米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第33回)
太平洋横断に成功し、無事に米国西海岸南部のサンディエゴに入港した大成丸ですが、あろうことか船長が行方不明になるという前代未聞の事件が発生します。
しかも、不幸はそれだけにとどまらず……
船長、船に帰らず
船の乗組員一同の敬愛と期待との中心をなせる船長の上に何かの異変が生じたという風説が、誰いうとなく隼(はやぶさ)のごとく船の中に広まった。九月二日の午前(ひるまえ)である。船長が八月三十一日入港と同時に上陸したまま陸上にあって、杳(よう)として消息がわからないのは確かな事実である。
ある者はいう。船長は急性脳膜炎で入院したと。他の者はこれを修正して、船長は過労の結果、意識の混乱をきして自刃(じじん)したという。何にしても、おそるべき、悲しむべき、心痛すべき惨事(ざんじ)である。前途悠遠(ぜんとゆうえん)な大使命の端緒(たんちょ)において容易ならざる蹉跌(さてつ)である。悪運である。百二十五の子弟後輩はそのために困惑して、ただ次に来たるべき結果の範囲や程度の広狭深浅を忖度(そんたく)するとき、悄然(しょうぜん)として意地悪き運命の黒き手を呪(のろ)わないわけにはいかなくなった。