彼がワイン片手に語る体験談は傾聴に値した。話がとてもうまくて、自分の失敗談も笑いにまじえて披露したし、大海原で危険に遭遇し、押し寄せる波の音をきいたときのように、いきなり深刻な顔になったりした。二人分の鉄道料金と宿泊費で三フラン支払わなければならないのに、前の晩の公演で得た金は一フラン半だけだったとか、客席の前列に金持ちの市長が座っていて何度もフェラリオ嬢をほめくれはしたものの、その夜の公演では三スーしか払わなかったとか、そういう話だ。地方の役人が旅芸人の芸術家に注ぐ目も厳しかった。そう! ぼく自身もそういう仕打ちを受けたことがあるのでよく知っている。ぼくもまったくの誤解から情け容赦なく収監されたことがあるのだ。デヴォーヴェルサン氏が歌う許可を得るために警察をたずねたときのことだ。警察官はくつろいでたばこを吸っていたが、氏が入っていくと丁寧に帽子をぬいだ。「おまわりさん」と、氏は話しかけた。「私は旅公演をしている者なのですが──」 すると、くだんの警官はすぐに帽子をまたかぶったという。太陽神アポロの仲間として芸術を追求している者に対する礼節など持ちあわせていないのだ。「そんな感じで、ひどいもんですよ」と、デヴォーヴェルサン氏は煙草を持つ手を動かしながら言った。
とはいえ、ぼくが一番面白いと思ったのは、放浪生活の困難や受けた侮辱や苦しみについて夜を徹して話をしていたとき、氏が感情を爆発させたことだ。そういう生活をするくらいなら百万くらいの大金を手にして普通の暮らしをしたほうがいいなと誰かが述べ、フェラリオ嬢もそっちがいいと認めたときだった。「そうじゃない、私は違う──私はそうは思わない」と、デヴォーヴェルサン氏はテーブルを手でたたきながら叫んだのだ。「世の中に失敗者がいるとすれば、それは私でしょうよ。私は芸術にたずさわっていたし、その当時は上手にやれてましたよ──何人かには引けをとらず──そして、それ以外の者たちと比べたら、たぶんもっと上手に。今となっては過去のことなんですがね。今は旅をしながら、つまらない歌をうたって小金を稼ぐ生活をしていますが、私が自分の人生を後悔していると思いますか? 牛のように太った市民になっていたほうがよかったとでも? いや、そうなったらもう私は私でなくなってしまう! 私は舞台で何度も拍手喝さいされたことがありますが、そんなことはどうでもいいんです。劇場で誰も拍手しないときに、言葉の抑揚だとか、台詞と仕草の絶妙なバランスだとか、そういうコツをつかんだと人知れず感じる瞬間があったりもするんです。つまり、喜びとは何なのか、物事をうまくやるとはどういうことか、芸術家であるとはどういうことかということを、私は自分で体験して知ってるんです。そうして、芸術とは何かを知るということは、日常のささいなことでは見い出せない、いつまでもつきることのない興味を持ち続けられるということでもあって、それは、いわば──宗教みたいなものなんですよ」
ぼくの記憶があいまいだったりフランス語の理解に誤りがあるかもしれないが、氏はだいたいそういう意味の信念を表明したのだった。ギターとたばことフェラリオ嬢のことに加えて、彼の本名をここで出したのは、ほかの旅人が氏と出会う可能性もあるだろうと思ったからだ。彼のように誠実に美を追及していて運にめぐまれない人については、周囲の人はもっと丁重に遇してもよいのではなかろうか。詩の守り神でもある太陽神アポロが、これまで誰も夢想だにしなかった詩句を氏に贈ってくれたり、川では銀色に輝く魚が次から次へと氏のルアーにかかりますようにと、祈らずにはいられない。冬の旅で寒さに苦しめられず、ふんぞりかえった村の小役人に侮辱されず、彼があこがれのまなざしで見つめながらギター伴奏をしていたフェラリオ嬢がこれからも彼から離れることがありませんように!
一方、プレシーの人形劇の方はさんざんだった。『ピラムスとティスベ』と題する死ぬほど退屈な五幕物が演じられたが、全編すべてが人形と同じくらい長ったらしい十二音節のアレクサンドル格の韻律で書かれていた。人形の一つが王で、もう一つは邪悪な顧問官、第三の登場人物が比類ないほど美しいというティスベだった。他にも衛兵や頑固なおやじや通行人がいた。ぼくが座って見物していた二幕か三幕では何も特別なことは起こらなかった。しかし、時間と場所と筋は一つに限定され、三一致の法則は守られていた、そして劇全体は、例外が一つあったが、古典における役割にそって展開した。その例外とは、やせた人形が演じる、木靴をはいた道化の田舎紳士で、彼は韻文ではなく散文を語ったが、ひどいなまりがあって、それが観客には受けていた。君主に反逆し、他の人形の口を木靴で蹴りつけ、韻文調で恋を語る求婚者がいないときには、きついなまりのある、ふざけた散文でティスベをかきくどくのだ。
劇の全体を通して笑えたのは、この田舎紳士の所作と、興行主が劇団員を整列させ、彼らが毀誉褒貶には関心を払わず芸術に身をささげていることをほめた、ユーモラスな前口上のところだけだった。とはいえ、プレシーの村の人たちは芝居を楽しんでいたように思えた。実際に何かが演じられ、それを見るために料金を払っているのであれば、それを楽しもうという気にはなるものだ。夕日が沈むころ、ぼくらがそれを見るのにかなりの料金を払い、また神様がサンザシの花が咲く前にふれ太鼓をどんどん鳴らして宣伝したりすれば、ぼくらはその美について大騒ぎをすることだろう! だが、こうしたことについて、愚かな人間は、得がたいよき仲間と同じように、そういうものをすぐに当たり前だと思いこんで、じっくり眺めるのをやめてしまう。馬車に乗った商売人は、路傍に咲いている花や頭上の空の様子には目もくれず、通り過ぎていくのだ。