現代語訳『海のロマンス』109:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第109回)

三、ぼくの所有者

黙って聞いていると、ずいぶん腹の立つことがある。

やれ誰さんのカメレオンはハエの取り方が下手だとか、甲所有のは意地が悪いとか、乙のは敏捷(びんしょう)だとか、さかんに自分勝手なごたくを並べている。理不尽(りふじん)に山から海へと誘拐(かどわか)してきて、断りもなく自分で勝手に決めた所有権を無辜(むこ)のぼくらの上に拡張してすましている。図々しいにもほどがある。

しかし、なんと言っても相手は「狂にして、かつ暴」なるものであるから、この際、生きんがために涙をのんで奴隷的(どれいてき)な地位に服従することとした。

そこで、ぼくの所有者は誰だろうかと詮索(せんさく)したら、生意気にも太刀雄(たちお)という変名を持った男である。

昔から変名を持った者にろくな者はない。

あちこちと逃げまわった末に、「ヤアヤア不倶戴天(ふぐたいてん)の父(おや)の仇(あだ)、尋常に勝負せよ」と名乗られるような者でなければ、東海道を股にかけ雲や霞(かすみ)に打ちまたがってその跡(あと)も白浪(しらなみ)と消え失せるような、すねに傷を持っている者に限られるようである。

この男、由来、いかなる星の下に生まれたか、意地が悪くて、強情で、わがままで、しかも忘れっぽいという悪い性質ばかり集めている。

しかし、同じ忘れっぽいのでも、この男のはずいぶんたちが悪く、自分に都合の悪い時に限るようである。

同じく横柄(おうへい)な所有権を振りまわしながらも、他の青公(あおこう)や白君(しろくん)などの所有者はセッセとハエをとらえてきては努めて好かれようとしているのに比べて、この男はいつも都合よく忘れているのか、かつて一度もハエをくれたことがない。しかも、よく図書室に来ては、くだらないことを言っては独りよがりをしている。

学者の蓋然(がいぜん)性の説とかに従うと、このカメレオンがハエを捕らうる可能性(プロバビィリティ)は、カメレオンが十分の成算と覚悟とをもって長い粘着性の舌を吐き出した度数の1/2とのことであるから、今諸君のご覧になる通り、あのカメレオンは今しょっちゅうハエを取り逃がしているが、いつかはこれを捕捉(ほそく)するような手柄(てがら)をあげて、この法則の真なることを立証しよう……

などと演説することもある。

取り逃がそうが、どうしようが、入らざるお世話である。もっとも、その折りは自分でも落胆(がっかり)するほど、取り損なったのは事実であるが。

で、あまり平常(ふだん)のそっけない処置がしゃくにさわったから、一日(あるひ)船尾の四等運転士とやらが「あんまりサルーンにハエが多いので、はえ取り虫を二、三日貸してもらいます」と交渉して、士官のサルーンに持って行った折、ちょっと悪戯(いたずら)して北車(フクシア)の樹(き)から脱走してやった。

これにはさすがの太刀雄(たちお)先生も仰天して、さっそく懐中電灯を携帯した捜索隊を編制し、机や棚の下など一生懸命にもぐって歩いたのは笑止(しょうし)であった。

今日は土曜日の午後で、恒例の船内点検があるので、船長などの目障(おめざわ)りにならぬようにと、ぼくらは図書室から食堂へ移された。移されたのはまあ仕方がないと観念しても、生来、冷酷と健忘性(けんぼうせい)との分子に富んだ連中は、例のごとく再び連れ戻すことを忘れたので、ぼくらは以後、この食堂をわが党の天地とすべく余儀(よぎ)なくされた。

上へ上へと幹を攀(よ)じ登り、枝を渡って、まさに樹葉(じゅよう)の茂みに入ろうとして、ぼくの本能的機能が緑色の皮下色素の満潮という段取りに及んだ時、ぼくらの前の机で無遠慮にアーアと大きなあくびをした奴があった。

日曜の午前である。

この男は今まで「修業日誌)とかいうものを書いておったのである。ところが、見渡すと、この男ばかりでなく、堂内にいる大半の学生は、人生の花と歌わるる青春の燃ゆるがごとき精気をことごとくこの一時に集中させる勢いで、セッセとペンを動かしている。

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現代語訳『海のロマンス』108:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第108回)

二、地上の獅子(シシ)の由来(ゆらい)

「おい、君、大変だぜ。カメレオンはギリシャ語で地上の獅子という意味だと、ここにあるぜ」

「いかにも、あるある。しかし、生意気だね。僭越(せんえつ)だね。たかがカメレオンの分際(ぶんざい)で”獣の王”の名前を詐称(さしょう)するなんて」

「しかし、まあ、かりに一歩を譲って、ライオンの号を承認してやっても、地上の獅子とはぴんとこないね。せめて樹上の獅子とかいう方がまだまだ理屈にあってるがね」

「それがそれ、へんちくりんな分からず屋のギリシャ人の仕業(しわざ)だね。だから、常識一点張りの例の英国人は、訳のわからない者をとらえてはギリシャ人のようだと言うじゃないか」

「アハハハハハハ。そうかも知らん。ウフッ、笑わせやがる。アハハハハハハ」

他の悪口を堂々と当人の面前で試みて、さも愉快げに心から笑っている。無遠慮にもほどがある。不人情にもほどがある。何がそんなにおかしいか。

ならば、こっちからも言ってやろうか。

まず、啓蒙(けいもう)の第一に、地上の獅子に対する彼らの誤解を指摘してやろう。

彼らはこの「地上の獅子」なる語は、かつてアフリカではルーズベルト君の銃先(つつさき)に追いまわされ、日本では歯磨き粉の看板になっているライオンに当然冠すべきもので、カメレオンごときがそれを差し置いてと冷笑しているが、これはたまたま彼らの浅学かつ無教養なることを自ら証明するものである。

コロンブスやドレーク*に劣らない航海者である自信を持っている彼らは、必ずや赤経十時三分、赤緯十二度二十三分のあたりにわたって「ライオン」(レオ)なる一星座**のあることを知っているだろう。

* ドレーク: サー・フランシス・ドレーク(1543年~1596年)はイギリスの航海者。
西インド諸島周辺でのスペイン船に対する海賊行為で頭角をあらわした、いわば国家公認の海賊=私掠船の船長というわけだが、マゼランに続いて史上二人目の世界一周航海を果たし、海軍提督まで上り詰めた英国の英雄。
南米ホーン岬と南極との間のドレーク海峡に名を残している。
とはいえ、対立するスペインからすれば「悪魔の化身」たる海賊船の船長であり、歴史上の人物の評価は国によって正反対になることも少なくない。

** ライオンなる一星座: 星座占いでもおなじみの「しし座」。
赤経、赤緯は地球上の経度、緯度と考え方は同じで、天の北極、南極、赤道を決めておいて、あらゆる天体の天球における位置を示す指標として使用される。
具体的には、春分の日に太陽の赤緯が0になったときの天球上における太陽の位置を赤経0とする。

しし座
Leo constellation map

彼らに言わせると、「それこそ天上の獅子さ」とうそぶくであろうが、これが目指すライオンの本体であって、サハラの砂漠に吠えている輩(てあい)はその前身に当たるにすぎんので、単に現世だけの通称である。

ゆえに、人間でもこの獅子のように勇猛に働いたものは死後に昇天してはみなライオン星座の一員となるので、かのローマの勇猛果敢なマーカス・アキリウス*という男も今は「レギュラス星」**となって青く光っているのでもわかる。

* マーカス・アキリウス: 現在の一般的な表記はマルクス・アティリウス・レグルス。生没年不詳だが、紀元前の共和制ローマの政治家で軍人。

** レギュラス(レグルス)星: しし座の一等星。

とすると、いわゆる「地上の獅子」なる尊称をいただくしか他にない、まさに押しも押されもせぬぼくであることが判明(わか)るであろうが。

次に……カメレオン風情(ふぜい)でもったいなくも獅子と称するなど僭越(せんえつ)だとの攻撃であるが、これもまた彼ら人間どもの浅はかな智慧(ちえ)から生み出された推論にすぎんのである。昔から人間にせよ動物にせよ、身体(からだ)のある部分が異常に抜群に発達したものに偉人や傑物が多いということでは歴史家の意見は一致している。

頼朝(よりとも)の巨大な頭、劉備(りゅうび)の大きな耳、ナポレオンのフクロウのような眼などはその最も傑出したものである。

他に類例なき長大で飛ぶように動く舌と、左右が独立して自由に回転しうるその目と、自在に敵の目をあざむくことが可能なおそろしき変色術と、竿のごとく一挙に全身を持ち上げる非凡の尾と、一つ一つ数えていけば、ぼくに備わった傑物として認められる資格は十指にあまるほどである。

あるいは、かの空前絶後の奇跡を示したキリストや、ヨーロッパと東洋を融合させたアレキサンダー大王も、人知れずこっそりと、長大な舌や、神秘な変身術を隠し持っていたかも知れないのに、ダーウィンといいゴルドンといい、こんな貴重な研究資料を等閑に付したとは、よくよくのうかつ者であると言わねばならぬ。

ついでにもう一つ――、ライオンが欧米人によって精悍(せいかん)、勇気、秀美(しゅうび)、公明(こうめい)等の男性美の象徴とされたのに対して、尊貴(そんき)、絶倫(ぜつりん)、英邁(えいまい)等、卓越した資質や性質を表現したものとして東洋で人々が想像した動物に龍なるものがある。

龍眼(りゅうがん)とか龍種(りゅうしゅ)とかいうありがたい言葉も語源はこれで、それに基づいて用いられているそうである。

そこで、ぼくはつらつら考えたが、この広い地球上に龍なる想像の動物を具体的に象徴的に示しうるものがわずかに二つある。

一つはタツノオトシゴで、他はすなわち、ぼくである。

形態から言っても見識や抱負などから論じても、爬虫類(はちゅうるい)の仲間ではもちろん、見渡すところ他の生物界でも、ぼくほどにいわゆる龍に似ているものはあるまい。

といって、ぼくの説について直ちにかの虎の威を借りたキツネの亜流だなどと早まる者は、腹に力のない慌(あわ)て者である。

ぼくがかくのごとく論じるのは、ただ船乗りなどという時勢(じせい)遅れの連中から不当な軽蔑(けいべつ)を受けることがすこぶる心外であることをここに明らかに表白しようと思ったからである。

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現代語訳『海のロマンス』107:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第107回)

カメレオンの独り言

一、絵はがきと交換される

ぼくはカメレオンという小さな動物である。ぼくはこの練習船――かつて見たことのない大きな帆船(ふね)――に乗って、南大西洋を航海している。

ぼくは今、こころよい昼寝の夢からさめる。そのさめた目の前すぐの空間を、音もなくスーツと紫の色美しいものが、静かな熱帯の大気をゆるがして落ちる。

ぼくはフクシアの木にとまっている。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花ではないが、生者必滅(せいじゃひつめつ)の色を見ろやとばかり、今日もまた寂しいフクシアの花*がポツンポツンと時をこめて落ちている。

* フクシアの花
熱帯・亜熱帯原産の美しい花を咲かせる低木。
日本ではかつてホクシャと呼ばれていた。
Fuchsia 'Multa'Dominicus Johannes Bergsma, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

人のいない図書室の昼は快く静かである。つい半時ばかり前に好物のハエに首尾よくありついたせいか、どうやら腹がくちくて、とかく得意の瞑想(めいそう)に陥(おちい)りやすい。ところが、ちょっとここに断っておくが、昼寝をする前に心得顔(こころえがお)に、まず一通り仲間の動静を観察するのはぼくの癖である。

グルンと右の目をまわして斜(はす)に三十七度くらいの仰角(ぎょうかく)を作りつつ仲間のカメレオンの青公を見上げると、平常(いつも)しなを作るときにするように、四つの足と一本の尾とでしっかと木を握って背筋を中心にブルブルと身体を痙攣(けいれん)させている。

右とは反対に後方下へ向けた左の目には、いましも灰色から白色に変色しようとしている、これも仲間のカメレオンの白君が、まだ食い足らぬと見え、キョトキョトと目ばかりせわしそうにデングリ返しながら、のっそりのっそりと這(は)いまわっているのが映(うつ)る。

離れたところにある上甲板で次の当番の名前を読み上げる風下当番(リーサイド)の声が遠く聞こえる。フクシアの花がまた一つ、赤く紫に色即是空(しきそくぜくう)と落ちてゆく。自分の住んでいる木の花がかくも情けなく凋落(ちょうらく)していくのを見るのは少なからず心細い。

ぼくがかくのごとく心細く感じた時、ドヤドヤと不意に足音が聞こえて、二、三人の学生が入ってきた。その先頭に立った男は、かつて見知ったこの室(へや)の主人公である。船内では学習係とかいって図書の貸し出しと、学習の肝いりとを兼ねる偉い人だとのことである。口々に何事かわめきながら戸棚から一冊の厚い洋書を出し、鳩首(きゅうしゅ)して、あるページを忙しく読んでいるかと思えば、また時には変な気味の悪い目つきをして、各自(てんで)にまじまじとぼくの顔を眺める――

というだけでは、悟(さと)りの悪い人間に、何の前兆だかちょっと判断がつくまいが、聡明(そうめい)にして鋭敏なる観察眼を有する点において上甲板のシカに劣らざる自信を持っているぼくは、直感的に、頻々(ひんぴん)と彼らの提供する滑稽なる挙止(きょし)や動作(どうさ)のよってくる本来の意味と、簡単にして幼稚な彼らの胸中の心の動きを読むことができた。

かつて見たことも聞いたこともなかったカメレオンという動物を、思いがけずケープタウンで準備する間もなく手に入れてから、にわかに高まったぼくらに対する感興と趣味とは、彼らを駆って、ここに百科全書(エンサイクロペディア)に記載された項目を調べるに至ったのである。

ちょっと話の順序として、どんな悲惨(ひさん)なる経路をたどってぼくらがうまうまと、草かぐわしきアフリカの自由境から練習船(このふね)に誘拐(ゆうかい)されてきたかを語ったならば、いまさらに人間なるものが人間中心説(アンスロポセントリシズム)の大信者として傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にわがままな行為を強行する、得手勝手(えてかって)な動物であることを自覚するであろう。

それは心地よく朝晴れのした日であった。

茂りあう緑濃き木の葉の間から、悠々たる白雲の静かに行き来する、のどかに青い蒼穹(そら)を仰いで、すこびるご機嫌となっていると、こつぜんとして暴風と地震と雷とが一度に来たような一大衝撃が根から幹から枝へと樹木全体の緑の葉を一時にふるい落とすような勢いで響き伝わった。

この危機一髪の瞬間でも、衝動的、反射的、本能的機能を巧みに用いることができるぼくは、渾身(こんしん)の力をことごとく四足(しそく)と尾端(びたん)とに集中して、しっかりと枝をつかんだつもりであった。

ところが、この急な震動が静まって周囲の天地がようやく静謐(せいひつ)になってぼくの意識が明瞭に復活してきたとき、意外にも、残念にも、ぼくは仰向(あおむ)けに地上に倒れておったのに気がついた。

やがて、子供らしい一つの手が出てむづとつかんだと思ったら、「南無三宝(なむさんぽう)失敗(しま)った」と思わず口走ったぼくを、無造作(むぞうさ)に暗いポケットの中へと入れてしまった。

かくして同僚二匹とともに、フクシアの樹(き)にとまらせられて、うまうまと練習船(ここ)につれてこられたわけなのだが、実は、このホレイスという小童(こわっぱ)はその二、三日前に練習船(ここ)へ遊びに来て、学生を相手に、

「日本の絵はがきをくださいな」

「うん、やってもいい」

「くださるなら、あのう――カメレオンを捕まえてきますから」

「そうか、それはありがたい。よろしく頼むぜ」

……っていうような会話を交わしていて、その結果がこんなことになったと知っては、うらめしいやら悲しいやら情けないやらで、涙が大きな目からとめどもなく流れた。

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現代語訳『海のロマンス』106:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第106回)

四、ソバとジワジワ

耳元で何人(だれ)だか、グーグーと大きな艶(つや)消しのいびきをして、それが無遠慮にも、薄い鋭敏な自分の鼓膜に響いて、とかくに覚めやすい暁(あかつき)の夢を破る。誰だろうと不審がるにも及ばず、その雄大な音量からも、その無作法な呼吸運動からも、たしかに人間である。しかも、この船の上の人間のうちで最もわがままな、最も勢力ある練習生の仕業(しわざ)であることもまた確かである。

四時間ごとに否応なしに起こされて当直勤務に立つべく出てくる三十人あまりの練習生は――どうも練習生と十把(じっぱ)一絡(ひとから)げに扱うのがあまりに多くてお気の毒であるが、相当の敬意を表しつつも誤解を招かないこの呼び方は他の表現ではぴったりこない――当番を交代し整列が済むと、彼らはたちまちバラバラと列を乱し、すぐさま寝そべって夢にひたる極楽境へと旅だってしまう。

樹下(じゅか)や石上(せきじょう)に宿を求めて草を枕とし、花を主人(あるじ)にした古人(こじん)のよい心がけは知らないが、ハッチを寝床とし、ロープを枕とする練習生の考えは、暑苦しい下甲板の寝床(ボンク)を、心地よい風が吹き渡っていとも涼しい上甲板の別荘に移したつもりでいる。

この眠っている連中から少し離れて、二人の学生が何かしみじみと密談している。古い言い草だが、「聞くともなしに」立ち聞きをすると、なんでも日本へ着いたら上陸早々一番先に何を食うかという問題で、一人はソバと言い、他はジワジワ*と言い、今や盛んに議論しあっているところである。

「君、ジワジワなんていうものは俗中の俗なるものだあね。そんなことを言うと、趣味が低級だと馬鹿にされるよ」

などと、趣味高尚と心得たソバ屋党が反駁(はんばく)すると、

「すべての欲求の本体は絶対的に抜群無比の実質を具備しなければならない。ソバなんか食いたければ缶詰にしても持ってこられるからね」

などと、どうでもいいようなことに力こぶを入れて堂々と議論している。

* ジワジワ: 具体的にどういう食べ物なのか(何かの俗称?)不明。

当人はこれでも紀元前にマケドニアのフィリッポス二世を弾劾したデモステネスくらいの雄弁であると信じている。自分は情けないような、つまらないような気がして、結果を見ずに、先に失敬して寝てしまった。

五、連日の無風

この二、三日、連日の無風(カーム)で、船は「ビクともするもんじゃない」というように少しも動かない。騒がず迫らず泰然(たいぜん)と重い尻をドッシリとおろしている。まさか「日本を出るときふんどしを忘れた」せいでもあるまいが、これでは真(まこと)に長い道中ブラブーラである。やりきれない、やりきれないと練習生たちが不平を言うのも無理はない。

セントヘレナを出たのはつい少し前のように思われたものが、今日ははや四月六日である。

この頃は海も空も静かで、大気は乾燥しきって軽く澄みきっているためか、昼間は馬鹿に暑苦しく、夕焼けは馬鹿にきれいで、夜中は馬鹿に涼しく露っぽい。

ことに夕焼けの壮大にして艶麗(えんれい)なる風趣は、情緒に富んだ大自然の技巧の一端を示す一大キネオラマ*である。平常見慣れた練習生たちも船縁(ふなべり)に寄りかかっては思わず「いいなあ」とかなんとか、賛美の声をもらしている。練習生の一人の日記には、次のように書かれてあった。

* キネオラマ: パノラマの景色に光線を当てて変化させて楽しむ、明治から大正にかけてはやった興業。語源は「キネマ+パノラマ」。

この海洋(うみ)に輝く雲の色を見れば、はかなきものは若き恋なり。ときどきは日が海に没してまもなく、奇っ怪な形のKの雲が水平線をおおって、呉(ご)でもなく越(えつ)でもなく、どうやら見慣れた羽田の岬の蜃気楼かとも疑われる夕べもある。

雲とは承知で見るが、意識の理と智とをちょっとごまかせば確かに陸影(りくえい)だ。

鈍い頭はこの不思議な情景を前において、半ば修正に引きづられ半ばは実感に脅かされて、現実と幻覚との、想像と実在との、写真と神秘との間に彷徨(ほうこう)する。

菅原道真(すがわらみちざね)の口から吐き出されたザクロの炎のような*深紅(しんく)に染められた雲は、上に向かって爛紅色(らんこうしょく)――朱泥(しゅでい)色――橙紅色(とうこうしょく)――に薄められ、雲と接する蒼穹(そら)の部分も、上から順次に濃い碧瑠璃(へきるり)から藍青色(らんせいしょく)、群青、ヨモギ色と反対に下に向かってぼかされ、崇高(すうこう)にして偉大なる日輪の臨終を飾る下(もと)に、まつげを動かすわずかな時間も与えぬ勢いで、夕暮れの海がまさに一日の多様多種だった様子を刻々と変化させつつ終わりを迎えようとしている。

* ザクロの炎: 左遷され太宰府で死亡した道真は怨霊(おんりょう)となって朝廷をはじめとする人々に祟(たた)りをもたらした――ザクロを口に含み、種を吐き出すと、怨念が炎となって家を燃やした――という故事から。

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現代語訳『海のロマンス』105:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第105回)

二、洋上の練習生たち

いつだったか、セントヘレナを出て間もない頃のことであった。ホカホカと暖かい午後の陽気にそそのかされて、ジメジメと暗い汚い湿っぽい茶箱の巣を出て人声のする方へとおもむろに歩いて行くと、食って、寝て、修業日誌を書いて、ブレースを引くという同じ事の繰り返しをする以外には深刻なる生活の意義を認めぬ洋上の練習生たちが、浮世のせちがらい風はどこを吹くかとばかり、天下泰平に寝そべり返っている。航海中、彼らは決まって十二時から一時までの昼の休みには二番船倉(ハッチ)のまわりに非生産的に円座して、ディズレーリ*のいわゆる「仰視(ぎょうし)せざる青年は俯瞰(ふかん)すべし、上昇せざる精神は匍匐(ほふく)するの運命を免れず」という有名な格言を現実に立証しながら、ガヤガヤと、何かさも愉快そうに話している。いずれはまた例の血の気の多い割には脳みそのうすっぺらな頭脳(あたま)からひねりだすおべんちゃらだろう。

* ディズレーリ: ベンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)は英国の首相を務めた政治家であり作家でもあった人物。

しかし、こんな輩(てあい)でも集団(モッブ)となればなかなか勢力のあるもので、さすが世界に雷名(らいめい)をとどろかした巨頭たる宰相も群衆(モッブ)のためにはずいぶん痛めつけられた例(ためし)もある。さわらぬ神に祟(たた)りなし。ここはこっそりと穏便に通り抜けようと、足下をまわって司厨所(ギャレー)の方へと向かう。と、すばやく気づいた一人が、「こやつは実際に無愛想な動物だな」と口火を切ったのを機会(きっかけ)に、ヤレ無神経だとか、のろまだとか、無気力だとか、いろいろとあまり利益にならぬ言葉が出たのち、とうとう自分の最も嫌いな「馬鹿」という言葉が飛び出した。

いやな心地をさせられた自分は恨(うら)めしさのあまり、その男の顔をつくづくと見てやった。

ところが、どこやら見覚えのあるのも道理、この君子殿(くんしどの)は、先日ジャガイモの一切れを自分の鼻の先ににおわせながら、ご苦労にもメインデッキを三遍連れまわって、タバコにもせず、ぽんと無常にも芋を海の中に投じた不届きの男である。それ以来、芋を食うたびに、この男の顔が眼前に浮かんできて、思わず歯に力が入るのである。

この男が、今デッキに頬杖(ほおづえ)をつきながら、隣の男に向かって、「ね、君、ほら、ギリシャ神話でアポロがダフネを追いかけるときダフネを形容した『恐怖(おそれ)をもった大きな目は黒く潤んで足はしなやかに鹿のごとく速く――』とかいう語(ことば)があるだろう。よくたとえたものだね、まったくこの夢二(ゆめじ)式の大きな黒い目と細いすらりとした足つきは美人の象徴(シンボル)だね」などと、今日は柄にもなく褒(ほ)め立てる。末が恐ろしい。

三、享楽主義者の悪戯(いたずら)

かく理不尽(りふじん)に中途で自分を抑留した連中(モッブ)は徒然(つれずれ)なるままによい暇つぶしの対象物を捕まえたと考えたのか、大喜びで、ヤレ、中甲板のある室(へや)の寝床(ボング)に失敬したとか、士官のサルーンに粗相(そそう)したとか、英語教官の室(へや)でカミソリ用のレザーストラップを食ったとか、さかんに自分の旧悪をあばきにかかる。

とかくするうち、さすがにだじゃれや人笑わせの種もなくなったのか、多くの練習生たちはさもしゃべりくたびれたというように、今度は仰視せる青年の姿勢に戻って、ゆったりとして青い空と品よく前方にふくれだした鼠色(ねずみいろ)の帆とを見上げている。

座が分れて無駄話が種切れとなり、座興の材料の供給が不十分となると、先天的に幇間(ほうかん)の才能を多少とも持っているおっちょこちょいは、必死になって尻すぼみの状況を元に戻すため少しでも挽回(ばんかい)しようとつとめ、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。

かかる輩(てあい)こそ「歓楽の盃(さかづき)を飲んでは幻想に行きつ戻りつする」人種である。「一挙手(いっきょしゅ)も一投足(いっとうそく)も中途半端な」輩(てあい)である。「日々の雀躍(じゃくやく)をもって生の歓喜(よろこび)となし、生の充実となし、意義ある現実の生活となす」輩(てあい)である。自分が楽しければいいという主義を貫徹(かんてつ)するため、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。

ここまで推理してきたとき、はたして享楽主義者をもって自(みずか)ら任じる一人がむんづと自分の尾をつかんだ。

誰でも知っている通り、たいがいの人間は腰のあたりをさすられると非常にこそばゆく嫌な感じがするものである。我輩(わがはい)の尾は、まさにその腰に相当する。そこで自分は余儀なく嫌悪の念をこめた第二低音(テノール)を発声して、そんなことをされるのは不愉快だという意志を十分表明したつもりであった。

しかるに、意外にも、驚きと落胆とに陥(おちい)った余の面前で、不思議にも思わぬ歓声のどよめきが起こった。

「これは面白い。まるで猫と山羊とをかけあわしたような声だ」

「あの波動(リズム)は音階の何調になるのだろう?」

「あんな奇声が表象する心理状態とは、どんな種類だろう、や、実に珍奇だ」

などと、二十五の今日までまだ鹿を見たことのなかった連中が手を打って嬉しがる。

尾をつかんだ享楽主義者は、思わぬ手柄に呆然(ぼうぜん)と本来の悪戯(いたずら)の目的を忘れた。

それは糸くずを小生(それがし)の小さな尾の先に結(ゆ)いつけ、小生が気味わるがって後足でピョンピョンと蹴上(けあ)ぐる様子を、ヤレ面白い、やれ神経過敏な動物だ、とかいって手をたたこうとする下心であった。でなければ、二、三日前のように汚いシャツを頭からかぶせて士官のサルーンに追い込む考えであったに違いない。

しかし、このとんでもない災難も、おりから大声で整列一分前と怒鳴った風下当番(リーサイド)君の声で運よく免(まぬが)れたのは幸福の至りであった。

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