米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第98回)
ロングウッドの館
(source: Public domain, via Wikimedia Commons)
これぞ、まさに八十八年前の秋九月、自然の花や草も野や丘でいたずらに枯れ、流れる水もいたずらに減ってしまった悲しき朝(あした)、今歩いているのが一世を風靡(ふうび)した一代の益荒男(ますらお)を葬送したし道かと思えば、そぞろ身にしみて懐(なつ)かしく、青き丘に、生い茂れる千草(ちぐさ)の間を切り開いて通じた一筋の赤土路が、一世紀の長き月日にわたっていかに多くの階級の人々が足跡をきざんだことであろうと思いめぐらしたとき、数年来このかた感じたことのない思いが怪しくも浮かびだした。
これが、英雄は死してなお人身を支配するということであろう。不世出(ふせいしゅつ)の傑物と呼び、憎むべき悪魔とそしり、毀誉褒貶(きよほうへん)のちまたに今もなお彷徨(ほうこう)しとどまっているナポレオンも、その遺跡(あと)を訪れてみようとするほどのすべての人の心に、これほど絶大にして比類のない深い印象を与えたことを伝え聞いては、破顔一笑(はがんいっしょう)、「だから俺もハドソン・ローエに向かって、ナポレオン帝は永く歴史の花となり、文明国民の光となって、その口にのぼるべきや疑いをいれず云々(うんぬん)と啖呵(たんか)を切ったのさ」と、豪語するかもしれぬ。
精神的にはぼくとまったく別世界に住んでいる案内の老爺(ろうや)の教(おし)えるままに、秋空にくっきりと高くそびゆる二七〇〇フィート(標高八一八メートル)のダイアナス・ピーク(セントヘレナ島の最高峰)を望めば、白い馬尾雲(メイヤーズ・テイル)はしとやかなる高山の呼吸(いぶき)に静かに呑みこまれたり吐き出されたりしている。肌に快(こころよ)い秋風が白く光って通り過ぎた路に、うすら寒い影を落としながら、案内者はいろいろのことを話して聞かせる。遠く右手に見える富貴湾(プロスペラス・ベイ)から上陸した英人が一六七二年に二度目に、いったんオランダ人の手に委(ゆだ)ねたジェーズムタウンを背面攻撃で難なく攻略した物語、孤島に幽閉された不遇の身に自暴自棄(じぼうじき)になったナポレオンは死にたい死にたいと口癖のように言っておったことなど――
路はさらに一度うねって、ささやかな家が二、三軒、チョコナンとたたずんでいるところへ出た。里標(マイルストーン)が一つ立っている。この家と家の路地をつと抜けた案内のローレンス老は、同じ年配の老人と親しげに挨拶(あいさつ)している。その老人はまだ若いときセントヘレナに来たフランスの宣教師で、今は布教をやめて還俗(げんぞく)している先生だと後でわかった。
この抜け道がすなわちまっすぐにロングウッドの館の正門に通ずるのだと知ったときは、いささか意外な感じがした。
蒼(あお)く美しい芝生で縁をとった砂利まじりの路がゆるく右へ右へとカーブして細々となよやかに縮まり、一面に青い絨毯(じゅうたん)を敷いたような軽い勾配(こうばい)の斜面にスラスラと蛇のごとく這(は)い上がっていく路の末が見える。
漆喰(プラスター)塗りの白い建物が東西に長く、南北に短い丁字形(ちょうじけい)をなし、東西に立てる別の一棟と並行して灰色がかった空の下になつかしげに見えている。この美しい斜面を上りつくしたところに形ばかりの小さな粗末な門があって、これを中心として低い生け垣が四方に連なって「館(やかた」」とニューハウス(英国から新しい材木を送って築造したのだが、ナポレオンは移住せず死んでしまった。今は製麻会社の事務所となっている二階家)との境界を区切っている。この生け垣の外に一つの傾きかかった掘っ立て小屋があって、踏みしだいた飼い葉や燃えさしの薪(まき)などが散らばっている上に、自在鉤(じざいかぎ)*がかかって水桶(みずおけ)を片手にした現地の人が二、三人、ひそひそと話をしておった。
* 自在鉤: 鍋や釜などを吊(つ)るせるようにした鉤(かぎ)
毎度のこととて年中行事の一つでもあるごとく、つと無遠慮に入る案内者の後から、くぐるように半ばくずれかけた屋根のない冠木門(かぶきもん)を通ると、路の左側はひねくれた一本の高い松(まつ)の他はもうもうたる雑草の原であるのに対して、右側の庭の一般は見事な花園(かほ)となって、ゼラニウム、ダリヤ、ベツレヘムの星(オーニソガラム、和名オオアマナ)などが、この時期のこの館にふさわしい風姿(ふうし)を見せ、偉人の跡を偲(しの)べとばかり奥ゆかしく咲きにおっている。なかんずく、もう復活祭(イースター)が近づいたためか(三月三十日のことだ)、ところどころイースター・リリーが藤紫色の花弁をしとやかに風にそよがしているのが美しく目についた。花園(かえん)の柵に沿った道の導くままに、吾らは南北に連なる丁字形の家屋の一角翼(ウイング)の端に出て、ささやかなポルチコ*とベランダとを有する部屋へ通る。澤太郎左衛門のいわゆる『前房(ぜんぼう)』といった応接室であろう。三つの窓がうす暗く開いている右側の壁に沿ってかまぼこ形でビロウド張りの机があって、ペンと芳名録とが載せてあった。右側の中程には黒大理石のマントルピースがあった。
* ポルチコ: 屋根のあるポーチ
何気(なにげ)なく次の部屋へ入ろうとして、ふと入口の上に水平に渡された長押(なげし)を見上げると、粗末なラベルに Salon ou mour ut l’empereur (皇帝が逝去されたサロン)とある。すわとばかり、襟(えり)ならで浮き出しかかったカラーをただす。この涙のもようされるほどにお粗末に見ゆる十畳に足らぬ小さな部屋こそ、かの超人ナポレオンが Tete … Armee(武装の頭)なる二語を最後に、雄図むなしく孤島のがいろうに埋められたところである。一面にそっくれ立った、木目の多い、汚い、赤松の粗材(そざい)を用いた床板に落ちる初秋の力なき薄暗い影を見つめていると、いわれなき涙がとめどもなくにじみ出て、恨めししような癪(しゃく)にさわるような苛々(いらいら)した哀感がそこはかとなく胸にあふれた。今更、狭量(きょうりょう)にして無知なる敵愾心(てきがいしん)を悪しざまに乱用した小人物が腹立たしくもまた気の毒になる。
かつてはチュレリーにフホンテネブローに、あるいはマルメイゾン王宮に翠帳(すいちょう)珠簾(じゅれん)の豪奢(ごうしゃ)な生活に飽きし発乱治世(はつらんじせい)の大天才が、かかるいぶれき陋屋(ろうおく)に幽囚(ゆうじゅう)六年の月を眺めしかと慨(がい)すれば、いたずらに成敗を天の命に帰して一切の執着、隠忍を一笑にふしさる宿命論者の消極的の愚(ぐ)を嘲(あざけ)りたくなる。かく観じきたる時、現今(いま)は知らず一世紀前の英国紳士の武士気質(ナイトシップ)――謹厳にして常識的と天下に呼称しおれる――に忌(い)まわしい疑念を差し挟まずにはいられない。
かく心の興奮と、遊子俯仰(ふぎょう)の涙とに熱き目を上げれば、何一つ飾りのない薄寒い部屋の右側に、大理石のマンテルピースにまたがって幅四尺高さ六尺くらいの見事な鏡がある。
右側の壁に開ける、フランス式シャッターのついた二つの窓を通して見える、花美しき前庭と、うら哀しきロングウッドの至景(ちけい)とを一時にその中に映じている。この鏡と対面(むか)って二つの窓の間に薄い木片(きぎれ)の柵に護られ、月桂冠(ローレル)を戴けるナポレオンの半身像(バスト)が安置せられてある。絵で見、事績で想像した顔とはだいぶ勝手が違うようである。どことなく覇気(はき)とか精悍(せいかん)とかいう分子を去勢(きょせい)したような疲れた表情を見せている。それもそのはず、その下に
Buste àapes lel moule (par Chaudet) 型どりした胸像(ショードによる)
Copy from the Cast after death 死後の型からの写し
と英仏二カ国語で二行に分けて書いてあるのを見ると、この石膏像は帝(みかど)が死去した後の顔面の模型(デスマスク)から、ショーデ氏によって直ちに模造せる最も真に近い最も尊いものであることがわかった。
『……たまたまドクトル・ブルトンは石膏のある地脈を吾らに示してくれたれば、海軍少将マルコルムは直ちに命を与えて端艇(ボート)を海に浮かべ、数時間の後、石灰となれる土(つち)五塊(ごかい)を携え来たりたる故に……』と「ナポレオン回想録」に当時の実況を詳しく伝えている。
この部屋――ささやかな十畳敷きの見る影もなき室なれど、なんのとりえもないこのセントヘレナを懐古的、歴史的に世界に膾炙(かいしゃ)せしめている――と、Sallea manger (食堂)と銘うった次の室(へや)との間には小さな衝立があって、その後ろに暗い大きな室(へや)がどうぜんと見いだされる。この食堂はちょうど丁字形の根元に当たるので、これから左右の母屋の各部屋にはprivate(私室)と扉(ドア)に書いてあった。