ジョン・マクレガー著
現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第77回)
フランスの大きな川では釣りが盛んだ。ドイツではほとんどいないのに、フランスの川では、ここぞというところには必ず釣り師がいる。とはいえ、釣りなんてものは、さわがしいフランス人より寡黙なドイツ人に向いているのではないかとまだ思っている人がいるかもしれない。だが、ここでは何百人ものフランス人が、男も女も、毎日釣りをしていて、小さなウキやエサのバッタをじっと見つめている。ときどき親指くらいの魚を釣り上げでもすれば、それで大満足なのだ。こうした釣り師ですら、ぼくが話をした誰一人として毛針を見たことはないらしい。
釣り師は一般に単独行だ。ぼくはホテルでよく「カヌーに一人で乗っていてさびしくはないのか」ときかれたりするのだが、こう答える。「釣り人をごらんなさい。あの人たちは自分の意思で何時間も一人でいるんですよ。ずっと釣りに集中してるんです。ぼくもそれと同じですよ」と。
とはいえ、ときには一隻のボートに何人もが乗り合わせている場合もある。家長みたいな親父が満足そうに座っていて、釣果は気にしない風で、針に餌をつけたり、パイプをくゆらせたりしてすごしている。川岸の方でもまったく同じで、草の上に寝そべり、果報は寝て待てといった風に、あくせくしていない。一方、若い男の方は竿先の反応に全神経をそそいでいるが、水中のすれっからし魚が釣り師をからかってエサをつっついたりし、釣り師があわててそっくり返るのを青い目をぱちくりさせて眺めていたりする。女たちは、魚がかかったかどうかなんかそっちのけで、おしゃべりに興じている。そのうちの一人が(かなりの美人だ)陸に上がり、そこで針に餌をつけたり、しなをつくって周囲の取り巻き連中にこびた笑いを浮かべたりもしている。
そういう人々とは別に、網を持った漁師もいた。そういう人たちはたいてい一隻の、船首と船尾が上を向いたボートに三人で乗っている。まわりの人々は皆、ボートが転覆するんじゃないかと気がかりな様子で見つめている。というのも、そういうボートはルネサンス期の画家ラファエルの絵に描かれたヨハネ福音書の「奇跡の漁」とうり二つで、男たちに比べてボートがなんとも小さいのだ。
川の石をひっくり返し、ザリガニや淡水エビを捕る子供や若者たちもいる。たくさんとれてはいるが、手間がかかる割に食料になる肉は少ししかない。こうした釣り人たちの近くでは、カワカマスが水面下をものすごい速さで突っ切ったりしている。ときには、その鼻先の長い捕食者から逃れようと、かわいそうに小さなマスが空中に飛び出したりする。それを追って、捕食者も空中に跳びあがり、大きな口を開けてガブリとやる。こうした魚のライズに加えて、中洲の間をすべるように進んできたぼくのカヌーがふいに出現したりするものだから、周囲に目を配りながら流れを泳ぎ下っていたガモの群れのリーダーが警戒音を発した。と、群れのカモすべてがぶしつけな侵入者に対し怒ったように叫びだす。自分たちのいる場所が安全ではないとわかると、一声鳴いて羽ばたき、水面を蹴る。イギリスの変な闖入者(ちんにゅうしゃ)が来ないような落ち着ける場所を求めて、彼らは一団となって飛び去った。
チリンチリンと鐘が鳴る。川の対岸に住んでいる渡し船の船頭を呼ぶ音だ。船頭はそれを聞くと、ちょっと不格好な渡し船に飛び乗る。川の両岸間に滑車つきのワイヤーが張られていて、それにボートのロープが結んである。船頭がオールを軽く漕ぐと、ボートは流れに乗ってすぐに対岸に着く。
そこからさらに先までカヌーで漕ぎ下ったところで、(カヌーに話しかけたそうな)船頭がいたので、ちょっと話をした。その直後、ある現象が生じた。
一軒の大きな、新築の二階建ての家が見えていたのだが──それが現実に動いたのだ!
ぼくらは少し前からその家に気づいてはいた。それが建っているはずのところから移動していく。びっくりして見つめていると、なんと、家全体が消えてしまった。
まもなく、川のその先のカーブを曲がったところで、謎が解けた。その家──川に浮かぶはしけの上に建てられた大きな木製の水浴び「施設」は、蒸気船に曳航されて川を上って来ていたのだった。