現代語訳『海のロマンス』126:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第126回)

リオ市民の虚栄
一、両手に八個の指輪

もともとリオ人は最も宝石を愛玩(あいがん)する国民として世界に有名である。

ちょっとした中流家庭の主婦でさえ必ず両手に八個の指輪をはめている。スカートには単に桃色の木綿の布を身につけ、垢(あか)じみた足には怪(あや)しげな木靴(トマンコ)をはいている洗濯女にいたるまで、一日に二度の食事をやめてまで指にまがいものの宝石の指輪を並べたがるほどである。

この虚栄的趣味は、ただ婦人間のみにとどまらず男子にまで及び、一国の宰相とか南米の富豪とかいう輩(てあい)までが、その夫人が夜会に招かれるような時は、高い金をかけたせっかくの自慢の指輪が隠れるのを悲しんで、冬でも決して手袋をはめさせないとのことである。

というわけで、リオ市で最もにぎやかで最も人出の多い例のオビドールの両側に並んでいる店は、珈琲店(カフェー)でなければことごとく宝石商で、間口(まぐち)二間(にけん)足らずの小さい店舗(みせ)の窓飾り(ウィンドショウ)に、一個七千ミル(四千五百円)、八千ミル(五千二百円)などのダイヤ入りの指輪が無造作(むぞうさ)に陳列されているのは珍しくもない。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』125:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第125回)

慈善救済の設備

やれ危ないと思わず心に叫んだときは、もうすでに遅かった。張り子の人形を踏みつぶすように一人の男がペタペタと前輪(くるま)の下にまきこまれて、自動車のドライバーがあわてて飛び降りる様子が、砂塵(すなけむり)もうもうたるなかで遠くかすんで見えた。

電車、馬車、自動車が互いのバンパーをきわどくすれ違わせて激しく往来するキンゼ・ド・ノメムブロの広場(プラサ)である。

時は四月十八日第一上陸日。ファローの埠頭(はと)から浮浪人(ビーチコーマー)の間をすり抜けて一歩進んだ午後の出来事である。

日本で言えば橋梁(きょうりょう)課の技手(ぎしゅ)といった風采(ふうさい)のリオの巡査が、騒がず迫らず悠揚(ゆうよう)と電話ボックスに入ったと思ったら、たちまち一台の救急車(アンブラン)が風を切って駆けつけて来たのには感服した。

感服したのはこれのみならず、当然のことながら加害者であるはずの自動車の運転手が、瀕死(ひんし)の被害者を足下(そくか)に踏みつけたまま平然と車上にそり返っておったことであった。後で聞いた話だが、過失が被害者に存在しうべき状態にあるときは、加害者は治療代さえ支出すれば平然と車上にそり返っていられるそうである。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』124:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第124回)

富くじ合衆国(ユナイテッド・ステート・オブ・ロッテリア)

馬鹿に狭くて馬鹿に雑踏するオビドールを通ると、まず第一に新旧大小さまざまの型(タイプ)の宝石店が目につく。そして、その間に点在し、ほしいままに一種の刺激的な芳香(アローマ)を放つカフェーに頻繁にせわしく出入りする不思議な階級の来客が、少なからず視線を引く。

その服装(みなり)や態度からいうと、リオ紳士の範囲(サークル)から遠く外れた姿である。珈琲店(カフェー)で一国の国政を料理する腕前を有する政治家のたぐいではむろんない。ポケットから何やらの紙片(かみ)を出して、通りかかった紳士に買え買えと迫っているところは、ちょっと新聞売りのようでもある。しかし、その売りぶりのいかにも気楽そうなところは、新聞売りよりものんきで裕福な生業とみえる。これがかの有名な富くじ(ロッテリア)の売り子で、ブラジル特有の浮浪者(バガボンド)や素足(すあし)に木靴(タマンコ)姿の洗濯女とあいまって、特徴あるリオの地方色(ローカルカラー)の、自堕落な一方面を担当しているものである。

この富くじ(ロッテリア)売りの活動期は夕方であるが、南半球の初秋の光が力なくコルコバード(別名ラクダの背中)の頂きにうすくかかり、街頭の白熱灯がようやく輝きはじめるころ、この背広(フロックコート)に鳥打ち帽(ハンチング)の売り子が人目をしのぶコウモリのごとく、町から町へ、大路から小路へと舞い歩く様子は、確かに特筆を要すべき一異彩である。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』123:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第123回)

活動写真と国民性

日常のありふれた生活の間にも放縦(ほうじゅう)を楽しみ、享楽を夢みつつある徒(と)に対して、風紀を乱さない君子の楽はとうてい解(わか)るはずがない。ぜひとも強烈なる色彩と爛熟(らんじゅく)せる刺激とで、ホカホカ抱擁(ほうよう)されなくては、麻痺(まひ)しきった鈍い神経を興奮せしむることはできそうもない。かかる享楽的欲求を満足せしめんために特におあつらえ向きにできあがったかのように見ゆるのが、リオ市のいたる所にときめける活動写真である。

踏み石を光琳(こうりん)模様にきれいにモザイクした、例のアベニダ・リオ・ブランコの人道をそぞろ歩いて行くと、半町おきくらいに得体(えたい)の知れない不思議な店舗(みせ)があわただしく目に飛びこんでくる。堅気(かたぎ)の店としては、あまりにもけばけばしい装飾(かざり)を用いている。入口も柱も壁も露台(バルコニー)も窓枠も欄間(らんま)も、金粉や朱泥(しゅでい)の模様でピカピカと彩(いろど)られている。美しい花が机に飾られて、ギターの静かに沈んだ音が、ピアノの音とさわやかに調節して響いてくる。音楽会としてはあまりに内容が貧弱である。あまりに聴衆が多様乱雑である。茶を飲んでいる気配も食事をとっている様子もないから、むろん喫茶店でも料理店(レストラン)でもない。 続きを読む