もっと悪いことに、スナーク号が告発されたのは土曜の午後だった。ぼくは弁護士や代理人をオークランドとサンフランシスコに派遣したが、合衆国の判事はおろか保安官も売主一同氏も売主一同氏の弁護士も見つけられなかった。週末なのでみんな出かけていたのだ。それでスナーク号は日曜の午前十一時になっても出帆していなかったのだ。小柄な老人が担当のままで、どうしても出帆に同意してくれなかった。チャーミアンとぼくは反対側の埠頭まで歩いていき、スナーク号の美しい船首を見て慰めあった。この船が強風や台風にも堂々と立ち向かう様子について考えるようにしたというわけだ。
「ブルジョアのいやがらせさ」と、ぼくはチャーミアンに言った。売主一同氏と連中の訴えのことだ。「商売人ならパニックになるところだが、なに、気にすることはない。大海原に出てしまえば、この問題は終わるからな」
結局、ぼくらが出帆したのは、一九〇七年四月二十三日、火曜日の朝だった。白状すると、出だしからつまずいてしまった。動力伝達装置が壊れているので、アンカーも手で揚げなければならなかったのだ。おまけに、七十馬力のエンジンはスナーク号の船底のバラストとしてしばりつけてある。だが、それがなんだというのだ? エンジンはホノルルで修理できるだろうし、船の他の部分は立派なものだ! テンダーのエンジンが動かず、救命ボートはザルのように水漏れするというのは本当だが、そんなものはスナーク号そのものじゃない。単なる付属品だ。重要なのは、水漏れしないバルクヘッド、継ぎ目の見えない頑丈な厚板、浴室の設備-こういうものがスナーク号なのだ。なによりすごいのは、気品があって風を切り裂く船首だ。
ぼくらはゴールデンゲートブリッジを通過して太平洋に出ると南下した。北東の貿易風を拾えるだろうと思ったのだ。すると、すぐにいろんなことが起こった。雇った若者たちはスナーク号の航海に向いていると思っていたのだが、三分の二は当てがはずれた。スナーク号には三人の若者がいた──エンジニアにコックに給仕だ。ぼくは船酔いを計算に入れるのを忘れていた。コックと給仕の二人はすぐに船酔いで寝台にもぐりこんだまま、一週間というもの、まったく役に立たなかった。そういうわけで、ぼくらは食べるはずだった暖かい食事にはありつけなかったし、船室もきれいに整頓されることはなかった、わかるだろ? とはいえ、そんなことはどうでもいい。というのも、すぐに、凍らせてあった箱詰めのオレンジが溶け出しているのを発見したのだ。リンゴの箱も腐りかけて台なしになっていた。木箱のキャベツは届く前に腐敗していたので、すぐに海に捨てなければなかった。灯油はこぼれてニンジンにふりかかるし、カブはしぼんで薪のようになっているし、ビートもだめだ。たきつけは枯れた木だったが、燃えやしない。きたないジャガイモ袋に入れて届けられた石炭は甲板に巻き散らかされ、排水口から押し流されていった。
とはいえ、それがどうしたというのだ? そんなことは枝葉末節にすぎない。船があるし、それ自体にまったく問題はないじゃないか、そうだろ? ぼくはデッキを行ったり来たりしながら、ピュージェット・サウンド産の特注した美しい厚板材に一分間に十四もの継ぎ目を見つけてしまった。おまけに、甲板から水漏れした。それもひどくだ。ロスコウは寝台でおぼれかけたし、厨房の食料品がダメになったのはいわずもがな、機関室の工具も使い物にならなくなった。スナーク号の側壁からも水が漏れたし、船底も漏れているし、船を浮かべておくためにポンプで毎日排水しなければならなかった。排水して四時間もすると、厨房の床には船の内底から二フィートも海水が浸水し、厨房の床に立って冷たい食事にありつこうとすると、船室内で揺れ動く水に膝までつかるはめになった。