米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第23回)
水の上で水の苦労
「事業やめ五分前」という風下当番(リーサイド)の予告に、今日もまたこれで平安に暮れたという、ちょっとのどかな気分が人々の胸に浮かぶころ、午後三時半の事業やめのラッパが心地よく、あまねく響きわたる。
フィラデルフィアの鐘*1が独裁(ティラニー)と独立(リバティ)との鮮やかなる分界線をなしたように、このラッパの音は力仕事と遊戯との鮮やかな境界線である。このラッパを境にして、二つの相異なれる性質と内容とを有する王国が隣(となり)あっている。本船では、左右両舷の当番の交代により、午前は九時より十一時半まで、午後は一時より三時半まで、二時間半の日々の作業がある。帆縫い、錆(さび)おとし、ペイント塗り等がその主な成分(エレメント)である。
*1: フィラデルフィアの鐘 - アメリカの独立や奴隷解放などの節目に、この鐘が鳴らされ、自由独立の象徴となっている。 現在は「自由の鐘」と呼ぶのが一般的。
三時半から七時半までの四時間を子供時間というのは、すこぶるゆかしい響きを与える。輪投げに二つ勝った、三つ負けたと、大の男が互いにシッペをしあっていると思えば、一方には、甲板球技(デッキゴルフ)にAは2、Bは5と血眼(ちまなこ)になって勝ち負けを争っている。ある者は船倉蓋(ハッチ)の上で禅ざんまいの瞑想にふければ、船首楼(フォクスル)で岡田式静座法で肺と横隔膜の操(あやつ)りに夢中の者もある。この労苦(ろうく)から放楽(ほうらく)に移る瀬戸際に立って思い切りの悪い雨雲のように、うろうろと歩きまわっている者がある。真水(みず)当番がこれだ。
一号から二十二号に分かれた十六の部屋から毎日一人ずつの真水(みず)当番なるものを選出して、一室八人が使用する真水(みず)が支給される。本船は品川を出帆するときに総容積七百トンの船槽(タンク)にいっぱいの真水(みず)を積みこんできたが、三時半のラッパを合図に真水(みず)士官とも呼ばれる四等運転士(フォース)が来て真水用のポンプの鍵を外す。薄汚い事業服(ジャンパー)を着た十六人の男が三つずつ小桶(バケツ)を持って中甲板(ちゅうかんぱん)に集まる。見ようによっては、鮫ヶ橋(さめがはし)近辺の共同井戸の光景(さま)とも思われるだろう。
一つの小桶(バケツ)にはほぼ五升(しょう)ほどの真水(みず)が入るので、一人一日が使用できる水の量はわずか二升である。この二升の水で顔も洗えば口もすすぐ。なかには冷水摩擦などとしゃれるのもいる。その使い方の細かいこと、細かいこと、なかなかの手際で、鮮やかだとほめてやるべきである。海水(みず)の上で真水(みず)に不自由するのは、銀行に勤めて金に不自由するようなもので、医師を商売にして病気をやるように、また嘘の花柳界(ちまた)に育ってもだまされるように、皆、前世の宿縁(しゅくえん)である。船乗りに向かって海水浴を平常(へいぜい)するから体が丈夫になるだろうとか、海からの生魚を直ちに口にするのはうらやましいなどと言ったら、それこそ大変! 神経質な船乗りはそれを比喩的(アイロニカル)な喧嘩(けんか)を吹っかけていると早合点するだろう。
おっと話が上陸した。そうそう、そこで十六人がわれがちに飛びつく。いの一番にかけつけた者が水を一番先にとるのだから、横着者(おうちゃくもの)は気の毒にも呆然として、十五分ほどは立ち続けて待っていなければならない。後から行ったものは、たちまちベヤリ損(そこ)なうことなる。
弥生が岡の寮舎(りょうしゃ)にコンバル、ギキョルなどの新語があるように、練習船の中にもベヤル、コミヤルなどの珍熟語がある。ベヤルはいわゆるベヤリングをとる(方位を知る)の省略(アブリビエーション)で、着目するとか先鞭(せんべん)をつけるとかいう場合に用いられる、外国の港でスタイルのよい金髪の女性が客としてたくさん来るときなどは、盛んにこの言葉が用いられる。コミヤルはヤリコメラルの反対で、コッソリ失敬するとの意味である。
せっかく汗水たらして汲(く)んできた真水(みず)を、いつの間にかコミヤられて落胆(がっかり)することがしばしばある。