現代語訳『海のロマンス』17:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第17回)


霧中号角

(むちゅうごうかく)*1

ごうごうという風の叫び声とともに、冷たい白い細霧(さいむ)がマクベスの妖婆の配下にある千万のガマの醜い口から、一斉に吐き出される怨霊(おんりょう)の吐息のように流れ込む。

この細霧(さいむ)たるや、かの赤人(あかひと)のほのぼのと明石の浦の……*2とうたったような、なまやさしいものではない。絵のような詩のような奈良の古都を、いやが上にも古く、いやが上にも詩的に純粋にする初夏の朝霧のそれのようなクラシカルなものでもない。かつてはスペインの無敵艦隊(インビンシビルアルマダ)を漂泊させ、近くは上村将軍*3をして男泣きに泣かせた、海上の腹黒者(はらぐろもの)である。横着な魔物(まもの)である。だから「瓦斯(ガス)」という名称は、船乗りの身に、いかにも毒々しい険悪な律動(リズム)を与える。

ブレイスといわずリギンといわず、マスト、ヤードの別なく*4、この毒ガスがふれるところは、たちまち冷たい針のような細雨(さいう)となって、てきめんに化学反応が生じる。横柄(おうへい)づくで、いやがっていたのに無残にもこの軽い白いふわふわした妖怪に姿を変えられた水は、あわれなものである。雌牛に変えられてただモーと鳴くよう命じられたギリシャ神話の王女アイオのようなものである。

一日に千里を走る台風という大きな翼に駆られ、泣きながら休息(やすみ)もせずドンドンと飛ばされる霧は、涙の雨をそそぐべき格好のところをさがす。この小さな無数の妖鬼(ようき)の行く手にあたるものこそ災難だ。大成丸は運悪くも、この貧乏くじを引いたわけである。

とてつもない大量の「ガス」の恨みが凝縮し、リギンやマストやヤードなどからしたたり落ちる細雨となって、いままで踏み心地のよかった乾いた甲板を冷たくヌラヌラと潤しはじめると、ここに残酷なうら悲しい光景が繰り広げられる。油臭い重い雨合羽(あまがっぱ)が必要となり、長靴(シーブーツ)が引き出される。人々の眉の間には深い谷ができて、のろまで間が抜けた調子の、のんだくれた雄牛の鳴き声のようなフォグホーンが、一分間ずつ、ひっきりなしに鳴らされる。どうしても、ワーズワースの哀詩の題材になってしまう。

また、このときの天気は思い切って人を馬鹿にしたもので、船のブルワーク(舷墻)から外は黒白(あやめ)もわからない霧の海であるが、肝心かなめの太陽様(おてんとうさま)は、十中の八、九はにこやかにマストの頂(てっぺん)で、いつものように光り輝く笑顔を見せている。「雨のふる日は天気がわるい」という俗謡(うた)は、船の中では通用しないことになる。つまり、太陽が見えているのに時ならぬ雨、しかもリギンか降り注ぐ雨という、なんとも奇妙な天気といわなければならない。要するに、北太平洋では妖霧(きり)は立体的ではなく平面的に、ニューヨーク式にではなく東京式に、横に長く広がっていくようだ。

衝突予防法の第十五条第三項に「帆船の航行中は最大一分間の間隔で、右舷開きならば一声を、左舷開きならば二声を連吹(れんすい)し……」*5とあるのは、つまり霧中号角(フォグホーン)についての規定の一節である。薄暗くなったなかを白く軽い霧が蛇のようにもつれて波の上を這い、水平線がはっきりみえなくなると、たちまちボーボーという、色彩も階調も配列もない大陸的なノッペラボーな饗音が見張りの手によって絶え間なく鳴らされる。

フォグホーンという名称は、かつてアリアン民族がまだ定住せず移動して生活し、互いに攻略しあっていた野人時代に、信号用として、または礼節用として用いられた角笛に始まったとか、その後、それが陸上から海上へ、礼節用から警戒用にと変転したもので、昔はさほど無愛嬌な響きを放たなかったらしい。この伝説に加えて三千年後の今日まで帆船に用いられているということを考えあわせると、美しく飾られた高野の山駕籠(やまかご)くらいにはたとえることができるかと思う。

奈良の霧は絵のような都を美化する要因(ファクター)で、テムズ河の霧は沈鬱(グルーミー)な川面の色彩を多少ともやわらげて、その露骨な幾何学的な自然を絵画的に純粋にする効果を持っているとすれば、この場合の妖霧烟雨(ようむえんう)は審美学の第三則として昔の角笛の神秘的な音を悪く誇張し、品位を落として俗化し、このような調和のない、むしろ静寂をぶち壊すような野蛮な音に変えたもので、美化とは反対の効果(エフェクト)を表すものとみてよかろう。

されば、フォグホーンはわれら海上のコスモポリタンが、空中の奇怪な野武士にむかって発する宣戦布告のラッパであるといえよう。「ね、君、ここからこうやって距離をおいて聞いていると、あんな雑音でもちょっと余裕があって、これに銀の鈴の音と牧歌的な奥ゆかしさが加わったなら、たしかにアルプスのカルパチア地方あたりの牧場をイメージできるようだね」と賛美した気まぐれ者があったにしても、だ。まあ、人によっては案外に音楽的に聞こえるかもしれない。ただし、カルパチア地方云々(うんぬん)は保証の限りでない。


脚注
*1: 霧中号角 - 霧にまかれたときに「ふいご」を使って警戒信号の音声を発する装置。霧笛やフォグホーンと同義。現代のフォグホーンは電気やガスなどを用いて音を出す。


*2: かの赤人の - 「ほのぼのと あかしの浦の朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」は、古今集に収録された読み人知らずの和歌。
山部赤人の作ではないので、「かの赤人の~」は、作者の思い違いか。


*3: 上村将軍 - 日本帝国海軍の海軍大将・上村彦之丞(かみむらひこのじょう)のこと。
日本海におけるロシアとの海戦で、濃霧などのために失態をおかして国民の非難をあびたりしたものの、その後の戦いで沈没した敵艦の兵士を救助したことから、日本の武士道を世界に示したと称賛され、「上村将軍」という彼をたたえる歌までできた。


*4: ブレイスはヤード(帆桁)をコントロールするロープ、帆桁は帆を張るために帆の上辺につけた棒、リギンは帆船の索具の総称。


*5: 右舷開き - 右舷開きとは、帆走で、右舷から風を受けること。帆は左舷側に張り出す。左舷開きはその逆。
フォグホーンを音響信号として使う場合、現在でも針路を右に転じる場合は一声(一回鳴らす)、左に転汁場合は二声、後進する場合は三声、と指定されている。

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現代語訳『海のロマンス』 5: 練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石に激賞された商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第5回)。


練習帆船・大成丸は品川埠頭で抜錨し、東京湾を南下して横浜に到着し、歓迎の式典を迎える。


夜光虫の燐光は青い瑠璃(るり)色となって砕け流れて、夏の夜の海は涼しくも美しい。

午前中に甲板を洗い、オーニングを張り、万国旗を飾って、ほっとした気持ちで林逓信大臣の一行を待っていると、午後一時頃に来船された。

「……長い航海をすると、朝に夕べに、目に見、耳に聞くものがしごく平凡単調なものですから、船乗りの心はおのずとすさんでくるということですが、諸君は上の者も下の者も互いに尊敬し、同胞(どうほう)互いに助けあって、楽しく有益にこの壮大な使命を果たされるよう望みます……」

大臣の訓示は、今や微に入り細にわたって教えさとすような調子で、さながら自分の子が鹿島から洋行するのを見送る老父のような熱情を示している。林大臣、小松次官、湯河船舶局局長、石原商船学校長などの一行は二時には練習船を離れ、やがて「総員上へ! 出港用意!」という命令が下った。

二時半頃、ミズンマストに高々とJNGHの船名旗を鮮やかにひるがえした大成丸は、松本教頭や古谷大佐、高柳幹事の諸氏が分乗する四隻の小型船に伴走されて静かに港口に出た。防波堤にひたひたと寄せては返している大海原からの青い波は、この練習船に乗っている未来のマゼランやキャプテン・クックを歓迎しているようだった。

船路安かれと祈る見送りの人々と、今日を限りと名残おしげに顧みる船上の乗員との間には、言葉では言い表せない共通したデリケートな情緒が通いあい、人々が無理して浮かべている笑顔は、悲しくもまた苦しい心の努力を示していた。

三声(さんせい)の長笛で別れを告げ、針路を南微東*1に館山に向かった練習船は、午後四時ごろ浦賀沖に達した。右まわりに大きな円を描きながら、船首を羅針盤(コンパス)*2の三十二方位に合わせ、次々に船首が各方位を向いた時間とそのときの太陽の方位角とを測定し、それぞれ三十二点で生じる羅針盤上の自差(ディビエーション)を調べた*3

一般に、船には標準となる羅針盤(スタンダード・コンパス)をはじめとして、次位の羅針盤、航法用の羅針盤など大小およそ約十五、六の方位磁石が用意されているが、そのうち、その構造がすぐれていて器差(きさ)*4や自差(じさ)などが最小のものをスタンダード・コンパスと呼び、船の針路や星や太陽、月の方位観測などにはこれを使い、他の羅針盤はこれと比較してその自差の量を減少させるものである。本船には後部ブリッジ*5に標準の羅針盤が設置され、前部ブリッジに次位の羅針盤が備えつけられている。今日やった自差補正は、主として標準羅針盤の三十二方位に生じる自差の量を確かめ、それと同時に次位の羅針盤の自差の量を標準のものと比較研究したのである。

船はぐるっと大きな円を描いて一回転し、元の針路に復帰し、迫りきたる黄昏(たそがれ)をついて鏡ケ浦に向かおうとしたが、そのとき、紀洋丸と思われる一隻の船が前方からやってきて「我は汝を見るを喜ぶ」の万国信号に続いて、TDLの信号を掲揚した。すなわち「安全なる航海を祈る」というのだ*6。本船からはただちにXORの信号旗を掲揚して海上の友の好意を謝した。そのとき後甲板にいた信号手が、その船のはるか後方で別の汽船一隻がTDL旗を掲揚しているのを認め、ただちに信号を送ってその船名旗を見れば第二遼陽丸だということがわかった。こうして波静かにしてイルカが眠っている水道の夕暮れを直進し、南路で館山に向かった練習船からは、七時に太房(だいぶさ)岬をまわって北条(ほうじょう)の灯火が見えた。


脚注
*1: 南微東(なんびとう) - 東西南北の全方位(360度)を32等分したとき、「真南からやや東」を指す。やや(微)は11.15度で、真南と南南東の間。


*2: 羅針盤 - 羅針儀、方位磁石、コンパスともいう。原文では「羅針器」という言葉が使われているが、一般的な表現に直した。


*3: 自差(じさ) - 方位磁石は船の金属等の影響を受けて誤差が生じる。自差は、船ごとに、また方位磁石の設置場所ごとに微妙に異なるため、本文にあるように、山の頂上など陸地で見分けやすい二つの物標の見通し線や太陽の位置から割り出した確実な方位を基準にして、船を実際に旋回させながら各方位で誤差を測定する。


 現代のヨットでも、正確なナビゲーションのため、コンパス(方位磁石)やオートパイロット(自動操舵機)について、下図にあるような自差表を作成して用いる。

deviation_01

上図は『アナポリス式シーマンシップ』(鯨書房)より


*4: 器差 (きさ)- 測定器固有の誤差。


*5: ブリッジ - 船の高い位置にあり、船舶で操船の指揮をする場所。船橋(軍艦では艦橋)ともいう。


*6: 安全なる航海を祈る - 船舶では、アルファベットや数字にそれぞれ固有のデザインの旗を割り当て、それを組み合わせて信号として用いる。


現在の国際信号旗は、1969年刊行の国際信号書(国際海事機関)による。


この世界一周航海が行われた1912年~1913年当時とは異なり、「安航を祈る」はUとWの旗を使う。


U旗U_flag-code    W旗W_flag-code


それぞれ単独では、U(あなたは危険に向かっている)、
W(医療援助がほしい)だが、
2文字を組み合わせることで「安航を祈る」になる。

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