スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (46)

プレシーと人形芝居

プレシーには夕方に着いた。このあたりの平原にはポプラが生い茂っていた。オアーズ川は夕日をあびて輝き、大きなカーブを描いて丘陵地帯のふもとを流れている。薄い霧がかかりはじめ、距離の検討がつきにくくなった。川沿いの牧草地のどこかから聞こえてくる羊の鈴の音と、丘を下っている長い道を進む一台の荷車のきしむ音の他には、何も聞こえてこない。庭に囲まれた館や通り沿いの店はすべて、前日に見捨てられたばかりのように思えた。静かな森の中にいるときのように、あまり音をたてずに歩かなければという気がしてきたほどだ。ところが、角を曲がると、いきなり芝生に囲まれた教会でクロッケーをしているパリジャン風の恰好をした娘たちに出くわした。娘たちの笑い声やボールとスティックの当たる乾いた音が、近隣に陽気に響いている。コルセットをつけリボンで飾ったスリムな娘たちを見てしまうと、ぼくらの心も揺り動かされた。パリの香りのするところまで来たという感じがした。プレシーが旅行先のおとぎの国ではなく、現実に生活の場所であることを示すように、ぼくらと同類の、クロッケーをしている人々がそこにいた。正直に言うと、農家の婦人たちは女として勘定に入れにくいし、そういう婦人たちが下着姿で畑を耕していたり料理をしている様子をずっと見てきたものだから、ちゃんとした服装でクロッケーをしている集団は異質で、のどかな風景から浮き上がっている感じがして、ぼくらもすぐにおばかな男子に戻ってしまった。

プレシーの宿屋はフランスで最悪のものだった。スコットランドでも、こんなひどい料理は食べたことがない。どちらもまだ十代のような兄妹がやっていた。妹の方が食事らしきものを作り、どこかで酒を飲んでいたらしい兄が、これもほろ酔いの肉屋を連れて入ってきて、ぼくらが食事をする間の相手をしてくれた。サラダには生ぬるい豚肉が入っていたし、シチューには正体不明の、形が変わる妙なものが浮いていた。肉屋はパリの生活はよく知っていると言っていたが、その話でぼくらを楽しませてくれた。その間、兄の方はビリヤード台の端に座って、不安定に倒れそうになったりしながら葉巻の残りをちびちび吸っている。そうやってわいわいやっている最中に、ドンという太鼓の音が家の前で鳴り、誰かのしわがれ声が何かの口上を述べはじめた。人形芝居の男が、その晩の出し物をふれまわっているのだった。

少女たちがクロッケーをやっていた芝生とは別のところにある、フランスでよく見かける市場用の壁のない屋根だけの小屋に舞台がしつらえてあり、ろうそくがともっていた。ぼくらがそこまで歩いていくと、興行主たちは客を迎える準備にかかっていた。

その場所では、なんともバカらしい問題が起きてしまった。興行側では一定数のベンチを並べていて、それに座った人は観劇料として二スー*1を支払うことになっていた。すぐに満席になり──とにかく人が多い──前には進めなくなる。興行主の女房が集金に出てくると、タンバリンの音が聞こえたとたん、客は座席から立ち上がり、ポケットに手を突っこんだまま素知らぬ顔で外に出てしまう。こんなことをされたら天使だって怒るだろう。興行主が舞台の上からどなった。俺はフランス全土をくまなくまわってきたが、どこでだって、そう「ドイツとの国境に近いところでだって」こんなひどい真似をする連中には出くわしたことがない、と。そうして彼は、この泥棒め、詐欺師め、悪党めと叫んだ! 集金にまわった女房も甲高い声で口論に応戦した。他の場所でも同じだったが、相手を侮辱する語彙が女にはどれほど豊富で、とんでもない毒舌を吐けるものかということを、ぼくはここでも述べておきたい。客たちは興行主の熱弁には愉快そうに笑っていたが、女の痛烈な攻撃に対してはむっとして叫び返した。男連中の痛いところをついたのだ。彼女にかかれば村の評判もかたなしだ。彼女に反論する連中の声が聞こえてはくるものの、すぐさま倍返しされていた。ぼくのそばにいた二人の老婦人はお金を払って着席していたのだが、顔を真っ赤にして憤慨し、こうした興行の下品な振る舞いについて、わざと聞こえるように声高に話しはじめた。すると、それを耳にした興行主の女房はその老婦人たちのところまでさっと下りてきて、お上品な奥様方から、この地元の人たちにもっと正直に行動するよう説得していただければ、あたしら芝居小屋の者も、もっとお上品にふるまえるんですけど、と述べた。老婦人たちはたぶんその晩は腹いっぱいの食事をしワインも飲んでいただろうし、芝居小屋の連中だって食事は好きだし、わずかな儲けをみすみす目の前で盗まれるようなことをさせるつもりはなかった。というわけで、興行主と若い観客との間でつかみあいの喧嘩になり、興行主は人形劇で人形が投げ飛ばされるように簡単に突き飛ばされ、どっと冷笑をあびた。


脚注
*1: スーはフランス革命前の貨幣の単位(補助通貨)で、2スーは10サンチーム(1フランの10分の1)に等しい。なお現在、フランは欧州連合の成立にともないユーロに移行している。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (45)

しかし、クレーの教会には、愚かというよりもっと悪いものが掲示されていた。それまで耳にしたことはなかったのだが、リビング・ロザリオの会という団体があって、そこがやっていることだった。貼ってあるポスターによれば、この会は一八三二年一月十七日、グレゴリウス十六世の書簡によって設立されたという。教会の彩色されたレリーフに描かれているところでは、それとは別のあるとき、聖母マリアがロザリオを聖ドミニクに与え、幼児だったキリストが別のロザリオをシエナの聖カタリナに与えたことにより設立された、とある。聖母や救世主自身に比べると教皇グレゴリウスでは印象が薄くなってしまうが、事実としてはこっちの方が近いだろう。この教会が純粋に信仰上のものなのか、慈善行為を目的としているのかについては、はっきりとはわからなかった。少なくとも非常に組織化されていて、月当番の週ごとに担当として十四名の既婚婦人や未婚女性の名前が記入されていた。たいていは、そのグループの責任者として、先頭に既婚婦人一名の名前が記されていた。その協会の義務を果たすと、罪の全部または一部が許されるらしい。「ロザリオの祈りをささげると罪の一部は許される」「ロザリオの祈りを必要な回数だけとなえる」ことで罪の一部がすぐにも許される、というのだ。人々が自分の罪を消すため、預金通帳の残高を気にするように神に奉仕するというのであれば、そうした打算的な意識というものは必ずや人との接し方にも現れてくるだろうし、となれば人間の生活そのものが、なんとも悲しく、あさましいものになりさがってしまうのではないかと不安にならざるをえない。

とはいえ、もっとましなことも一つ書かれていた。「こうした罪の償いが免除されるという仕組み」は、すでに煉獄に入ってしまった人の魂にも適用できるらしいのだ。だったらお願いだから、クレーの婦人たちにはそのすべてをすぐに煉獄にいる魂に適用してもらいたい! スコットランドの国民的詩人だったロバート・バーンズは純粋な愛情で祖国に奉仕することを選び、晩年の詩については報酬を受け取らなかった。彼女たちは、生活のため収税吏を務めていたこの詩人の真似をしてみてはどうだろう。そうしたからといって煉獄にいる人々の魂の状態がさほど改善されるわけでもあるまいが、オアーズ川流域に住んでいるクレーの人々には、現世でもあの世でも今以上に悪い扱いを受けなくてすむ人が出てくることだろう。

航海中の日誌を元に原稿を書きながら、生まれも育ちもプロテスタントであるぼくが、こうしたポスターを理解し、その価値に見合う正しい対応ができるのかと問われれば、ぼくにはその資格はないと答えざるをえない。ぼくと同じように、こうしたことがカトリックの信者にとっても醜悪で侮辱的だと感じられるとは思えないからだ。このことは、ユークリッド幾何学の問題と同じくらいに明白だ。というのも、これを信じている人たちは弱いわけでも邪悪でもない。彼らは、まるで聖ヨセフがまだ村の大工ででもあるように、この聖人の使命を銘板に掲げ、「必要な数のロザリオの祈りをささげ」ていて、それであたかも神に対して誇れる仕事をしたかのように免罪を手にし、教会の外では、このすばらしい川の流れを平然とながめ、オアーズ川よりはるかに大きな川を集めたよりもずっと大きな宇宙の星々を胸を張って見上げることができているのだ。プロテスタントであるぼくの目には見えず、ぼくが夢見ているものより気高くて宗教的にも深い精神を持つ、ぼくとは違う人々が存在するのは間違いないだろう。

こうした人々は、ぼくのような人間に対しても同じように許しを与えてくれるだろうか! クレーの婦人たちのように、ぼくが寛容というロザリオの祈りをとなえれば、ぼくにもすぐに罪の許しが与えられますように。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (44)

昼食のために立ち寄ったクレーでは、水上に浮かんでいる洗濯台にカヌーを係留した。正午だったので、赤い手をした声の大きな洗濯女たちがいっぱい来ていて、彼女たちの遠慮のない冗談だけがこの地の記憶として残っている。読者が気になるのであれば、本を調べてこの地の歴史上の出来事を一つか二つ紹介することもできないことはない。イギリスとの長く続いた戦争でもよく出てきた町だからだ。とはいえ、ここでは、ぼくは全寮制の女子校のことを書いておこう。女子校ということでぼくらも興味があったし、生徒たちもぼくらに興味しんしんだった。少なくとも、校庭付近に少女たちがいて、ぼくらは川でカヌーに乗っていて、通過するときにハンカチを振ってくれたりしたのも一人や二人ではなかったということだ。そのことでぼくの胸は高鳴ったのだが、ぼくらがクロケットの試合か何かで出会ったのであれば、彼女たちもぼくらも互いにうんざりして相手にしなかったはずだ! ぼくは、こういう出会いが好きなのだ。二度と会うことのない相手に投げキッスをしたりハンカチを振ったりして、頭の中であれこれ想像をふくらませるのである。それは旅行者にとって刺激になるし、どこでもたえず自分は旅の者というわけではないこと、さらに自分の旅が現実の生活が進展していく途中の昼寝のようなものだということを思い出させてくれるのだから。

クレーの教会の内部には特に目立つものはなかった。窓のステンドグラスからあふれた派手な色彩が彫りこまれた悲劇が浮かびあがらせていた。ぼくをとても楽しませてくれたものが一つあった。運河を航行する船の忠実な模型が丸天井から吊り下げられていたのだ。クレーの聖ニコラス号を天国へと導きたまえという願いが書かれていた。その模型はよくできていて、水辺で遊んでいる少年たちがもらったら喜びそうなものだった。しかし、ぼくが面白いと思ったのは、それによって想起される危険の程度だ。大海原を航海する船の模型を吊るすのは問題ないし受け入れられもする。世界各地に航路を刻み、熱帯や極寒の地を航海して危険にさらされるというのであれば、大海原を航行する船の模型を吊るしてもよいし歓迎もされるかもしれない。熱帯や凍てつく極地を訪ねるのだから、ローソクやミサをささげる価値もあるだろう。だが、クレーの聖ニコラス号は、草が生い茂りポプラの枝が頭上におおいかぶさっているような運河をおとなしい馬に引かれて何十年もすごすのであって、船長は舵をとりながら口笛だって吹いていられる。しかもそうした航海はすべて、緑の陸地で展開され、航行中もずっと村の鐘楼から見えているのだ。なにも神様に願わなくても実現できそうなことではないか! おそらくは船長はユーモアを解する人だったか、ある意味の預言者で、このありえない奉納品で人々に人生の厳しさを思い出させようとでもしたのだろう。

クレーでは、ノアイヨンのときと同様に、律儀な聖ヨセフに人気があるようだった。日付も時間も指定できるからだ。祈りがタイミングよく報われた場合、それに感謝した人々はたいていは奉納額にその内容を書き記していた。時間が大切な願かけには聖ヨセフが適任というわけだ。この聖人の果たす役割は、ぼくの故国、イギリスの宗教界では非常に小さいので、こうしたフランスでの人気について興味深く感じた。だが、一方で、この聖人について、きっと願いをかなえてくれるとこれだけ強く信じられていると、この聖人の方でもこうした奉納額に感謝するよう求められているのではないかと危惧せざるをえない。

こういうことは、ぼくらプロテスタントには馬鹿げたことだし、いずれにしても重要ではない。自分に施された恩恵に対する人々の感謝が賢明に受けとられているのか、疑わしく表明されているのかは、結局のところ、人々が感謝している限り二次的な問題にすぎない。本当の無知というのは、自分が恩恵を受けたことを知らなかったり、自力で勝ちとったと思いこんでいる場合だ。自分の腕だけで成功したという者の自慢話ほど滑稽なものはない! 混沌の中に光を示すことと、都会の片隅で特許品のマッチでガスを点灯させるのとでは、明らかな違いがある。ぼくらが何をしようとも、ぼくらの手には、たとえ指だけであっても、必ず何かが施されているものなのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (43)

オアーズ川を下る(続き) ── 教会の内で

まずコンピエーニュからポン・サント・マクサンスまで下った。翌朝、六時ちょっと過ぎに宿の外に出てみた。空気は刺すように冷たく、霜もおりているようだった。広場では二十人ほどの女たちが朝市に出された品物に群がって声を張り上げていた。値段の交渉であれこれ言いあう声が、冬の朝の雀のさえずりのように断続的に聞こえてくる。通行人はちらほらいたが手に息をはきかけて暖め、血行をよくしようと足踏みして木靴をがたがた鳴らしたりしている。街路はまだ冷たい影におおわれていたが、煙が出ている頭上の煙突には日が差し、黄金色に輝いていた。一年のこの季節に早起きすると、起床したときは十二月の寒さだったものが、朝食を食べるころには六月の陽気になっていることもある。

教会までの道がわかったので行ってみた。教会には、生きた礼拝者だったり死者の墓だったり、何かしら見るべきものがある。真摯な熱意や空虚な欺瞞に包まれていたりする。歴史的に由緒のあるものではないとしても、そこで暮らす人々についての情報が得られるのは確かだ。教会の内部は屋外に比べてさほど寒くはなかったが、どこか冷え冷えとしていた。白い祭壇のまわりは極寒の地のように見えた。人の気配も少なく、寒々として、英国国教会に比べて大陸側の派手なカトリックの祭壇はかえってわびしさを感じさせた。内陣に神父が二人座り、書物を読んだり告解者を待ったりしていた。祭壇から離れたところでは一人の老婦人が祈りをささげていた。健康な若い人々が寒くて掌に息をはきかけたり胸をたたいていたりしているときに、この老婆がロザリオを普通に扱っているのが不思議でもあった。それに気をとられたものの、それ以上に、ぼくは彼女の行動とその意味するものに何か失望を感じざるをえなかった。彼女は椅子から椅子へ、祭壇から祭壇へと動き、教会内をぐるっとまわっていた。聖廟の前まで来ると、どの聖人に対しても同じ数のロザリオで同じ時間だけ祈りをささげるのだった。経済の先行きにあまり楽観していない用意周到な資本家のように、彼女は安寧を願うあまり、さまざまな聖人やら守護神やらに分散投資して歎願しているらしかった。仲裁者を一人に絞って信用するというリスクをおかすつもりはないのだろう。一人と言わず聖人や天使すべてが最後の審判のときに彼女を擁護すべきだと思うように仕向けているのだった! それは、ぼくには、本当には信じきれていない、愚かな、無意識の、見え透いた偽善にしか思えなかった。

彼女は骨と皮だけの、死者と区別がつかないような老婆だった。彼女はぼくを一瞥したが、その目には表情というものがなかった。見るとはどういうことかの解釈にもよるだろうが、彼女はある意味で盲目といってもよかった。おそらく若いころには恋をし、子供も産んだことだろう。子供を育て、愛称をつけてかわいがったりもしたはずだ。しかし今となっては、そういったことすべてが過去のものとなり、彼女はその頃より幸福にもなっていなければ賢くもなっていないのだった。彼女が毎朝できる最善のことは、ここに来て、寒々とした教会の中で、来世の幸福を願うことだけなのだろう。ぼくは通りへと逃げ出し、すばらしい朝の空気を腹いっぱい吸わないではいられなかった。朝だって? 朝にこれほど厭世的であれば、どうやって夜まで過ごすというのだろうか! しかも、夜に眠れなかったりしたら、どうなるのだろうか? 七十歳までも生きた後で、自分の人生が間違っていなかったことを公衆の面前で示さなければならない人はさほど多くないというのは、幸運なことだ。こういう殺伐とした時代には、多くの人々は人生の最盛期に倒れ、どこか見知らぬ土地で自分の愚かな行動の償いをさせられるというのも、見方によれば幸運なことかもしれない。でなければ、病気の子供と愚痴ばかりのお年寄りを抱えて、人生そのものに嫌気がさしてしまうかもしれないではないか。

その日、カヌーを漕いでいる間、ぼくは自分の精神を立て直そうと努める必要があった。あの老婆のことが喉に刺さったトゲのように頭から離れなかった。とはいえ、やがて馬鹿になりきることができた。カヌーに乗って無心に漕ぎ、漕ぐ回数を数えつつ、それが何百になったか忘れたりしながら、それ以外のことは考えないようにした。ときどき漕ぐ回数が何百だったかをおぼえてべきだという不安にかられたりもしたが、そうなると楽しみが苦行になってしまう。そういう不安は漕いでいるうちに頭から消え、ぼくは自分が何をやっているのかもよくわからない状態でひたすら漕ぎ続けたのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (42)

ぼくらが強い関心を持っていた一つは、食べることだった。ぼくは食事に重きをおきすぎたかもしれない。料理のことをあれこれ考えていると、口のなかによだれがたまってきたのを覚えている。そうして夜になるずっと前から、それを食べたくてたまらなくなり、そうした食欲を抑えることが悩みの種になった。ぼくらはときどき並んで漕いだりもしたが、そうやって川を下っていきながら食事の話で互いを刺激しあった。ケーキとシェリー酒なんかは故国ではありきたりすぎるのだが、オアーズ川近辺では手に入らないので、そのことばかり考えながら何マイルも漕ぎ下ったりしたし、ヴェルブリーに近づいたころに、シガレット号の相棒が「牡蠣のパテにちょっと甘い白ワイン」なんてのを口にしたものだから、頭の中はそれを食べたいという思いばかりになったりした。

人生を楽しむうえで飲み食いがいかに重要かということを、誰もきちんと認識していなさすぎるのではないだろうか。ぼくらは食欲旺盛だったので、どんなひどい食事にも我慢できたし、パンと水だけの食事でもうれしかった。何も読むものがなればガイドブックの時刻表でも嬉々として読みふけっている活字中毒の人たちと同じだ。しかし、食べるということは、それだけにとどまらない。食事が大事だという人は、たぶん恋愛が大事だという人より多いだろうから、一般論として食べ物は景色などよりずっと関心をそそるものだと思う。ウォルト・ホイットマンだったらこう言うだろう──だからといって人間としての価値が減るとでもいうのかね? 物質主義を突き詰めていけば、自分の存在自体を恥ずかしいと思うようになる。人間の素晴らしさという点では、料理の隠し味にオリーブが使用されていると見極めることは、決して夕景の空の色に美を感じることに劣るものではない。

カヌーを漕いで川下りすること自体はむずかしくない。適切な傾きを保ってパドルを右、左と交互に川に突っこみ、スプレースカートの膝まわりにたまった水を捨て、水面にきらめく陽光から目を細めて守り、コンデのデオ・グラシアス号やエイモンの四人の息子号などの係留されているロープの下をくぐったりするのだが──それにはたいした技術は必要なくて、川に浮かんでいるときは筋肉が機械的に作業をやってくれるので、その間は脳のほうはお休みしている。ぼくらは周辺の景色をざっと見て把握し、半ば寝ぼけた状態で、岸辺の作業着姿の釣り人や洗濯をしている女たちを目でとらえたりした。ときどき、教会の尖塔や飛び跳ねる魚、あるいはパドルにからみついた川草を引っ張って投げ捨てたりするときに、寝ぼけ状態を脱したりした。とはいえ、それでも完全に目がさめるわけではなかった。無意識の状態から目をさましはするが、体全体が覚醒して反応するというのではない。神経の中枢、ぼくらが自我と呼ぶものは、巨大な政府の一省庁のように、そうしたことに煩わされず休んでいて、知性の大きな車輪はフライホイールのように、何も役に立つ仕事はせず、頭の中でゆっくりまわっている。ぼくは漕ぐ回数を数えつつ、何百になったかを忘れたりしながら、半時間も漕ぎ進んだことがある。獣でもこれだけ無意識の状態になることはあるまいと思うほどだ。なんとも気持ちのよいひとときだった! 無心に漕ぎ進むことで、心が寛大になってくる! この境地に達すれば、人のあら探しをすることもなく、人生において可能な神格化とでもいうか、いわば愚かさの頂点に達してしまい、威厳を感じさせる樹木のように長く生きた気がしてくる。

この没我の状態について、強さと呼んではいけないのであれば、ぼくは深さと呼びたいが、これには現実に奇妙な形而上学が伴っていた。精神が否応なく、哲学者が自我と非我、自己と客体と呼ぶものに向いてしまうのだ。この放心状態では自我が少なくなり、ふだん思っているよりも非我が多くなる。ぼくの心は、自分以外の誰かがカヌーを漕いでいるのを眺めている。自分以外の者が足を踏ん張っていて、自分の体についても、カヌーや川や川の土手以上に自分の心と親密な関係を持っているようには思えないのだった。それだけではない。ぼくの心の中にある何か、自分の脳の一部、自分の正しい部分の一部がぼくから抜け出て、それ自身のため、あるいはカヌーを漕いでいるぼくではない他者のために働いているのだ。ぼくは自分自身の内部で、隅っこの方に縮こまっている。ぼくは自分の頭蓋骨の中で孤立している。勝手に考えが浮かんでくるが、それはぼく自身の考えではなく、明らかに誰か他者の考えだったし、ぼくはそれを風景の一部のようにみなしている。要するに、ぼくは実際の生活に支障がでない範囲で、ちょっと解脱したような状態になっている感じだった。解脱というものがこういう状態なのであれば、ぼくは仏教徒を心から称賛したい。目から鼻に抜けるような利口さではなく、金儲けにもつながらないとはいえ、心穏やかで高貴であり、邪念がなく、物事に右往左往しない、なんとも気持ちのよい状態である。べろべろに酔ってはいるが精神はしらふで、その状態を楽しんでいるとでも説明しようか。屋外で仕事をする人々は日々の多くをこうした没我の状態ですごしているに違いない。彼らの落着きと忍耐力はそれで説明がつく。こういう風に、何も特別なことをしなくても至福の状態になれるのだから、ドラッグに金を使ったりする人の気が知れない。

こういう心の状態が今回の航海での大きな収穫だったし、それがすべてでもあった。ありきたりの言葉による表現とはかけ離れているので、ぼくの、この楽しく自己満足した状態を読者に共感してもらうのはむずかしいかもしれない。太陽光線の中で浮かんでいるほこりのように、いろんな考えが浮かんでは消え、たえず形を変えていく雲を通して、土手沿いの木々や教会の尖塔がときどき確固とした物のように立ち上がって注意を引いたり、水面に浮かぶボートとパドルのたてるリズミカルな音が眠りを誘う子守歌になったりした。デッキについた泥ですら、ときには耐えられなくなったり、逆に気にならなくなったり、考えを集中させる対象になったりした──その間も、川は常に流れていて、川岸も変化していき、ぼくはパドルを漕ぐ数をかぞえ、何百回だったか忘れたりしながら、フランスで最も幸福な動物になっているのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (41)

時間の移り変わり

それからの航海では、こうした霧は、ある意味で、晴れることはなかった。ぼくのノートにも霧が濃く立ちこめている。オアーズ川が田舎を流れる小さな川だったときは民家の近くを通っていたし、川沿いに住む土地の人々とおしゃべりすることもできた。しかし、今では川幅も広くなり、川岸に住む人々も遠くからぼくらを眺めているだけになった。立派な幹線道路と、集落を縫うように続いている田舎道の違いのようなものだ。このあたりまで来ると宿も市街地になるし、地元の人々から質問攻めにあうこともなくなった。いわば文明化された社会までやってきたわけだが、こういうところでは行きかう人々と挨拶することはない。田舎では人と出会うためにいろんなことをやったが、都会では他人と距離を保ち、人の足を踏んづけでもしない限り声をかけることもない。都会では、ぼくらはもう妙な渡り鳥のような存在ではなく、違う村からはるばる旅をしてきたのだと想像されることもなくなった。たとえば、リラダンにやってきた日の午後には、何十隻というプレジャーボートが走りまわっていて、ぼくらのくたびれた帆を別にすれば、本物の旅をしてきた者とちょっと近場で遊んでいるだけの者とを区別するものは何もない。実際に、あるボートに乗った連中はぼくを近所の誰かと思いこんでいたりした。これほどの屈辱は他にないのでは? とはいえ、旅というものはすべて、そうやって終わりを迎えるのだ。オアーズ川の上流域では、魚以外に川を航行している者などいないので、ぼくらのようなカヌーに乗った人間は、地元の者のふりをして人目を避けることはできない。すぐに風変わりな見慣れないよそ者だとばれてしまうし、逆に相手も好奇心にかられたりするので親しくなったりもした。この世界はそうした相手との相互関係で出来上がっているようなところがあり、そうした絆をどこまでもさかのぼっていけるわけではないが、ぼくらの前からずっと続いていることなので、こうした状態に決着がつくということもないのだ。自分が相手に興味を持てば、それに比例して相手もこっちに興味を持ってくれる。ぼくらが一種の奇妙な放浪者でいる限り、じろじろ見つめられたり、ほら吹きやサーカスの一団のように、ぼくらの後ろから地元の人がぞろぞろついてきたりして、それがぼくらにとって面白かったりもした。ところが、ぼくらが一般の人々と区別がつかなくなってしまうと、ぼくらが出会う人々も同じように魔法が解けてしまい、ぼくらへの関心を失ってしまう。平凡な人間にとって世の中が退屈な理由は山ほどあるが、これはその理由の一つである。

冒険航海に出た最初のころは決まって何かすべきことがあり、それに急かされるように行動していた。にわか雨が降ってくるだけで、そうした気持ちが復活し、脳が刺激されて退屈することはなかった。だが、ここまでやって来ると、川はもはや急流ではなくなったし、海に向かって滑るように、しかし、ゆっくりと流れていて、天気は相変わらず好天続きで、ぼくらは野外で激しい運動をした後の満足感にひたっているときのような、ある種の倦怠を感じ始めていた。一度ならず、こんな風な感覚にとらわれたことがあるし、そういう状態になるのも嫌いではなかったが、スリル満点でオアーズ川を漕ぎ下っていたときの快感はもうなかった。虚脱感が頂点に達したような感じだ。

ぼくらは何かを読んだりすることもなくなった。新しい新聞を見つけると、連載小説の一回分を読んで楽しむこともあったが、三回を超えると、もう耐えられなくなり、その二回目には失望していた。話の筋が見えてくると、ぼくにとって、その価値がすべて失われてしまうのだ。一つの場面だけ、あるいは連載の場合は一つの場面の半分だけが、その前後の脈絡もわからないまま夢の一部のように、ぼくの興味を引いたりした。小説全体の筋がわからないほど、その小説が好きになった。これは示唆に富んでいる。すでに述べたように、ぼくらはたいていの場合、何も読まずにすごした。夕食をすませると寝るまでの短い間は何も読まず地図を眺めてすごした。ぼくはずっと地図が見るのが好きだったし、地図上で極上の旅を想像して楽しむことができる。地名はそれだけで訪れてみたい気になるし、海岸線や川の輪郭には心を奪われてしまうものがある。そして、それまで耳にしていた場所を地図で見つけると、その歴史に新しい意味が見えてくる。とはいえ、航海もこのころになると、無関心なまま地図をめくっていくだけだ。どんな場所か、気にすることはなくなった。ぼくらは子供がオモチャのガラガラに耳をすますように、地図をじっと見つめ、町や村の名前を目にしてはいるが、すぐに忘れてしまう。ぼくらは地図の情報自体に思いを寄せているのではなかった。無我の境地、というか虚脱状態だろうか。ぼくらが地図を熱心に眺めているときに誰かがその地図を持ち去ったとしても、ぼくらは同じ熱心さでテーブルをそのまま眺めていたかもしれない。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (40)

ぼくはこの機械仕掛けの人形の動きがとても気に入ったので、鐘が鳴るときは見逃さないよう注意していた。シガレット号の相棒はそんなぼくを小ばかにしていたが、やつ自身もかなり気になっているようだった。オモチャの人形を建物の上で冬の厳しさにさらしているのは、あまりほめられたことではない。ニュルンベルク製の時計の前に、人形用のガラスケースでも置いたらどうだろう。とくに子供たちが眠りにつき、大人も布団にもぐりこんで高いびきをかいている夜間に、こうしたお菓子のジンジャーブレッドでできたような人形たちがウインクしたり、星や天をめぐる月に向かって鐘を鳴らしたするのは場違いな気がしないだろうか? 雨水を吐き出す部分の彫刻が猿のような頭を傾けていたり、磔刑場に向かうキリストの苦難を描いた古いドイツの版画の百人隊長のように国王が軍馬に乗ったりしているのはともかく、オモチャの人形たちは、朝になって子供たちが家の外でまた遊ぶようになるまで、綿にくるんで箱にしまっておくべきだ。

コンピエーニュの郵便局には、ぼくら宛の手紙がたくさん届いていた。郵便物について問い合わせると、このときばかりはとても丁寧な対応で手渡してくれた。

ぼくらの旅は、ある意味、コンピエーニュでこうした手紙を受け取った時点で終わったといえるのかもしれない。旅の途上という魔法がとけてしまったからだ。その瞬間から、なかば帰国したも同然だった。

旅に出るときは手紙を書いたりするものではない。書くのが大変ということもあるが、手紙を受けとってしまうと、休暇を楽しんでいる気分がだいなしになってしまう。

「自分の国と自分自身から離れてみよう」 そういう気持ちで、しばらくの間、それまでとは異なる新しい条件の別の生活に飛びこんでみたいのだ。その間、友人たちとは連絡を絶ち、自分の好きなものとも関係を持たず、出発するときには自分の心は自宅の机の中に置いてくるか、旅行カバンに詰めて終着点まで先に送っておく。友人からの手紙は、旅が終わってから、それにふさわしい気持ちで楽しみながら読むことになる。だが、これだけのお金をかけて、はるばるカヌーを漕いできたのは外国を旅するためだったのだが、手紙はずっと追いかけてきて、まだ自分の国にいるような気分になってしまう。手紙の主たちはぼくの足にひもをつけていて、ぼくは自分がひもでつながれた小鳥だと感じてしまう。手紙はヨーロッパ中を追いかけてきて、自分が放り出して逃げてきた、あれこれの小さな悩み事を思い出させてしまう。人生という闘いに「待った」がないのはよくわかっているが、一週間の休暇すら許されないのだろうか?

出発した日、ぼくらは六時には起きた。ホテルの人間はぼくらにほとんど注意を払わなかったので請求書にも書き忘れがありはしないかと期待したが、しっかり細かいところまで記載されていた。事務的に処理する職員に対し値切りもせずに支払いをすませると、ぼくらは誰の注意を引くこともなく、ゴム製のバッグを抱えてホテルを出た。気にかけてくれる人は誰もいなかった。小さな村で一番に早起きするのは無理だが、コンピエーニュほどの規模の町になると、朝はのんびりしたもので、町の人々がまだガウンとスリッパ姿でくつろいでいる間に、ぼくらは起床し立ち去ったのである。通りには玄関前を掃除している人しかいなかった。公会堂の上にいる人形の紳士たちの他に、正装している者は誰もいなかった。人形たちは露にぬれ、金箔もきれいになって光っていて、世の中というものを知りつくした、プロ意識による責任感に満ちていた。ぼくらが通りかかると、六時半の鐘が打ち鳴らされた。彼らなりの別れの挨拶だと感じた。日曜日の正午でさえも、こんなに上手に鐘は鳴らされなかった。

川に浮かんでいる洗濯台で衣服を洗っていた、早起きで──夜も最後まで仕事をしている──洗濯女たちを別にすれば、見送りは誰もいなかった。彼女たちはとてもにぎやかに、いつもの朝をすごしていた。腕をぐいっと川の中に差しこみ、水の冷たさも平気なようだった。自分だったら、こんなに朝早くから冷たい水で仕事するのは嫌だなと思った。とはいえ、ぼくが自分の生活を彼女たちと交換したいとは思わないように、彼女たちも自分の生活をぼくらの生活を交換したいとは夢にも思っていない風だった。彼女たちは洗濯台の扉のところに集まって、ぼくらが陽光を浴び川霧に包まれてカヌーを漕いでいくのを眺めていた。そして、ぼくらが橋を通過するまで、背後から大声で声援を送ってくれた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (39)

コンピエーニュにて

ぼくらはコンピエーニュの大きくて活気のあるホテルに泊まったので、だれもぼくらの存在を気にしたりはしなかった。

ここでは予備兵や(ドイツ風にいうと)軍国主義的な風潮が蔓延していた。町外れにある宿営地の円錐形の白いテント群は、聖書に描かれている挿絵のようにも見えた。どのカフェにも壁には剣帯が飾られていたし、通りでは一日中、軍楽隊の音楽が鳴り響いていた。イギリス人としては、気分が高揚せざるを得なかった。というのも、太鼓の後からついていく男たちが小柄で、歩き方もしょぼくれていたのだ。それぞれが自分勝手に体を傾け、好きなように体をゆらしている。長身ぞろいの高地出身者の連隊が音楽隊の後にきちんと整列し、まるで自然現象のように厳粛かつ整然と歩いていくような様子はどこにもなかった。この行進を目にした者は、先頭を歩いて行く楽隊長や、鼓手が身につけたトラの皮、笛奏者のゆれている格子柄の服、連隊全体が歩調をそろえている、ちょっと伸びたり縮んだりしているリズム――そして管楽器が鳴りやんだときの太鼓の音、甲高い管楽器がそれぞれ気分を高揚させて鳴り響く様子を、決してわすれることはできまい。

フランスの学校にいた一人の少女から聞いた話では、その娘は、英国の軍隊の行進する様子についてフランスの生徒に説明しはじめたところ、だんだん思い出が生き生きとよみがえってきて、自分がそんな兵隊さんのいる国の女であることが非常に誇らしくなってきて、それなのに自分がいま別の国にいるということが何か申し訳ないような気持ちにもなって、言葉につまって泣き出したことがあるそうだ。ぼくはその娘のことを忘れたことがない。彼女のために銅像くらい立ててやってもいいのではないかとすら思っている。彼女を若いレディと呼ぶのは上品ぶっていて、逆に彼女を侮辱することにもなるだろう。ただ、これだけは保証していいと思う。彼女が英雄的な活躍をした将軍と結婚することはないかもしれないし、彼女の人生から直接に国にとっての成果が得られることもないかもしれないが、彼女のような人は母国にとって無駄に生きたことにはならないだろう。

フランスの兵士たちは閲兵式ではぱっとしなかったが、しかし行進では、狐狩りにでかけるみたいに嬉々として注意を怠らず、熱心に取り組んでいた。いつだったかシャイー通りの、バス・ブローとレーヌ・ブランシェの間で、一個中隊がフォンテーヌブローの森を通過するのを目撃したことがあった。一人だけ集団の少し先を歩いていて、大声で勇ましい行進曲をうたっていた。残りの者は足並みをそろえ、リズムに合わせてマスケット銃を振りまわしている。馬上の若い将校はその歌詞に吹き出さないよう苦心していた。これほど陽気でおおらかな行進は他では見られないだろう。ウサギ狩りごっこに熱中する男子生徒でも、これほど熱心にはならないだろうし、これほど元気よく行進している連中を疲れさせることもできないだろう。

コンピエーニュで一番よかったのは公会堂だ。ぼくは公会堂に魅せられてしまった。ゴシック建築の持つ不安定さをよく示していて、いたるところに小塔や彫刻を施した雨樋があり、数多くの建築上の工夫が盛りこまれて飾りつけられている。壁のくぼみには金箔がほどこされ、絵が描かれているものもあった。中央の巨大な四角いパネルは金箔の地に黒の浮き彫りで、片手を腰にあて、頭をうしろに引いて馬を御しているルイ十二世が描かれていた。彼の仕草すべてに王族らしい矜持があふれ、あぶみにかけた足先は傲慢な感じで枠からはみだし、眼光は鋭く、誇り高い目をしていた。馬はひれ伏す農奴をうれしそうに踏みつけ、トランペットの音に鼻孔をふくらませているようにも見える。国民の父と呼ばれた善王ルイ十二世は、そうやって公会堂の前でいつまでも馬に乗った姿でいるのだった。

国王の頭上にある、中央の高い小塔には時計の文字盤が見えていた。それよりずっと高いところに、三体の小さな機械じかけの、それぞれハンマーを手にした人形が立っていて、コンピエーニュの市民のために毎正時と十五分おきに時間を告げるのだ。中央の人物は金箔の胸当てをつけ、他の二人は金色の裾広がりの短い半ズボンをはき、三人とも騎士のような、つばの広い優美な帽子をかぶっている。次の十五分が迫ると、彼らは頭を回転させて互いに見つめ合い、それから下にある三つの小さい鐘に三つのハンマーが振り下ろされる。時間になると、塔の内部から、深く朗々とした音で時間が告げられ、金ぴかの紳士たちはひと仕事を終えて一服するのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (38)

オアーズ川を下る: コンピエーニュまで

晴れの日が少なくて雨天と晴天の区別がつきにくいスコットランドのハイランド地方はともかくとして、どんなにがまん強い人でも、道中ずっと雨に濡れ続けていれば、しまいにはうんざりするものだ。ノアイヨンを出た日のぼくらがそうだった。このときの航海のことは他に何もおぼえていない。どこまでも土手と岸辺の柳と雨が続き、パンプレの小さな宿屋で昼食をとるまでずっと、雨は情け容赦なくたたきつけた。このあたりでは川と運河はすぐ近くを流れていた。ぼくらはびしょぬれになっていたので、女将が暖をとれるように暖炉の薪に火をつけてくれた。ぼくらは座って体から湯気を立ち上らせながら、ついてないとぐちをこぼしあった。亭主は獲物袋を手に狩りに出かけていった。女将の方は部屋の反対側の隅にいて、ぼくらを眺めている。ぼくらは珍客だったのだろう。ぼくと相棒はラフェールでの災難についてぐちを述べては、ラフェールであったようなことはこれからも起きるだろうと予測した。シガレット号の相棒の方がぼくより自信に満ちていたので、宿の交渉などは彼が担当したほうがうまくいった。何も気づかない風に、なれなれしい様子で話をするので、女将がうさんくさいゴム製のバッグを気にすることもなかった。ぼくらの会話は、ラフェールのことから予備兵の話になった。

「予備兵って」と、彼はいった。「せっかくの秋の休日に、それで駆り出されるのはきついよな」

「カヌーの旅も同じようなもんだろ」と、ぼくは異議をとなえる。

「あんたたち、好きでこんな旅をしてるの?」と女将が聞いたが、皮肉のように聞こえたとは気づいていなかった。

もう十分だ。目からうろこが落ちるとは、このことだ。こんど雨が降ったら、汽車でカヌーを運んでしまおう。

すると、天気の方でもぼくらの気持ちを察したらしく、それからは雨が降ることもなかった。午後になると晴れ間も出てきた。空には巨大な雲がまだ浮かんでいたが、いまではそれがちぎれて、あちこちに真っ青な空が見えている。そして、すばらしいバラ色と金色に輝く夕陽や、星々で埋めつくされた夜が訪れ、それからのひと月ほどは天気がくずれることもなかった。同時に、川からの眺めもよくなって田園風景が見えるようになった。土手は前ほど高くなくなり、柳の木も川岸からは見えなくなって、川沿いにずっと気持ちのよい丘陵地帯が続き、空に稜線をきざんでいた。

やがて運河で最後の水門になり、荷船が次々にオアーズ川に入ってきた。これでまた道中がにぎやかになった。前に一緒だったことのあるコンデの『デオ・グラシアス』号や『エイモンの四人の息子』号と一緒に、ぼくらはにぎやかに川を下っていった。ぼくらは川をこぎ下りながら、積んだ丸太の間にいる操舵手や、川沿いの道を進みながら馬にどなっている御者たちと冗談をいいあったりした。子供たちも舷側にやってきて、ぼくらがこぎ下るのをみつめている。それまで、こういう船の厨房から立ち上る煙をなつかしいとは思わなかったのだが、またこうして煙を眺める機会ができると、なんだか元気がわいてきた。

合流部をすぎてまもなく、もっと大きな別の出会いがあった。はるばる遠くから流れてきてシャンパーニュを出たばかりのエーヌ川と合流したのだ。ここでオアーズ川の青春時代が終わり、他の川と合流して結婚し、水量もぐっと増して大河の様相を帯びてくる。さまざまな堰堤も作られていた。川は風景に溶けこんで穏やかに流れていった。木々や街並みが鏡のように川面に映った。川幅も広く、カヌーを軽々と運んでいく。渦をかわすために必死にこぐ必要がなくなったが、それはつまり何もすることがないということでもあった。頭で対策を考えたり汗をかいたりすることもなく、ただ左右片舷ずつ順にこいでいくだけだ。天候はまったく穏やかで、紳士のように堂々と海に向かって流れていった。

日が沈むまでに、コンピエーニュまで進んだ。川沿いにあって、印象的な街並みだった。橋の上では連隊が太鼓にあわせて行進していた。岸壁にはぶらぶらしている人々がいて、釣りをしたり、所在なく流れを見つめたりしていた。そこへぼくらが二隻のカヌーでやってきたものだから、彼らはぼくらを指さして互いに何か言ったりした。ぼくらは川に浮かんでいる洗濯場に舟をつけて上陸した。そこでは、洗濯女たちが服をたたいて洗っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (37)

 

午後、ホテルの外に座っていると、うめいているようにも聞こえるオルガンの甘く荘厳な響きが聞こえてきて、教会から呼び出しを受けたような気がした。ぼくは観劇は大好きだし、芝居の一幕か二幕を見るのもいやではなかったが、そのときに実際に見た儀式がどういう性質のものだったのかについては、いまでもよくわからない。教会に入ってみると、四、五人の司祭と数多くの聖歌隊の少年たちが祭壇の前でミゼレーレ(神よ、われを憐れみたまえ)*1を歌っていた。何かの集会というわけではなさそうだったが、数人の老婦人が椅子にすわり、年老いた男たちは床にひざまずいていた。しばらくすると、黒い服に白いベールをつけた少女たちが、火をともしたローソクを手に、二人ずつ祭壇の背後からぞろぞろと歩いて登場し、そのまま会衆席の方へと降りてきた。最初の四人は聖母マリアと幼児のキリスト像の卓を運んでいる。司祭と聖歌隊も立ち上がり、アベマリアを唱えながら、その後に従った。彼らはこの順序で大聖堂の周囲をまわり、柱にもたれていたイギリス人、つまりぼくの前を二度通過した。一番偉いように思えた司祭は奇妙な老人で、ずっとうつむいていた。口をもごもごさせて祈りを唱えていたものの、薄暗がりでこっちを見上げた顔は祈りに集中している風にも見えなかった。ちゃんと歌っていた他の二人はがっしりした四十男で、いかめしい軍人のようにも見えたし、押しが強そうで、食べすぎたときのような目をしていた。彼らは元気よくアベマリアを軍歌のように輪唱した。少女たちはひかえめで、きまじめな表情を浮かべていた。ゆっくり通路を上がってきながら、彼女たちは一人一人、余所者であるぼくをちらちら見ていった。少女の一団を率いていた大柄な修道女は不満げな様子でこっちをにらんでいる。聖歌隊の少年たちについては最初から最後まで悪ガキといった感じで、ふざけたしぐさをしたりして、この儀式を台なしにしていた。

何の儀式かわからなかったものの、行われていた儀式の精神については、ほとんど理解したと思う。実際にミゼレーレを聞けばわかると思うが、これは無神論者の作曲したものだろう。暗く落ちこむのが善であるのなら、ミゼレーレはまさにそれにふさわしい音楽だし、大聖堂もそれにふさわしい。そこまでは、ぼくもカトリック教徒と同意見だ、――というか、カトリックというのは普遍的という意味だが、この言葉を使うのは奇妙な気がしないでもない。とはいえ、一体全体、さっきの聖歌隊の連中は何なのだろう? 司祭たちは祈っているふりをしながら、なぜ礼拝に来ている信徒たちを盗み見たりするのだろう? 少女たちに強引な指導を与えていた太った修道女は、なぜ列を乱した少女の肘をつかんで揺さぶったりしたのだろう? つばをはいたり、鼻をすすったり、鍵を忘れたりと、聖歌やオルガンの音色でやっと静まった心をまたかき乱すような、いろんなごたごたはどういうことなのだろう? どんな芝居小屋でもよいが、教会の人たちもそういうところを見学してみれば、細部まできちんと詰めておくことで全体が成り立つという意味がわかるのではなかろうか。感情をいかに高めていくかについても、端役にいたるまでしっかりと訓練し、椅子なんかも所定の場所にちゃんと並べておくといったことが必要なのだ、と。

それ以外に、ひとつ、ぼくを悩ませたことがある。ぼくは野外で結構な運動をしているので、神よ、われを憐れみたまえという悲哀感に満ちたミゼレーレを聞かされても耐えられるが、年老いた人たちにはどうだろうか。年齢を重ねた人々は自分の人生における荒波のほとんどをくぐり抜けてきているのだし、人生における悲劇的な出来事についても自分なりの見解を持っていて、そういう人々にふさわしい種類の音楽ではないし崇高というわけでもない。年老いた人々は一般に自分自身のためにミゼレーレを歌うことができるが、そういう人たちでも多くは、自己憐憫の歌よりは、神をたたえる歌の方が好きだと思う。老人にとって最も宗教的な行為は、おそらく自分自身の体験を思い出すことではなかろうか。どれほど多くの友人が死んだか、どれほど多くの希望が失われたか、どれほど多く滑ったり転んだりしたか、そしてどれほど多くの光り輝く日々や喜びに神の導きがあったかということで、こうしたことすべてに、とても説得力のある教訓が確実に含まれているのではあるまいか。

つまり、結局のところ、ぼくはこの荘厳な儀式に心を打たれたのではあった。ぼくらの欧州紀行の全体を示すささやかな絵地図には、これはぼくの頭の中で描いたもので、ときどき思い出して楽しんだりするのだが、その空想の地図では、ノアイヨン大聖堂はいびつなぐらい大きな位置を占めていて、一つの県ほどの大きさでなければならない。ぼくは今も司祭たちがすぐ近くにいるみたいに顔を思い出すことができるし、アベマリアや「われらのために祈りたまえ」などの歌が教会から響いてくるのが聞こえたりもする。ノアイヨンでの他の出来事はすべて、こうしたすばらしい記憶のために消し去られ、ぼくはこの場所について、これ以上書くつもりはない。この町は茶色の屋根の積み重なったところにすぎなくて、人々は静かに当たり前の暮らしをしている。ところが、太陽が低くなると教会の影がさし、五つの鐘の音があたり一帯に鳴り響き、オルガンの演奏が開始されることを告げるのだ。仮にぼくがカトリック教徒になるようなことがあれば、オアーズ河畔にあるノアイヨン教会の司祭になることを条件にしたいくらいだ。

 

脚注
*1: ミゼレーレ - 聖書の詩編51に基づく宗教曲。ルネサンス音楽のポリフォニー(多声音楽)で、厳密には複数の版がある。