スナーク号の航海(75) - ジャック・ロンドン著

第十五章

ソロモン諸島の航海

「一緒に来ないか」と、ヤンセン船長がガダルカナル島*1のペンドュフリンで、ぼくらを誘ってくれた。

チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせ、三十秒ほど無言で話し合った。それから二人同時にうなづいた。これが、ぼくらが物事を決めるやり方だ。最後のコンデンスミルクの缶をひっくり返したときに泣かずにすむ、うまい方法だと思っている(ぼくらはこのところ缶詰ばかり食べている。心は物質に左右されるというが、ぼくらは当然いろんな缶詰に左右されている。

「拳銃一丁とライフル二丁も持ってきたほうがいいぜ」とヤンセン船長が言った。「俺は船に五丁のライフルを積んでいる。モーゼル銃一丁には弾が入れてないけどな。予備はあるかい?」

ぼくらも船にはライフルを積んでいた。モーゼル銃の薬包もだ。スナーク号でコックと給仕をしてくれているワダとナカタもそれぞれ持っている。ワダとナカタはちょっとおじけづいている。控えめに言っても乗り気ではなく、ナカタは臆病風に吹かれているのが顔色にも見てとれた。ソロモン諸島で彼らはきつい洗礼を受けていたのだった。最初の地ではソロモン病とでもいうべき痛みに苦しめられた。ぼくらも苦しんだのだが、この二人の日本人の場合はとくにひどかった。二人には昇汞(しょうこう)*2で手当てをしたが、この痛みはやっかいだった。ひどい潰瘍になってしまうのだ。蚊に刺されただけだが、傷口や掻(か)いたところに毒がたまり、ふくれてくる。この潰瘍はすぐに拡大する。すごい早さで皮膚や筋肉をむしばんでいく。一日目は針の先ほどだった傷が二日目には十セント硬貨ほどになり、一週間後には一ドル硬貨でも隠せないほどの大きさになった。

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ソロモン諸島でよく見かける海岸風景

この痛みよりひどいのは、この二人の日本人が熱帯性マラリアにかかったことだ。それぞれ何度も倒れたし、身体も衰弱した。多少は回復してくると、スナーク号の端の方で身を寄せ合い、はるかかなたの日本の方角を望郷の念をこめて眺めていた。

とはいえ、最悪なのは、彼らが今は、マライタ島の原始の海岸沿いに人を運ぶミノタ号の船上にいるということだった。二人のうちでもワダの方がおじけづいていたが、自分は二度と日本を見ることはできないと思いこみ、暗く希望のない目をして、ぼくらのライフルと弾薬がミノタ号に積みこまれるのを見ていた。彼はミノタ号とマライタ島への航海がどんなものなのか知っていたのだ。この船が六ヵ月前にマライタ島の海岸で捕らえられたこと、船長が斧で切り殺されたこと、を。そのすてきな未開の島では、それ以前にも二人の船長が犠牲になったこと、ペンデュフリン農園で働いていたマライタ島の少年が赤痢で死んだこと、さらにペンドュフリンでは別の船長もマライタ島で犠牲になったことについても、彼は知っていた。しかも、ぼくらの荷物は狭い船長室にしまいこんであったのだが、意気揚々と乗りこんできた野蛮な連中が武器の斧でドアにつけた傷跡も彼は見てしまった。最後につけ加えると、調理室のコンロには配管すらなかった。略奪されたのだ。

ミノタ号はチーク材で作られたオーストラリアのヨットだった。二本マストの後ろのマストが低いケッチで、長く細身で、深いフィンキールを持ち、未開の地を航海するというよりは港内でレースをするのに適した設計だった。チャーミアンとぼくが乗船すると、船には人があふれていた。船の乗組員は代理を含めて十五人。それに二十人以上の「帰省する」少年たちがいた。農園で働いていて自分の村に戻るのだ。見た目からすると、連中は確かに首狩り族だった。鉛筆ほどの大きさの骨と木製の千枚通しのようなもので鼻に穴を開けていた。多くは鼻柱に穴を開け、亀の甲羅や固い針金に通したビーズを吊していた。さらに唇から鼻にかけての曲線に沿って穴をいくつも開けた者までいた。連中の耳には、それぞれ二つから一ダースほどの穴が開いていた。直径三インチの木栓でも通るくらいの大きさがあり、土で作ったパイプやそれに類するものをつけている。実際に穴が多すぎて、飾りの数が不足していた。翌日、マライタ島に接近すると、ぼくらはライフルを取り出し、ちゃんと使えるか確かめたのだが、空になった薬莢(やっきょう)をめぐる争奪戦が展開され、こうした乗客の耳の穴の飾りになった。

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ガダルカナル島マラボボの海岸

ライフルを実際に使うような場面に備えて、ぼくらは有刺鉄線の柵を設置した。ミノタ号は甲板はドッグハウス*3がなく平らで、外周を六インチの高さの手すりで囲ってあるので、乗りこみにくくなっている。その手すりの上に真鍮製の支柱をねじ止めし、二列の鉄条網を船尾からぐるっと一周させて船尾まで張り巡らせた。野蛮な連中から保護するという点では非常にうまくいったが、船に乗っている側の立場としては、およそ快適とはいえなかった。航海中にミノタ号が波の上下に合わせて大きく揺れるからだ。有刺鉄線を張った風下側の手すりまで滑り落ちるのは好きになれないし、滑り落ちたくないと風上側の手すりにつかまろうとしても、そっちにも有刺鉄線があるのだ。どっちも嫌だし、船の傾きもさまざまで、滑りやすい平らな甲板上にいるときに船が四十五度傾いたりするのだ。ソロモン諸島の航海の楽しさがわかってもらえるだろうか。おまけに、有刺鉄線まですべり落ちることで受ける罰は、単なるひっかき傷ではすまないということも忘れてはならない。そうした傷は必ずやひどい潰瘍になってしまう。注意していても有刺鉄線からは逃れられないということの証拠がある。ある晴れた朝、ぼくらは斜め後ろからの風を受けてマライタ島の海岸沿いに進んでいた。風はやや強く、海は安定していたが波が立ちはじめた。一人の黒人の少年が舵をとっていた。ヤンセン船長とヤコブセン航海士、チャーミアンとぼくは甲板で朝食をとっていた。三つの異常に大きい波がおそってきた。舵を握っていた少年は頭が真っ白になってしまった。その三度とも、ミノタ号の甲板は波に洗われた。ぼくらの朝食は風下側の手すりを乗りこえて流れ去った。ナイフやフォークも排水口に消えた。船尾にいた少年の一人が落水し、引き上げられた。ぼくらの勇猛な艇長は有刺鉄線にはさまれ、体の半分が船外に落ちかけていた。その後の航海では、ぼくらは原始共産制よろしく、残っていた食器を使いまわした。ユージニー号ではもっとひどい目にあった。というのも、ぼくら四人にスプーンが一つしかなかったからだ──とはいえ、ユージニー号については別の機会に譲ろう。

脚注
*1: ガダルカナル島はソロモン諸島で最大の島。第二次大戦中に日本軍と連合国軍の激戦の舞台だったことでも知られる。

*2: 昇汞(しょうこう)は、塩化第二水銀ともいう。かつては消毒液などとしても使用されたが、毒性が強いので、現在は治療には使用されていない。

*3: ドッグハウスは、甲板下の船室の高さを確保するため甲板に突き出た部分。犬小屋に見立ててこう呼ぶ。

スナーク号の航海(74) - ジャック・ロンドン著

それから、南にはアトナム島が海から突き出し、北にはアニワ島、正面にはタンナ島があった。タンナ島を見誤る可能性はなかった。火山の煙が空高く立ち上っていたからだ。四十海里離れていたが、ずっと六ノットの速度を維持していたので、午後にはさらに接近した。山ばかりで、もやもかかっていたし、海岸線に進入できそうな開口部があるとは思えなかった。ぼくはポート・レゾリューションを探した。港として機能しなくなったとは聞いていたが、泊地にできればと準備をしていたのだ。火山性の地震のため、過去四十年間で海底が隆起し、かつて大型船が錨泊していたあたりは、最近の報告では、スナーク号くらいの船でやっと停泊できるくらいの広さと水深しかないという。最後の報告以降に、港が完全に封鎖されてしまうような天変地異でもあったのだろうか。

海岸に切れ目はない。接近してみると、貿易風を受けて押し寄せた波が岩場に砕け散っていた。双眼鏡で遠くまで調べてみたが、進入口は見つからない。ぼくはフトゥナ島とアニワ島の方位をとって海図に記入した。二本の方位を示す線の交わるところがスナーク号の位置になる。そこから、平行定規*1を使い、スナーク号の位置からポート・レゾリューションまでを結ぶ線を引いてみた。この線の方位角を偏差と自差で補正して甲板へ出た。が、その針路が示す方向に目をやっても、海岸に打ち寄せる波はどこまでも続いていて、切れ目は見えなかった。船を海岸から二百メートルまで近づけたので、ラパ島出身のクルーが不安がっている。

「ここに港はないよ」と、彼は頭を振りながら言った。

しかし、ぼくはコースを変え、海岸と平行に走らせた。舵はチャーミアンが握っている。マーティンはエンジンのところで、いつでも始動できるよう待機していた。いきなり狭い開口部が見えた。双眼鏡で調べると、そこにだけ波が入りこんでいる。ラパ島出身のヘンリーは当惑しているようだった。タハア出身のタイヘイイも同様だ。

「通路なんてないよ」と、ヘンリーが言った。「あそこまで行ったら座礁するよ、必ず」

白状すると、ぼくもそう思った。だが、進入口のところで白波が切れていないか探しながら、そのまま走らせた。すると、そこにあった。狭いが、そこだけ海面が平らだった。チャーミアンは舵を切り、進入口に向けた。マーティンはエンジンを始動させた。他の全員で帆をとりこんだ。

湾曲部に一軒の交易商人の家が見えた。百ヤードほど離れた海岸では間欠泉が海水を噴き出している。小さな岬をまわると、左手に伝道所が見えてきた。

「三尋(ひろ)」*3と、測鉛線で水深を測っていたワダが言った。

「三尋」「二尋」と、すぐに続いた。

チャーミアンが舵を切り、マーチンはエンジンを止め、スナーク号は投錨した。錨はがらがら音を立てて三尋の海底に落ちた。ほっとするまもなく、大勢の黒人が姿を見せ、船に乗りこんできた。ニコニコした野性味丸出しの連中で、髪は縮れ、困惑したような目をし、切り込みを入れた耳にはピンや粘土の輪をつけている。それ以外は素っ裸だ。その夜、全員が寝ているときに、ぼくはそっと甲板に出た。そして静かな風景を満足して眺めた──そう、満足して、だ──自分の航海術に。

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大挙して乗りこんできた連中
脚注
*1:平行定規は海図に引いた線を、角度を維持したまま平行移動させるためのもの。日本では大きな三角定規を二枚使って平行線を引くことが多い。
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*2:尋は水深の測定単位で六フィート(大人が両手を広げた長さ)。尋は英語のfathomの訳として使われるが、どちらも人体の部位に基づく単位なので、語源は違うのに結果として長さがほぼ等しくなるのが面白いところ。似た例として、船の大きさ(長さ)を示す単位の尺とフィート、さらに寸とインチも手指や足の大きさに由来し、洋の東西を問わず、ほぼ同じ長さになっている(国や時代によって正確な長さは変化してはいる)。

*3:測鉛線は長いヒモの先端に錘をつけたもので、長さの目印として途中に色をつけたり布片を結んだりしてある。これを海中に投じて水深を測る。錘の先端に凹みがつけてあり、ラードなどの獣脂を詰めておくと、海底の様子(砂か泥かなど)がわかる。
hand-lead-line

 

スナーク号の航海 (73) - ジャック・ロンドン著

しかし、まだ問題はある。六月十日水曜日の夕方、正午に観測した位置と、その後の実際の速度と針路から午後八時の位置を推定した。その上で、スナーク号をニューヘブリディーズ諸島の最東端にあるフトゥナ島に向けた。この島は円錐型の火山で深海から標高二千フィートまで隆起している。この島から十キロほど北を通過するよう針路を変更したのだ。それから毎朝四時から六時まで操舵を担当するコックのワダに声をかけた。

「ワダさん、明朝のワッチは、しっかり見張っててよ。風上側に陸が見えるはずだから」

それからぼくは寝床に入った。賽(さい)は投げられたのだ。ぼくの航海士としての信用は危険にさらされていた。想像してほしい、夜明けに陸なんか見えなかったときのことを。そのとき、航海士としてのぼくの立場はどうなる? ぼくらはどこにいることになるのだろう? どうやって自分の位置を見つければいい? どうやって島を見つければいい? スナーク号が幽霊のような姿で、島を探して何もない大海原を何ヶ月も放浪している様子が目に浮かんだ。食料は食いつくし、ぼくらはげっそりとやせ衰え、その顔には互いに相手を食いたいという願望が浮かんでいるのだ。

ぼくは自分の眠りが「…ひばりの鳴き声が聞こえてくる、夏の空のように」と、詩にうたわれているようなものではなかったことを告白しておく。

というより「無言の闇に目を覚まし」て、バルクヘッドがきしむ音やスナーク号が時速六ノットで着実に進んでいく波きり音を聞いていた。ぼくはミスをしなかったか計算を何度もやり直したが、しまいには頭がぼうっとしてきて、なにもかもミスだらけに思えてきた。自分の天文観測がすべて間違っていて、フトゥナ島まで六十海里ではなく、わずか六海里しかなかったらどうなるだろう? どっちの場合でも針路が違っているかもしれないし、スナーク号はまっすぐフトゥナ島そのものに向かっているかもしれない。スナーク号はいまにもフトゥナ島に激突するんじゃなかろうか。そう思うと、いてもたってもいられず飛び起きたい衝動にかられる。が、かろうじて我慢した。いまにもぶつかるんじゃないかと、その瞬間を、今か今かとどきどきしながら待つしかなかった。

ひどい悪夢で目がさめた。地震の方がよほどましなくらいで、請求書を持った男が一晩中ぼくを追いかけまわすのだ。しかも相手は攻撃的で、チャーミアンは相手にするなと絶えずぼくを抑えていた。しかし、仕舞いには、しつこい借金取りの夢からチャーミアンの姿がなくなった。チャンスだ。堂々と立ち向かおう。歩道や通りを勇んで歩いていると、相手はもう結構と叫んだ。ぼくは「あの請求書はどうなったんだ?」と聞いた。自信を取り戻し、全額を払ってやるつもりだった。すると、その男はぼくを見て「ぜんぶ間違いだった」と、うめくように言ったのだ。「請求書は隣の家のだった」と。

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サモアの警官

借金取りの問題はそれで解決した。もう夢には現れなかった。ぼくの方はといえば、目がさめて寝床に座ったまま、この夢を思い返し、心底ほっとした。午前三時だった。甲板に出てみた。ラパ島出身のヘンリーが舵を持っていた。航海日誌に目を通した。四十二海里走破していた。スナーク号の六ノットという速度は落ちていなかったし、フトゥナ島に衝突してもいなかった。五時半すぎに、また甲板に出てみた。舵を握っていたのはワダで、まだ島影は見えないと言った。ぼくはコクピットの縁に腰かけて、十五分ほど疑心暗鬼にかられていた。そのうちに陸が見えてきた。小さな山頂だけだったが、予測した場所に予測した時間通りに舳先(へさき)の風上方向の海面に出現したのだ。六時には、フトゥナ島の美しい円錐形をした火山がはっきり見えてきた。八時、島は正横にきた。六分儀で距離を測った*1。九・三海里離れていた。どうやら十海里という試験には合格したようだ!
脚注
*1: 六分儀は水平線からの天体の高度を測るものだが、測量でも用いられているように、標高のわかっている島(山)の高さを測定すると、簡単な三角関数の計算でそこまでの距離もわかる。

島までの距離を x 、測定した角度をθ、島の高さをhとすると
Tanθ= h / x  だから x = h / tanθ

また、その応用として、灯台の光がどこまで届くか(どれくらい近づいたら灯台の光が見えるようになるか)を示す光達距離という概念がある。

これも覚えておくと便利。

地球は球形で海面は平面ではないため、光の屈折率など自然条件に左右されるので、光学的光達距離、名目的光達距離、地理的光達距離とあるが、現実には地理的光達距離を用いる。

灯台(あるいは島)の高さをH(m)、観測する者の眼高をh(m)とすると、
距離は、それぞれの平方の和に係数 2.083をかけたものになる。

灯台(あるいは島)までの距離(海里)= 2.083(√h + √H)

(高さの単位はメートル、距離の単位は海里)

スナーク号の航海 (72) - ジャック・ロンドン著

それ以外にもトラブルや疑問がぼくを待ち構えていた。たとえば、こういう問題だ。南半球で、太陽が北の方向にあるとき、クロノメーターを使った天測を早朝に行うことができる。ぼくは午前八時に観測した。この観測で必要な要素の一つは緯度だ。正午に子午線南中時を観測すれば緯度がわかるのだが、午前八時に観測で位置を出すには午前八時の緯度が必要になるのは言うまでもない。むろん、スナーク号が時速六ノットで真西に進んでいるのであれば、四時間後も緯度は変化しない。真南に進んでいれば、緯度は二十四海里の距離分だけ変化する。この場合は十二時の緯度から簡単な足し算か引き算で午前八時の緯度が得られる。だが、スナーク号が南西に航海しているとしたらどうだろう。そこでトラバース表の出番になる*1。

具体的な話をしよう。午前八時、ぼくは観測を行った。同時に、航海記録に書いてある帆走距離もメモした。正午の十二時に太陽を観測して緯度を求めた。ここでも航海記録のデータをメモした。それによれば、スナーク号は八時の地点からは二十四海里進んでいた。針路は西四分の三南である。ぼくは四分の三ポイントのコースを記載したページの距離欄の表Iで、航海距離を示す二十四のところを見た。表の反対側の二つの欄では、スナーク号が南に三・五海里進み、西には二十三・七海里進んだことになっている。これがわかれば、午前八時の自分の居場所を知るのは簡単だ。緯度については正午の緯度から三・五海里を引けばよい。要素はすべて出そろったので、ぼくは経度にとりかかった。

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黒いダイアモンド:サモア諸島サバイイ島の娘たち(上の中央はロンドン夫人のチャーミアン)

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求めるのは午前八時の経度だ。八時から正午まで二十三・七海里西に進んだことになっている。とすれば、正午の経度はどうなるのか? ぼくは所定の手順に従ってトラバース表のIIを見た。手順に従って表を見ていくと、四時間の経度の差を距離に換算すると二十五海里になるとわかった。またもやがく然となってしまう。机に向かって決められた手順で何度調べても測定した経度の差は二十五海里になってしまうのだ。お手上げだ。後は寛容なる読者の手にゆだねよう。もし君が二十四海里の距離を航海し、緯度の計算で(南北に)三・五海里進んだとする。そのとき、どうすれば経度で(東西に)二十五海里も進むことができるのだろうか? 仮に緯度は変化させずに真西に二十四海里進んだとしても、いったいどうすれば東西方向に二十五海里も進めるというのだろうか? 人間が論理的に考える存在である限り、帆走した総距離プラス一海里もの経度を進むことが、どうすれば可能になるのだろう?

使ったトラバース表は定評のあるもので、ほかならぬバウディッチの本だ。(航海術の規則がそうであるように)計算に使うルールは単純だった。ぼくが間違ったということではない。この問題で一時間も悩んでしまった。進んだ距離は二十四海里のはずなのに、どうしても緯度で三・五海里、経度で二十五海里も進んだ計算になるのだ。最悪なのは、誰も助けてくれる者がいないということだ。チャーミアンもマーティンも、航海術の知識はぼくとどっこいどっこいだ。しかも、その間もスナーク号はずっとニューへブリディーズ諸島のタナ島に向かって進んでいるのだ。何とかしなければならなかった。

その思いつきがどうやって浮かんできたのかわからないのだが、インスピレーションとでもいうのだろうか。ふとひらめいた。南に向かうことが緯度をかせぐことになるのであれば、西に向かうことは経度をかせぐことになるはずではないか? 西に進むのをいちいち経度に変換しなければならない理由は何だろう? すると、ぐっと視界が開けてきた。赤道では経度一度は距離にして六十海里である。極地では一点に集まっている。とすれば、ぼくが北極に到達するまでに経度百八十度を航海する必要があり、グリニッジの天文学者が経度ゼロを北極点までそのまま北上したとすれば、ぼくらが数千海里離れていたとしても互いに北極に向かって出発し握手をすることができるはずだ。話を元に戻すと、経度一度の幅は赤道で六十海里の距離になるのだが、同じ経度一度でも、北極ではそんな幅は存在しない。となれば、北極と赤道の間のどこかに幅が半海里のところや一海里のところがあるだろうし、十海里や三十海里、六十海里のところもあるはずだ。

[写真]
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村の娘たち(サモア諸島のサバイイ島)

すべてがまた明白になった。スナーク号は南緯十九度にいた。この場所の地球は赤道ほど大きくないのだ。だから、南緯十九度で西進すると、一海里ごとに経度で一分を超えてしまう。経度一度は六十海里で、一度は六十分だが、この六十分は赤道付近においてのみ六十海里の距離になる。ジョージ・フランシス・トレイン*2はジュール・ベルヌの記録を破った。しかし、ジョージ・フランシス・トレインの記録を破りたい者がいれば、誰にでも可能だ。高速蒸気船に乗ってホーン岬と同じ緯度をそのまま真東に進むだけでいい。高緯度では地球の経線間の距離はぐっと縮まっているし、避けなければならない陸地もない。その蒸気船が十六ノットを維持していれば、わずか四十日で地球一周できるだろう。

 

[脚注]
*1: トラバース表 - 航海で針路と緯度がわかれば目的地までの距離がわかるようにした表。二点間の距離は簡単な三角関数で計算できるが、その計算結果を一覧表形式にまとめたもの。

*2: ジョージ・フランシス・トレイン(1829年~1904年) - 高速のクリッパー型帆船による外洋航路や大陸横断鉄道の開発を行ったアメリカの実業家。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は彼の世界旅行にヒントを得て、主人公のフィリアス・フォッグのモデルはトレインだとされる。なお、時系列で整理すると、ベルヌの本の出版はトレインの旅行が話題になった数年後なので、ジョージ・フランシス・トレインが八十日間世界一周という本の記録を破ったというのは、航海記の執筆から四十年ほど前の話で著者の記憶違いかもしれない。

スナーク号の航海(71) - ジャック・ロンドン著

こうした激しい自問自答が続いて頭はくらくらするし、ぼくは今日がいつなのかもわからなくなった。

スバのハーバーマスターが別れ際に言った忠告を思い出した。「東経では航海暦*1から前日の値をとるんだよ」

新しい考えが浮かんだ。ぼくは日曜と土曜の均時差を修正した。二つを別々に計算して結果を比べると、なんと○・四秒の差しかなかった。ぼくは生まれ変わった。堂々巡りの袋小路から抜け出す道を見つけたのだ。スナーク号はぼくの体や経験をかろうじて支えるほどの大きさしかない。〇・四秒を距離に換算すると一海里の十分の一にすぎず、わずか二百メートルほどではないか!*2

それから十分間ほどは幸せだった。偶然に航海士のための次のような箴言を知るまでは。

グリニッジ時の方が遅ければ
東経
グリニッジ時の方が早ければ
西経*3

ふむふむ! スナーク号の時間はグリニッジ時より遅くなっている。グリニッジで八時二十五分のとき、スナーク号の船上ではまだ八時九分だった。「グリニッジ時の方が早ければ西経」なのだ。西経にいることは間違いない。

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サモア諸島のサバイイ島の村娘

「ばっかじゃねえの!」と、ぼくの頭の固い方が叫んだ。「あんたは午前八時九分で、グリニッジは午後八時二十五分だろ」

「むろんそうだ」と、ぼくの理性が答える。「正確に言うと、午後八時二十五分は二十時二十五分だ。つまり、八時九分よりは確かに早い。議論の余地はない。西経にいるんだ」

すると、ぼくの頭の固い方が勝ち誇る。

「ぼくらはフィジーのスバから出帆したんじゃなかったっけ?」と。理性が同意する。「スバは東経だったろ?」 またも理性がうなづく。「そこからぼくらは西に向かったんだろ(つまり東経側の半球を進んだ)? とすれば、東経から出ているはずがない。ぼくらは東経にいるんだ」

「グリニッジ時の方が早ければ西経」と、ぼくの理性が繰り返す。「二十時二十五分は八時九分より進んでるわけだ」

「わかったわかった」と、ぼくは口論に割り込む。「まず太陽を観測しよう。話はそれからだ」

それから作業をすませ、割り出した経度は西経一八四度だった。

「ほらね」と、理性が鼻で笑う。

ぼくはあぜんとした。頭の固い方も同じで、しばらくは呆然としていた。そうしてやっと宣言した。

「西経一八四度なんてありえない、そんなの東経にもない。経度は一八〇度までだって知ってるだろ」

こうなると、頭の固い方は緊張に耐えきれずに倒れ、理性は間抜け同然に沈黙した。ぼくはといえば、希望を失い、目はうつろで、中国の海岸に向かって航海しているのか、それともパナマのダリエン湾に向かっているのだろうかと思い惑って歩きまわるしかなかった。

やがて自分の意識のどこからともなく、こう言うかすかな声が聞こえた。

「経度はぐるっとまわって三六〇度だ。三六〇度から西経一八四度を引くと、東経一七六度になるんじゃないか」

「単純すぎるだろ」と、頭が固く融通のきかない方が異議をとなえる。論理にたけた理性も抗議する。「そんなルールはない」

「ルールなんてくそ食らえだ!」と、ぼくは叫ぶ。「ぼくはここにいるじゃないか」

「自明のことさ」と、ぼくは後を継いだ。「西経一八四度は東経と四度だけ重複してるってことなんだ。それにぼくらはずっと東経にいたんだ。フィジーから出発したが、フィジーは東経だ。海図に現在位置を入れて、推測航法で証明してみせるさ」

脚注
*1: 航海暦(Nautical Almanac)については、日本では天文暦と呼ぶことが多い。天文略歴は日本近海用の簡略版。

*2: 一海里は1852メートル。ただし、○・四秒が1/10海里というのは、いろんな計算をしても合わないので、計算違いの可能性はある。ちなみに、子午線(経度)間の距離は赤道上が最大で、緯度が高くなるほど短くなるので、単に時差だけで距離は計算できない。

*3: 今はこういう言い方はあまりせず、西経か東経かは、グリニッジ時に対して単純にプラスかマイナスか(足すか引くか)と考えるのが一般的。規準は、自分のいるところではなく、あくまでもグリニッジにあるということを大前提にして計算すると迷わない。
日付の問題や東経か西経かということで悩むのは、経度がグリニッジを〇度にして東回りに東経、西回りに西経として目盛りをつけ、地球の反対側で東経一八〇度=西経一八〇度=日付変更線になっているため。
これが一方向に○度から三六○度とし、日付変更線=○度としておけば、話はぐっと簡単になる。