スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (16)

ぼくらがたどっていく水路がずっと森の中にあったらよかったのにと思う。木々は人間の社会そのものだ。オークの老木は宗教改革の前からずっとそこに立っていて、多くの教会の尖塔よりも高いし、そこらの山々より堂々としている。しかも生きていて、ぼくらと同じように病気にもなれば死ぬこともある。これほど歴史を感じさせてくれるものは他にないのではないだろうか? そういうおびただしい数の巨木が何エーカーにもわたって根を張り、木々の頂の緑は風にそよぎ、その足下では力強い若木も伸びてきていて、森全体が健康的で美しく、光に色彩をもたらし、大気に芳香を漂わせている。これほど立派な自然というものが他にあるだろうか? ハイネは魔術師のマーリンのように、ブロセリアンデに生えているオークの木の下に埋葬してほしいと願った。ぼくはといえば、木が一本ではちょっとという感じだが、林のように生い茂り成長していく熱帯のバニヤン樹であれば、親木の根元に埋めてほしい。そうすれば、ぼくの体にあったものが木から木へと伝えられ、ぼくの意識は森全体に広がり、多くの緑の尖塔が共通した心を持つことになる。すると、森は自分のすばらしさと威厳に喜びを見いだすかもしれない。そうした広大な霊廟で、千匹ものリスが枝から枝へと飛び移り、起伏した緑の森を小鳥が飛び交い、風が吹き抜けていくのを、今から感じることができる気がする。

だが、悲しいかな! モルマルの森は小さくて、ぼくらがその周囲をめぐったのは短い間だった。そして、残りの時間は土砂降りの雨で、突風まじりの雨もたたきつけてきたので、こんな気まぐれでひどい天気にはうんざりだ。舟を抱えあげて水門を超えなければならず、ズボンの裾をまくり上げたようなときに限って雨が強くなるというのも不思議だった。ずっとそんな調子だった。こんなことが続くと、自然が嫌だという気持ちも生まれてくるというものだ。どうして五分前とか五分後に降ってくれないのか、わざといやがらせをしているとしか思えない。シガレット号の相棒はカッパを持っていたので、そういうことにも対応できたが、ぼくの方は濡れるにまかせるしかなかった。ぼくは自然は女だということを思いだした。相棒はぼくの愚痴にも鷹揚に耳を傾け、皮肉な調子で相槌をうった。相棒は、これを潮の満ち引きにたとえて、「月が不毛な虚栄心にかられて干満を起こしているのでなければ、カヌーに乗った者にいやがらせしているんだろう」と言った。

ランドルシーまでもう少しという最後の水門で、ぼくらは先へは行かず、土手にあがり、雨に打たれたまま座り、パイプで一息つこうとしていた。すると、威勢のいい老人がやってきて、ぼくらの旅についてたずねた。この人は悪魔だったんじゃないかと思う。同好の士だと感激したので、ぼくはぼくらの旅について、あらいざらい話した。すると、その老人は、こんな馬鹿な話は聞いたことがないと言った。どこまで行っても水門、水門、水門と水門ばかりだぞ、知らなかったのか? この季節には、オアーズ川は水量が少なくて干上がってもいるらしい。「汽車に乗りなよ、兄ちゃんたち」と彼は言った。「そうしてお父ちゃんお母ちゃんが待っている家に戻んなさい」 この男の言葉は悪意に満ちていたので、ぼくは呆然として黙ったまま見つめているしかなかった。樹木だったら、こんな風な話しかたをすることはないだろう。やっとのことで、ぼくは反論をしぼりだした。ぼくらはずっと遠くのアントワープから来ているし、あんたが何を言おうと、旅を続けるつもりだ、と。そうとも、他に理由がなかったとしても、あの爺さんができないと言ったからには、ぼくらは最後までやり遂げるしかない。すると、この元気な老紳士はぼくをあざ笑い、カヌーのことをあれこれ言い、頭を振りながら去っていった。

ぼくがまだむかっ腹を立てているときに、二人連れの若い男がやってきた。雨具を着ずにずぶぬれのセーター姿のぼくと、シガレット号でカッパを着た相棒を見比べ、ぼくをシガレット号の相棒の使用人だと思ったようで、ぼくの立場と主人はどういう人だということについて、たくさんの質問をしてきた。ぼくは言葉には出さなかったが、それにも腹を立てた。いい人だけど、こんな馬鹿げた航海をするなんてね、とぼくが言うと、「いや、そんなことないよ」と、一人が言った。「そんなこと言っちゃだめだよ。ばかげてなんかないし、とても勇敢だよ」 この二人はぼくを元気にするために送られてきた二人の天使だったんじゃないかと思う。主人に不満を抱いている使用人のふりをして、例の老人の嫌みをそのまま話し、この立派な若者たちに、それがハエかなにかを追っ払うように否定されるのを聞いていると、沈んだぼくの心もまた軽くなった。

ぼくがそのことをシガレット号の相棒に話すと、彼は「やつらはイギリスの使用人の振るまいを何か勘違いしたんだろうな」と、そっけなく言った。「だって、水門じゃ、お前は俺を動物みたいに扱ったじゃないか」

それは事実だ。それほど老人に言われたことが悔しかったのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (15)

サンブル運河 - ランドルシーへ

朝、ぼくらが屋根裏部屋から降りていくと、女主人は玄関の扉の裏側に置いてある水を入れた二つのバケツを示し、「それで顔を洗って」と言った。ぼくらはそれで顔を洗った。ジリヤール夫人は玄関前の石段で一家の靴を磨いていた。夫のエクトルさんは陽気に口笛を吹きながら、その日の売り物の商品を整理して携帯用の戸棚にしまっている。荷馬車にはこういう棚が積んである。夫婦の子供はイギリスでウォータールー・クラッカー*1と呼ぶかんしゃく玉を床に投げつけていた。

ウォータールーはフランス語でワーテルローのことだが、ちなみにフランス語ではかんしゃく玉を何と言うのだろう。アウステルリッツ・クラッカー*2だろうか。物事にはいろんな見方がある。サウサンプトン経由で汽車に乗ったフランス人が、ウォータールー駅で降り、馬車でウォータールー橋をわたる羽目になったそうだ*3。たぶん母国に帰りたくなっただろう。

ポン自体は川の上にあるが、陸を歩けばクアルトから十分で着く。ところが、水路を行くと延々と六キロもあった。ぼくらは荷物を宿屋に残したまま、カヌーを置いたところまで雨に濡れた果樹園を通って歩いて行った。子供たちが何人か見送りにきていたが、ぼくらは昨日のような不可思議な存在ではなくなっていた。金色の夕日をあびて登場したのに比べると、今朝の出発はずっと地味で味気なかった。ぼくらが到着したときは幽霊が出現したみたいなものだったのだろうが、そういう謎めいた雰囲気は消えていかざるをえない。

バッグを取りに宿屋までカヌーで戻ると、ポンの宿屋の人々はびっくり仰天した。二隻の瀟洒な小舟それぞれに英国国旗がひるがえり、ニスを塗り磨き上げられているのを見て、そうとは知らず高貴な人たちを泊めていたのかと気づいたようだった。女主人は橋の上に立って眺めていたが、宿代をもう少し高く請求すればよかったと残念に思っていることだろう。宿屋の息子はそこらを駆けまわって、近所の人たちに面白い見世物があるぞと呼び集めている。ぼくらはたくさんの見物人に見守られながら、カヌーを漕いだ。行商人だと思ったのに、こういう紳士だったのか、というわけだ。だが、もう手遅れだ。

一日中、雨が降ったりやんだりしていたが、土砂降りになることもあった。ぼくらは体の芯までずぶ濡れになり、日が差すと少し乾いて、また雨でずぶ濡れになるといった調子だった。その合間には穏やかなときもあった。特にモルマルの森沿いを進んでいたときがそうだった。モルマルという名前は不吉な印象を与えるが、風景も香りも心地よいところだ。川沿いに広がっているこの森は荘厳な感じがした。木々の枝が川面に垂れ下がり、また上の方にもずっと葉が壁のように重なっている。森は自然が作り出した都市そのもので、たくましく害のない生物に満ち、死んだものはなく、人間が作ったものも存在しない。森の生物そのものが家であり公共のモニュメントでもあるのだ。森ほど生に満ちたものはなく、森ほど静けさに満たされたところもない。そんな場所で、ぼくら二人は、自分をちっぽけでせわしげな存在だと痛感しながらカヌーを漕いでいった。

森はたしかにあらゆる匂いに満ちている。多くの木々の匂いは甘美で、元気づけてくれる。海の匂いは粗野で攻撃的だし、かぎたばこのように鼻孔を刺激し、広々とした大洋や帆船への憧憬を誘う。森の匂いは元気をださせるという意味ではそれに似ているが、いろんな意味で、もっとやさしさに満ちている。また、海の匂いはあまり変化しないが、森の匂いは無限の変化に満ちている。一日のうちでも時間帯によって、匂いの強さだけでなく性質も変化する。森のなかを移動し、木の種類が違ってくると、また別の空気を吸っているようだ。たいていはモミの木の樹脂の匂いが優位を占めているが、森の植生によっては、もっとなまめかしい場合もある。にわか雨が降った午後、モルマルの森の空気が漂ってきたが、スイートブライヤーというバラの甘い香りにも劣らない繊細な匂いがした。

[脚注]
*1: ウォータールー(フランス語でワーテルロー) - 現在のベルギーの地名。地中海のエルバ島を脱出したナポレオンが再起し、1815年にイギリスを含む連合軍やプロイセン軍と戦って決定的な敗北を喫した場所。
*2: アウステルリッツ - 現在のチェコの地名。1805年にナポレオンがオーストリアとロシアの連合軍を破った場所。
*3: ウォータールー駅/ウォータールー橋 - ワーテルローの戦いの戦勝記念に、イギリスではロンドンにある橋の名前がワーテルローにちなんでウォータールー橋に改称された。その後、その橋の近くにできた駅もウォータールー橋駅と命名された。なお、現在は路線も名称も当時と比べると変化している。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (14)

行商人と誤解されたことについて、そう傷ついたというわけではなかった。自分がそういう人たちより上品な食べ方をしたとか、フランス語の間違いだって、ちょっと種類が違うとか思ったとしても、その差が宿屋の女主人や二人の労働者にはまずわからないだろうからだ。ぼくらとジリヤール一家は、この宿屋の食堂では本質的に同じだった。エクトルさんは実際にはぼくらよりずっとくつろいでいたし、他の連中に対しても鷹揚だった。とはいえ、それは氏がロバに荷馬車を引かせていたのに対し、ぼくらはとぼとぼと歩いてやってきたということで説明がつく。たぶん、宿屋の残りの連中は、ぼくらが後からやってきた一家をとても羨望しているとでも思ったことだろう。

一つだけ確かなのは、この無邪気な一家がやってくると、誰もがすぐに打ちとけて、人間らしい交流が生まれ、会話もはずんだということだ。たとえば、この旅の商人にほいほいと大金を預けようという気にはならないが、この人はまっとうな人だとは思っている。善悪が入り混じったこの世界では、ある人に一つか二ついいところがあれば──特にその人の家族全体が快適に暮らしているのであれば──それに満足し、そうした長所以外のことについては目をつぶってもよいのではないか。さらに、もっとよいのは、長所以外のことは気にせず、うまくやっていこうと決めて、難点がたくさんあるとしても、だからといって、それがただ一つの長所を消しさるわけではないと思うようにすることだろう。

夜も更けてきた。エクトルさんは馬小屋で使うランタンをつけ、荷物を整理するために出て行った。息子は服のほとんどを脱ぎ、母親の膝の上で、それから床の上で飛び跳ね、皆の笑いを誘っていた。

「君、一人で寝るの?」と、宿屋で働いている娘がきいた。
「そんなことしないよ」と、ジリヤール氏の息子は答えた。
「でも学校では一人で寝るんでしょ」と、母親が異議をとなえる。「もう大きいんだし」

しかし、息子は、休みの間は学校じゃないと口をとがらせた。学校には寮があるんだから、と。そして、母親にキスの攻撃をして黙らせた。母親は笑っている。一緒に寝るのを一番喜んでいるのは母親なのだ。

この息子が言ったように、実際に一人で寝ることはなかった。というのも、家族三人にベッドが一つしかなかったからだ。ぼくらは二人で一台のベッドというのには頑強に抵抗し、ベッドが二つある屋根裏部屋に寝ることになった。ベッドの脇に家具があり、三つの帽子かけと一脚のテーブルがあった。コップ一杯の水すら用意されていなかったが、運のよいことに窓は開いた。

ぼくらが眠りに落ちる前に、屋根裏部屋に大きないびきが響き渡った。ジリヤール一家も二人の労働者も宿屋の人々もそろっていびきの大合唱をはじめていた。窓の外では、ポン=シュル=サンブルの上に三日月が明るく輝き、ぼくら行商人全員が眠る宿屋を照らしていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (13)

移動販売の商人

モリエールの喜劇で、召使たちが使用人部屋で上流階級の真似事をしているところに本物の高貴な人々が入ってきたときのように、ぼくらは本物の行商人と出くわすことになった。ぼくらにとって、これがつらい教訓となったのは、彼らがぼくらがそうだと思われた底辺に近い行商人ではなく、もっと立派な立場の商人だったということだ。その人たちはネズミの群れにまぎれこんだライオン、あるいは二隻の小舟の間に割りこんできた軍艦といった感じだった。もはや行商人という範疇にはおさまらなくて、荷馬車で移動販売をしている商人なのだった。

モーブージュの成功しているエクトル・ジリヤール氏がロバに荷馬車を引かせてぼくらの宿にやってきたのは八時半ごろで、威勢よく宿屋の連中に声をかけた。細身でせわしなく落ち着きのない人で、役者のようでもあり騎手のようでもあった。教育の成果は見られないものの商売に成功していることは明白だった。というのも、氏はフランス語の名詞や形容詞について頑固なまでに男性形しか使わず、夜がふけるにつれて、未来形も文法なんか無視したものになった。一緒に旅をしている妻の方は、髪を黄色いスカーフで包んだ、魅力的な若い女だった。息子はまだ四歳で、シャツを着て軍帽をかぶっていた。息子が両親より立派な服装をしているのは明らかだった。すでに寄宿制の学校に入学していたが、学校が休みに入ったので両親と一緒に旅をしているという話だった。たくさんの貴重な商品を満載した荷馬車で、お父さんやお母さんとずっと一緒に、道の両側に広がる田園風景をながめながら旅をし、村々の子供たちから羨望と驚きをもって見つめられるというのは、なんともすてきな休みのすごし方ではないだろうか? 休暇の間は、世界一の紡績業者の息子であり後継ぎであるより、移動販売する商人の息子でいる方が楽しいだろう。絶対的な王子ということについていえば、このジリヤール氏の息子ほどぴったりする子供に会ったことがない。

エクトルさんと宿屋の息子がロバを馬屋につなぎ、貴重品すべてに厳重に鍵をかけている間に、女主人はビーフステーキの残りを温め、冷たくなったじゃがいもを薄く切って揚げた。ジリヤール夫人は息子を起こした。長旅で疲れているのかぐずっていて、灯りをまぶしそうにしている。その子は目をさますと、夕食が出される前にガレット*1や熟していない梨、冷めたジャガイモをつまんで食べた。ぼくの見るところ、それでますます彼の食欲はましたようだった。

女主人は母親としての対抗心を発揮して自分の娘を起こし、二人の子供を対面させた。ジリヤール氏の息子は娘を一瞥したが、犬が鏡に映っている自分の姿をちらっとみて走り去るように、すぐによそを向いた。彼はガレットに興味を奪われていた。母親は息子が娘に興味を示さないことにがっかりしたようで、率直に失望した様子を見せたものの、まだ子供だからともっともな判断を下した。

この子が女の子にもっと関心を示すようになり、母親のことはそれほどかまわなくなるときがくるのは間違いないだろう。そのときに彼女がいま思っているのと同じくらいそれを受け入れてくれればよいのだがと思ったりした。とはいえ奇妙なことに、男への軽蔑を隠さない女でも、自分の息子については、男の最も醜い特質があらわれていても、それを元気がよいと誇らしく思うようだ。

一方、娘は男の子よりずっと長く彼をみつめていた。おそらく、彼女は自分の家にいて、男の子の方は旅をしていて珍しい光景に慣れていたからだろう。しかも、ガレットは彼女には与えられていなかった。

夕食の間ずっと、夫妻は息子のことばかり話していた。両親はどちらも自分の子供を溺愛していた。夫の方は息子がいかに賢いかを、この子は学校の子供全員の名前を知ってるんですよ、などと自慢し続けた。確かめてみるとそれが本当ではないとわかってしまったが、すると、この子はいかに慎重か、びっくりするくらい几帳面で、何か質問されると、じっくり考えて、もし知らなければ「本当になんにも言わないんですよ」と述べた。それが本当なら確かにとても慎重ではある。そうした会話の合間に、夫はビーフステーキを口にほうばったまま、息子が何か印象的なことを言ったりやったりしたときいくつだったかねと妻を証人にしながら、しゃべりまくった。夫人の方はそういう話はふんふんと聞き流していた。母親は息子自慢をするタイプではなかったが、息子の世話に没頭しつつも、その子が出あった幸運な出来事すべてを思いだしては静かに喜んでいる風だった。この子はまだはじまったばかりの休みのことばかり話し、後で必ずやってくる辛い学校生活のことはあまり考えなくてすんでいたが、こんな境遇にある子は他にはいないだろう。母親は息子が独楽や笛やヒモをポケットに詰めこんでいるのを、仕事柄もあってか、自慢そうに示した。彼女が訪問販売で家をたずねるときは息子も一緒についていき、売れるといつも、得られた利益から一スー*1をもらっていたようだ。実際に彼らはとてもよい人たちだったが、息子についてはひどく甘やかしていた。とはいえ、両親は息子の様子には目を配り、ちょっとやんちゃをするとたしなめた。こうしたことは、夕食の間、ときどきあった。

[脚注]
*1:ガレット - フランス北西部の粉を使った素朴な郷土料理/お菓子。生地をうすく丸く広げて焼き、これがクレープの元になったとされる。
*2: スー - フランスの通貨で、1フランの20分の1。十進法が導入されると、1スーは5サンチームに相当するとされた。サンチームは補助単位で1フラン=100サンチーム。現在は通貨としてユーロが導入されている。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (12)

ストーブの隙間や空気穴から見える赤い炎を別にすれば、部屋は真っ暗だった。女将が新しい客のためにランプをつけた。暗かったおかげで断られずにすんだのだと思う。というのも、彼女がぼくらの身なりをみて喜んだ風にはみえなかったからだ。ぼくらが入った部屋は広かったが殺風景で、音楽や絵画を寓意的に描いた二枚の版画と、公衆の面前で酩酊してはならないという法律の写しが貼ってあった。片側にバーカウンターがあり、ボトルが半ダースほど並んでいた。労働者が二人、疲れきった様子で夕食を待っていた。地味な格好の女が眠そうな二歳くらいの子供の世話をしていた。女将はストーブに載せた鍋をかきまぜ、ビーフステーキを焼きはじめた。

「行商してるのかい?」と、彼女がやさしくはない口調で聞いた。会話はそれで全部だった。ぼくらは本当は行商人になったのかもしれないと思うようにもなった。ポン=シュル=サンブルの宿屋の経営者ほど、相手がどういう人間か推測する幅の狭い人たちを見たことがない。しかし、その場所の流儀や作法はその地で使われている銀行紙幣が通用する範囲と似たり寄ったりだ。どんなに偉ぶっても、ちょっと遠くへ行けば通用しなくなる。このエノー州の人々は、ぼくらとごく普通の行商人の区別がつかなかった。ステーキが焼きあがるまで、ぼくらは、彼らがぼくらを彼ら自身の価値判断でどう受けとめるのか確かめようとした。つまり、できるだけ礼儀正しく振る舞って、場をなごませようとした。だが、そうしたこと自体、ますます行商人という彼らの確信を強めるだけになってしまい、考えこんでしまった。それだけ一生懸命やっても彼らの印象を変えることができなかったことからすると、フランス語圏では行商人というものがイギリスのそれとは違っているのかもしれない。

やっと食事の用意ができた。二人の労働者(そのうちの一人は過労と栄養不足で病気になったように蒼白だった)の夕食は、一枚の皿にパンと皮つきのじゃがいも、氷砂糖で甘くした小さなコーヒーカップ、タンブラーに注いだ自家製の酒だった。女将とその息子、それに子供連れの女も同じものを食べた。ぼくらの食事はそれに比べると豪華だった。見かけほどは柔らかくないビーフステーキにジャガイモ、チーズ、自家製の酒。コーヒーには白砂糖がついていた。

それが紳士──いや、行商人というものだ、ということだ。ぼくはそれまで行商人をたいした存在だと思ったことはなかったが、こういう労働者相手の宿ではたいした存在なのだと、自分がその立場におかれてはじめてわかった。ホテルでスイートルームに泊まるような一ランク上の存在だとみられているのだ。人生の経験を積むにつれてわかってきたが、人間には無限の段階があり、おそらくは神のご加護により、その最底辺にはだれも存在せず、だれもが他のだれかに対して何かしら優位性を感じ、ともかくプライドが保てるようになっているのだろう。

とはいえ料理はまずかった。とくにシガレット号の相棒はそう感じたようだ。ぼくはいろんな冒険や固すぎるビーフステーキも含めて、すべてが面白いと思いこもうとした。ルクレティウスの説によれば、ぼくらのステーキは他の人々の粗末なパンを見て自分のステーキがうまいと感じるはずだった。しかし、現実にはそうはならなかった。自分よりつましい暮らしをしている人々がいると頭で理解していても──同じテーブルで、実際にまわりの人より豪華な食事を出されると、あまり気持ちのよいものではないし、摂理にも反する。かつて食い意地の張った少年が自分の豪華なバースデーケーキを学校にこれ見よがしに持ってきたことがあるが、それ以来、そんな光景は見たことはなかった。なんとも鼻もちならないし、自分がそうする立場におかれると思ったこともなかった。だが、ここで行商人とみなされるというのは、そういうことなのだ。

イギリスでは、より貧しい階級の人々の方がより豊かな人々に比べて気前がよい傾向があることに疑いはない。そして同じような階級の人々の間では、気前のよい人々と気前のよくない人は区別しにくい、ということ大きく関係しているに違いない。労働者とか行商をする人々は、自分より苦しい立場の人々から自分をまったく切り離しておくことはできない。自分が贅沢するときは、そんな贅沢が許されない人々の面前で行わなければならない。となれば、目の前にそういう人がいれば、気前よくせざるをえないではないか……人は人生に仮住まいしているわけだが、そうやって食べ物を口に入れるたびに、それがもっと腹をすかせた人々の指からもぎとられたものであることを思い知らされるはめになる。

一方、それなりの段階にある富裕層では、気球が天に昇っていくように、そういう幸運な人々は雲を通り抜けてしまうので、地上の出来事は視界から隠されてしまう。見えるのは天体だけで、すべて賞賛に値する秩序に満ち輝いている。そういう人々は、自分が神意により感動するほど庇護されていることを知り、自分をふと百合やヒバリのように感じたりもする。むろん歌ったりはしないが、立派な馬車に乗って謙虚にふるまっているように見える! もし世界中の人々が一つのテーブルで食事したとすれば、そういう境地にある人々はひどい衝撃を受けるだろう。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (11)

ポン=シュル=サンブル

行商人

シガレット号が朗報を持って戻ってきた。ぼくらのいるところから歩いて十分ほどのポンと呼ばれるところに宿があるらしかった。穀物倉庫にカヌーを置かせてもらって、子供たちに道案内を頼んだ。子供たちはぱっとぼくらから離れ、ご褒美をあげるよという申し出にも返事をせず黙りこむ。子供たちにとって、ぼくらは明らかに二人連れのおそろしい青ひげ*1だったのだ。公共の場で話しかけたり数の優位を頼りにできるときはいいが、この穏やかな日の午後に自分たちの村に雲の上から舞い降りてきた、腰帯を締め、ナイフを差した二人連れ、遠いところから旅してきたらしい、物語にでも出てきそうな怪しい大人を一人で道案内するとなると話は別なのだろう。穀物倉庫の主人が出てきて、案内役として一人の子供を無理やり指名した。ぼくらは自分で道を探していくべきだったかもしれない。だが、その子はぼくらより穀物倉庫の主人の方を怖がっていた。前にどやされるようなことをしていたのかもしれない。この子の小さな心臓は激しく脈打っていたに違いない。というのも、彼はぼくらよりずっと前を小走りにどんどん進み、ぼくらを振り返るその目はおびえているようだったからだ。ジュピターやオリュンポスの神々*2をその冒険で案内したのも、こんな風な子供たちだったのかもしれない。

教会やくるくる回る風車のあるクアルトから、どろんこ道の上り坂が続いていた。農作業を終えた男たちが家路についている。元気のいい小柄な女性がぼくらを追いこしていった。彼女はロバに横向きに乗り、ロバの背にはきらきら輝く牛乳缶が左右に振り分けて吊るされていた。追いこしながら彼女はロバの腹を蹴り、徒歩の連中に声をかけていく。疲れ切った男たちはだれも返事をしなかった。まもなく道案内の子供は道を外れ、野原を進んだ。太陽は沈んだが、ぼくらは西に向かっていて、前方の空は金色に輝く湖がひろがっているようだった。開けた田園地帯がしばらく続き、やがて葉の生い茂った木々がアーチのように道におおいかぶさってくるようになった。道のどちら側も薄暗い果樹園で、木立ちの間に農家が低く点在し、煙が空に昇っていた。西の方角には、ちらちらと大きな金色に輝く空が見えた。

シガレット号の相棒は、これまで見たことがないほど、くつろいでいるようだった。この田園風景に感動し抒情的になっている。ぼくの方も少し気分が浮きたっていた。歩くにつれて、夕方の心地よい空気や木々の影、輝くような明るさや静寂も調和を乱さずついてくる。ぼくらは、これからは市街地を避けて農村に泊まろうと心に決めた。

道はしまいに二軒の建物の間を抜けて、広いがぬかるんだ幹線道路に出た。見渡す限り、どちらの側にも不格好な集落が並んでいる、家々は道路から離して建てられていて、道路の両側の空き地には積み上げた薪や荷馬車、手押し車、ゴミの山があり、草も生えていた。左手の離れたところには、不気味な塔が通りの真ん中に立っていた。かつてそれが何だったのかはわからないが、たぶん戦争があったころの陣地のようなものだろうか。今では文字盤の数字が読めなくなった時計が上の方に取りつけてあり、下には鉄製の郵便受けがあった。

クアルトで教えてもらった宿屋は満室だった。あるいは女将がぼくらの身なりを気に入らなかったのかもしれない。ぼくらは長くて濡れたゴム製のかばんを抱えていたので、いかにもうさんくさい格好──シガレット号の相棒によればゴミを集めて回っている業者も同然──だった。「あんたたち、行商してるの?」と女将が聞いた。そして、わかりきったことだと思ったのか、返事を待たず、街のはずれに旅行者を泊めてくれる肉屋があるので、そこに行って泊めてもらうようにといった。

ぼくらはそこへ行ってみた。だが、肉屋は忙しそうで、そこでも満室だと断られた。やはり、ぼくらの格好が気に入らなかったのかもしれない。別れ際に「あんたら行商人かね?」と聞いた。

暗くなってきた。よく聞きとれない夕方の挨拶をしていく通りすがりの人の顔を見ても区別がつかない。ポンの人々は油を倹約しているようだ。長く伸びた村で、窓に灯りがともっている家は一軒もなかった。ここは世界で一番長く村ではないかと思う。暗くなってきたのに宿が見つからないという困った状況で、一歩が三歩にも感じられた。最後の宿屋に来た時には体力も気力もなくなっていて、薄暗い扉ごしに、おずおずと今晩泊めてもらえますかと聞いた。まったく愛想のない女の声で、いいよという返事があった。ぼくらはかばんを投げ出し、手探りで椅子のところまで行った。
脚注]
*1: 青ひげ - グリム童話などに出てくる、何人もの妻を殺した殺人鬼。
*2: ジュピターやオリュンポスの神々 - ギリシャ神話でオリュンポス山(標高2919m)の神殿に住むとされた十二神。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (10)

サンブル運河は小さな丘の間を縫って蛇行しながら流れていたので、クアルトの水門の近くまでたどりついた時には午後六時を過ぎていた。船を曳いて歩く道には何人か子供たちがいて、道沿いにぼくらを追いかけてきた。シガレット号の相棒は彼らと冗談を言いあっている。ぼくは相手にわからないよう英語で相棒に警告しようとした。やつらは最も危険な生物で、下手にかかわると、しまいには石が雨のように飛んでくるぞと、ね。だが、ダメだった。ぼくはといえば、にっこり笑って頭をかしげ、フランス語があまりわからない、無害な人間だというふりをした。実際にぼくは母国で経験しているのだ。こういう元気いっぱいの悪ガキの相手をするくらいなら危険な野生生物と出会うほうがましだ。

だが、ぼくはこの若く友好的なエノー州の子供たちに対して不当な仕打ちをしていたのだった。シガレット号が宿を探して運河を離れたので、ぼくは土手に上がってカヌーの番をしながらパイプをくゆらせたが、すぐに好奇心旺盛な、この人なつっこい連中に取り囲まれた。そのころまでには、子供たちに若い女性と片腕のない温和な青年が加わっていたので、ちょっと安心ではあった。ぼくがフランス語を一言二言口にすると、少女の一人が妙に大人ぶった様子でうなずいた。「やっぱりね」と、彼女は言った。「この人、ちゃんとわかるのよ。さっきは、わかんないふりしてただけ」 そして、子供たちは人が好さそうな笑い声をたてた。

ぼくらがイギリスから来たと聞くと、とても驚き感銘を受けたようだった。さっきの少女は、イギリスは島で、ここからずっと遠いんだよ(ビヤン・ロワン・ディシ)と説明している。

「そう、ここからずっと遠いんだ」と、片腕の若者が言った。

ぼくは人生ではじめてホームシックを感じた。子供たちの反応を見ていると、とんでもない遠くまで来た実感がわいてきた。子供たちはカヌーについて口をそろえてほめてくれた。この子供たちはちょっとした配慮もみせたのだが、それはここに書いておくに値するだろう。というのは、ぼくらが上陸しようとする最後の百ヤードほど、子供たちは乗せてくれと耳を聾するほどの大声をあげていたし、翌朝ぼくらが出発するときも同じ調子で頼みこんできたくせに、カヌーを岸につけて空っぽで係留しているときに乗せてくれとは口にしなかったのだ。それなりに気を使ったということだろうか? それとも、カヌーに自分たちだけで乗って、ぐるぐる回転するだけでうまく進めずに恥をかくことを心配したのだろうか? こういう皮肉というか、斜に構えたものの見方は好きじゃない。というか、この二つは同じことなのかもしれない。感傷にひたろうとする者に冷水をあびせ、バスタオルでごしごしこすれば元気が出てくるように、感受性が鋭敏すぎる人間には、人生においてこういう皮肉な見方も必要なのかもしれない。

子供たちの関心はカヌーからぼくの服に移った。彼らはぼくの赤い帯に感心し、ナイフには畏怖の念を抱いた。

「イギリスでは、こんな風に作るんだ」と、片腕の少年が言った。現在のイギリスで作られているナイフがどれほどひどいものか彼が知らなくてよかったと、ぼくは思った。「こういうナイフは船乗り用なんだ」と、彼はつけ加える。「大きな魚から自分の命を守るためにね」

言葉をかわすごとに、ぼくは自分が子供たちにとって、だんだんロマンティックな存在になっていくのを感じた。実際にそう思われていたのだと思う。ぼくが持っているパイプはフランス製の粘土でできた、ごくありきたりのもので汚れてもいたのだが、彼らの目には、遠くから運ばれてきた貴重なものに見えたらしい。ぼくの服にほめるところがなければ、それはすべて海を超えてきたからだとされた。とはいえ、ぼくの服装で一つだけ、そうしたほめ言葉の対象にならなかったものがある。泥まみれのズック靴だ。彼らとしても、この泥だけは自分たちの国のものだと認めざるをえなかったのだろう。さきほどの少女は子供たちのリーダー的な存在だったが、ぼくに恥をかかせないよう率先して自分の汚れた木靴を見せたりもした。彼女がいかに優雅に明るい調子でそうしたことを行ったか、みんなにも見てもらいたかった。

若い女性は取っ手が二個ついた真鍮製の牛乳入れを抱いていたが、いまは少し離れた草地に置かれていた。ぼくは連中の注意を自分以外のものに向ける機会を見つけてうれしかったし、それをほめることで少しはお返しをすることができた。ぼくは缶の形と色の両方を本気でほめ、金でできているみたいに美しいと言った。彼らは少しも驚かなかった。この地方では明らかに誇らしく思われている製品だったからだ。子供たちは口々に、この缶がいかに高いかを語った。一個が三十フランで売られることもあるのだという。この缶をロバでどうやって運ぶのかというと、サドルの両側にそれぞれ一個ずつ吊るすのだが、それだけで豪華な飾りをつけたようになる。しかも、この地方一帯に広く普及しているため、大きな農場には大きな缶がたくさんあるのだ、と。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (9)

サンブル運河──クアルトまで

午後三時ごろ、グラン・セールの従業員全員が水際までぼくらの見送りにきてくれた。その中には乗合馬車の男もいたが、しょぼくれた目をしていた。かわいそうなカゴの鳥君! ぼく自身もかつては駅をさまよいながら次から次へとやって来る列車が自由人たちを夜の闇のかなたへと運んでいくのを眺めては、羨望にかられ、時刻表に書いてある遠い土地の名前を読んだりしたこともあるのだった。

この要塞化した地方を抜けてしまう前に雨が降りだした。向かい風で、猛烈に吹いた。周囲の自然も天候に負けていなかった。ところどころ雑木林があるだけの荒廃した雰囲気の土地で、通過する際には、あちらこちらに工場の煙突群が見えた。木々の間に土が見えている牧草地に上陸した。晴れ間がのぞいたところで、一服した。しかし、風はますます吹きつのり、タバコを吸うことはほとんどできなかった。近隣には薄汚い作業場がいくつかあるだけで、自然のものは何もない。背の高い少女を先頭にした子供たちが、ぼくらのいるところから少し離れたところに立っていた。あの子たちの目に、ぼくらはどう映っているのだろうかと気になった。

オーモンでは、水門を通り抜けることはほとんどできない状態になっていた。上陸するはずの所は川から急勾配の高い崖になっているし、船着き場は離れたところにあった。一ダースほどの埃まみれの労働者が手を貸してくれた。彼らは謝礼を受け取ろうとはしなかった。それどころか、ぼくらが金を渡そうとしたことで彼らを侮辱したという印象を与えないよう配慮し、上手に断ってくれた。「ここでは、いつもこんな風だよ」と、連中は言った。そして、それはとても似つかわしいやりかただと思う。ぼくの故郷のスコットランドでも代価を求めず手を貸してくれるのだが、そういう親切な人々に手伝ってくれたお礼として金銭を与えようとすると、選挙で有権者を買収しようとしているかのごとく乱暴に拒否されてしまう。ここの人々みたいに、やっかいごとを無償で手伝ったりした際には、もうひと頑張りして、相手に気まずさを感じさせないよう配慮するのは悪くない。ぼくらの勇敢な母国イギリスでは、一生の間ずっと泥の中をとぼとぼ歩き、誕生から埋葬まで耳元で風が吹き続けているといった風だが、善行も悪行も尊大かつ横柄に行われている。誰かに施しをするのでも、つい社会正義の矛盾を糾弾するような調子になってしまうのだ。

オーモンを過ぎると、太陽がまた顔を出し、風もおさまった。少し漕いでいくと、製鉄所のある一帯を過ぎ、気分が高揚する楽しい景色になってきた。川は低い丘の間を蛇行しながら続いているので、太陽はぼくらの背後になったり正面になったりした。前方の川面がまぶしいほどぎらぎら輝いている。両岸に牧草地や果樹園があり、スゲの木や水生植物の花で縁どられていた。生垣はとても高く、楡の木の幹を縫うように張り巡らしてあった。平坦な場所では非常に小さく区切られていて、川ぞいに木陰の休憩所が並んでいるように見えた。あたりを眺望できるような場所はなかった。時々、木の生えた丘の頂上が近くの生け垣ごしに見えたりしたが、その背後には空があるだけで、それがすべてだった。空に雲はなかった。雨がやんだ後の空気は澄みきっていた。川は丘をめぐりながら鏡のように光り輝き、カヌーを漕ぐごとにその波紋が岸辺の花々を揺らした。

牧草地では白黒まだらの目立つ模様の牛が歩きまわっていた。頭が白く体の他の部分は黒々とした毛におおわれた一頭が川岸まで水を飲みにやってきて、芝居に出てくる妙な坊さんが儀式をやっているみたいに、立ったまま両耳をぼくの方に向け、通り過ぎるまで小刻みに動かしていた。ザブンという水音を聞いてすぐに振り返ると、例の坊さんめいた牛が川に落ち、陸にあがろうともがいているのだった。岸辺の土が牛の重さに耐えかねて崩れたのだ。

小鳥やたくさんの釣り人を除き、牛の他に生き物は見えなかった。釣り人たちは牧草地の縁に座っていて、釣竿が一本の者がいるかと思えば十本も並べている者もいた。彼らは満ち足りた気分でいるようだった。天気について話をすると、彼らの声は静かで、遠くから聞こえてくるようだった。彼らは全員が川には魚が多いことに同意したが、何を釣ろうとしているのかについては、それぞれ意見が違っていた。二人として同じ種類の魚を釣ろうとしていないのは明白なので、逆に、ぼくらは誰も魚を釣っていないのではないかと疑わざるをえないほどだった。とても素敵な午後だったので、彼らが皆、獲物を釣り上げ、それをカゴに入れて家に持ち帰って夕食に食べられたのであればよいがと思う。こういうことを言うと、動物愛護に燃える友人のうちには、ぼくを非難する人がいるかもしれない。だが、ぼくは世界中のどんな勇敢な魚よりも、釣り人の方を尊重したい。ぼくは料理されて食卓に出されたものでなければ魚には興味がない。カヌーに乗って川を行く者にとって、釣り人は川の景色で重要な役割を果たしていて好ましい存在なのだ。自分がいまいる場所がどこなのか聞くと、いつも穏やかな口調で教えてくれるし、そうした釣り人がひっそりと存在していることが孤独と静謐を際立たせてくれるし、カヌーの下に銀鱗をきらめかせた魚のいることを思い出させてくれる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (8)

相棒一人をのぞいて他には知り合いが誰もいないという場所でも、それなりに幸福に生きられるというのがわかった。が、これは奇妙なことではある。自分とかかわりのない人々の生活を眺めているうちに、個人的な欲望がマヒしてくるのだろうか。単なる傍観者であることに満足してしまうらしい。パン屋が店の戸口に立ち、夜になると勲章を三つも飾りつけた大佐がカフェにやってきたりする。軍隊は太鼓をたたき、ラッパを吹き鳴らし、ライオンの群れのように雄々しく城壁を守っている。こうしたことすべてを平穏な気持ちで眺めていられるのはなぜかを、言葉で表現するのはむずかしい。自分が何かしら根を張っている土地では、そうしたことに無関心ではいられない。すでにそうした生活に自分もかかわってしまっていて、たとえば友人が軍隊に入って戦っていたりするからだ。だが、すぐに知りつくせるほど小さくはなく、といって旅行者用の施設が確保されるほど大きくもない初めての町では、自分の商売から遠く離れて、もっと親密になることも可能だということすら忘れてしまう。周囲の人々に関心を抱くこともほとんどなく、自分が人間だということも忘れそうになる。たぶん非常に短い期間に人間ですらなくなってしまうのではあるまいか。裸の修行者たちは真理を求めて自然に満ち満ちて、いたるところに冒険があふれている森へと入っていく。が、それよりも、こういう退屈なほど関心が持てない田舎町に居を定めるほうが、修行の目的にはかなっているのではあるまいか。こういうところでは、人とはもっと離れていたいと思わせられるし、人間の生活の外見、つまり抜け殻だけを見ていて、そういう外見上のつきあいしかない人々は自分にとって死んだも同然で、ぼくらの目や耳には死んだ言葉としか響かず、もはや宣誓や挨拶以上の意味を持たなくなってしまう。ぼくらは結婚した夫婦が日曜に教会に行くのを見慣れているので、夫婦というものが何なのかをすっかり忘れてしまう。そのため、男と女がお互いのために生きることがどれほど美しいのかを示そうとすると、作家は日常から逸脱した不倫を描かざるをえないのだ。

だが、モーブージュで、抜け殻ではないことを示した男がいた。それはホテルの乗合馬車の御者だった。ぼくの記憶に残っている限りでは、痩せて小柄な男だったが、魂には火花の散るような人間らしさがあふれていた。ぼくらのささやかな航海について耳にすると、すぐに羨望と共感を抱いてぼくらのところにやってきて、自分もこういう旅をしたかったんだと告げた。どこかよその土地に行き、世界を見てまわってから死にたいのだと。「自分はいまここにいるんだけど」と、彼は言った。「駅まで行って、それからまたホテルまで戻ってくるんだ。それが毎日、毎週ずっと続くわけ。なんだかねえ、これが人生ってやつなんだろうか?」 それが君の人生だ、とは言えなかった。彼は、ぼくが行ったことのある場所や行きたいと思っている場所を教えてくれと迫った。ぼくの話にじっと耳を傾け、そうして、ため息をついた。もしかすると勇気あるアフリカの旅行者になっていたり、ドレーク*1の後にインドに行ったりしていたかもしれないのだった。だが、放浪癖のある者にとって今は悪魔のような時代で、富や栄光がおとずれるのは事務所の椅子に満足して座っていられる者に対してなのだ。

あの彼はいまもグラン・セールでホテルの乗合馬車を駆っているだろうか? いや、その可能性は低いと、ぼくは信じている。というのは、ぼくらがあの町を通ったとき、彼は我慢の限界まできていて、おそらくは、ぼくらの航海が彼の背中を押すことになったのでは、と思ったりもする。彼は世界を放浪して歩くべきだったろうし、道端で深鍋や平鍋を修理し、木の下で眠り、毎日新しい水平線に夜明けと日没を見たりするわけだ。乗合馬車の御者という仕事はそれなりに立派だという声が聞こえてきそうだ。それはそうかもしれない。だが、その仕事が好きではない者がその地位にしがみつき、その仕事をやりたい人を締め出していてよいのだろうか? かりに料理が自分の好みにあわず、自分以外の仲間はそれが好きだとすると、どういう結論を出すべきだろうか? 自分が好きでもない料理を無理に食べることはないのでは、とぼくなら思う。

世間体というのは、それはそれで大事なことではあるのだが、それが万事に優先されるわけではない。好みの問題だと言うつもりは毛頭ないが、少なくともこうは言っておきたい。もしその地位が当人にとって相性が悪く、気づまりで、不必要かつ無益であるのならば、たとえそれが英国聖公会ほど尊敬すべきものであったとしても、そこから去るのが早ければ早いほど、本人にとっても関係する誰にとってもよいのだ、と。

脚注
*1: ドレイク - フランシス・ドレイク。マゼランから半世紀ほど遅れて世界で二番目に世界一周したイングランドの英雄たる航海者。敵対するスペインでは、私掠船船長として海賊行為を行ったため悪魔的存在としておそれられた。
私掠船とは、交戦状態にある国同志で敵対国への海賊行為が国家として認められた船をいう。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (7)

モーブージュにて

ロイヤル・ノーティークのよき友人たちや、ブリュッセルとシャルルロア間に五十五は下らない水門があることに恐れをなしたぼくらは、国境はカヌーや荷物もまとめて一緒に列車で超えることにした。一日の航程に五十五も水門があるというのは、その間をずっとカヌーをかついで歩くのも同然だ。運河沿いの木々もびっくりだし、常識を持った子供たちにとっては嘲笑の対象になってしまう。

ぼくという人間にとっては、列車であっても国境を通過すること自体が厄介だった。なにしろ役人には要注意人物に見られることが多く、旅をするとどこでも彼らが集まってきてしまう。いろんなまじめな条約が締結され、中国からペルーにいたるまで、外務大臣や大使、公使が威儀を正して座し、イギリス国旗のユニオンジャックもいたるところで風になびいている。そういう庇護の下で、でっぷり太った牧師や女教師、グレーのツイードスーツを着た紳士など、マレーのガイドブックを手にした英国の旅行者たちが大挙して大陸の鉄道に乗り嬉々として旅をしているのだが、アレトゥサ号の痩身の男、つまりぼくだけは、なぜか法の網にひっかかってしまうのだった。パスポートを持たずに旅をしていると、そのまま薄汚い地下牢に投げ込まれてしまうし、旅券が整っていれば入国はできるが、周囲の人々には疑惑の目でみられてしまう。ぼくは生まれも育ちも生粋のイギリス人なのだが、役人にそう思われたことは一度もない。自分は率直で正直だと誇りに思っているが、スパイじゃないかと疑われることも多く、そうした人々の不信感を払拭しようとしても、自分がとんでもなく恥ずべき商売をしているに違いないと思われなかったことはない……

ぼくはどうしてもそれが理解できない。ぼくだって教会で祈ったり、良家の人々の会食に列席したこともあるのだが、そういう雰囲気がぼくにはまったく感じられないらしい。役人にはインド人の誰かみたいな、妙なやつだと思われてしまう。自分がいまいるところとは別の世界のどこかからやってきたやつだと思われてしまう。先祖たちの努力は無駄になり、栄光に包まれたイギリスの憲法でも、外国を歩いているときのぼくを守ることはできない。というわけで、自分が属している国のごく普通の国民とみられることは、それ自体がすばらしいことだ。

ぼくをのぞけば、モーブージュに行く途中で旅券を見せるよう求められた者はいなかった。ぼくは自分の権利を主張したが、しまいにはこの屈辱的な扱いに従うか列車に乗るのをあきらめるかを選択するほかなかった。譲歩するのは嫌だったが、モーブージュにはどうしても行きたかった。

モーブージュは要塞化された町で、グラン・セールという非常によい宿屋がある。兵隊とセールスマンだけが住んでいる感じだ。少なくともホテルの従業員を除いて、ぼくらが見かけた人々は皆そうだった。カヌーの到着が遅れ、最後は税関で止められてしまったため引き取りに行ったりした。そのため、この地にしばらく滞在せざるをえなかった。その間は何もすることはなかったし見るものも何もなかった。食事はおいしくて、それはそれですばらしかったが、でもそれだけのことだ。

シガレット号の相棒の方は、要塞をスケッチした嫌疑で拘束されかけた。彼にそんなことができるはずもないのに。交戦国はそれぞれ相手の要塞化された場所の図面くらいは持っているだろうから、こうした予防措置は馬が逃げた後に馬小屋の戸を閉めるようなものだという気もする。とはいえ国民の士気高揚に役立つのは間違いない。内輪だけの秘密を共有しあっていると人々に思いこませることができれば、それはそれですばらしいことではある。自尊心も大きくなるしね。ちょっと刺激がなくなって退屈しはじめたフリーメーソンの会員にもその種のプライドはあって、会員になっている八百屋の大将が自分は人畜無害の正直者だと心の底で思っていたとしても、仲間内の秘密の会合に出た後は、自分はひとかどの人物だという誇りを抱いて家に戻っていくだろう。