ジョン・マクレガー著
現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第8回)
リエージュでやっとアバディーン伯爵と合流した。計画では、これよりずっと前に一緒になるはずだった。彼も今回の航海用にカヌーを新造していた。ぼくのロブ・ロイ・カヌーより一フィート長く、幅は二インチ細かった。一番の違いは、船体に頑丈なオーク材ではなくモミの木を使ってあることだ。そのカヌーはロンドンからリエージュまで送られてきていたが、輸送中にデッキを縁どりしているコーミングが破損していた。それで、家具職人のところに持ち込み、数時間かけて修理してもらった。
ぼくらはカヌーを川に浮かべた。見送る人はなく、真夏の太陽が照りつけるなかで、リエージュを後にした。
これで、今回の旅も気の合う二人連れとなった。それぞれが自分のカヌーに乗り、とても楽しかった。ときどき帆を揚げてセーリングを楽しんだり、一、二マイルをパドルで漕いだり、互いに助けあって堰(せき)をこえたり、川沿いの土手からカヌーを引いて歩いたりした。*2
原注2:この後も何度かやってみたのだが、ずっと座りっぱなしでいるのが苦痛になってきたときには、カヌーを引いて歩くのもありだと思う。連続して十時間とか十二時間とか、ずっと座りっぱなしだったりすると、カヌーを降りて歩きながら引いていくのもそう悪くない。とはいえ、カヌーの旅になれてくると、ゆったりとくつろいだ状態で長時間をカヌーの床板に座っていても平気になってくる(マットやクッションは不要だ)。それに、条件のよい川では、カヌーを降りて気分転換する必要もない。ぼくのカヌーは非常に軽量だったので、運河では小指一本で引いていくこともできたが、引いて歩くよりは、漕ぎ疲れて腕が痛いときでも川を漕いで下った方が早いのは間違いない。
川では、互いに自分が面白いと思う流れのところを進むようにした。川幅が広いと、かなり離れたところから会話をかわしたりするので、その声に土手にいる地元の人々が驚いたりした。というのも、会話している片方の姿は見えるのに、その相手はとなると、川岸の草や丈の高いスゲに隠れて見えないので、なにやら独り言を大声で叫んでいる変なやつ、となる。こういう風に大きな声で話をしていると、大声で歌をうたっているような感じがしてくる。合唱しているようなものだが、単にハモるよりずっとエネルギーに満ちていて、自由にやっていいというと、ぼくらのような根っからのイギリス人はすぐに一つになって常軌を逸した躁状態になる。
八月の真昼の日射しはすさまじく、そうした元気もしまいにはなくなってきた。それで、とある村で食事をしようと上陸した。
食事をすませてカヌーに戻ったとき、川で鋭い叫び声が聞こえたので、そっちを振り返った。叫び声の主は小さな男の子で、どうやら川に落ちたらしい。流れのなかで必死に大きな荷船にしがみつこうとしている。当然のことながら、ぼくは救助に向かった。カヌーで一直線にすっとんでいき、ずぶ濡れの不運な子供をカヌーの細い船尾につかまらせた。その子は叫んだりもがいたりしていたが、ともかく無事に荷船に引き上げられたのだった。
ベルギーやドイツ、フランスの川では、そのほとんどに、川に浮かべた立派な水浴び場がある。これはとても便利な設備で、イギリス人も外国で水浴びする人はとても多いのに、悲しいかな、イギリス本国にはまだない。
この水浴び場は川岸に係留されている。百フィート(約三十メートル)ほどの木の枠組みに、柱やチェーンや金属網を組み合わせた生け簀(いけす)のような構造で、人為的に作った川底には浅いところから深いところへと傾斜がつけてあり、水浴び中に川下に流されてしまうこともない。こうした簡易プールの周囲には浴槽のようなボックスや階段、ハシゴがあり、技量に応じた飛びこみ板もある。現在では、ロンドンにも一カ所できている。