スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (47)

ぼくはこの騒動にひどく驚かされた。というのも、こういうフランスの旅興行の連中とはよく出会っていて、いつも楽しかったからだ。旅芸人の存在は、人生についてしっかり考えようとする者にとっては、それが会社とか商業主義に対する反抗でしかなかったとしても、人生は必ずしもぼくらが続けている普通の暮らしのようなものである必要はない、ということを思い出させるものとして大切なはずだ。ドイツの楽隊が森や草原をめぐる地方公演で早朝に町を出るというだけで、ぼくらの空想にはロマンティックな香りがもたらされる。三十歳以下の者で、ジプシーのテント小屋を見て心をゆり動かされない者はいないだろう。少なくとも「ぼくら全員が紡績業者みたいに経済にしばられているわけではない」し、そういう境遇に首までどっぷりつかりきっているわけでもない。まだいくらかは人間らしさが残っていて、金勘定の損得には拘泥せず、職を投げうってでもバッグ一つで放浪の旅に出ようという若者もいるのだ。

英国人には、フランスのアクロバティックな演芸パフォーマンスをする連中と交流するための特別な場がある。というのも、イングランドは体操の母国とでもいえる国だからだ。体にぴったりのタイツをはき、スパンコールのついた派手な服を着た連中であれば英語の単語の一つや二つは知っているはずだし、英語でいう「ハーフ・アンド・ハーフ」というビールと他の酒をまぜたものを飲んだり、イギリスの演芸場で公演した経験者もいるだろう。つまり、そういう連中は、職業的には、ぼくと同国人なのだ。ベルギーのボートクラブの人々のように、ぼくみたいな者に対しても自分と同じアスリートに違いないと思って仲良くしてくれるのだ。

もっとも、ぼくはプレシーで出会ったタイプの旅芸人はあまり好きではない。演目の構成全体に芸術を感じさせるところが少ないかまったくないし、志が低く地面をはいずりまわっているだけだし、そもそも魂などというものには依存していなくて、そのほとんどが高尚な発想というものにはほど遠いからだ。とはいえ、道化芝居にやっと出演できる程度の駆け出しの役者であったとしても、そういう生き方を選んだ者は、新しい考えにも柔軟に対応することができる。そういう人生を選択した者には、何かしら金勘定以外の考えるべきことが存在する。彼らは自分なりのプライドを持っているし、それ以上に重要なのは、自分では決して達成できないような目標を抱えていたりもするということだ。完璧な演技という目標を実現するまでは終わることのない、いわば生涯続く巡礼に出ているようなものなのだ。一日一日と上達していくこともあるだろうし、あるいはその望みを放棄することもあるだろうが、自分がかつてはそういう高い理想を掲げていたことや、輝くスターに恋こがれていたのを忘れることはないだろう。「恋をしないより、愛して失恋するほうがまだまし」なのだ。月の女神セレーネが美青年のエンデュミオンに一目ぼれせず、彼が普通の娘と結婚して豚を飼っていたとしても*1、月の女神に夢で恋したことのある彼のしぐさにはどこか優美なところが出てくるだろうし、高邁な理想を胸に抱いていたりもするのではなかろうか? 教会で出会う武骨な連中は彼の平凡な妻の方に興味をそそられるかもしれないが、エンデュミオンの心には高貴な思い出が残っていて、それがスパイスのように活力を与え高い矜持をもたらしてくれるのではあるまいか。

芸術の世界の端っこでそれにふれているだけでも、人の表情には立派な刻印が残る。かつてシャトー・ランドンの宿屋で、ある集団と食事をしたことを思い出す。連中のほとんどは明らかに行商人で、他は裕福な農民だったが、一人だけブラウスを着た若者がまじっていて、その顔つきは残りの連中とは明らかに異なっていた。より洗練されていて生気がほとばしり、生き生きと表情豊かで、いろんな物事にも慣れているのがわかった。ぼくと相棒は、こいつ何者だろう、何をしてるんだろうといぶかったものだ。シャトー・ランドンで市場が開かれたときだった。出店を眺めながら進んでいくと、その答えが得られた。というのは、農民たちの踊りにあわせて、彼が情熱的にバイオリンを演奏していたからだ。彼は吟遊詩人のごとく各地を放浪しながらバイオリンを演奏していたのである。

脚注
*1: ギリシャ神話では、月の女神セレーネが山野で眠っている羊飼いの美青年エンデュミオンに恋をし、夜ごと彼の夢に入りこみ、五十人もの子をもうける、という展開になる。
エンデュミオンは人間でありながらセレーネの願いで眠ったまま不老不死の存在となるが、仮にセレーネと恋仲にならなくても、月の女神と愛し合ったという思い出だけで、その後の人生を気高くいきていけるのではないか、というのが若き日のスティーヴンソンの感慨。
ちなみに、美少女戦士セーラームーンは、このセレーネにまつわる神話が下敷きになっている。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (46)

プレシーと人形芝居

プレシーには夕方に着いた。このあたりの平原にはポプラが生い茂っていた。オアーズ川は夕日をあびて輝き、大きなカーブを描いて丘陵地帯のふもとを流れている。薄い霧がかかりはじめ、距離の検討がつきにくくなった。川沿いの牧草地のどこかから聞こえてくる羊の鈴の音と、丘を下っている長い道を進む一台の荷車のきしむ音の他には、何も聞こえてこない。庭に囲まれた館や通り沿いの店はすべて、前日に見捨てられたばかりのように思えた。静かな森の中にいるときのように、あまり音をたてずに歩かなければという気がしてきたほどだ。ところが、角を曲がると、いきなり芝生に囲まれた教会でクロッケーをしているパリジャン風の恰好をした娘たちに出くわした。娘たちの笑い声やボールとスティックの当たる乾いた音が、近隣に陽気に響いている。コルセットをつけリボンで飾ったスリムな娘たちを見てしまうと、ぼくらの心も揺り動かされた。パリの香りのするところまで来たという感じがした。プレシーが旅行先のおとぎの国ではなく、現実に生活の場所であることを示すように、ぼくらと同類の、クロッケーをしている人々がそこにいた。正直に言うと、農家の婦人たちは女として勘定に入れにくいし、そういう婦人たちが下着姿で畑を耕していたり料理をしている様子をずっと見てきたものだから、ちゃんとした服装でクロッケーをしている集団は異質で、のどかな風景から浮き上がっている感じがして、ぼくらもすぐにおばかな男子に戻ってしまった。

プレシーの宿屋はフランスで最悪のものだった。スコットランドでも、こんなひどい料理は食べたことがない。どちらもまだ十代のような兄妹がやっていた。妹の方が食事らしきものを作り、どこかで酒を飲んでいたらしい兄が、これもほろ酔いの肉屋を連れて入ってきて、ぼくらが食事をする間の相手をしてくれた。サラダには生ぬるい豚肉が入っていたし、シチューには正体不明の、形が変わる妙なものが浮いていた。肉屋はパリの生活はよく知っていると言っていたが、その話でぼくらを楽しませてくれた。その間、兄の方はビリヤード台の端に座って、不安定に倒れそうになったりしながら葉巻の残りをちびちび吸っている。そうやってわいわいやっている最中に、ドンという太鼓の音が家の前で鳴り、誰かのしわがれ声が何かの口上を述べはじめた。人形芝居の男が、その晩の出し物をふれまわっているのだった。

少女たちがクロッケーをやっていた芝生とは別のところにある、フランスでよく見かける市場用の壁のない屋根だけの小屋に舞台がしつらえてあり、ろうそくがともっていた。ぼくらがそこまで歩いていくと、興行主たちは客を迎える準備にかかっていた。

その場所では、なんともバカらしい問題が起きてしまった。興行側では一定数のベンチを並べていて、それに座った人は観劇料として二スー*1を支払うことになっていた。すぐに満席になり──とにかく人が多い──前には進めなくなる。興行主の女房が集金に出てくると、タンバリンの音が聞こえたとたん、客は座席から立ち上がり、ポケットに手を突っこんだまま素知らぬ顔で外に出てしまう。こんなことをされたら天使だって怒るだろう。興行主が舞台の上からどなった。俺はフランス全土をくまなくまわってきたが、どこでだって、そう「ドイツとの国境に近いところでだって」こんなひどい真似をする連中には出くわしたことがない、と。そうして彼は、この泥棒め、詐欺師め、悪党めと叫んだ! 集金にまわった女房も甲高い声で口論に応戦した。他の場所でも同じだったが、相手を侮辱する語彙が女にはどれほど豊富で、とんでもない毒舌を吐けるものかということを、ぼくはここでも述べておきたい。客たちは興行主の熱弁には愉快そうに笑っていたが、女の痛烈な攻撃に対してはむっとして叫び返した。男連中の痛いところをついたのだ。彼女にかかれば村の評判もかたなしだ。彼女に反論する連中の声が聞こえてはくるものの、すぐさま倍返しされていた。ぼくのそばにいた二人の老婦人はお金を払って着席していたのだが、顔を真っ赤にして憤慨し、こうした興行の下品な振る舞いについて、わざと聞こえるように声高に話しはじめた。すると、それを耳にした興行主の女房はその老婦人たちのところまでさっと下りてきて、お上品な奥様方から、この地元の人たちにもっと正直に行動するよう説得していただければ、あたしら芝居小屋の者も、もっとお上品にふるまえるんですけど、と述べた。老婦人たちはたぶんその晩は腹いっぱいの食事をしワインも飲んでいただろうし、芝居小屋の連中だって食事は好きだし、わずかな儲けをみすみす目の前で盗まれるようなことをさせるつもりはなかった。というわけで、興行主と若い観客との間でつかみあいの喧嘩になり、興行主は人形劇で人形が投げ飛ばされるように簡単に突き飛ばされ、どっと冷笑をあびた。


脚注
*1: スーはフランス革命前の貨幣の単位(補助通貨)で、2スーは10サンチーム(1フランの10分の1)に等しい。なお現在、フランは欧州連合の成立にともないユーロに移行している。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (45)

しかし、クレーの教会には、愚かというよりもっと悪いものが掲示されていた。それまで耳にしたことはなかったのだが、リビング・ロザリオの会という団体があって、そこがやっていることだった。貼ってあるポスターによれば、この会は一八三二年一月十七日、グレゴリウス十六世の書簡によって設立されたという。教会の彩色されたレリーフに描かれているところでは、それとは別のあるとき、聖母マリアがロザリオを聖ドミニクに与え、幼児だったキリストが別のロザリオをシエナの聖カタリナに与えたことにより設立された、とある。聖母や救世主自身に比べると教皇グレゴリウスでは印象が薄くなってしまうが、事実としてはこっちの方が近いだろう。この教会が純粋に信仰上のものなのか、慈善行為を目的としているのかについては、はっきりとはわからなかった。少なくとも非常に組織化されていて、月当番の週ごとに担当として十四名の既婚婦人や未婚女性の名前が記入されていた。たいていは、そのグループの責任者として、先頭に既婚婦人一名の名前が記されていた。その協会の義務を果たすと、罪の全部または一部が許されるらしい。「ロザリオの祈りをささげると罪の一部は許される」「ロザリオの祈りを必要な回数だけとなえる」ことで罪の一部がすぐにも許される、というのだ。人々が自分の罪を消すため、預金通帳の残高を気にするように神に奉仕するというのであれば、そうした打算的な意識というものは必ずや人との接し方にも現れてくるだろうし、となれば人間の生活そのものが、なんとも悲しく、あさましいものになりさがってしまうのではないかと不安にならざるをえない。

とはいえ、もっとましなことも一つ書かれていた。「こうした罪の償いが免除されるという仕組み」は、すでに煉獄に入ってしまった人の魂にも適用できるらしいのだ。だったらお願いだから、クレーの婦人たちにはそのすべてをすぐに煉獄にいる魂に適用してもらいたい! スコットランドの国民的詩人だったロバート・バーンズは純粋な愛情で祖国に奉仕することを選び、晩年の詩については報酬を受け取らなかった。彼女たちは、生活のため収税吏を務めていたこの詩人の真似をしてみてはどうだろう。そうしたからといって煉獄にいる人々の魂の状態がさほど改善されるわけでもあるまいが、オアーズ川流域に住んでいるクレーの人々には、現世でもあの世でも今以上に悪い扱いを受けなくてすむ人が出てくることだろう。

航海中の日誌を元に原稿を書きながら、生まれも育ちもプロテスタントであるぼくが、こうしたポスターを理解し、その価値に見合う正しい対応ができるのかと問われれば、ぼくにはその資格はないと答えざるをえない。ぼくと同じように、こうしたことがカトリックの信者にとっても醜悪で侮辱的だと感じられるとは思えないからだ。このことは、ユークリッド幾何学の問題と同じくらいに明白だ。というのも、これを信じている人たちは弱いわけでも邪悪でもない。彼らは、まるで聖ヨセフがまだ村の大工ででもあるように、この聖人の使命を銘板に掲げ、「必要な数のロザリオの祈りをささげ」ていて、それであたかも神に対して誇れる仕事をしたかのように免罪を手にし、教会の外では、このすばらしい川の流れを平然とながめ、オアーズ川よりはるかに大きな川を集めたよりもずっと大きな宇宙の星々を胸を張って見上げることができているのだ。プロテスタントであるぼくの目には見えず、ぼくが夢見ているものより気高くて宗教的にも深い精神を持つ、ぼくとは違う人々が存在するのは間違いないだろう。

こうした人々は、ぼくのような人間に対しても同じように許しを与えてくれるだろうか! クレーの婦人たちのように、ぼくが寛容というロザリオの祈りをとなえれば、ぼくにもすぐに罪の許しが与えられますように。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (44)

昼食のために立ち寄ったクレーでは、水上に浮かんでいる洗濯台にカヌーを係留した。正午だったので、赤い手をした声の大きな洗濯女たちがいっぱい来ていて、彼女たちの遠慮のない冗談だけがこの地の記憶として残っている。読者が気になるのであれば、本を調べてこの地の歴史上の出来事を一つか二つ紹介することもできないことはない。イギリスとの長く続いた戦争でもよく出てきた町だからだ。とはいえ、ここでは、ぼくは全寮制の女子校のことを書いておこう。女子校ということでぼくらも興味があったし、生徒たちもぼくらに興味しんしんだった。少なくとも、校庭付近に少女たちがいて、ぼくらは川でカヌーに乗っていて、通過するときにハンカチを振ってくれたりしたのも一人や二人ではなかったということだ。そのことでぼくの胸は高鳴ったのだが、ぼくらがクロケットの試合か何かで出会ったのであれば、彼女たちもぼくらも互いにうんざりして相手にしなかったはずだ! ぼくは、こういう出会いが好きなのだ。二度と会うことのない相手に投げキッスをしたりハンカチを振ったりして、頭の中であれこれ想像をふくらませるのである。それは旅行者にとって刺激になるし、どこでもたえず自分は旅の者というわけではないこと、さらに自分の旅が現実の生活が進展していく途中の昼寝のようなものだということを思い出させてくれるのだから。

クレーの教会の内部には特に目立つものはなかった。窓のステンドグラスからあふれた派手な色彩が彫りこまれた悲劇が浮かびあがらせていた。ぼくをとても楽しませてくれたものが一つあった。運河を航行する船の忠実な模型が丸天井から吊り下げられていたのだ。クレーの聖ニコラス号を天国へと導きたまえという願いが書かれていた。その模型はよくできていて、水辺で遊んでいる少年たちがもらったら喜びそうなものだった。しかし、ぼくが面白いと思ったのは、それによって想起される危険の程度だ。大海原を航海する船の模型を吊るすのは問題ないし受け入れられもする。世界各地に航路を刻み、熱帯や極寒の地を航海して危険にさらされるというのであれば、大海原を航行する船の模型を吊るしてもよいし歓迎もされるかもしれない。熱帯や凍てつく極地を訪ねるのだから、ローソクやミサをささげる価値もあるだろう。だが、クレーの聖ニコラス号は、草が生い茂りポプラの枝が頭上におおいかぶさっているような運河をおとなしい馬に引かれて何十年もすごすのであって、船長は舵をとりながら口笛だって吹いていられる。しかもそうした航海はすべて、緑の陸地で展開され、航行中もずっと村の鐘楼から見えているのだ。なにも神様に願わなくても実現できそうなことではないか! おそらくは船長はユーモアを解する人だったか、ある意味の預言者で、このありえない奉納品で人々に人生の厳しさを思い出させようとでもしたのだろう。

クレーでは、ノアイヨンのときと同様に、律儀な聖ヨセフに人気があるようだった。日付も時間も指定できるからだ。祈りがタイミングよく報われた場合、それに感謝した人々はたいていは奉納額にその内容を書き記していた。時間が大切な願かけには聖ヨセフが適任というわけだ。この聖人の果たす役割は、ぼくの故国、イギリスの宗教界では非常に小さいので、こうしたフランスでの人気について興味深く感じた。だが、一方で、この聖人について、きっと願いをかなえてくれるとこれだけ強く信じられていると、この聖人の方でもこうした奉納額に感謝するよう求められているのではないかと危惧せざるをえない。

こういうことは、ぼくらプロテスタントには馬鹿げたことだし、いずれにしても重要ではない。自分に施された恩恵に対する人々の感謝が賢明に受けとられているのか、疑わしく表明されているのかは、結局のところ、人々が感謝している限り二次的な問題にすぎない。本当の無知というのは、自分が恩恵を受けたことを知らなかったり、自力で勝ちとったと思いこんでいる場合だ。自分の腕だけで成功したという者の自慢話ほど滑稽なものはない! 混沌の中に光を示すことと、都会の片隅で特許品のマッチでガスを点灯させるのとでは、明らかな違いがある。ぼくらが何をしようとも、ぼくらの手には、たとえ指だけであっても、必ず何かが施されているものなのだ。