米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第54回)
赤道通過(クロス・ザ・ライン)
一、海神ネプチューン
練習船大成丸は十一月七日、初夜当直(ファーストウォッチ)の一点鐘(いってんしょう)、午後八時半*1
に無事に赤道を通過した。
*1:大成丸の当直は、夕方の四時から翌日の朝の八時まで、
四時間ごとに分担がなされていた。
午後四時から午後八時まで: 薄暮当直(イブニングウォッチ)
午後八時から深夜零時まで: 初夜当直(ファーストウォッチ)
深夜零時から午前四時まで: 中夜当直(ミッドナイトウォッチ)
午前四時から午前八時まで: 黎明当直(モーニングウォッチ)
担当する四時間を三十分ごとに区切って合図の鐘を鳴らすが、
鐘をつく数を順に増やし、
それぞれ一点鐘、二点鍾、三点鍾~八点鍾と呼んだ
科学万能で神秘的なものを排する「散文(プローズ)の世の中」である。自分ばかりは旧式なロマンチックの帆船に乗って、非人情や無刺激な生活を送っていると思っても、それも結局は主観的観念に過ぎなかった。
二十世紀の赤道の海には、海神(かいじん)ネプチューンの威霊(いれい)も現れなかった。世が世ならば……とホロホロと大きな涙をこぼして海神も嘆息されたろうが、一方、ぼくらも、品川を出帆して以来、期待し憧憬(しょうけい)した赤道通過祭が、オジャンになって少なからず落胆したしだいである。
海洋の神秘があざけられ、オーシャン・スピリットがその権威を失い、大洋の情趣や景勝が忘れられていくのを見ているネプチューン殿もつらかろうが、かのアホウドリと共に阿呆(あほう)といわれ馬鹿にされ、世間からは時代遅れの余興のように見られている帆船乗りも、また情けなく、つらいことではある。
船が利口になって帆船は汽船となり、人が利口になって船乗りが海員となり、茫漠(ぼうばく)とした大海の上から「帆とロマンス」とを払い去った現世で、古きにあこがれ新しきを呪(のろ)い、夢のごとくおぼろげな過去の愉悦(ゆえつ)と追憶に生きうる者は、かくいうぼくと、ネプチューン君、君との二人である。さらばネプチューン君!! 君の権威と威力(ちから)と慈悲とを祝福せんかな。
一、その一挙手は大波をゆるがし、
その一投足は陸と人とをふるわす。
わがネプチューンのその権威、
わがネプチューンのその威力(ちから)
二、その殿堂たる大洋に大河は朝貢(みつぎ)し、
その懐(ふところ)に魚類が楽しむ。
サンゴの宮、瑠璃(るり)の花園(にわ)、
われはたたえん、その得と威と力。
三、踊れるトリトン/ネプチューンと、歌える海の妖精(フ)、
声うるわしく人を魅了(みする。
かのサイレーン(海の精)こゆ、
千尋(ちひろ)の底の常春(とこはる)の楽土(くに)。
二、五目飯とカステラ
十一月七日正午の観測によれば、船は今夜の八時ごろに赤道を超える(クロスする)という。
船長の考えで、赤道祭(せきどうさい)などというお祭り騒ぎは止して、ごちそうを食べ、のんびりくつろぐだけの休日になる。海上生活の情緒的な行事として長い間、人々に想像され期待されていた赤道祭は、ウヤムヤに逓信省(ていしんしょう)所属の練習船・大成丸の甲板上から消え去った。したがって、白いひげを生やして、片手に三叉槍(さんさそう)、片手に地球をささげた海神から、「南半球の鍵」をもらう荘厳なる儀式もなく、トリトンや海の妖精(シーニンフ)や海の精(サイレーン)等の従者たちの扮装(ふんそう)も見られなかった。
ごちそうが出る休日として、正午(ひる)に五目飯(ごもくめし)、卵とじ、吸い物、きんとんという贅沢(ぜいたく)な献立を頂戴したぼくは、おやつに、カステラを肴(さかな)にサイダーの祝杯をあげた。