米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第110回)
四、修業日誌の内容
その謹厳(きんげん)なる態度――目の色のただならぬ様(さま)から、息づかいのせわしそうな様子から――真面目(まじめ)な筆跡から推量しても、彼らが少なくとも『ローマ帝国衰亡史』という大著を執筆するときのギボンや、傑作の『神曲』に筆を染めつつあるダンテなどと同じ抱負と気位(きぐらい)と勇気を抱いていることがわかる。
ある者はさかんに呻吟(しんぎん)し、ある者はいたづらに騒いでいる。
一体どんな偉いものを書いているかと、例の人間などには計測できない眼光を放って眺めてみると、いろいろな表題(みだし)がまとまりもなく雑然(ざつぜん)と並んでいて、それが目に飛びこんでくる。すなわち、「帆の効用と船のトリム」、「ケープホーン付近の天候」、「セントヘレナの所感」はまだよいとしても、「便所のサニタリータンクがしょっちゅう壊れることを論じて本船の水管配置(パイプアレンジメント)に及ぶ」はふるっている。こんなずいぶんと汚い問題から堂々とした立派な説を吐露(とろ)したその勇気と気位(きぐらい)と抱負とは実に敬服(けいふく)の至りである。
彼らの態度がこのように謹厳(きんげん)であるのも、その論調がこのように真面目(まじめ)であるのも無理ならぬわけがある。
大日本商船学校練習船大成丸の修業学生としての二年間の実習成績の大部分は、その修業日誌の内容と書きぶりとによるとのことであるから、どんなにのんきな彼らでも、いかに無刺激で非人情の生活を欲する彼らでも、いきおい血眼(ちまなこ)にならざるを得ぬ。いきおい競争的に、刺激的に流されざるを得ない。
当直で上甲板(デッキ)にあってはブレースを引き、非直(ひちょく)で骨休めするときには修業日誌に追われるというのが千編一律(せんぺんいちりつ)にして平凡なる彼らの生活である。
修業日誌とかの発明者は誰だか知らないが、ぼくのこの観察記を読んで、わが黙従主義、同型人物養成主義は大成功だと思ったら大間違いである。
彼ら練習生達は、いわゆる二十世紀の紳士である。決していたづらに精力を消耗するものではない。
すなわち、一人がライブラリーへ行って何かうまい種を見つけてきて書く。すると、他の百二十四人は単なるタイプライターとしてそれを筆記するだけである。研鑽(けんさん)も考究(こうきゅう)もあったものではない。
休息時間のほとんど全部を修業日誌に奪われる彼らは、泣き言を並べながらも校則はいとも尊しと、昼より夜へと、本や他者の文章から適当に抜き出しコピペしてマス目を埋める作業に余念がない。
ときどきは彼ら自身が、こんなにセッセと字句を羅列していても、たった一回専任教官の点検を受けるのみで、二度と開けて見ることはあるまい、などと述懐するのを聞くことがある。
羊のようにただ従順(すなお)にしつけられた彼らは、これが学生の本分で、常識的行為の極地だと固く信じている。殊勝(しゅしょう)なことである。世の中に試験廃止論などが流行(はや)っているとは夢にも知るまい。
一期学生の試験が二、三日かけて施行された他は、平凡にして暑苦しい日が続いては消えた。
南米の沿岸に近づいたためか、毎日夕方になると、蓄積した一日の暑気(しょき)を駆逐(くちく)するように、小気味よい爽快なスコールが来襲するようになった。そしてロイヤル(最高帆 さいこうはん)は夕方に絞られて朝方再び展(てん)ぜられるのが日課のようになった。
船は毎日七、八十海里(マイル)ずつ走って、ぼくはハエをとらえては眠り、眠っては変色して、そこぶる無為(むい)の日を送った。
ところが、四月十日になって、驚天動地(きょうてんどうち)の一大事件がはからずも湧き出した。
午後の一時の鐘(ベル)が鳴って英語教官の訳述が例のごとく始まった。教官も学生も教科書も例のごとくで、すこぶる安穏であったが、いつもと違うものが、ぼくの目に映じだした。
どこからともなく、むせっぽい、気味の悪い、小さな黒い粉が幾万となく舞いだしてくる。
そのうちに、あちらこちらでゴホンゴホンとむせる者が多くなった。
さてはただごとではない。船底深く神秘の魔宮に鎮座ましませる海の神様が吹き出す有毒ガスではあるまいかと、勝手のわからぬぼくは少なからず恐ろしく思い出した。ところがこれは、学生の半数が蒸気機関の缶焚(かまた)きたる火夫(かふ)と共に、このすぐ下のスペアバンカー(予備貯蔵庫)*からエンジン脇のサイドバンカーへ粉末の多いカーディフ炭の移動を行っているからだと知れた。
* スペアバンカー: 原文ではスペヤーバーカー。前後の内容から推して、燃料となる石炭の予備貯蔵庫 (スペアバンカー spare bunker)の誤記と判断。