スティーヴン・クレインの手記 3

救命ボートを下ろす

機関室の熱と重労働に耐えきれず、ぼくはまた甲板に戻らざるをえなかった。船の前部に向かっていると、ボートを下ろすという話が聞こえてきた。厨房のそばで、航海士が一人の男と話をしていた。

「なんで救難信号を打ち上げないんだ?」と、見知らぬ男がいった。

すると、航海士はこう答えた。「何のために救難信号を出すんですか? 船は大丈夫ですよ」

ゴム引きのオーバーコートを着て戻ってくると、最初の救命ボートが下ろされようとしていた。最初のボートに真っ先に乗りこんだのが例の男で、他の男たちが彼にバカでかいスーツケースを手渡している。その驚きも冷めぬ間に、別のスーツケースがまた渡されるのを目撃したが、金持ちのこういう行動はおもしろくもあった。

救命具を着こんでふくれあがった男

ホテルとみまがうほどというのはいいすぎかもしれないが、例のスーツケースは、とんでもなく巨大だった。さらにその後も、オーバーコートのようなものまで渡されていた。

機関長が小さな窓に顔を寄せて眺めていたので、ぼくは彼に話かけた。

「あの人、どう思います?」

「小鳥みたいなやつだな」と、老機関長がいった。

そのとき、救命ボートから離れろという指示が聞こえた。救命ボートは甲板室の屋根に固定されていた。甲板室は頑丈だがすべりやすく、船が横ゆれするたびに、そこにいた連中は黒い海に頭から飛びこみそうになった。

甲板室の屋根にはヒギンズがいた。一等航海士と二人の有色の機関員も一緒だ。ぼくらはそのボートを下ろそうと骨を折ったが、ブロードウェイのケーブルカーほどの重さがあったと断言したいくらいだ。ボートは甲板にきつくネジどめされていたのかもしれない。このボートを動かせるのであれば、レンガ造りの校舎だって軽々と押し動かせただろう。一等航海士は風下側の吊り柱(ダビッド)から滑車一式をボートにとりつけた。下の甲板では船長が十分な人手を確保してボートを受けとる用意をしている。

それから、ぼくらは引くのをやめるよう命じられた。そうしたさなかに船の料理長がぼくのところにやってくると、「お前さん、どうするつもりだ?」ときいた。

ぼくが自分の計画していることを話をすると、彼は「そうか、じゃあ俺とおんなじゃねえか」といった。

失意の汽笛

いまはもうコモドア号の汽笛も弱々しくなっていた。失意と死の声があるとすれば、それはこの汽笛の音に示されている。音調も変化した。すでに海水がのどに詰まっているような感じだったが、夜の海でのこの叫び声は、船に水しぶきを舞い上がらせる風の音とともに、怒濤のように船首を乗りこえてきた波が白濁しながら甲板のいたるところで渦をまきつつ、ぼくら一人一人に対して、おそらくは臨終の歌をうたっているのだった。

そのとき、一等航海士が手を離すよう合図をした。救命ボートを浮かべようと能力と経験の限りをつくして努力していたぼくらを、彼は激しい怒りにかられたように叱咤した。とうとうボートが動き、海へ向かって滑り降りていった。

その後で船尾に向かうと、船長が立っていて、吊り具に腕を載せ、負傷していない片方の手で支索を持っているのが見えた。船長はぼくに五ガロン入りの水入れを持たせ、君はどうすると聞いた。自分が正しいと思うことをしますよと告げると、船長は料理長と同じ考えってわけかといい、船の前甲板で全長三メートルの小舟を下ろす用意をするようにと命じた。

全長三メートルの小舟

周囲でうろちょろしていた有色の機関員に船長が羽毛布団みたいに見える救命具を着こむよう命じたのをよく覚えている。ぼくは五ガロン入りの水入れを抱えて船の前方に行った。船長がやってきたので、小舟を下ろした。すると、連中はぼくを小舟に乗せ、一本のオールで押して船から離れさせた。

ぼくは彼らから水入れを受けとった。それから料理長が乗りこんできた。ぼくらは暗闇に座り、なぜこうなってしまったのか考えながら、とはいえ楽観的な希望を抱いてもいた。船長も小舟のところまでやってきて、沈んでいく船からは離れているんだぞと指示した。

船長自身はまだ乗りこまず、他の救命ボートが動き出すのを待っていた。そうして、やっと暗闇で声を発した。「大丈夫か、グレインズ?」

一等航海士は「大丈夫です、船長」と答えた。

「ボートを押し出せ」と船長が叫んだ。

船長が船の手すりを乗りこえてボートに乗り移ろうとした瞬間、黒い影が駆けてきて「船長、お供します」という声が聞こえた。

船長は「ビリーか、乗れ」と答えた。

船を最後に離れたのはヒギンズ

声の主は機関士のビリー・ヒギンズだった。ビリーがさっと飛び降りると、一瞬遅れて船長が続いた。その手には四十ヤード(約36メートル)ほどの測深線の一端が握られていた。その細いロープのもう一方の端は、母船の手すりにつながれていた。

小舟がまた風下に流されると、船長は「君たち、船が沈んでしまうまでは離れすぎないようにしておくからな」といった。

このなんともうれしい指示をぼくらは歓迎した。この細いロープのおかげで、ぼくらの乗った小舟は船首を風上に向けておくことができたし、巨大な波を乗りこえてボートが高く持ち上がるたびに、死につつあるコモドア号のゆれている灯火が見えた。

夜明けが近づき空が灰色がかってくると、全長三メートルの小舟が波で持ち上がるたびに、コモドア号の姿が少しずつくっきりと見えてくる。大量の空気が残っていて浮いていたのだが、ぼくらはあんなにあわてて脱出することはなかったなと笑いあった。「船が沈没しなかったら、俺たちの行動はとんだお笑いぐさだろうな」といいあったりもした。

だが、その後で、ぼくらはコモドア号の船上に人影を見た。しかも、こっちに向かって何か叫びだした。