谷を上っていくにつれて、普通は大地に張りついたような小さな草ぶき小屋の上にのしかかるように堂々としたパエパエが見えてきたことがあった。大きさの比較でいえば、ケオプス*1のピラミッドの広大な土台の上に造られた投票ブースといったところだろうか。純粋なマルケサス人は減っているし、タイオハエの状況から判断すると、集落が消滅しないですんでいる理由の一つは、新しい血が注ぎこまれているからだ。純粋なマルケサス人の方が珍しい。誰もが混血のように見えるし、何十ものさまざまな人種の血がまじりあっているようだ。十九名の有能な働き手はすべてタイオハエで商売をしていて、ココナツの実を乾燥させたコプラを船に積みこむために集まっていた。イギリスやアメリカ、デンマーク、ドイツ、フランス、コルシカ島、スペイン、ポルトガル、中国、ハワイ、ポリネシア、タヒチ、イースター島といったところの人々の血が流れている。人の数より人種の数の方が多いし、そういう名残もあるといったところだ。人間は弱々しく、よろめき、あえいでいる。この温暖でおだやかな気候は――まさに地上の楽園というべきもので――極端な温度になることはなく、大気には芳香がただよい、オゾンを運んでくる南東の貿易風のおかげで汚染もされていない。だが、気管支ぜんそくや肺結核、結核が植物のように蔓延(まんえん)している。どこでも、わずかに残った草ぶき小屋からは、肺を悪くした苦しそうな咳や疲れきったうめき声が聞こえてくる。それ以外にもおそろしい病気も広がっているが、一番怖いのは肺をやられることだ。「奔馬性」と呼ばれる肺結核があるが、これはおそろしいもので、どんなに頑健な男でも、二ヶ月もすると、死装束を着たガイコツのようになってしまう。谷間の居住地で住人が死にたえたところでは、ゆたかな土壌はまた密林に戻るのだが、それが谷から谷へとそれが広がっていく。メルヴィルの時代には、ハパア(彼は八ッパーとつづっていた)には強くて好戦的な人々が住んでいた。それから一世代たっても二百人がいた。今は無人で、荒涼とした熱帯の荒野になっている。

ぼくらは谷を上へ上へとのぼって行った。ぼくらが乗った蹄鉄をつけていない馬は、いまにも崩れ落ちそうな小道を進んでいったが、この道は放棄されたパエパエやとどまるところを知らず拡大しているジャングルを出たり入ったりして続いていた。ハワイ以来おなじみの赤いマウンテンアップルが見えたので、先住民の一人に木に登ってとってもらった。すると、彼はさらにココナツの木に登った。ぼくはジャマイカやハワイでココナツの果汁を飲んだことがある。が、このマルケサスで飲むまで、こんなにうまいものだとは知らなかった。ところどころ、野生のライムやオレンジが実っていた──土地を耕して植えた人間よりもずっと長く荒野で生き続けている偉大な木々だ。

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ココナツの木立
訳注
*1 : ケオプスはギリシャ語。一般にはクフとして知られている古代エジプトの王。

スナーク号の航海 (49) - ジャック・ロンドン著

朝になって目がさめると、ぼくらはおとぎ話の世界にいた。スナーク号は、巨大な円形競技場のようになった、外洋から切り離された穏やかな港に浮かんでいた。見上げるように高い岩壁はツタにおおわれ、海からそのままそそりたっていた。はるか東には、壁面をこえて続いている踏みかためられた小道が見えた。
「トビーがタイピーから逃げ出すときに通った道だ!」と、ぼくらは叫んだ。

ぼくらはまもなく上陸した。が、長旅を終えるには、それから丸一日も馬に乗っていなければならなかった。二ヶ月も海にいて、その間はずっとはだしだったし、船は運動できほど広くもなかったため、革靴をはいて歩く練習などはしていなかった。おまけに、陸に上がったとたんに足もとが揺れて吐き気がしてくるしまつで、それに慣れるまで待ってから、目もくらむような崖ぞいの道を山羊のような馬に乗って進んだ。ぼくらはちょっと行っては休憩し、植物が繁茂したジャングルをはって進み、そうやって緑のコケにおおわれた人らしき像を見た。そこには、ドイツ人の貿易商人とノルウェー人の船長がいて、像の重さをはかり、半分に切ったら価値がどれくらい落ちるかなどと思案していた。彼らは罰当たりにもその古い像にナイフを当てて、どれくらい固いのか、コケの厚みがどれくらいなのかを調べようとしていた。やがて、像を立てるよう命じた。自分で船まで苦労して運ばなくてすむようにしたのだ。つまり、十九人の先住民に木枠をこしらえさせ、その枠の中に像をつるした状態で船まで運ばせたのだ。いまごろは、南太平洋のハッチをきつく締めた船の中にあって、波を切り裂きながらホーン岬に向かって進んでいることだろう。こういった像はアメリカにも少し持ちこまれるのだが、ぼくがこの原稿を書いているそばでほほえんでいる像をのぞいては、異教徒のすぐれた偶像はすべての安住の地となるヨーロッパに向かっていた。スナーク号が難破しなければ、今ぼくの手元にあるこの像は死ぬまでぼくの身のまわりにあってほほえんでいるだろう。つまり、勝利を収めるのは、この像なのだ。ぼくが死んで塵になるときも、この像はほほえんでいるはずだ。

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水辺の女神

話を元にもどすと、ぼくらはある儀式に参加することになった。それは、捕鯨船から逃げ出したハワイ人の船乗りの息子が、十四匹のブタをすべて焼いて村人を招待するというもので、マルケサス諸島生まれの母親の死をいたむものだった。そこに、ぼくらがやってきたので、神の使者となっている原住民の少女が歓迎してくれたのだ。彼女は大きな岩の上に立ち、ぼくらがやってきたことで儀式が完璧なものになったと、歌うように語った。その情報は、船が到着するごとに決まって示されることではあった。とはいえ、彼女が声音を変えると、座っているものはほとんどいなくなった。一同ははげしく興奮しつづけている。彼女の叫び声は激しく甲高くなり、遠くの方からも、それに応じる男たちの声が聞こえてきた。その声は風の音にまざり、信じられないほど凶暴になって、血と戦闘のにおいがする、荒々しくも野蛮な詠唱となっていった。それから、熱帯の樹木の陰から、ふんどし以外は裸の人々が登場し、たけだけしい行進を見せてくれた。連中は、テンポの遅い深いしわがれ声で勝利と高揚した叫び声を発しつつ、ゆっくり進んだ。若者たちは肩に何かわからないものをのせて運んでいた。かなり重そうだったが、緑の葉で包んであるため、中身は見えなかった。

包みの中には、丸々と太ったブタを焼いて入ってあったのだが、男たちは昔の風習をなぞって「のびたブタ」を宿営地まで運んでいるのだった。のびたブタとは、人肉に対するポリネシア語の婉曲的表現で、彼らはこの人食い人種の子孫であり、村長(むらおさ)は王の息子なのだ。祖父たちがかつて殺した敵の死体を運んでいた頃と同じように、戦利品にみたてたブタを食卓に運んでいるのだ。運搬している連中は、ときおり勝利の雄叫びをあげ、敵をののしり、食ってやると大声を発したりしたので、そのたびに行列はとまった。今から二世代前、メルヴィルは実際に殺されたハッパー族の戦士たちの死体がヤシの葉に包まれて宴(うたげ)に運ばれていくのを目撃した。またそれとは別の機会に、やはり宴の地で「奇妙な木彫りの容器を目撃」している。よく見ると、「人骨が散乱していた。骨にはまだ肉が残っていて、ぬるぬるとし、肉片もあちこちにこびりついて」いた。

カニバリズム(食人の風習)は、自分たちは高度に文明化されたと信じている人々からは信じがたい作り話とみなされることが多いが、それは自分にも野蛮な祖先がいて、かつて同じような行為をしていたのだという考えを嫌悪しているためなのかもしれない。キャプテン・クック*1も、そうしたことには懐疑的だった――ある日、ニュージーランドの港で実際に自分の目で見るまでは。一人の原住民がたまたま物売りのため彼の船に上がってきたのだが、見事に日に焼けた人間の頭を持ちこんだのだ。クックの命令で肉片が切りとられた。それを原住民に手渡すと、そいつはそれをがつがつ食ったのだ。控えめに言っても、キャプテン・クックは徹底した経験主義者だった。ともかく、その行為により、彼は科学がぜひともつきとめるべき一つの事実を提供したことになる。というのも、後年、マウイの一人の族長が、自分の体内にはキャプテン・クックの偉大な足先が入っていると言い張ったため名誉毀損の罪に問われるという奇妙な訴訟が起きることになるのだが、その当時のキャプテン・クックは、数千海里も離れたその島々にそうした人々が存在しているとは夢想だにしていなかった。原告は、その老族長の肉体がキャプテン・クックという偉大な航海者の墓になっているわけではないとは立証できず、訴えは棄却されたそうだ。
訳注
*1: キャプテン・クック(1728年~1779年)。十八世紀イギリスの海軍士官(最終的に勅任艦長)にして希代の探検家。英国・王立協会から「金星が太陽の表面を通過する様子を観測」するために派遣されたことを手はじめに、計三度の航海で、北はベーリング海峡から南は南極海まで、広大な太平洋のほとんど(特に南太平洋)を走破した。ニュージーランドやタスマニア島、グレートバリアリーフを含む数多くの地理的発見を行い、測量や海図製作でも多大な功績を残した。三度目の航海中、ハワイ諸島において原住民とのトラブルで殺害された。

おことわり
本文には現代の倫理基準に照らして適切とはいいがたい表現が出てきますが、その点を現代風(あいまい)にすると、それが通奏低音として重要な意味を持っているハーマン・メルヴィルの『タイピー』の理解をさまたげ、同作に対するオマージュでもある本章の意味が薄れてしまうと判断し、著者の意図を尊重し、できるだけ忠実に訳出してあります。

スナーク号の航海 (48) - ジャック・ロンドン著

第十章
タイピー

 

東の方にあるウアフカ島は、あっという間にスナーク号に追いついてきた夕方の豪雨でまったく見えなくなった。だが、ぼくらの小さな船はスピンネーカーに南東の貿易風を一杯にはらませて快適に進んだ。ヌクヒバ島の南東端にあるマーチン岬を真横に見るところまで来ると、その先には、コンプトローラ湾が大きく口を開けていた。広い入口には、コロンビア川の鮭釣り船のスプリットスル*1のように、セイル・ロックという岩礁が南東のたたきつけるようなうねりや風に抗して立っていた。
「ありゃ何だ?」と、ぼくは舵を握っているハーマンに聞いた。
「漁船」と、彼はじっくり眺めて答えた。
だが、海図にははっきりと「セイル・ロック」と印がつけてあるのだ。
とはいえ、ぼくらが気にしていたのは、その岩ではなく、陸側に入りこんでいるコンプトローラー湾の方だ。陸に三箇所あるはずの湾曲部を必死で探す。夜明けの薄明りを通して、中央の入江に、内陸に深く入りこんでいる谷の斜面がぼんやり見えた。ぼくらは何度も海図と見比べ、中央の湾曲部の谷こそ、奥まで開けているタイピー渓谷だと判断した。海図には「Taipi(タイピ)」と記入され、それが正しいのだが、ぼくは「Typee(タイピー)」を使いたいし、ずっとタイピーを使うつもりだ。というのも、子供のころにハーマン・メルヴィルの『タイピー(Typee)』を読んで、そこに描かれている世界にずっとあこがれていたからだ*2。いや単なる夢ではなく、そのとき、成長して強くなったら自分もタイピーに行くと思ったのだ。世界には不思議なものがあるという思いは、ぼくの小さな心にしみついていた。そうした不思議に導かれるようにして、ぼくは多くの土地を訪れてきたが、それが色あせてしまうことは決してなかった。長い年月が経過したが、タイピーを忘れてはいなかった。北太平洋での七ヶ月の巡航後にサンフランシスコに戻ってくると、ぼくは機が熟したと思った。ブリッグ型帆船のガリラヤ号がマルケサス諸島に向かうことになっていることを知ったぼくは、この帆船の乗組員に欠員はなかったが、タイピーに行きたい一心で、謙遜しつつも給仕として雇ってもらえませんかと申しこんでみた。マストの前で作業する甲板員としての経験はあるものの、正式な資格は持っていなかったし、といって経歴を誇張するほど世慣れてもいなかったのだ。むろん、ガリラヤ号はマルケサス諸島から先はぼくを乗せないで出帆することになるのだ。というのも、ぼくは島で作品に出てくるファーヤウェイやコリコリの現代版の人間を探すつもりでいたからだ。ぼくがマルケサス諸島で職務を放棄するつもりだと船長は気づいたのではないかと、ぼくは疑っている。給仕の職も満席だったのだろう。いずれにしても、雇ってはもらえなかった。

それから、怒涛のような日々が到来し、いろんな計画を立て、結果も残したし失敗もした。だが、タイピーを忘れたことはなかった。だから今、ここにこうしているのだ。ぼくは靄(もや)に包まれた島の輪郭をじっと眺めていたが、雨が激しくなり、スナーク号はどしゃぶりの中を入江に向かって突っこんでいく。前方の視界が一瞬開けたとき、ちらっと見えたセンティネル・ロックの磁針方位を確認した。長い海岸線に打ち寄せている波も見えたが、それも雨と夜の闇にかき消されてしまった。波が砕けている音を頼りに、すぐに舵をきれるようにして、ぼくらはそのまま前進した。コンパスだけを頼りに進むほかなかったのだ。センティネル・ロックを見落とせば、タイオハエ湾も見落とすことになる。そうなったら、スナーク号を風上に向けた状態で一晩ずっと漂白するしかなくない。広大な太平洋を六十日もかけて航海してきて疲れきっている船乗りにとって、陸地に飢え、果物に飢え、長年のあこがれであるタイピー渓谷を見てみたいと切望している船乗りにとって、もう一晩、船にいなければならないというのは、あまり歓迎すべきことではない。

と、いきなり、怒号のような音とともに、雨の中から真正面にセンティネル・ロックが出現した。ぼくらは進路を変えた。メインセイルとスピンネーカーが風をはらみ、速度があがった。この岩礁の風下までくると風が落ち、無風になり、うねりだけが残った。それからまた、風がタイオハエ湾の方から吹いてきた。スピンネーカーを取りこみ、ミズンセイルを上げたが、ほぼ正面からの風で、詰め開きで少しずつ前進していった。測深鉛を投げて水深を測りながら、いまは廃墟となった砦に設置されている赤い灯火が見えないか探した。それが泊地への道しるべになるのだ。風は弱く、気まぐれだった。東風かと思えば西風になり、北から吹いたと思えば南から吹いたりした。どっちの舷側からも、目には見えないが海岸の岩に打ちつける波の音が聞こえた。ぼんやりと崖が見えるようになり、野生の山羊の鳴く声も聞こえてきた。おんぼろ汽車が通過するようにスコールが通り過ぎてしまうころには、ぼんやりと星も見えはじめた。二時間後、さらに一海里ほど湾に入ったところで、ぼくらは投錨した。水深は十一尋(ひろ、約二十メートル)*3。ついにタイオハエに到着したのだ。

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草ぶきの家々
[訳注]
*1: スプリットスル=スプリット(斜檣)+スル(セイル、帆)。スナーク号では船首から突き出したバウスプリットから張っている帆。

*2: ハーマン・メルヴィルは海洋文学の傑作『白鯨』の作者。近年は海洋物以外の多彩な作品群でも再評価がなされている。捕鯨船に乗り組んだことがあり、船乗り時代の体験を元にマルケサス諸島を舞台にした『タイピー』を出版したのは白鯨を発表する前年で、これが処女作になった。時代は異なるが、ジャック・ロンドンとは共通点が多く、彼の愛読書だった。

*3: 尋(ひろ、fathom)は水深を測る単位。一尋は6フィート(約1.8メートル)。11尋は約二十メートル。